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第23話「怖いと思ってくれてよかった」

意識が戻った時、白い天井が見えた。


最初は、どこにいるのか分からなかった。身体を起こそうとして、左腕と胸に走った痛みで全部思い出す。


工房。侵入者。床に倒れた詩乃《しの》。


「マスター」


俺が声を出すより先に、すぐ右側から呼ばれた。顔を向けると、ベッドの脇に詩乃が座っていた。いつからそこにいたのか分からない。俺と目が合った瞬間だけ、強く張っていたものが少し緩んだように見えた。


「詩乃……無事?」


目を覚まして最初に出たのがそれだった。


「はい。私は大丈夫です」


「よかった……」


力が抜ける。


「マスターは、大丈夫ではありません」


「それは、なんとなく分かる」


笑おうとして胸が痛み、途中でやめた。


ベッドに横になったまま、俺は詩乃から、自分の怪我と意識を失ったあとのことを聞いた。


左前腕の骨折と、肋骨二本の骨折。肺にも軽い挫傷があり、三日間入院することになった。右の側頭部には裂創があり、出血は目立っていたらしいが、処置は済んでいる。画像検査でも頭蓋骨や脳に大きな異常はなく、目そのものにも損傷はなかった。幸い手術は必要なかった。


俺が意識を失ったあと、詩乃は侵入直後に母機を緊急回収状態へ移しており、装置内部へ移していた精密型を身体側へ戻したという。十分ほどで自力で立って動けるところまで回復し、警察と救急が工房へ入った頃には、少なくとも歩いて受け答えができる状態には戻っていたらしい。


俺が救急搬送されるあいだに、詩乃は工房の映像と保存していた音声を保全し、壊された錠や侵入者が残した工具もそのまま警察へ引き渡した。持っていかれたのは外部評価用の熱拡散材試験片だけで、製造条件や母機に関する情報は含まれていない。端末からデータを抜かれた形跡も確認されなかった。


自分が現場にいたことについても、詩乃は隠さなかった。ただ、身分証の提示を求められたところで、そのまま「戸籍も住民票もありません」と答えれば、事件とは別のところで身元確認が止まる。


そこで詩乃は、ナノマシンで緊急用の身分証を用意し、警察の照会にも支障が出ない最低限の情報だけを一時的に整合させていた。あくまで緊急時の暫定措置で、恒久的に使うつもりはないらしい。


その話をしている間も、詩乃はずっと沈んでいるように見えた。病院に許された範囲で、ほとんど俺のそばを離れなかった。薬の時間も、水を飲む量も、医師の説明も、俺より正確に覚えている。水を取ろうと右手を伸ばせば、俺が触れるより先にボトルの蓋を開けて渡してくれた。食事も、片手で扱いにくいものだけ何も言わず位置を直してくれる。


それなのに、必要以上には触れてこなかった。いつもの詩乃なら、俺が痛みを誤魔化そうとすれば少しくらい小言も言う。それすらない。


「肋骨、さっきより痛くないよ」


「はい」


「腕もちゃんと動くようになるって」


「はい」


会話はそこで終わる。ただ静かに俺を見ていた。


夜、付き添いを離れなければならない時間になっても、最後まで病室に残った。


「明日も来る?」


聞くと、詩乃は少しだけ驚いた顔をした。


「もちろんです」


「なら、今日はちゃんと休んで」


「はい、マスター」


翌朝には、面会できる時間より少し早いくらいに戻ってきた。休んだのかと聞けば「必要な範囲では」とだけ答えた。


「もう大丈夫だから」と言っても、「はい」と答えるだけだった。


その夜、帰る前の詩乃が毛布の端を直した。いつもなら、そのまま何か一言くらい言う。今日は黙ったまま手を引く。


思わず右手で指先をつかむと、詩乃はすぐに止まった。


「どうされましたか?」


「いや……なんでもない。明日も来て」


「はい」


その返事だけは、少しだけ早かった。その様子が、怪我そのものより気になった。


◇


入院から三日後、予定どおり自宅へ戻った。


病院から外へ出た時の暑さが、まだ肌に残っていた。玄関を開けると、冷房の涼しさに少しだけほっとする。


左腕は固定されたまま。肋骨も、笑ったり咳をしたりすると普通に痛い。玄関で靴を脱ぐだけでも時間がかかったが、詩乃は手を出しすぎないように俺の動きを見ていた。


リビングのソファへ座り、ようやく息をつく。詩乃は少し離れた場所に座った。入院中からずっと同じだった。そばにはいる。でも、以前のように自分から俺へ身体を寄せてこない。


