第25話「四十五歳、十年分若返る」
修復用ナノマシンを入れてから十二日目。病院で撮った画像を見ながら、担当医はしばらく黙っていた。
「……かなり回復が早いですね」
俺もそう思う。左前腕の骨折は、日常動作なら固定を外していいところまで安定していた。肋骨も、深呼吸で痛みが出ることはほとんどない。肺の方も問題なし。
もちろん、重い物を持つな、転ぶな、無理な運動をするなとは念を押された。そこは詩乃に毎日言われていることと同じだった。
診察室を出たところで、詩乃が俺の左腕へ視線を落とす。
「痛みはありませんか?」
「ない。動かしても平気そう」
「平気そう、ではなく、負荷制限はまだ継続です」
「先生より厳しいな」
「先生のお話も含めて判断しておりますので」
反論できない。
病院を出て駅まで歩いた。まだ夏の日差しは強く、歩道の白線が眩しかった。襲撃のあと、少し早足になるだけで肋骨を意識していたのが嘘みたいだった。腕も軽く、呼吸も深い。普通ならもっと長くかかると言われた怪我が、修復用ナノマシンを入れてから二週間足らずでここまで戻っている。
「第一世代、すごいな」
「良好な結果です。ただし、今回は真人様のお身体を私が継続して観測でき、損傷位置と経過を細かく調整できたことも大きいです」
「今のところ、俺だからここまで細かく調整できたってこと?」
「はい。真人様のお身体については、継続して蓄積している観測情報がありますので」
「そっか。ずっと俺の身体を見てくれてたから、ここまで合わせられるんだな。いつもありがとう」
詩乃が柔らかく目を細めた。
「はい。これからもお任せください」
工房へ向かう電車の中で、左手を何度か握って開く。その様子を詩乃が横から見ていた。
「そんなに嬉しそうにされますと、負荷試験を始められそうで心配です」
「しないって」
「昨日、片手で荷物を持とうとされました」
「あれは軽かっただろ」
「その判断を信用しておりません」
そこまで言われると、心当たりがありすぎて苦笑いするしかなかった。
◇
怪我で止まっていたのは、俺の身体だけではなかった。熱拡散材の適用開発は、専用条件を詰めて次の試験片を出す段階でいったん止めている。襲撃を受けたこと、現時点で核心技術の流出は確認されていないこと、俺が入院したことまで倉橋さんを通して相手先へ説明し、再開は俺の回復と工房の警備見直しが終わってからにしてもらった。次の一千二百万円は、次の試験片を出して評価工程へ進んで初めて動く。俺が戻って仕事を進めなければ、次の資金も増えない。
元の会社には、最初の診断どおりなら退職日までほとんど出社できない計算だったので、病院から退職日の延期まで申し出た。ところが楠には、「部長、仕事のことはいいですから、今はちゃんと休んでください」と半分叱られ、人事からも引継ぎの大半はすでに終わっているのだから、残る資料確認と会議はテレワークで十分だと逆に心配された。社長からも、無理に退職日を動かす必要はない、回復してから必要な最終確認だけ出社すればいいと言われた。
結局、退職日は予定どおり。自分がいなくても回るようにしてきたことが、こんなところで助けになるとは思わなかった。
母機は安定稼働を続け、詩乃の精密型は必要な予備量まで戻っている。追加の特殊材料も手配済みだ。一方で、母機は一千六百万円台。土地の頭金と取得費、法人化、襲撃後の警備強化まで含めれば、自己資金と事業口座からすでに数千万円単位の資金が動いている。
土地と設備に変わった分も大きいが、自由に動かせる資金は確実に減った。当面の運転資金と材料費は残している。それでも、この先も同じ速度で設備と開発を増やしていくなら、俺が戻って適用開発を再開し、次の試験片を出して契約を先へ進める必要がある。
ただ、再開した途端にまた襲われて止まるようでは意味がない。仕事へ戻る前に、俺の身体をきちんと整える。工房の警備を固める。次に何かあった時、同じ状況を繰り返さないための備えも作る。今はそっちを先に終わらせるべきだった。
その日の午後、詩乃が工房の奥で新しい資料を開いた。
「マスター。第二世代へ進む条件が揃いました」
「第二世代って……俺の若返りの?」
「はい」
