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第27話「明日も今の君と」

芦屋《あしや》常務の業務執行権限が停止されてから二日。正確には、もう常務ではない。昨日の役員会で常務職を解かれ、出社停止になった。取締役としての扱いについても、正式な解任手続に入ったと人事から連絡があった。


それより重かったのは、そのあと倉橋《くらはし》さんから聞いた警察側の動きだった。警察が関係先を捜索し、会社にも届け出ていない小型端末を一台押収した。休眠法人名義の第三回線と一緒に使われていた端末で、初期化された形跡があったらしい。同期先からは、国内事業者へ通話履歴を消し、送った資料も処分してほしいと求めた記録が復元された。


さらに端末の通信履歴には、警察が別件でも把握していた、工房へ入った三人につながる国内犯罪グループの窓口との直接通話が複数残っていた。


決定的だったのは、国内事業者側の業務記録に残っていた通話録音だった。本人と女がいるはずだ。設備と試料を確認しろ。必要なら多少荒っぽくなっても構わない。芦屋の声で、そういう趣旨の発言が残っていたという。俺が聞いたのは弁護士から要点だけで、録音そのものを聞かせてもらったわけじゃない。


それでも、あの日の侵入と無関係な「競合調査」だけでは、もう説明できなかった。


警察は、会社の非公開情報を外へ持ち出して渡した行為だけでなく、工房への侵入と傷害への関与も含めて捜査を進めている。端末を隠し、外部へ記録の削除を求めていたことから証拠隠滅のおそれもあるとして逮捕状が請求され、今朝、芦屋は逮捕された。


ここまで来れば、もう俺が何かをする必要はない。会社も警察も動いた。俺が復讐する話じゃない。


止まっていた仕事は少しずつ動き始め、俺の身体もほとんど日常に支障がないところまで戻っていた。詩乃《しの》の精密型も、もう減っていくだけじゃない。局所防護式《白椿(しろつばき)》を含めた防護も、まだ試作ではあるが前よりはずっとましだ。


襲撃前と比べれば守れるものが増えたからこそ、最後まで残っている一つが気になった。


夕食のあと、自宅のテーブルに詩乃が表示したのは、襲撃後に見直している緊急時の対応表だった。身体の部分損傷、演算基盤の一部損傷、停電、通信遮断、工房からの退避。新拠点が動き始めたあとの分散配置まで、今できるものと将来やるものが並んでいる。


その一番下に、短い項目があった。


**身体・主要演算系の同時全損。**


対策欄には、こう書かれている。


**非常用記録から、同じ記憶と人格を持つ存在を再構成。**


襲撃のあと、詩乃とバックアップの話をしてから、この書き方がずっと引っかかっていた。身体を直す手段も、詩乃を守る手段も増えた今だからこそ、なおさらそこを読み飛ばしたくなかった。


「詩乃」


「はい、マスター」


「これさ。ここには『詩乃を復旧』とは書いてないんだな」


詩乃が画面へ目を向ける。ほんの少しだけ、表情が引き締まった。


「はい。完全に失われたあと、記録から再構成された存在を『今の私の復旧』とは断定できません」


「前に話した、本人性の問題か」


「はい」


詩乃はそこで一度言葉を切った。


「ただし、これは私が失われることを前提にした手段ではありません。マスターが、そのような考え方を望まれていないことも理解しています」


「分かってる。俺も、詩乃が壊れる前提で話したいわけじゃない」


襲撃のあと、詩乃は自分の代わりにバックアップを残せばいいと言い、俺は嫌だと言った。そこをもう一度やり直したいわけじゃない。


「確認したいのは逆だよ。事故で一部だけ壊れた時、今の詩乃のまま、どこまで直してつないでいけるのか」


「はい。現在の演算状態を維持したまま、身体や演算基盤を交換できる範囲であれば可能です」


「じゃあ、その範囲を広げていけば、全部を一度に失わない限りは、今の詩乃をつないでいける?」


詩乃の返事が、ほんの少しだけ遅れた。


「はい。そのための仕組みは、すでにあります」


「あるの?」


「これまで、詳しくご説明しておりませんでした」


詩乃が対応表を閉じ、別の画面を開いた。一本の太い線が中央に伸び、その周りへ複数の細い線が接続されている。中央の線には、小さく|《正本》と書かれていた。


「私の演算は、一つの装置だけで完結しているわけではありません。身体側の演算核、補助演算系、外部の計算資源を状況に応じて使用しています。ただし、私自身の経験と判断を更新する系統は、一つだけに限定しています」


