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第24話「次は二人とも無事に帰るために」

退院から四日が経った朝。襲撃から数えれば、もう一週間になる。冷房の効いた部屋にいても、カーテン越しの強い光で、外の暑さが想像できた。


シャツのボタン一つが、思ったより面倒だった。左腕は固定されたままで、右手だけでも着られないわけじゃないが、腕を通そうとして身体をひねると、肋骨のあたりに鈍い痛みが走る。


「……っ」


小さく息を止めた瞬間、目の前に詩乃《しの》が来た。


「マスター。動かないでください」


「いや、これくらいは自分で――」


「先ほども同じことをおっしゃって、痛みが出ています」


反論できない。


詩乃は俺が持っていたシャツを受け取ると、まず固定された左腕へゆっくり袖を通した。それから背中側の布を回し、右腕を入れる。身体をひねらなくて済むように動かしてくれるので、驚くほど楽だった。最後に正面へ回り、ボタンを下から一つずつ留めていく。


近い。


詩乃が身を寄せるたび、さらりとした黒髪が頬へ触れる。いつもの柔らかな香りと体温まで近くなって、ボタンを留めるために胸元へ伸びた腕へ、詩乃の身体が時々かすかに触れた。


柔らかい。


入院中は病院に許された時間ずっと、退院してからの四日間は文字どおり二十四時間、詩乃は俺のそばから離れなかった。「そこまでしなくても大丈夫だよ」と何度か言った。でも、そのたびに目に見えてしゅんとした顔をされると、それ以上は何も言えなくなった。


結果、食事を手伝われ、着替えを手伝われ、身体を拭く時まで近くにいる。俺にとって一番綺麗で、一番理想の女性に、そんな距離で何度も触れられてきた。


男として幸せじゃないわけがない。ただ、怪我のせいでこちらからはほとんど何もできない。別に変なことをされているわけでもないのに、髪が触れたり、柔らかな身体が少し当たったりするだけで意識してしまう。肋骨も腕も痛いくせに、身体の別のところだけは妙に元気で、正直そろそろ限界に近かった。


「……こういうの、結構恥ずかしいな」


詩乃の手が止まった。


「申し訳ありません」


「嫌って意味じゃないよ」


「はい」


今度は少しだけ嬉しそうに聞こえた。一番上のボタンは開けたまま、詩乃が襟を整える。


「本日は外出されませんので、締め付けない方がよいと思います」


「会社も今は休んでる。今日は工房にも行かない。約束どおり」


「ありがとうございます」


退院してから、工房のことを口にするたび「まずはお身体を」と止められている。俺も今日は完全に休むと約束した。


詩乃はこの数日、病院でもらった検査結果と退院後の状態を見比べながら、修復用ナノマシンを広い範囲へ使うための条件を詰めていた。


朝食を済ませたあと、ようやくその準備が整ったらしく、詩乃がテーブルへ小さなケースを置いた。中には、見覚えのある薄い半透明の膜が何枚か入っている。


「前に右肩で使ったやつ?」


「基本構造は同じです。ただし、今回は適用範囲が広いため調整しています」


前に慢性的に重かった右肩へ使った、人間向けの修復用ナノマシン。あの時はごく狭い範囲だけだった。それでも、長年あった引っかかりがかなり消えた。詩乃は俺の向かいへ座る。


「マスター。今回のお怪我に、第一世代の修復用ナノマシンを使用したいと考えています」


「今回は骨折もあるけど、前の右肩と同じように治せるのかな」


「修復の考え方は同じです。ただ、瞬時に元へ戻すことはできません」


即答だった。


「骨を直接完成形へ置き換えるのではなく、マスターご自身の治癒を補助します。骨形成や損傷組織の修復を誘導しますが、以前の右肩より範囲が広いため、活動量は慎重に制限します」


「範囲が広がっても、自己増殖はさせない仕組みなんだよな」


「はい。今回も自己増殖機能はありません。内部に保持した材料を使い切るか、設定した期間を終えれば停止します」


そこは前と同じらしい。病院では骨の位置と肺の状態を確認し、まず通常の治療で安定させた。詩乃も診断が固まるまでは別の処置を重ねなかった。


「普段の生活に戻るまで、どれくらいかかる?」


「現在の状態と過去の試験結果からの予測ですと、日常生活で大きな支障がなくなるまで十日から二週間程度です。ただし、完全な強度へ戻ったと判断するまでは、負荷をかけないようにしていただきます」


