第21話「二人の会社に名前がついた」
会社名の空欄は、登記書類の中で思っていた以上に目立っていた。
七月下旬の木曜の夜。工房の机には、司法書士から送られてきた最終確認用の書類が開いている。事業目的、本店所在地、資本金、代表者。そこまではほとんど埋まっているのに、最初の一行だけが空白だ。
「明日の午前中までに決めれば、予定どおり進められるんだよな」
「はい。名称確認も済ませていますので、候補の中から選んでいただければ問題ありません」
隣の詩乃を見る。
「そろそろ見せてくれてもいいんじゃない?」
会社名の候補はもうある、と聞かされてからしばらく経つ。詩乃は一つも見せてくれなかった。俺が楽しみにしているのを分かっていて、妙なところで引っ張る。
「はい。私も、これ以上お待たせする必要はないと思います」
詩乃が自分の端末をこちらへ向けると、五つの候補が表示されていた。その一番上だけ、文字が少し大きい。
**株式会社連星技研**
「れんせい……連星?」
「はい」
「二つの星が回ってる、あれだよな」
「正確には、二つの天体が互いの重力の影響を受け、共通の重心を中心に運動する系です」
「ああ、片方が真ん中ってわけじゃないのか」
「はい」
そこで詩乃が、ほんの少しだけ間を置いた。
「異なる技術を結びつけ、互いに影響しながら新しいものを生み出す、という対外的な意味を持たせられます。熱材料だけに限定されませんので、今後扱う分野が増えても不自然ではありません」
「対外的には?」
聞き返すと、詩乃の視線が俺へ戻った。
「私的な理由もあります」
その言葉に、もう一度、画面の文字を見る。連星。二つの星が、互いの影響を受けながら同じ重心の周りを回る。詩乃がそれを一番上に置いた理由を少し考えてから、隣を見る。
「……もしかして、俺と詩乃のこと?」
「はい、マスター」
詩乃は少し嬉しそうに頷いた。
「マスターと私で作る会社ですので、二人を表す名前にしたいと思いました」
こういうことを真顔で言われると弱い。画面に出ている四つの候補を一応見たが、もうあまり頭へ入ってこなかった。
「俺、これがいい」
「連星技研、でしょうか」
「うん。詩乃が考えた意味も好きだし、普通に技術会社っぽい。あと、ちょっと格好いい」
「最後の理由は重要だと思います」
「分かってるね」
「マスターのお好みですので」
詩乃が微笑む。俺は画面の会社名をもう一度見てから、隣にいる詩乃の手を取った。
「じゃあ、これからよろしく。共同創業者」
「はい」
詩乃は握った手に視線を落とし、それから少し困ったように笑った。
「ただし、現在の制度上、登記に私の名前を並べることはできません」
「そこなんだよな」
書類上、代表取締役も株主も俺だ。詩乃には戸籍がない。住民票もなければ、社会の側から見れば、まだ正式な一人の人間として扱われるための身分そのものがない。俺にとっては間違いなくここにいるのに、書類の上では名前を置く場所すらない。
今の時点で無理にどうにかしようとすれば、会社を作るどころではない話になる。
「俺一人の会社みたいに見えるの、ちょっと嫌だけどな」
「私は気にしておりません」
「俺が気にする」
そう言うと、詩乃の指が少しだけ強く俺の手を握った。
「では、いつか私も、正式にこの会社の一員として名前を残せるようになった時は、お願いいたします」
「もちろん」
「それまでは、マスターが表の代表をお願いいたします。私は隣におりますので」
「その方が責任重いな」
「はい」
笑いながら答えられた。
その夜、空欄だった会社名に文字が入った。
株式会社連星技研。
まだ登記も終わっていないのに、名前がついただけで急に本当に会社を作るんだという実感が湧いてきた。
◇
翌日の金曜、登記の申請を終えた。司法書士と税理士には細かな確認を任せつつ、俺が見るべきところだけ確認する。本店は当面、今の工房。事業目的は材料、技術開発、研究受託を中心に、将来の展開を邪魔しない程度にまとめた。
何でもできるようにと大量の項目を並べることはしなかった。