前から聞いていた話ではある。それでも、実際に自分がやる段階になると少し現実感が薄い。
「最初に確認しておきたい。若くなるって、どこまで変わる?」
「今回の第一段階では、四十五歳のマスターを、三十代半ば程度の身体状態へ戻すことを目標にします」
詩乃が説明するのは、加齢で蓄積した血管や筋骨格、代謝、感覚器、皮膚、内分泌系などの損耗を、今の俺を基準に少しずつ修復していくというものだった。記憶や人格を触るわけではないし、顔そのものを別人へ作り替えるわけでもない。
二十五歳の俺をどこかから持ってきて上書きするんじゃない。今の俺が、そのまま若くなる。
「筋力も上がる?」
「若い健康な成人男性として自然な範囲では改善します。ただし、私のような身体能力にはなりません」
「そこまではまだか」
「ご希望であれば、将来的には検討できます」
「今はそこまで考えなくていいかな」
襲撃の時、何もできなかった悔しさはある。でも、その勢いだけで身体を人間じゃないものへ変えたいとは思わない。まずは元気になる。それで十分だ。
「まずは、元気になって詩乃と普通に暮らしたい」
そう付け足すと、詩乃の表情がふっと緩んだ。
「嬉しそうだな」
「はい。マスターが、より長く健康でいられる可能性が高くなりますので」
「俺も嬉しいよ」
四十五歳が嫌だったわけじゃない。でも、疲れや衰えまで好きだったわけでもない。もう一度、元気な身体で詩乃と過ごせる時間が増えるなら、嬉しくないはずがなかった。
◇
第二世代の導入は、その日の夜から始めた。今回は右肩や骨折の時より対象範囲が広い。寝室で上半身の服を脱ぎ、詩乃が胸、背中、腹部、太腿へ順番に薄い膜を貼っていく。
「何度やっても、こういうのは少し落ち着かないな」
「痛みがありますか?」
「そっちじゃなくて」
詩乃の指先が腹へ触れる。退院してから、着替えも身体拭きも診察も散々手伝われた。多少は慣れたつもりだったが、若返りのために胸から腹、太腿まで順番に確認されると、また別の意味で意識してしまう。詩乃は俺の反応まで分かっているらしく、少しだけ口元を緩めた。
「マスター。今日も先日のようなご奉仕を行いましょうか?」
「……今、それ聞く?」
「開始後は体温や循環の変化を継続して確認しますので、必要でしたらその前がよろしいかと思います」
理屈まで用意されていた。
「……してほしいのは山々だけど、今日は我慢する。若返りの初回くらい、余計な数値を増やさず始めよう」
「承知しました」
少し残念そうに見えた気がして、俺の方が妙に意識してしまう。
最後の膜を貼り終えると、詩乃が俺の額へ手を当てた。
「開始します。体温や眠気に変化が出る可能性があります。今夜は私が継続して確認します」
「じゃあ任せる」
「はい。お任せください、マスター」
ナノマシンが動き始めても、劇的な感覚はなかった。身体の奥が少し温かくなり、いつもより強い眠気が来る。寝る直前、詩乃の手が俺の手を包んでいるのだけは分かった。
◇
翌朝、目を開けた瞬間から、何かが違った。身体が軽い。寝起きの腰の重さがなく、肩も首も引っかからない。深く息を吸っても肋骨を意識しなかった。
それだけじゃない。掛け布団をずらしかけて、一度手を止める。若い頃には珍しくもなかった朝の身体の反応まで、妙にはっきり戻っていた。
「……ここまで若返るのか」
隣にいた詩乃の視線が、一瞬だけ掛け布団の方へ落ちる。
「循環系と内分泌系の改善も順調です」
「そこは報告しなくていい」
「重要な生理反応ですので」
「俺には別の意味で重要なんだよ」
詩乃が楽しそうに微笑んだ。気を取り直して立ち上がる。足裏の感覚まで妙に鮮明だった。詩乃は何も言わず、俺を姿見の前へ連れていく。
鏡の中にいるのは、間違いなく俺だった。けれど明らかに違う。目の下の疲れが薄く、頬と顎の線が締まっている。肌のくすみも減り、姿勢も自然に真っすぐになっていた。
「……加工アプリみたいだな」
「実物です」
「分かってる」
しわが全部消えたわけじゃないし、白髪も残っている。それでも全体で見ると確実に若い。
「今、何歳くらいに見える?」
「主観評価を含みますが、三十代後半程度です。処理はまだ継続中ですので、数日かけてもう少し変化します」