医師から聞いた話では、元どおりに力を使えるようになるまでにはかなり時間がかかる。完全に治るのを待つ必要はあるにしても、二週間前後で日常生活の支障が減るなら十分すぎる。


「やってほしい」


「はい。ありがとうございます」


「そこ、詩乃が礼を言うところ?」


「マスターのお身体へ使用する許可をいただきましたので」


「俺が治るんだから、俺の方がありがとうだよ」


詩乃が少し考えてから、柔らかく笑った。


「では、双方で感謝することにいたしましょう」


◇


治療は、思っていたより地味だった。左腕の固定具を外すわけでもないし、肋骨の周りが光るわけでもない。薄い膜をいくつか皮膚へ貼り、数分待つ。そこからナノマシンが体内へ入り、詩乃が状態を追う。


問題は、その確認の方だった。


「こちらは痛みますか?」


ソファへ横になった俺の右脇腹へ、詩乃の指がそっと触れる。


「そこは少し」


「では、こちらは?」


指が数センチずれる。


「平気」


「深く息を吸ってください」


言われたとおりにする。胸が広がり、途中で肋骨のあたりが引きつった。


「ここで痛い」


「確認しました」


詩乃の手のひらが、そのまましばらく俺の胸の横へ置かれている。近づいた身体から熱が伝わり、前屈みになった詩乃の胸元が右腕へ柔らかく触れた。今は動けば普通に痛いのに、こういう感覚だけは妙に鮮明だった。


「……もう確認終わった?」


「圧痛と呼吸時の変化は確認できました」


「じゃあ、もう少しそのままにしてて。こうしてもらうと落ち着く」


詩乃が俺を見た。胸の横に置かれた手が、一度だけ止まる。


「……私も、必要以上に触れていたと思います」


「うん。俺も離してほしくなかったから」


答えると、手のひらがほんの少しだけ動いた。撫でるというほどではない。でも完全に診察だけでもない。


髪が頬へかかり、近くなった詩乃の香りを吸い込む。怪我をしているせいで何もできないと思うほど、逆に余計なことを考えてしまう。


「マスター。心拍が少し上がっています」


「……痛みのせいじゃない」


「はい。存じております」


分かってるなら言わなくていい。詩乃はほんの少しだけ楽しそうに笑った。嫌じゃないどころか、こうして触れられていると落ち着くのも事実だった。


「左腕も確認します」


「はいはい」


「返事が軽いです」


「信用してますから」


詩乃は一瞬だけ黙り、それから固定具の隙間へ指を添えた。


「……ありがとうございます」


今度の声は、小さかった。


◇


修復用ナノマシンを入れてからも、詩乃のお世話は続いた。朝は着替え。薬と食事の確認。昼と夜にはナノマシンの状態確認。風呂はまだ無理なので、温かいタオルで身体を拭くのも手伝ってもらう。


「詩乃。背中も、頼んでいい?」


「はい。お任せください」


ソファへ座って上半身の服を脱ぐ。左腕と肋骨へ無理がかからないよう、そこも詩乃に手伝ってもらう。温かいタオルが首筋から肩、背中へ滑っていく。


「熱くありませんか?」


「ちょうどいい」


「こちらは?」


「平気」


詩乃が背後から身体を寄せるたび、髪が肩へ触れ、体温といつもの香りが近くなる。腕を回す都合で胸元が背中へ柔らかく触れることもあった。そのたびに、意識するなという方が無理だった。


肩甲骨の下を拭いたあと、詩乃の指が背中へ直接触れた。


「今のはタオルじゃないよね」


「皮膚温を確認しました」


「手を置く必要ある?」


「接触した方が確認しやすいです」


「詩乃」


「……触れたかったことも否定いたしません」


笑うと肋骨に響いた。


「笑わせないで」


「申し訳ありません」


詩乃が本気で困った顔をしたので、余計に笑いそうになった。


昼食のあとには、薬を飲むために水を取ろうとしただけで先にグラスが差し出された。少し姿勢を変えればクッションが直される。ナノマシンの確認では胸や脇腹へ手を当てられ、そのたびに詩乃の顔が近づく。俺が反応していることにも、当然のように気づかれていた。