会社の総務にも、法人化を進めていることと、退職日まではこれまでどおり勤務先の情報や設備を事業へ使わないことを改めて伝えた。向こうからも、その線で問題ないと回答が来た。
登記を待つ間も、土地の確認と融資の事前相談は並行して進めた。法人化を決める前から倉橋さん経由で必要資料を揃え始めていたので、会社名が決まったあとにゼロから始める必要はない。
数日後、倉橋さんから連絡が入る。
『登記が確認できました。おめでとうございます、神堂社長』
電話越しにそう呼ばれて、妙にむず痒くなった。横で詩乃が聞いているのも分かっていて、つい照れ隠しに口を尖らせる。
「それ、まだ慣れないのでやめてもらえません?」
『最初だけですよ。すぐ慣れます』
「部長も慣れるまで結構かかったんですけど」
横で聞いていた詩乃が小さく笑っている。
『では、連星技研さん。次は土地ですね』
そっちは、社長よりずっと楽しみにしていた。
◇
候補地の詳しい資料を取り寄せてみると、三百万平方メートルという数字の印象はかなり変わった。
数字だけではよく分からなくて調べてみたら、東京ドームでおよそ六十四個分らしい。そう聞くと途端に笑いたくなるくらい広い。
ただし、そのほとんどは山林と斜面だ。
元研修施設がある平坦地と、道路から直接入れる部分は全体の一部。古い宿泊棟、管理棟、食堂、研修棟が残っているが、そのまま使えるものと大規模な補修が必要なものが混ざっていた。
境界も、道路沿いのように分かりやすい場所ばかりではない。山側には昔の測量記録を確認し直した方がいい区間もある。
「三百万平米全部に建物建てられる、みたいな話じゃないんだな」
現地でそう言うと、不動産会社の担当者が苦笑した。
「それを期待されると困りますね。むしろ、この面積を維持する負担まで含めて買っていただく物件です」
「ですよね」
山を三つくらいまとめて買う感覚に近い。その代わり、画面で決めた大枠は、現地で見ても大きく変えなくてよさそうだった。
道路側の平坦地は、大型車が入っても住居側を通らずに済む。古い受電設備も、引込経路そのものは残っているので更新できそうだ。水回りは一部やり直しが必要で、地下へ手を入れるなら地盤と排水の調査からになる。
図面では分からなかった高低差や道路からの視線も、実際に歩くと見えてくる。奥へ入れば木立がかなり残っていて、生活する場所は道路側から直接見えにくい。
「大型車も、こっちから入れれば住居側を通さなくて済みそうだな」
「はい。公開する研究区画と搬入口は、この平坦地を中心に考えられます」
「生活する方も、前に画面で決めた大枠のままでいけそうだ」
「私もそう思います」
不動産会社の担当者が少し離れたのを確認してから、俺は声を落とした。
「秘密基地は?」
「さらに奥です」
詩乃も小さな声で答える。
「ただし、地下については地盤調査後です」
「分かってます」
「念のため申し上げました」
何となく教師と生徒みたいになって、二人で笑った。
◇
土地を欲しいと思うことと、実際に買えることは別だった。そこは詩乃にも倉橋さんにも最初から何度も言われている。
将来の量産で数億円規模になるかもしれない、という話はある。でも、まだ契約で確定した売上ではない。見込みだけを当てにするつもりはなかった。
金融機関へ出したのは、今までの確定した契約と入金実績、連星技研の事業計画、土地の評価、既存施設の利用計画。それから俺自身が入れる資金だ。
新設法人に、何も聞かれず融資が出るわけでもなく、面談は二度あった。一度目は事業そのもの。二度目は、なぜこの規模の土地が必要なのかと、土地を買ったあとも研究資金を回せるのかという確認だった。
「全部をすぐ開発する予定はありません」
俺はそう説明した。
「まず道路側の既存施設を研究・試験用に改修します。住居は別区画。山林部分の大半は当面そのまま管理します。将来設備が増えた時に、周囲との距離を確保できることにも価値があります」
担当者は資料へ目を落とした。
「将来の量産見込みは、返済計画にはどの程度織り込んでいますか」