「本当に十年近く戻るんだな」
自分の顔を見ながら笑う。鏡の中の男も、前より自然に笑って見えた。それから、現実的な問題に気づいた。
「……これ、会社へ行ったら絶対ばれるよな」
「その対策も準備しております」
「もう?」
「はい。退職日まで出社が必要な場合は、外見補正用の薄膜と毛髪の調整を使用していただく予定です。皮膚の質感や顔の輪郭を、これまでのマスターに近い印象へ一時的に戻します」
「先回り済みか」
「完全な変装ではありません。以前のお写真と比較されても、不自然な変化に見えない範囲の補正です」
テレワークだけで退職まで済めば使わずに終わるかもしれない。それでも、最後の挨拶や引継ぎで会社へ行く可能性は高い。若返りました、で押し通すわけにもいかなかった。
詩乃が隣へ並ぶ。
「どうですか?」
「嬉しい。思ったよりずっと」
四十五歳まで生きた時間が消えたわけじゃない。ただ、身体だけはもう一度、詩乃と先へ進むための余裕を取り戻し始めている。
「詩乃は? 見た目、変じゃない?」
詩乃が俺の顔をじっと見てから、頬へ手を添える。指が目元から顎へゆっくり滑った。
「変ではありません。以前のマスターも、今のマスターも、私のマスターです」
それから少しだけ笑う。
「ですが、今のお姿も、とても素敵です」
「それならよかった」
俺から腰へ腕を回し、軽く引き寄せる。もう肋骨はほとんど痛まない。それが嬉しくて、今度は遠慮せず抱きしめた。詩乃の身体が胸へぴったり収まり、腕も自然に俺の背中へ回る。
「マスター。まだ全力で抱きしめるのは――」
「分かってる。力は入れないから、もう少しこうしていたい」
腕の力を緩めて髪へ口づけると、詩乃も少しだけ身体を預けてきた。
◇
若返りは三日かけて第一段階を終えた。詩乃の評価では、身体機能は三十代半ば相当。白髪を一気に消していないこともあって、見た目の変化はそこまで極端ではない。それでも顔色、肌、姿勢、体格は明らかに違った。
階段を上っても息が上がらない。遠くの文字も前よりはっきり見える。朝起きた時の身体の重さもない。一番驚いたのは、疲れ方だった。午前中に会社の引継ぎ資料をまとめ、午後に工房へ来ても、頭が重くならない。
「若いって、こんなに楽だったっけ」
「加齢だけでなく、睡眠効率や循環状態も改善しています」
「四十五歳の俺、結構頑張ってたんだな」
「はい。私はそう思います」
真面目に肯定されると、少し照れる。
その日の工房には、もう一つ新しいものが用意されていた。黒い長袖の上衣と、同じ素材のパンツだ。見た目はスポーツ用のインナーに近い。
母機が安定して精密型を製造できるようになってから、詩乃は自分の予備量を確保したうえで、一部を防護研究へ回していた。俺の治療と観測を最優先にしながら、母機の自動運転時間と余っている演算枠だけで設計を進め、安定製造を確認してから実物の試作へ移したらしい。襲撃前から構想していた個人防護装備が、ようやく形になった。
「これが言ってた防護インナー?」
「はい。個人防護内装一型の試作です」
薄い素材の中へ、衝撃を広げる微細構造と裂けにくい層を重ねている。胸や腹、首周りは危険を検知した時だけ局所的に硬さを増し、心拍、呼吸、体温も継続して測る。異常があれば詩乃と警備側へ通知する。
「銃で撃たれても平気?」
「平気ではありません。致命傷の可能性を下げられる条件はありますが、無傷を保証する装備ではありません」
「これを着てても、逃げる準備は必要なんだな」
「はい。装備だけを頼りにはできません」
無敵の服だと思い込む方が、よほど危ない。黒い生地を手に取りながら、投資に使っている超高速経済情報統合分析系《万象天秤》の名前を思い出す。
「そういえば、これ名前ないの?」
「型式名でしたら、今申し上げた個人防護内装一型です」
「いや、そうじゃなくて。投資に使った|《万象天秤》みたいな方」
詩乃が一度瞬きをした。
「ございます」
「やっぱりあるんだ」
「はい。母機は、高精度微細構築式製造機《銀繭》です。そして、この防護機構は局所防護式《白椿》と呼んでいます」
「銀繭と、白椿か」