一度、詩乃の胸が腕へ当たった瞬間に身体が正直に反応してしまい、何でもない顔で姿勢を変えようとした。


「マスター。今の姿勢ですと肋骨へ負担がかかります」


「いや、ちょっとだけ」


「別の理由で動かれたことは分かっています」


「……そこまで分かるの、便利すぎない?」


「マスターですので」


そう言って微笑まれる。


逃げ場がない。


◇


夕方には、着替えを手伝うため正面へ立った詩乃の身体がまた近づき、ボタンを留める指先を見ながら、俺はなるべく別のことを考えようとした。


会社の引継ぎ。工房の修理。母機の再校正。三つ目くらいで、柔らかな香りに全部飛んだ。


夜になった頃には、我慢の限界が近かった。寝返りで肋骨へ負担がかからないよう、詩乃が枕と左腕の位置を調整していく。いつもならそのまま自分の側へ入るところなのに、その夜は違った。詩乃は照明を落とすと、最初から俺の右側へ入り込んできた。


「詩乃?」


「はい、マスター」


怪我へ触れないよう気をつけながら、それでもいつもより近い。頭が肩口へ寄り、胸元の柔らかさが右腕へはっきり伝わる。


近い。近すぎる。


一週間近く積み重なったものがあるのに、最後にこれは反則だろう。


身体がすぐに正直な反応を返した。慌てて掛け布団の中で腰を少し引こうとする。


「マスター」


「……何?」


「隠されなくても大丈夫です」


詩乃の声には、少し笑みが混じっていた。


「いや、これは、その……」


「あれだけお身体を確認しておりますので、気づかない方が難しいです」


昼間の時点で全部ばれていたらしい。


「マスターがずっと我慢されていることも分かっていました。ただ、お身体への負担がありますので、こちらから申し上げるべきか迷っておりました」


詩乃が俺の右手を両手で包む。


「ですが、これ以上我慢なさらなくても大丈夫です」


言われた意味は、さすがに分かった。


「……こういうの口にするの、かなり恥ずかしいけど」


「はい」


「すまん……正直、もう限界だった」


詩乃が嬉しそうに微笑む。


「謝らないでください。マスターにご奉仕することは、私の喜びでもあります」


そう言って、詩乃は俺の頬へそっと口づけた。


「私にすべてお任せください、マスター」


詩乃は俺の肋骨に負担がかからないよう枕の位置を直し、そっと身を寄せた。俺も、今夜は遠慮せずに甘えようと思った。


「痛みがあれば、必ずおっしゃってください」


「分かってる」


詩乃は安心したように笑い、もう一度、俺の頬へ口づけた。


何かしてもらうたびに申し訳ないと思っていた気持ちが、少しずつほどけていく。今夜は、彼女が自分の意思でそばにいてくれることを素直に受け止めたかった。


そのあとどれくらい経ったのかは覚えていない。ただ、互いの温もりが近くにあって、あの工房で感じた怖さが少し遠ざかったような気がした。


気づけば隣の詩乃は、どこか満足そうだった。俺は何も言わず右手を差し出す。詩乃がその手を握り、そのまま静かに寄り添った。


◇


修復用ナノマシンを入れて五日目。朝起きた時、最初に気づいたのは呼吸だった。深く吸っても、肋骨の奥にあった鋭い痛みがほとんどない。左腕も固定具の中で感じていた重さがかなり減っている。