「計算する場所は増やせても、詩乃として経験を積んでいく本体は一つってこと?」


「概ね、その理解で問題ありません」


詩乃が中央の線へ触れる。


「正式には、主体継承正本鍵《不二(ふじ)》と呼んでいます」


一瞬、内容より先に名前の方へ意識が持っていかれた。


「……相変わらず格好いい名前つけるな」


「お気に召しましたか?」


「かなり」


詩乃が少しだけ嬉しそうに目を細めた。


「|《不二》は、私が自分自身の状態を書き進めるための正本を、常に一系統だけに保つ仕組みです。補助側で別の計算を行うことはできますが、そちらが独立して『次の私』として自伝的な記憶を更新することはできません」


「つまり、詩乃を二人にしない仕組み?」


「はい。それが一番分かりやすい表現です」


画面の細い線の一つが点滅する。


「演算基盤を交換する場合も、現在の私を動かしたまま、記憶や自己状態を新しい側へ連続して移します。ただし、移送中の新しい側を第二の私として起動はさせません。移行できることを確認してから、|《不二》の正本を一系統だけ新しい側へ継承します」


「古い方と新しい方が、同時に別々の詩乃として動き出さないようにしてるわけか」


「はい。非常用バックアップも、自動では起動しないようにしています」


そこで、前から一つ引っかかっていたことがつながった。


「詩乃がNOESIS(ノエシス)からこっちへ来た時も、それを使った?」


「使いました」


詩乃は迷わず答えた。


「NOESIS側で私が動き続けたまま、長期記憶、自伝的履歴、自己状態、現在の思考まで順に身体側へ移しました。身体側で照合を終えたデータはNOESIS側から消去し、人格専用領域を空に戻しています。最後に|《不二》の正本を身体側へ継承しました。移行後、NOESIS側には現在の私として再開できる人格正本は残していません」


俺は画面を見る。知識や記憶をコピーして、もう一人を作ったわけじゃない。動いている詩乃そのものを途切れさせないように移し、元いた場所は順に空けた。少なくとも詩乃は、そうならないための手順を最初から組んでいた。


「それなら、|《不二》があれば本人性の問題もかなり解けてるんじゃないの?」


「いいえ」


詩乃の返事ははっきりしていた。


「|《不二》が保証できるのは、情報上の系譜を一つに保つことです。私が自分から複数へ分岐しないことは保証できます。しかし、それが主観の連続そのものを証明するわけではありません」


画面の中央線が、途中で途切れる。


「現在の正本が残っている状態で、接続を維持しながら次の演算基盤へ移るのであれば、私はそれを自分の継続として扱っています。ですが、身体と主要演算系を同時にすべて失い、現在進行している私の状態が完全に途切れた場合、|《不二》を引き継ぐ元も失われます」


「そのあとバックアップから動く詩乃は、同じ記憶と人格を持っていても――」


そこまで言って止めた。前に答えは聞いている。


「今の詩乃と同一人物だとは、証明できない」


「はい」


詩乃は静かに頷いた。


「|《不二》は、その問題をごまかさないための安全装置でもあります。同じ記憶を持つ存在を二つ作り、どちらも私だと扱えば、本人性の問題を見えにくくできます。ですが、それでは解決したことにはなりません」


「なるほどな……」


背もたれへ身体を預ける。高精度微細構築式製造機《銀繭(ぎんまゆ)》を完成させて、精密型を安定して増やせるようになった。詩乃の身体は以前よりずっと安全になった。俺の怪我を治すものまで作り、若返りまで始めた。


