第22話「六百秒」
日曜の朝、工房のシャッターは閉めたままだった。搬入も打ち合わせも入れていない。外部の作業は昨日までに終わらせ、今日ここにいるのは俺と詩乃だけだ。
外では朝から蝉が鳴いている。工房の中では、空調が低い音を立て続けていた。精密型ナノマシンを作り直すための母機。その最終校正を始める日だった。
「もう一度だけ確認。異常があったら止める。成功しても、その場ですぐ詩乃へ補充はしない。停止試験と再現性を確認してからにしよう」
「はい、マスター」
今日は詩乃の精密型のかなりの割合を母機へ回す。身体維持はできても、普段のような余力はほとんどなくなる。
「少しでも身体がおかしいと思ったら言って。工程より詩乃の方が大事だから」
「承知しております」
「俺が危ないと思った時も止めるからな」
「はい」
「よし」
詩乃が少し笑った。
「本日は、マスターの方が過保護ですね」
「誰の影響だと思ってるんだよ」
そう返しながら、俺も少し笑った。心配される側はもう十分経験した。今日は俺が詩乃の様子を見る番だと思っていた。
◇
校正は午前九時に始めた。最初の一時間は、見た目には何も変わらなかった。詩乃が母機の制御を調整し、俺は表示された値と手順を確認する。途中で予定していた停止点も問題なく通過した。
変化を感じたのは、十時半を過ぎた頃だった。詩乃が作業台の端へ手をついた。ほんの一瞬だったが、俺は見逃さなかった。
「詩乃」
「問題ありません」
「その『問題ありません』が、一番心配なんだよ」
詩乃がわずかに困ったような顔をする。
「では、正確に申し上げます。身体側へ残している精密型は、身体維持と構造安定を優先した状態です。歩行は可能ですが、余裕はほとんどありません」
「座ろう」
「操作は継続できます」
「座ってもできるんだから、そうしよう」
「はい」
素直に椅子へ腰を下ろした。それだけで、今の詩乃がいつもと違うのが分かる。普段なら俺より先に機材へ手を伸ばすのに、今日は工具一つ取るにも身体を大きく動かさない。立ち上がる回数も減らしていた。俺は水のボトルを開けて渡した。
「水分補給は必須ではありません」
「知ってる。俺が渡したいだけ」
詩乃は少しだけ目を細めた。
「では、いただきます」
一口飲んで、ボトルを両手で持つ。その姿だけなら、いつもの詩乃と何も変わらない。でも、補助演算核を平然と運んでいた腕に、今はあの余裕がない。
「現在、全工程の六割強です」
「まだ結構あるな」
「ここから基準形成が完了すれば、残りは補正と照合です」
「焦らずいこう。今日終わらなくてもいいから」
「はい、マスター」
俺は自分の椅子を詩乃のすぐ隣へ寄せた。何かあっても俺にできることは限られている。それでも、今日は離れたくなかった。
◇
十一時四十二分。
詩乃が突然、画面から顔を上げた。
「マスター」
声に緊張が滲んでいた。普段の仕事口調よりさらに短く、はっきりしている。
「どうした?」
「裏手の搬入口付近に三名います。もう一名、正面側です」
一瞬、意味を理解するのが遅れた。今日は誰も来ない。
「業者じゃないよな」
「違います。裏手の三名は、扉周辺を確認しています。正面の一名は道路側を監視しているように見えます」
背中が冷たくなる。
「警察に――」
「通報いたします」
俺が言い終えるより早く、詩乃の手が端末へ伸びた。
「携帯回線に強い妨害があります。警備会社の監視回線へ非常信号を送信しました。警察への通報も依頼済みです」
ほぼ同時に、工房の奥から金属をこじるような鈍い音がした。
普段なら聞き流している空調の低い音と、母機の作動音だけが妙にはっきり耳に残る。閉め切った日曜の工房には俺たちしかいない。誰かが助けを求める声を聞いてくれるような場所でもなかった。
普通の空き巣なら、こんな日に、こんな場所へ入って何を盗むつもりだ。答えを考える前に、二度目の音が鳴る。一度目より近い。
「校正は止められる?」
「緊急停止へ移行します。ただし、装置内部へ移した精密型の回収には時間が必要です」