「詩乃」


「はい、マスター」


「こっち来て」


一瞬だけ迷ってから、詩乃が隣へ移る。俺は動く右手で、その手を握った。


「入院してからずっと、何考えてる?」


「……マスターのお身体についてです」


「それだけじゃないんだろう」


詩乃は答えなかった。待っていると、やがて視線を落とした。


「私は、マスターをお守りするために必要な身体能力は確保していると申し上げました」


「うん」


「ですが、あの時は何もできませんでした」


握った手に、わずかに力が入る。


「制限を解除しようとしました。マスターへ攻撃を加えた男を止めるために、身体維持へ回していた出力まで使用しようとしました」


詩乃はそこで言葉を切った。


「ですが、解除を実行すれば、現在の身体と演算状態を維持できない可能性があると分かった瞬間……私は、怖くなってしまいました」


「怖く?」


「はい。今の私が失われて、マスターと一緒にいられなくなることが」


あの時、背後で椅子が軋み、そのあと床へ崩れた詩乃の姿が浮かぶ。立とうとした瞬間に何が起きていたのかは、今の説明でようやくつながった。


「その一瞬、実行をためらいました。出力配分を切り替えきれないまま姿勢制御も失って……立つことも、マスターのところへ行くこともできませんでした」


詩乃が握った手へ視線を落とす。


「マスターがお怪我をされているのに、自分自身を失うことを恐れて動けませんでした。その結果、マスターをさらに傷つけてしまった。マスターをお守りするために存在している私が、自分を守ることを優先してしまうなど、あってはならないことなのに」


声は震えていない。それなのに、聞いている方が苦しくなる。


「私は、マスターのお役に立つためにここへ来ました。マスターをお守りすることもできず、そのうえ自分が失われることを怖いと思った。そんな私には……存在する意味がありません」


「それは違う」


考えるより先に言っていた。詩乃が顔を上げる。


「自分がいなくなるのを怖いと思ったことは、悪いことじゃないよ」


詩乃が少しだけ眉を寄せる。たぶん、俺が責めると思っていたのだろう。詩乃にとっては、マスターを守るための自分が、守るべき相手より先に自分の消失を怖がった。そのことを、詩乃自身が一番許せていない。


「ですが――」


「俺が怪我したことを良かったなんて言うつもりはないよ。でも、詩乃が『今の自分がいなくなるのは怖い』って思ってくれたことは、俺は嬉しい」


詩乃の目が揺れる。


「だってそれ、詩乃自身が俺とこれからも一緒にいたいって思ってるってことだろ」


「……私は」


「怖いと思ってくれてよかった、なんて言うと変だけどさ。今の自分をなくしたくないって思ってくれたことは、俺には大事なんだ」


俺は握った手へ少し力を込めた。


「ありがとう、詩乃」


あの日からずっと、この一瞬を責めていたのか。入院中の静かな横顔が胸に浮かぶ。でも俺には、その迷いが悪いことだとはどうしても思えなかった。むしろ、自分自身を失いたくないと思えるほど、詩乃の中に「これから」が生まれていたことの方が大事だった。


「俺は、守ってもらうためだけに詩乃と一緒にいるんじゃないよ」


詩乃はすぐには答えなかったが、俺も急かさなかった。入院中、ずっとこうして何かを飲み込んでいたのだと思う。やがて、握っていた俺の手へ視線を落とす。


「……それでも、本来であれば迷うべきではありませんでした。次に同じことが起きたなら、身体を維持できなくなっても、出力制限を解除するべきです」


「何言ってるんだ」


「非常用のバックアップがあります」


前に聞いたことがある。同じ記憶を持つ詩乃を再構成するための記録。


「私が失われても、記録から同じ記憶と人格を持つ詩乃を再構成することはできます。本人性を保証できないことは承知しています。それでも、マスターが生存されるのであれば、その方が合理的です」


「合理的って……」


詩乃は冷静に説明しているようで、俺には自分が残る可能性を最初から捨てようとしているようにしか聞こえなかった。


「今の私が残ることより、マスターが生きていらっしゃることを優先すべきです。次に同じ状況になった場合は――」


「だから駄目だ」


思ったより強い声が出た。


「お前、自分が何言ってるのか分かってるのか」


詩乃が目を見開く。詩乃にこんな言い方をしたのは、初めてだった。けれど、今は抑えられなかった。


「前に自分で言っただろ。バックアップから戻した詩乃が、今ここにいる詩乃の続きかどうか分からないって」


「はい」


「だったら、バックアップがあるから今の詩乃を犠牲にしていいみたいに言うな」


詩乃の指がわずかに震えた。


「同じ記憶で、同じ顔で、同じ声の詩乃がもう一度ここへ来たとしても、それで『元に戻ったから問題ない』なんて俺には思えない」


言いながら、胸の奥がざわついた。もし本当にそうなったら、同じ顔と声で、同じ記憶を持つ存在が目の前にいても、今と同じように詩乃として抱きしめる自分は想像できなかった。だからこそ、最初からそんな賭けをしたくなかった。