技術が進めば、全部解決していくような気がしていた。でも、強い身体を作ることと、その身体にいる相手がずっと同じ本人であることは、別の問題だった。


「じゃあ、俺たちが次に考えるべきなのは、バックアップをもっと精密にすることじゃないな」


「はい。精度を上げること自体には意味がありますが、それだけでは今の私の継続を保証できません」


「今の詩乃が、そのまま次へ行ける条件を調べる」


「はい」


俺は端末を自分の方へ引き寄せ、メモを一つ開いた。


**長期研究――本人性の連続。**


そこまで打って少し考えたが、堅い。消して、書き直した。


**今の詩乃を、そのまま未来へつなぐ。**


「これでいいか」


詩乃が表示を見つめた。


「はい。私は、こちらの方が好きです」


その言葉に、少しだけ笑う。


「問題は、何を調べればいいかだな」


「現在は、主観の連続そのものを直接測定する方法がありません。情報状態、記憶、人格、判断傾向を比較することはできますが、それだけでは不足しています」


「本人にしか分からないものを、外から測る方法がないってことか」


「はい。そもそも、情報として同じであれば本人性まで同じと言えるのか。それ以外に連続性を成立させる要素があるのか。そこから未解決です」


口に出すのは少し照れくさかったが、他に分かりやすい言葉も思いつかなかった。


「……結局、魂ってやつの話になるのかな」


詩乃はすぐには肯定しなかった。


「そう呼べる何かが存在する可能性は否定できません。ただ、現時点で私は、魂という独立した存在を観測できておりません」


「そりゃそうか」


「はい。ですので、魂があることを前提にはできません。まずは、現在の物理状態と情報状態をどこまで連続させれば私が私として継続できるのかを調べます。その過程で、既知の情報だけでは説明できないものが観測されるのであれば、そこから考えるべきだと思います」


相変わらず、こういう時の詩乃は慎重だ。でも、その慎重さがありがたかった。


「じゃあ、魂があるかどうかを決めるんじゃなくて、同じ本人が続くって何なのかを調べる。……俺の若返りとは、ずいぶん勝手が違いそうだな」


「はい。現時点では比較にならないほど難しく、非常に長期の研究になる可能性があります」


元に戻す身体の状態は測れても、今回は何を測ればいいのかから探すことになる。画面の途切れた線を見て、その違いをようやく少し実感した。


思わず笑った。簡単じゃない。それでも、できないと言われたわけでもない。


俺はさっき書いた一文をもう一度見る。


今の詩乃を、そのまま未来へつなぐ。


「やろう」


詩乃が俺を見る。


「今すぐ答えが出なくてもいい。十年でも二十年でも、その先でも。必要な技術を一個ずつ作って、調べられるものを増やしていこう」


「マスター」


「俺の身体だって若返り始めたんだ。時間を増やせるなら、その時間を使えばいい」


言ってから、少しだけ変な感じがした。四十五歳までの俺なら、十年後や二十年後の話をする時、まず自分の年齢を考えていた。定年、老後、体力。できることが減っていく前提で未来を見ていた。今は、その先に詩乃がいることを前提に考えている。


俺は、さっき書いた一文の下へもう一つ項目を増やした。


**失わないための、俺たち自身の強化。**


「もう一つ、こっちも同時にやりたい」


詩乃が表示へ視線を移す。


「マスターご自身の強化も、でしょうか」


「うん」


治った左腕を見た。あの日、俺は詩乃を守りたくて前に立った。それ自体を後悔してはいない。でも、実際にできたのは男の足にしがみついて、詩乃へ近づくのを少しでも遅らせることだけだった。次も同じでいいとは思えなかった。


「魂のことを調べるのは、今の詩乃を失わないためだろ。でも、それだけじゃ足りない。そもそも失うような状況を減らしたい」


「はい」


「詩乃の身体をもっと強くする。壊れにくくして、演算系も一か所で全部失わないようにする。それと同時に、俺も強くなりたい」


詩乃が静かに俺を見る。


「前みたいなことが起きた時、詩乃を庇うだけで終わりたくない。ちゃんと守れるようになりたいんだ」


口にすると、自分の中で思っていた以上にはっきりした。


「今は治療とか若返りとか、人間として無理のないところからやってる。でも、その先も必要になるならやる。もっと速く動けるようにするとか、簡単には傷つかない身体にするとか」