「詩乃」


声をかける前から、詩乃は俺を見ていた。


「改善しています」


「俺も、息を吸うのがずいぶん楽になったよ」


「はい。昨夜から骨折部周辺の安定性が大きく上がっています。肺の損傷部位も修復が進んでいます」


「固定具、もう外せそう?」


左腕を見る。


「まだです」


即答された。


「ですよね」


「内部の修復が進んでいることと、通常どおり負荷をかけてよいことは同じではありません」


「分かってます」


「本当でしょうか」


「信用ないな」


「昨日、右手だけで重い鍋を持とうとされました」


「あれは持てると思ったから」


「その判断を信用しておりません」


完全に正論だった。それでも、回復が早いのは嬉しい。この調子なら、詩乃の予測どおり二週間もかからず普通の生活へ戻れそうだった。


「工房の方は、どうなってる?」


回復が進んでいると聞くと、やっぱり気になった。


「警察の現場確認は終了しています。壊された扉と錠も交換され、警備会社の追加センサーも仮設済みです。母機そのものに大きな損傷はありませんので、再校正は可能です」


「なら、そろそろ再開したい。俺は作業しないで、座って見てるだけでもいい」


詩乃はすぐには頷かなかった。


「現在の回復状況だけを見れば、短時間の外出は可能です。ただ、工房へ行けばマスターは無意識に動こうとされると思います」


「持ったり運んだりしないし、立ちっぱなしにもしない。痛くなったらすぐ休む。詩乃が止めたら、その時点で終わり。それでどう?」


「……もう一つだけ。痛みが増した場合は、マスターの申告を待たず、私の判断で中止します」


俺については、本人の申告より詩乃の観測の方が早い。そこを張り合っても仕方がない。


「分かった。それでいこう」


「はい、マスター」


母機を完成させたい。それは襲われたから意地になっているだけじゃない。


今の俺の身体を治しているナノマシンも、詩乃の技術から生まれたものだ。そして詩乃自身は、まだ自分の一番大事なナノマシンを自由に増やせない。


そこを、今日で終わらせたかった。


◇


久しぶりに入った工房は、扉だけが妙に新しかった。床や作業台は片づけられている。あの日の痕跡が完全に消えたわけではないが、警察の現場確認が終わった以上、作業をいつまでも止めておくつもりもなかった。


俺は約束どおり、母機の横へ置いた椅子へ座る。


「今日は俺、完全に見学だから」


「はい。そのようにお願いいたします」


詩乃の声が明るかったので、俺も肩の力を抜いた。手を出さずに見守ることが、今日の俺の仕事なのだろう。


詩乃が母機を起動する。まず人格も自己判断も持たない検査用構造を作り、設計値どおりかを確認して停止させる。同じ条件でもう一度製造し、さらに条件を少し振ってから元へ戻す。一回だけ作れたのでは意味がない。必要な時に同じものを作れ、止められ、再現できることが必要だった。


前回の中断部分はやり直したが、保存できた校正結果と内部構造があるため、詩乃の精密型を再び極端に減らす必要はない。それでも俺が何度も様子を確認していると、七分で十一回見られていると指摘され、十二回目だと返したら笑われた。


昼前に最初の検査用構造が規定値を満たし、その後の停止試験と再製造も問題なく通った。条件を変えた試験でも再現性が崩れないことを確認し、最後に詩乃自身の観測で設計との差を照合する。


夕方近くになって、ようやく詩乃が母機から手を離した。


「再現性を確認しました」


その一言を聞いても、すぐには意味が実感できなかった。


「……終わった?」


「はい。精密型ナノマシンを、現在の設備と材料で安定して製造できます」


「じゃあ、もう減る一方じゃない?」


「はい。特殊材料の在庫と設備の稼働時間は必要です。大量生産を無制限に行えるわけでもありません。ただ、私自身の保守と補充に必要な精密型については、消耗するたび残量が減り続ける状態ではなくなりました」


力が抜け、椅子の背へ身体を預ける。会社を作った。仕事を取って資金を作った。工房を借りて、設備を集めた。途中で襲われて、骨まで折った。全部の理由の一つが、ここにあった。


「よかった……」


声にすると、それしか出なかった。詩乃が俺の前へ来る。


「残っている高純度材料で、最初の本格ロットを製造できます」


「どれくらい作れる?」


「現在の条件で最大まで製造すれば、私の予備量を安全域まで戻せます。ただ、私はその一部を、マスターの修復用ナノマシンの改良へ使用することを希望いたします」


やっぱり、自分より俺を先にしようとする。


「今回は全部、詩乃に使おう」


「ですが、マスターのお身体は」


「今の第一世代でちゃんと治ってる。俺は急がなくていい」


詩乃が何か言おうとしたので、その前に続ける。


「まず詩乃の安全を確保したい。最初のロットで予備量を戻す。そのあと製造条件をもっと安定させて、材料も追加して、継続して増産できる状態にする。俺の分はそれからでいい」