「どれくらいかかる?」
「現状態から安全に戻す場合、最短でも十分前後です」
長い。
「今の詩乃の状態は?」
「身体維持に必要な精密型は確保しています。ただ、歩行にも余裕がなく、戦闘行動に回せる出力はありません」
俺は息を呑んだ。少なくとも十分、詩乃は自分の身を守ることすら難しい。
「データは?」
「製造データを閉鎖します。外部端末からの取得はできません」
「試料は?」
「保管庫をロックします」
俺は工房を見回した。逃げ道は正面と裏手。両方に人がいる。窓は防犯用で、人が簡単に出られる大きさじゃない。警察が来るまで、ここで時間を稼ぐしかない。
詩乃は残っている出力のほとんどをデータ封鎖と母機の停止へ回している。守るべきものを一つずつ閉じていく手つきは正確だった。でも、その横顔を見れば分かる。今の詩乃自身を守る余力だけが、どこにも残っていない。
こんな時まで仕事を優先するな、と言いたかった。けれど、扉の向こうでまた金属音が響き、その言葉は飲み込んだ。
そう考えた直後、裏手の扉が大きな音を立てて内側へ開いた。黒っぽい作業着に帽子とマスク。三人とも工具箱に見えるバッグを持っていた。
先頭がこちらを確認する。二人目は迷わず端末の位置を見る。三人目は入ってきた扉の横へ寄り、外を警戒した。誰かが思いつきで忍び込んだ動きには見えなかった。
先頭の男が俺たちを見て一瞬だけ止まる。
「二人いる」
後ろから低い声が返った。
「構わない。端末と試料を先に取れ。三分で出る」
その言葉で、偶然の空き巣ではないと確定した。
「何なんだ、あんたら」
俺が声を上げると、先頭の男が片手を上げた。
「動くな。怪我したくなければ、そこにいろ」
手には短い金属棒があった。別の男は迷わず試料棚へ向かい、もう一人は制御端末の前へ行った。初めて入った場所を手探りしている動きじゃない。ここに何があるのか、ある程度分かった上で動いている。
俺は椅子にいる詩乃の前へ立った。
「動かなくていい」
「ですが、マスター」
「今は俺の後ろにいて」
端末へ向かった男が舌打ちした。
「ロックされてる。ログも見えない」
先頭の男が詩乃へ向きを変えた。
「女に開けさせる」
男がこちらへ一歩踏み出す。詩乃へ近づこうとしているのが分かった。
背後で、椅子がわずかに軋んだ。詩乃が立とうとしたのだと思う。考えるより先に、俺は男と詩乃の間へ身体をずらした。
「近づくな」
自分でも驚くくらい低い声が出た。男は俺を見て、面倒そうに眉を動かす。
「どけ」
「断る」
怖くないわけがない。相手は明らかに慣れている。俺はただの会社員で、喧嘩なんて何年どころか何十年もしていない。
逃げないと、と頭の中では分かっていた。でも俺の後ろには詩乃がいる。普段なら俺よりずっと強い詩乃が、今日は立っているだけでも余力を使っている。
だったら、前に立つのは俺しかいなかった。
男が俺の肩を掴んだ。振りほどこうとした瞬間、脇腹に強い衝撃が入る。息が詰まり、身体が横へ流れて作業台へ肩をぶつけた。その勢いのまま、右のこめかみを作業台の縁へ打ちつける。
鈍い痛みの直後、熱いものがこめかみを伝った。反射的に右目を閉じる。頬へ流れた血がまぶたにも入り、開けようとしても視界が赤く滲んだ。
「マスター!」
詩乃の声が響いた。
床へ膝をつきながら、左目で男を追う。男はそのまま詩乃へ歩こうとしていた。
男を見上げる詩乃の表情から、いつもの柔らかさが消えていた。俺へ向ける顔とはまるで違う。抑えきれない怒りだけが、目に浮かんでいる。
椅子の肘掛けを掴み、立ち上がろうとする。立つだけでも危うい。さっき自分で、歩行にも余裕がないと言っていた。それでも詩乃は身体を前へ出そうとした。
「詩乃、ダメだ!」
俺が叫ぶのとほとんど同時に、詩乃の脚から力が抜けた。身体を支えきれず、椅子の横へ崩れ落ちる。床へ手をつき、それでも俺の方へ来ようと腕を伸ばしたが、身体は数十センチも進まなかった。
「マスター……」
立つことも、這って近づくこともできない。