口にしてみる。|《銀繭》は精密型を生み出す中核設備、|《白椿》は俺を守るための防護機構。どちらも短くて呼びやすい。
「いいな。どっちも好きだ」
「ありがとうございます、マスター」
黒いインナーなのに|《白椿》というのが少し面白い。
「詩乃、こういう名前つけるの好きだよな」
「はい。マスターがお好きでしたので考え始めましたが、現在は私も楽しんでおります」
NOESISで小説や能力名を一緒に考えていた頃を思い出す。
「こういうナノマシンの機能にも、実は名前が付いてたりするのか?」
「はい。ナノマシン本体には、一般型と精密型があり、それぞれに名称を設定しております。一般型は《汎》、精密型は《晶》です。それとは別に、ナノマシンの型を動かすための機能にも、役割ごとに名称を設定しております」
詩乃は少し楽しそうに資料を切り替えた。
「原料から微細構造を組み上げる機能は、微細構築式《綾織》。マスターの右肩や今回のお怪我の修復へ使用した系統は、微細修復式《撫子》。私自身の内部状態を観測する系統は、内界診断式《水鏡》。マスターを含む外部対象を観測・診断する系統は、外界診断式《日輪》。表情や呼吸、体表温度の非接触観測に加え、近距離では簡易的な体内状態の推定も行います。補助演算核を束ねる機能は、外縁増算式《星屑》です」
「ちょっと待って。そんなにあったの?」
「まだございます」
「本当に好きじゃん」
「はい」
楽しそうに肯定された。
「でも、いいな。世代が変わったり、使う型が変わったりしても、修復の機能は|《撫子》ってこと?」
「同じ修復系統として継承できる間は、その予定です。ただ、将来さらに上位の機能へ発展して、役割そのものが変わる場合は、別の名称へ変更する可能性があります」
「なるほど。ずっと同じ名前ってわけじゃないのか」
「はい。機能に合った名前を付けたいと思っています」
「名前まで成長するのか」
「マスターがお好きかと思いまして」
「大好き」
反射的に答えてから、少しだけ間を置く。
「……こういう命名が、な」
詩乃が微笑んだ。何も言わなかったので、余計に恥ずかしくなった。
更衣スペースで|《白椿》を組み込んだ防護インナーへ着替える。身体にかなり密着するが、若返った身体なら以前ほど腹回りも気にならない。
詩乃が首元を調整するため近づき、胸から脇、背中へ指を滑らせる。腰の張りを確認するため両手を回されると、フィッティングだと分かっていても意識した。
「若返らせてから着せた理由、これ?」
「関係ありません」
即答だったが、詩乃は少し楽しそうだった。
次に詩乃自身も防護インナーへ着替える。精密型を不要に損耗させないため、詩乃にも外装防護は有効らしい。
更衣区画から戻ってきた詩乃を見て、言葉が止まった。黒い生地が身体の線へ沿っている。胸から腰、脚まで、普段の服よりはっきり分かる。
「マスター?」
「……性能確認しようか」
「はい。心拍数が上昇しておりますが、試験には支障ありません」
「そこは|《日輪》で報告しなくていい」
「|《日輪》を覚えてくださったのですね」
「そういう使い方するためじゃないだろ」
詩乃が声を立てずに笑った。
◇
防護試験そのものは、かなり現実的だった。
あの襲撃が一度で終わったと考えられる材料はない。相手が諦めたという確証もないし、この先さらに開発を進めれば、情報管理をどれだけ厳しくしても狙われるリスクを完全にゼロにはできない。だからこれは、誰かと戦うためというより、何かあっても俺たちが無事に帰るための備えだった。
|《白椿》は殴打や転倒の衝撃を分散し、刃物に対して裂けにくくする。危険を検出した時には首と胸周りを局所的に固定し、同時に位置と生体状態を保存する。ただし、どんな攻撃も無効化する魔法の服ではない。
装備より重要なのは、次に何か起きた時の手順だった。
「まず通報。逃げられるなら、二人で逃げる」
工房の簡易図面を見ながら、俺は確認する。
「それが無理で相手を止める必要があるなら、今度は一緒に戦う。俺も|《白椿》を着て、安全区画と設備を使いながら――」
「その条件には同意できません」
詩乃の返事は早かった。
「俺だけ安全区画へ下がって、詩乃を残すのは嫌だよ」