「前提には入れていません。今ある契約と実績、それに自分で出せる資金を基準にしています。量産が進めば余裕は増えますが、それがなければ返せない組み方にはしたくありません」
隣に座る倉橋さんが、必要なところだけ補足する。土地が広いわりに価格が現実的なのは、利用しにくい斜面と山林が大半で、古い施設の維持や撤去まで買主側の負担になるからだ。
頭金は自己資金から出す。残りは土地と事業実績を見た長期の借入。母機や今後の研究費まで土地へ突っ込まないよう、資金は最初から分けた。そこも何度か確認され、追加で求められた資料を一つずつ出した。
面談が終われば、あとは待つしかない。工房で作業していても、メールの着信音が鳴るたびに一度手が止まった。審査中だと分かっていても、何度も受信箱を開いてしまう。祈ったところで結果が変わるわけじゃない。それでも、あの土地で詩乃と暮らし、仕事をするところまで想像してしまったあとでは、平然と待つのは無理だった。
◇
審査結果が出た日の夜、俺は工房でメールを三回読み直した。
「通った……」
「はい」
詩乃は横から画面を見ている。
「本当に買えるんだな、あそこ」
「はい、マスター」
「三百万平米」
「大半は山です」
「今だけは夢見させてよ」
「失礼いたしました」
口では謝っているが、詩乃は笑っていた。俺も笑いながら椅子の背にもたれた。
ただ、そのまま喜んで終わる前に、もう一つ確認しておくことがある。
工房の奥には、部品調整の都合で当初予定より納入が遅れていた高真空加工ユニットが、ようやく据え付けられていた。発注していた、精密型を作り直すための母機候補だ。
据付と通常範囲の動作確認は終わっている。ここから先は詩乃が内部を調整し、通常の装置では届かない精度まで追い込む。
「最終調整、来週だよな」
「はい。外部の作業は前日までに終了させます」
「前に聞いたより、詩乃側の負担が大きいんだよな……」
詩乃が頷く。
「最終工程では、私が保持している精密型のかなりの割合を、一時的に装置内部へ移します。基準構造の形成と、加工部の最終補正、校正を並行して行うためです」
「装置へ移した分は、工程の途中ですぐ身体へ戻せないんだよな」
「はい。工程を停止すれば回収できますが、通常時のように即時には戻せません」
以前の俺なら、「詩乃なら何とかするだろう」で流していたかもしれない。今はそこを流したくない。
「その間、詩乃の身体はどうなる?」
「思考と会話、通常歩行は可能です。ただし、身体側へ残す精密型は維持を最優先しますので、余力はほとんどありません。高出力の運動、高速修復、通常以上の身体強度は使用しない方が安全です」
「つまり、その間は普通の女性にかなり近い?」
「身体能力だけを単純比較することは難しいですが、少なくとも現在のような余力はありません」
それなら、やる日は工房を閉める。
「搬入も打ち合わせもなしにして、試料の出荷は前日までに済ませよう。俺もずっといる」
「会社のお仕事は、大丈夫でしょうか」
「引継ぎの予定とは重ならないようにするよ。調整の日は、詩乃のそばにいる」
詩乃が一瞬だけ黙った。
「ありがとうございます」
「ここまで二人で進めてきたんだから、最後の校正も一緒に見届けたいんだ」
母機が完成すれば、長く抱えてきた問題を終わらせられるかもしれない。だからこそ、最後で無茶はさせない。
話を終えたところで、詩乃が俺を見た。
「マスター」
「ん?」
「土地の件、本当に嬉しいです」
「うん。俺も」
詩乃が少しだけ距離を詰める。
「もう少し、マスターと一緒に喜びたいです」
その言い方で、何を望んでいるのかはだいたい分かった。俺も同じ気分だった。
笑いながら立ち上がる。
「じゃあ、おいで」
腕を広げると、詩乃は迷わず胸へ入ってきた。腰へ腕が回り、頬が肩口に触れる。俺も背中へ腕を回して、少し強く抱きしめた。
「嬉しいです、マスター」
「俺も。会社ができて、土地まで買えるところまで来たんだもんな」
髪へ軽く口づけると、詩乃が顔を上げる。そのまま唇にも短く触れた。
融資承認のメールを開いたまま、しばらく二人で抱き合っていた。