先頭の男が、そんな詩乃へ向かって歩き出した。考えるより先に、俺はその足首へしがみついた。
「詩乃に……近づくな」
「離せ」
男が脚を振る。俺の身体が床を擦った。それでも手は離さなかった。
「しつこいな」
脇腹へ蹴りが入った。肺の中の空気が全部押し出される。声どころか息も出ない。視界が白くなり、床の冷たさだけが頬に伝わった。
手を離せば楽になる。そんなことだけは妙にはっきり分かった。
それでも腕に力を込める。
「近づくな……」
「マスター、離してください!」
詩乃の声がする。俺を助けようとしているのに、詩乃自身は床から立ち上がれない。
男の金属棒が左腕へ振り下ろされた。鈍い音のあと、今までとは違う鋭い痛みが走った。骨の奥まで直接響くような痛みで、指先から力が抜けそうになる。
左手はもうまともに使えなかった。だから右手だけで掴み直す。
「っ……!」
「いい加減にしろ」
もう一度、今度は肩口を殴られる。それでも右手だけは男のズボンを掴んだ。
「詩乃に、触るな……」
自分の声が遠い。右目は血でまともに開けられない。それでも、左目に映る男と詩乃の位置だけは見失わないようにした。
男が苛立ったように舌打ちし、俺の腹へもう一度蹴りを入れた。身体が横へ転がる。息ができない。起き上がろうとすると、胸の奥に刺すような痛みが走った。
「マスター!」
詩乃が這うようにこちらへ手を伸ばしている。だが、数十センチ進むだけで腕が崩れ、床へ身体を落とした。
俺はまた男の足へ手を伸ばした。
「……来るな、詩乃」
ここまで来ようとしているのは分かる。それでも、今の詩乃に無理をさせるわけにはいかなかった。
「マスター、もう――」
「詩乃に……近づくな」
先頭の男が俺を見下ろした。男の目だけが、妙にはっきり見えた。
「そこまでして守るものかよ」
吐き捨てるような声だった。
その時、試料棚にいた男がケースを一つバッグへ入れた。
「試料はこれだけだ。端末は無理だ」
遠くからサイレンが聞こえてきた。
「時間だ。行くぞ」
先頭の男が俺の手を蹴り払う。それでも指先だけは床を掻いた。もう足へ届かないと分かっているのに、身体が勝手に追おうとした。
男が一度だけ振り返り、苛立ったように俺の脇腹へ最後の蹴りを入れる。胸の奥で何かが軋んだ。
今度こそ身体が動かなかった。
三人が裏口へ走る。正面側にいた一人も離れたらしい。追うという発想はなかった。
床に頬をつけたまま、俺は詩乃を見る。少し離れた場所で、詩乃も床に伏していた。こちらへ来ようとしているのに、身体が思うように動かないらしい。
「マスター……」
声が震え、詩乃の手が、届くはずもない距離から俺へ伸びている。
「大丈夫……だから」
自分でも嘘だと思った。息をするだけで胸が痛い。左腕は感覚がおかしい。視界の端が暗くなり始めている。
それでも、詩乃にはそう言いたかった。
遠くからサイレンが近づいてくる。もう少しだけ起きていないと。警察が来るまで、詩乃が無事だと分かるまで。そう思うのに、身体が言うことを聞かない。
「マスター、目を閉じないでください!」
詩乃の声が聞こえ、返事をしようとしたが、声にならなかった。
最後に見えたのは、床に倒れたまま必死に俺へ手を伸ばす詩乃だった。
そこで、意識が途切れた。
【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】
本作品は「カクヨム」でも連載しています。
「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。
また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。
第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。
ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。