「……すべてを私に使用してもよろしいのですか」


「そのためにここまでやったんだろ」


一度補充できただけでは足りない。必要な時にまた作れる状態まで持っていって、初めて安心できる。


「詩乃が安全になって、それから俺。順番はこれでいこう」


以前の詩乃なら、もう少し食い下がったかもしれない。今は少し長く俺を見つめたあと、ゆっくり頷いた。


「はい。私も、その順番を受け入れたいと思います」


その返事が、思っていた以上に嬉しかった。


◇


最初の本格ロットの製造には、さらに時間がかかった。俺は途中で何度か休まされ、夕食まで工房で食べた。詩乃は母機と自分の状態を交互に確認しながら、精密型を少量ずつ身体へ取り込んでいく。


見た目は何も変わらない。髪も肌も、朝と同じ詩乃だ。それでも詩乃には分かるらしい。


「予備量が規定値へ戻りました」


「身体の方は?」


「問題ありません。自己保守系も正常です」


「これで予備量も、安全域まで戻ったんだな」


「はい。必要な材料と製造時間を確保できれば、今後も補充できます」


俺は右手を伸ばし、詩乃の頬へ触れる。


「そっか」


それだけ言ったら、急に胸の奥が熱くなった。


詩乃が少しずつ減っていく。傷ついた時に、同じ精度では戻せない。最初にそれを聞いてから、ずっとどこかに残っていた不安だった。


今日、それが一つ消えた。


「マスター?」


「抱きしめたいんだけど、肋骨がな」


「現在はお勧めいたしません」


「やっぱり?」


「ですが」


詩乃が俺の怪我のない右側へ回る。自分から腰を落とし、俺の右肩へそっと身体を寄せた。俺は右腕だけを背中へ回す。


「これなら問題ありません」


「詩乃、最近その言い方で結構好き勝手してない?」


「マスターも許可してくださいますので」


「それはそう」


髪へ軽く口づける。詩乃は俺の胸へ負担をかけないよう、ほんの少しだけ身体を預けた。


「最初に私を選んでくださって、ありがとうございます、マスター」


すぐそばで聞こえた声が静かで、俺は詩乃の顔を見た。


「うん。安心して隣にいてほしかったから」


「以前の私は、その選択を受け入れられなかったかもしれません」


俺は何も言わず、続きを待つ。


「今は、私も自分の状態を安定させたいと思っています。マスターと一緒にいるために必要ですので」


理由の最初に俺が入っているあたりは、やっぱり詩乃だった。でも、それでいい。


「これで終わりじゃないな。次は製造をもっと安定させて、材料も確保する」


「はい。継続補充できる状態を維持します」


「そこまでできたら、次は俺だな」


「はい」


詩乃が身体を離し、俺の胸元へ手を添える。


「今回の治療で、マスターの全身へ修復用ナノマシンを適用した際のデータが得られています。第一世代の経過が予定どおりであれば、以前お話しした次の段階へ進めます」


「前に話してた、若返りのことか」


「はい。全身の損耗修復と、段階的な若返りです」


思わず自分の身体を見る。固定された左腕。まだ完全には治っていない肋骨。四十五年使ってきた身体。


「……いよいよそこまで行くのか」


「はい。ただし、まずは現在のお怪我を予定どおり治します」


「そこは譲らないんだな」


「譲りません」


きっぱり言われたけれど、嫌じゃない。


俺を治すナノマシンが身体の中で働いていて、詩乃の中には今日作った新しい精密型がある。二人とも、あの日より少しだけ先へ進んだ。


次に何かあった時、どちらか一人だけが傷つけばいいなんて考えなくて済むようにする。そのための最初の一歩は、もう動き始めていた。


【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】


本作品は「カクヨム」でも連載しています。

「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。


また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。


第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。


ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。

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