◇
登記、融資審査、売買契約の確認を並行して進め、所有権の移転が済んだのは、その週の土曜日だった。
俺と詩乃は、以前は柵の外から眺めていた入口の前に立っていた。手には、新しい鍵がある。
「じゃあ、開けようか」
口に出すと照れくさかった。詩乃が少し目を細め、鍵を持つ俺の手へ視線を落とす。
「はい。お願いいたします」
古い門の鍵を開けると、重い手応えが指に返ってきた。
車で管理棟の前まで入り、そこからは歩いた。八月に入ったばかりの日差しが、広場の地面を白く照らしていた。木立からは、蝉の声が絶えず聞こえてくる。
以前、不動産会社の案内で来た時とは違う。今日は、次に誰へ返すでもない鍵がポケットに入っている。
広場を抜け、古い研修棟の横を通る。少し先へ行くと、木立が開けて空が広く見える場所があった。
「ここ、いいな」
「朝食の場所でしょうか」
「うん。ここを見ながら食べられたらいいな」
詩乃が俺の左手を取る。外では、人目があると詩乃の方からこうしてくることはまだ多くない。今日は周囲に誰もいなかった。指を絡めるように握り返す。
「家を建てるなら、あの辺かな。朝、こっちが見えるようにして」
「でしたら、窓は南東側です。以前の案より少し高い位置にした方が、木立を残したまま視界を確保できます」
「風呂も広くできる?」
「土地の広さとは、あまり関係ありません」
「夢の話してるんだから合わせてよ」
「もちろん、広くできます」
「よし」
詩乃が笑う。しばらく歩いてから、詩乃が立ち止まった。
「マスター。一枚、写真を撮ってもよろしいでしょうか」
「土地の?」
「私たちの、です」
少し意外だった。詩乃は記録自体なら、俺よりずっと正確に残せる。それでも、普通の写真として残したいと言う。
「撮ろう」
古い管理棟と山を背景に、端末を少し離れた場所へ置く。タイマーが動き始めると、詩乃が俺の隣へ戻った。
せっかくなので肩を抱く。詩乃も自然に腰へ腕を回し、俺の肩へ少し頭を寄せた。
シャッター音が鳴る。確認すると、思ったより普通の写真だった。四十五歳の俺と、どう見ても俺にはもったいないくらい綺麗な詩乃。後ろには古い建物と、まだ何も始まっていない広い土地。
「もう一枚、撮ってもよろしいでしょうか」
「いいけど。何か変だった?」
「いいえ。もう少し、私たちらしいものも残したいです」
意味を聞く前に、もう一度タイマーが動く。
詩乃がこちらを向いたので、俺も少し身を屈めて顔を近づけた。次の瞬間、頬に柔らかな感触が触れる。
「え」
シャッター音が鳴った。
詩乃は何事もなかったように端末を取りに行き、戻ってきた画面には、驚いている俺の頬へ詩乃がキスしている写真が残っていた。
「詩乃、これ狙った?」
「はい」
「最近そういうことするようになったよな。……嬉しいけど、不意打ちは照れる」
画面から顔を上げると、詩乃も嬉しそうに笑っていた。
「これ、会社の最初の写真にしようか」
「公開用でしょうか」
「それは一枚目。こっちは俺たちだけの」
「はい。それがよいです」
連星技研という名前がつき、会社ができた。そして、ずっと画面の中で線を引いていただけの場所に、俺たちは今、手をつないで立っている。
建物も研究所も、家も秘密基地も、まだこれからだ。それでも今日は、それで十分だった。
ここから先は、二人で作ればいい。
【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】
本作品は「カクヨム」でも連載しています。
「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。
また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。
第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。
ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。