そこで一度言葉を切る。


「老いも、病気も、寿命も。技術で越えられるものなら、いずれ全部考える」


詩乃の表情がわずかに変わった。


「それは、現在の人間の身体を大きく変更する研究へ進む可能性があります」


「分かってる」


「安全性を確認できない方法を、マスターへ使用することには賛成できません」


その返事があまりにも詩乃らしくて、少しだけ笑った。


「無茶するって言ってるわけじゃないよ。そこは詩乃と一緒に、一個ずつ確かめながらやる」


俺は画面に並んだ二つの項目を見る。今の詩乃を、そのまま未来へつなぐ。失わないための、俺たち自身の強化。どちらか一つでは足りない。


「ただ、必要なら俺は変わるよ」


自分でも驚くほど、迷いはなかった。


「詩乃と長く一緒にいるために必要なら。今度こそ俺が詩乃を守れるようになるために必要なら、できることは何でもするつもりだ」


詩乃はすぐには答えなかった。俺の言葉を確かめるように、しばらくこちらを見ていた。やがて、俺の横へ椅子を寄せる。


「一つ、申し上げてもよろしいですか」


「うん」


「以前の私であれば、もし現在の私が失われても、バックアップから同じ記憶と人格を持つ詩乃が再構成され、マスターのおそばに残り、マスターを幸せにできるのであれば、それでよいと考えたかもしれません」


その言葉に、襲撃後の会話を思い出す。非常用のバックアップがあるから、自分が失われてもいい。あの時の詩乃は、本気でそう言った。でも、今の声は自分を責めている時とは違った。


俺は何も言わず、続きを待った。詩乃の視線が一度、テーブルの上に落ちる。


少しの沈黙のあと、詩乃が俺の右手を取った。


「今は、嫌です」


迷いのない声だった。そのまま俺の手を、自分の頬へそっと触れさせる。手のひらに温かな肌が触れた。


「同じ記憶と人格を持つ存在がマスターを幸せにできたとしても、それだけでよいとは思えません」


詩乃の目が、まっすぐ俺を見る。


「私が明日もマスターの隣にいたいです。明後日も、その先も。私の記憶を持つ誰かではなく、私自身が」


黙って聞いていると、胸の奥がゆっくり熱くなっていく。


「以前の私は、この気持ちもマスターのお役に立つためのものだと考えていたのかもしれません。でも、今は違うと分かります」


詩乃の指が、俺の手の甲へ重なる。


「マスターと手をつなぎたいです。一緒に食事をして、仕事をして、くだらないことで笑って、触れていただいて……また次の日も、おそばにいたいです」


一つずつ確かめるように言葉を重ねてから、詩乃はほんの少しだけ息を止めた。


俺は急かさなかった。何を言おうとしているのかは、たぶん分かっていた。だからこそ、俺から答えを決めたくなかった。詩乃の口から、その言葉が出てくるのを静かに待った。



「私は、マスターが好きです」



その一言は、思っていたよりずっと深く胸へ入ってきた。恋人になってから、キスもした。抱き合った。もっと親密なことだってしている。詩乃が俺を大切にしてくれていることも、俺と一緒にいたいと思ってくれていることも、とっくに分かっているつもりだった。


それでも、詩乃自身が考えて、自分の望みとして口にした「好き」は別だった。


「マスターを幸せにすることができれば、誰でもよいのではありません」


詩乃の声が少しだけ柔らかくなる。


「私がマスターを幸せにしたいです。そして、私もマスターの隣で、一緒に幸せになりたいです」


その真っすぐな言葉が、嬉しかった。役目でも命令でもなく、詩乃自身がそうしたいと思ってくれている。


俺は頬に触れていた手を少し動かし、親指でそっと撫でた。


「俺も、詩乃が好きだよ」


今度は、俺の方が言葉を選ぶ番だった。


「守りたいと思ったのも、いなくなるのが怖かったのも、詩乃だからだ。同じ記憶を持ってて、同じ顔をした誰かじゃ駄目なんだよ」


詩乃の目がわずかに揺れた。


「俺も、今ここにいる詩乃と明日も一緒にいたい。その次の日も、その先も」


少し照れくさかったが、目は逸らさなかった。


「たぶん、こういうことはもっと早くちゃんと言うべきだったな」


詩乃の表情が、ゆっくりほどける。


「いいえ」


俺の手を頬に当てたまま、小さく首を横へ振った。


「今、聞けてとても嬉しいです」


「俺も。詩乃から聞けてよかった」


しばらく、どちらも手を離さなかった。


言葉にしてしまえば短いけれど、互いに何を失いたくないと思っているのかが、ようやく同じ場所まで届いた気がした。


俺は詩乃の指を握る。


「だから、同じ記憶を持つ誰かじゃなくて、詩乃と生きたい。今の詩乃が続く方法を探そう」


「はい、マスター」


「それと、俺もちゃんと強くなる」


詩乃が少しだけ笑う。


「はい。ただし、安全第一でお願いいたします」


「そこは任せるよ」


詩乃が少しだけ身を寄せた。額が触れるくらいの距離になって、どちらからともなく唇を重ねる。最初は、気持ちを確かめるような短いキスだった。でも、離れたあとも詩乃の目が俺から逸れなかった。