「二人で退避できる場合は、必ず一緒に退避します」
「一緒に退避できない時の話だよ」
「その場合は、私が退路を確保します。マスターには安全区画から支援をお願いいたします」
「だから、それが嫌なんだって」
しばらく互いに譲らなかった。詩乃は俺の正面へ立ち、少しだけ声を柔らかくした。
「マスター。私は以前、マスターをお守りできない自分には存在する意味がないと申し上げました」
「あれは違うって言っただろ。今も同じだよ」
「はい。今は、守れなければ存在する意味がないとは考えておりません」
詩乃はそこで一度言葉を切った。
「ですが、マスターをお守りすることが、私にとって大切な存在理由の一つであることは変わりません。そしてこれは義務ではなく、私自身の希望です」
あの日、床に倒れた詩乃の顔が頭へ浮かぶ。
「私は、マスターが私を守るために何度も傷つかれる姿を、もう二度と見たくありません」
「俺だって、詩乃が傷つくのは見たくない」
「分かっています。ですから、無謀に残るとは申し上げておりません。今の私は精密型の余力を十分に確保できています。前回と同程度の人数と装備であれば、身体能力だけでも制圧可能です。|《白椿》と監視系も併用します」
そこで詩乃が、ほんの少し言いにくそうに続けた。
「さらに、敵性行動を短時間で停止させるための兵装も別系統で開発しております」
「……それ初耳なんだけど」
「まだ安全試験前ですので、詳細をご説明する段階ではありません」
「かなり物騒なやつ?」
「マスターを危険へ近づけないためのものです」
答えになっているようで、なっていない。
「なら先に約束して。攻撃できるからって、必要以上に傷つける使い方はしない。相手を殺すための装備にもするな」
「はい。目的は制圧と退路の確保です。マスターや第三者への危険を止めるために必要な範囲を超えて使用するつもりはありません」
「そこは絶対だからな」
「承知しております」
それを確認しても、もう一つだけ簡単には飲み込めないことが残っていた。
「それでも、俺が安全区画に入って、詩乃が外で戦ってるのを見てるだけっていうのは……やっぱり納得しにくい」
「見ているだけではありません」
詩乃が図面上の設備を指す。
「マスターには通報、扉とシャッターの制御、外部映像の確認、退避経路の切り替え、警察や警備会社との連絡をお願いいたします。私一人で戦闘と施設制御を同時に行うより、分担した方が安全です」
「それを一緒に戦うって言っていい?」
「はい。私は、そのつもりです」
ずるい言い方だと思う。でも、詩乃が俺を言いくるめたいだけではないのも分かる。
「……分かった。ただし、危ないと思ったら退く。相手を倒すことより戻ることを優先する。深追いは避ける。必要以上に傷つけない。それを基本にしよう」
「はい。その方針を最優先にします」
「通信が切れたら?」
「事前に決めた時間と経路で退避し、マスターとの合流を優先します」
詩乃が俺の手を取った。その手を握り返す。ここまで備えたうえで、それでも危険なら退く。その判断まで含めて二人で決めておきたかった。
「……分かった。しぶしぶだけど」
「ありがとうございます、マスター」
「礼を言われると余計複雑だな」
信じられる準備を二人で作るために、今これをやっている。そう思うことにした。
◇
片づけを始めた頃、倉橋さんからメッセージが届いた。
襲撃のあと、適用開発を止める連絡だけでなく、連星技研の取引先や設備業者へ不審な照会がなかったかも確認してもらっていた。契約先への説明と証拠保全をまとめて進めるため、俺の了承で倉橋さんと外部弁護士が窓口になり、各社へ記録の保存と担当者への聞き取りを依頼している。
今回は、その回答がいくつか揃ったらしい。電話へ切り替える。
『神堂さん。まだ事件との直接関係までは言えませんが、気になる名前が出てきました』
「名前?」
『襲撃より前に、連星技研の取引先と設備業者へ問い合わせを入れていた会社が複数あります。会社名は別々です。問い合わせも、メールだけではなく電話や営業担当への直接連絡が混ざっていました』
だから回答まで時間がかかったのか。サーバーのログだけ見れば終わる話ではなく、担当者が覚えている問い合わせまで掘り起こしたらしい。