俺は握った手を離さないまま続けた。


「俺が守りたかったのは、新しく作り直される誰かじゃない。今ここにいる詩乃だ」


「……マスター」


「ご飯食べて、話して、一緒に仕事して、会社の名前考えて、土地見に行って。くだらないことで笑って、たまにくっついて。俺が欲しいのは、そういう毎日だよ」


声にしているうちに、自分が何に腹を立てていたのかもはっきりした。


「俺は、今の詩乃とこれからも一緒にいたい。守れるかどうかとは別の話だ」


詩乃の目が揺れる。


「詩乃がいて助かったことは何度もある。これからも頼ると思う。でも、それができなくなったら詩乃の存在意義がなくなるなんて、俺は一度も思ってない」


俺は握った手を少し持ち上げた。


「それにさ。俺だって詩乃を守りたいんだよ」


「マスターが、私を……」


「そうだ。あの日だけじゃない。詩乃が万全でも同じだ」


言ってから、少し照れくさくなった。


「まあ、俺も男だからな。大切な人くらい、守れるようになりたい」


左腕は固定され、肋骨も二本折れている。今の格好で言うと、さすがに説得力がない。


「結果はこれだけど」


握っていた手をいったん離し、右手で自分の固定具を軽く叩く。詩乃の口元が、ほんの少しだけ動いた。それを見て、少し安心した。


「俺が怪我するのを詩乃が嫌なのと同じで、俺も詩乃が傷つくのは嫌だ。どっちかだけが守るんじゃなくて、二人とも無事に帰れる方法を作ろう」


「……でも、マスターは私を庇って、何度も攻撃を受けられました」


「無我夢中だったからな」


「なぜ、そこまでして手を離されなかったのですか」


「詩乃に近づいてほしくなかったから」


それ以外の答えはなかった。


「怖くなかったわけじゃないよ。めちゃくちゃ痛かったし、途中から本気で勘弁してほしかった。でも、手を離したらあいつが詩乃のところへ行く。それだけは嫌だった」


口にすると、あの時の光景がまた頭に浮かんだ。床に倒れた詩乃と、その詩乃へ向かって歩いていく男。考えて動いたというより、身体が勝手に止めようとしていた。


「あの時の詩乃は動けなかった。でも、動けたとしても、あんな奴に触らせたいとは思わないよ。俺が守れるなら守る。詩乃が俺を守るのと同じだろ」


詩乃が何か言おうとして、唇を閉じた。しばらくして、今度は詩乃の方から俺の右手を取り、両手で包む。


「……怖かったです」


「うん」


「マスターが何度殴られても手を離されなくて。私を守るために、さらに傷つかれて。止めたかったのに、何もできませんでした」


詩乃の指が、俺の手を包んだまま少し震えた。


「そのあと、マスターが倒れて動かなくなって……もし、あのまま目を覚まされなかったらと思うと……私は……」


言葉が途切れる。詩乃がこんなふうに先を言えなくなるのは珍しかった。


「俺も詩乃がいなくなるのは、考えるだけで怖いよ。でも、二人とも生きて、こうして話せてる。まずはそれを、一緒に喜びたい」


詩乃が顔を上げる。


「怖かったことを、自分を責める理由にしなくていい」


「……はい」


詩乃は視線を落とした。俺の右手を包む指に、また少し力が入る。


「でも、何もできなかった自分が、今も許せません」


俺は、詩乃の両手に包まれた右手へ少し力を返した。


「じゃあ、一つだけ覚えておいて。俺は、詩乃が俺を守れるかどうかで一緒にいるわけじゃない」


詩乃が俺を見る。


「守れない日があっても、動けない日があっても、詩乃は詩乃だよ。俺にとって大切なのは、そこじゃない」


一緒に過ごした時間まで、役に立つかどうかで値段をつけられるみたいに言われるのが嫌だった。俺にとって詩乃は、もうそんな存在じゃない。


「……はい」


「それに、次は二人とも無事に帰れるようにすればいい。俺一人が格好つけて骨を折るのも、もう勘弁だからな」


ほんの少しだけ、詩乃の表情が緩んだ。俺は右腕を広げた。


「ほら、こっち来て」


詩乃は俺の固定された左腕と胸元を見た。


「怪我へ触れないようにします」


「うん。右側なら大丈夫」


一瞬だけためらい、それから詩乃が身体を寄せてくる。怪我へ触れないように慎重に、俺の右肩へ額を預けた。


「もっと来ていいよ」


「でも、マスターのお体が……」


「大丈夫」


詩乃がそっと腕を回す。俺も右腕で、その身体を抱き寄せた。


「詩乃が俺を守る。俺も詩乃を守る。それでいいだろ」


しばらくして、小さな声が返ってきた。


「……はい、マスター」


完全に納得しきった声ではなかった。それでも、詩乃の腕は少しだけ強く俺を抱いた。


肩口に触れた髪から、いつもの詩乃の香りがする。腕の中には確かな体温があって、そっと抱けば柔らかさも、ここにいる重みも伝わってくる。あの工房では、ほんの少し離れた床から互いに手を伸ばすことしかできなかった。今は違う。詩乃は無事に、俺の腕の中にいる。


それを確かめられることが、たまらなく嬉しかった。


【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】


本作品は「カクヨム」でも連載しています。

「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。


また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。


第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。


ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。

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