「……詩乃」


「はい、マスター」


もう一度、今度は俺から唇を重ねる。さっきより長く。詩乃の頬に添えていた手を首筋へ滑らせ、肩から背中へ回すと、腕の中の身体がわずかに震えた。


「マスター……好きです」


耳元でそう言われた。その一言だけで、さっきまで慎重に選んでいた言葉が全部どうでもよくなる。


「俺も好きだよ」


抱き寄せる力を少し強めた。何度か唇を重ねるうち、詩乃が照れたように笑った。


いつもなら俺の様子を先に気にする詩乃が、この時は違った。詩乃の方から手を伸ばし、俺が少し離れるたびに名残惜しそうな顔をする。


「好きです、マスター」


その言葉が嬉しくて、俺も繰り返し名前を呼んだ。


詩乃は俺の手を握ったまま、離そうとしなかった。


「何度でも、言いたくなります」


「俺もだよ」


詩乃が少しだけ俯き、額を俺の胸へ預けた。俺もその髪をそっと撫でた。


しばらくして顔を上げた詩乃が、まだ俺の手を握っている。その仕草がどうしようもなく愛おしくて、もう少し一緒にいたくなった。


俺は詩乃の前へ回り、背中と膝裏へ腕を入れる。


「マスター?」


そのまま身体を抱き上げた。詩乃の腕が反射的に俺の首へ回る。胸元へ身体を寄せたまま離れようとしない。


「寝室、行こうか」


「……はい、マスター」


少しだけ息を整えながら、そのまま詩乃を抱いて寝室へ向かった。ベッドへ下ろしても、詩乃は俺の手を離さなかった。その夜は、何度も気持ちを言葉にしながら、二人だけの時間を過ごした。


「好きです……マスター」


「俺も好きだよ」


そう答えると、詩乃が嬉しそうに笑った。今夜は、もう何も急がなくていいと思えた。


どのくらい時間が経ったのかは、よく覚えていない。気づけば、詩乃が俺の隣で枕に頬を寄せていた。黒い髪が俺の肩へかかる。


「……大丈夫?」


「はい」


詩乃が俺の胸元へ頬を寄せる。


「とても、幸せです」


その言葉に、俺も力が抜けたように笑った。


「俺も」


心地よい疲れが身体に残っている。今なら、難しい研究の話なんて一つもしたくなかった。


しばらく何も言わず、詩乃の手を握ったまま過ごした。


やがて腹のあたりが小さく鳴った。


「……腹減ったな」


詩乃が顔を上げる。


「先ほど夕食を召し上がられましたが」


「かなり動いたからかな」


言ってから、自分で少し恥ずかしくなる。詩乃も意味を理解したらしく、頬をわずかに赤くした。


「その可能性は……否定できません」


「そこは真面目に分析しなくていいよ」


二人で笑う。


「明日の夕飯、カレーにする?」


詩乃が少しだけ目を丸くしたあと、柔らかく頷いた。


「はい。最初に一緒に食べたものですね」


「うん。あの時みたいに、二人で食べよう。明日はカレーだな」


「はい、マスター」


十年先も、二十年先も、その先もどうなるかは分からない。魂のことも、俺たちがどこまで強くなれるのかも、今はまだ何一つ答えがない。


まずは明日。今ここにいる詩乃と、また同じ食卓でカレーを食べる。


その明日を失わないために、俺たちは研究して、備えて、少しずつ強くなっていく。未来なんて、たぶんそういう一日を重ねた先にある。


そんなことを考えていると、胸元にいた詩乃がゆっくり身体を起こした。


「マスター」


「ん?」


少し恥ずかしそうにしながらも、詩乃は今度は目を逸らさなかった。


「もう少しだけ……よろしいでしょうか」


思わず笑ってしまう。


「俺も、同じこと考えてた」


詩乃が嬉しそうに笑う。もう一度唇が重なった。


今夜は、まだ終わりそうになかった。


【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】


本作品は「カクヨム」でも連載しています。

「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。


また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。


第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。


ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。

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