『その会社をたどると、同じ海外系の技術調査会社へつながるものがありました』
「どこです?」
『クレルヴァント・ダイナミクス。海外系の技術調査会社で、クレルヴァントと呼ばれています』
聞いたことのない名前だった。
『まだ、あの侵入者たちとクレルヴァントを直接結ぶ証拠はありません。ただ、もう一つ気になる点があります』
「何です?」
『問い合わせが始まった時期です。株式会社連星技研という名前が外へ出るより前から、神堂さん個人の試作や設備調達を探っていた形跡があります。普通に公開情報を追っただけでは、少し早すぎます』
胸の奥が冷えた。
「分かりました。資料、送ってください。こちらでも確認します」
『弁護士にも同じものを回します。単独で動かないでくださいね』
「はい。そこはもう、十分懲りました」
電話を切ってから隣の詩乃を見て、そこでようやく一つ気づいた。
「詩乃が調べてくれた現場の情報とは、つながりそうかな」
「今のところ、直接のつながりは見つかっていません。工房内の映像、音声、妨害電波、残された工具、侵入経路は可能な限り解析しましたが、外部の組織を絞れる識別情報は得られておりません」
「現場からは、調べる相手を絞れなかったんだな」
「はい」
詩乃は端末へ視線を落とす。
「非公開情報まで含めて探索範囲を広げること自体は可能です。ただ、起点のないまま私的に広く調べれば、無関係な企業や委託先まで大量に対象へ含めることになります。誤認の可能性も上がりますし、そこで得た情報は、そのまま警察や弁護士へ正式な証拠として提出できるものではありません」
「だから、現場に残った証拠から絞れるところまでにしたのか」
「はい。マスターの安全確保を優先し、外部については確実な起点が得られるまで範囲を限定していました」
今回の問い合わせは、複数の会社名を使い、電話や担当者への直接連絡まで混ざっている。ネット上の記録だけ見ても、どこから追えばいいのか分からない。倉橋さんたちが各社へ聞き取りをして、ようやく会社名と時期と担当者という最初の点が揃ったわけだ。
「その起点が、今回の聞き取りで見つかったわけか。これなら照合を進められる?」
「はい。共有された会社名、連絡時期、担当者情報を起点に、照合範囲を広げられます」
詩乃は端末を開き、倉橋さんから届いた資料を読み込んだ。数分後、複数の法人情報、ドメイン、過去の設備調達記録、業務委託先が画面へ並ぶ。
「共有された会社のうち二社は、過去にクレルヴァントと同じ役員、所在地、業務委託先を経由しています。直接関与の証明にはなりませんが、偶然として扱うには関連が多いです」
「クレルヴァントが、俺たちを調べてた可能性はある」
「はい。ただし、なぜ連星技研の名前が出る前からマスターへ到達できたのかは、まだ分かりません」
そこが一番嫌だった。
工房の机には、|《白椿》を組み込んだ防護インナーが二人分並んでいる。身体は前より若くなった。詩乃の精密型も、もう減る一方じゃない。守る準備も始めた。
それでも、俺たちを狙った相手については、ようやく名前の端が見えただけだった。
「クレルヴァント、か」
「はい」
「この資料から、二人で調べよう」
「はい、マスター」
詩乃の返事を聞きながら、俺は机の上の黒い防護インナーへ目を落とした。次は何があっても二人で無事に帰れるように、できる準備を一つずつ積み上げていくつもりだった。
【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】
本作品は「カクヨム」でも連載しています。
「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。
また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。
第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。
ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。




