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第20話「昇進より二人の秘密基地が欲しくなった」

月曜日の朝。七月も半ばに入り、朝から冷房をつける日が続いている。


食後のテーブルには、人事から渡された資料と、俺たちの事業の予定表が並んでいた。


執行役員。給与と権限は今より上がり、社外事業も続けていい。将来法人化したら、東都環境システムとの共同開発や少数出資、金融機関の紹介まで検討する。


引き留めとしては、かなり本気だと思う。その横にあるのは、熱拡散材の適用開発契約、高精度製造用の母機、法人化の準備項目。それから、まだ買えるかどうかも分からない郊外の土地の資料だった。


「条件だけ見れば、会社に残る方が安全だよな」


俺が言うと、詩乃《しの》は資料を見ながら頷いた。収入も組織基盤もあり、社外事業にもかなり柔軟な条件が出ている。ただ、役員になれば会社側の責任も増え、自分たちの事業と時間も判断も分け続けることになる。


今の会社が嫌だから辞めたいわけじゃない。少し前までならともかく、会社は俺の技術を奪おうとする結論を出さなかった。南第二の記録も直した。残る人のための運用まで変えてくれた。


むしろ、辞めるなら今の方が気持ちはいい。


「詩乃は、どっちがいい?」


「マスターが望まれる方です」


「それはこの前も聞いたけど、詩乃自身はどうしたい?」


詩乃が少し考えてから答える。


「私は、マスターと一緒にいられる時間が増える方が嬉しいです。それに、私たちの設備や会社を、二人で一から作っていくことにも魅力を感じています」


そこで一度俺の顔を見てから、言葉を続けた。


「ですが、マスターが今のお仕事を続けたいと望まれるのであれば、その選択も私の望みになります」


「相変わらず俺が中心なんだな」


「はい、マスター」


迷いのない返事だった。昔なら、それを聞いて心配の方が先に来たかもしれない。今は少し違う。詩乃は俺を優先するだけじゃなく、自分が何をしたいかも少しずつ言うようになった。


俺も、同じように考えればいい。何が一番立派かじゃない。俺が何をしたいかだ。


「俺はさ」


「はい」


「会社で役員になるより、詩乃と自分たちの会社を作りたい。今より大きな工房も欲しいし、あの土地もちゃんと調べたい。仕事が終わる時間を会社の予定だけで決めるんじゃなくて、自分たちで決めたい」


言葉にすると、思っていた以上にはっきりしていた。


「役員の話をもらえたのは嬉しい。でも、あれを受けたら後悔する気がする」


テーブルの下で、詩乃の手が俺の手へ触れた。


「では、もう決まっていらっしゃるのですね」


「たぶんな」


俺は人事資料を閉じた。


「残るのを断るために条件を確認する、っていうのも変だけど。会社がここまで考えてくれたんだから、返事はちゃんとするよ」


「はい。それがよいと思います」


詩乃が、触れていた手を今度はしっかり握り返した。


「マスター」


「ん?」


「その選択を、私は嬉しく思います」


「俺と会社を作れるから?」


「はい。それもあります。それから、マスターがご自身で望まれる方を選ばれたことが嬉しいです」


そう言って、詩乃が俺の肩へ頭を預ける。朝食後の食卓でされるには少し甘すぎる気もしたが、離れてほしいとは思わなかった。


「じゃあ、今日ちゃんと断ってくるよ」


「はい。帰ってきたら、たくさん労わせてください」


「それ、会社行く前に聞かせる?」


「励みになるかと思いまして」


「……かなりなる」


詩乃の髪へ軽く口づけてから、ようやく人事資料を鞄へ入れた。


◇


その日の午後、俺は社長室で執行役員の話を断った。社長と人事部長は、驚いたというより残念そうだった。


「条件に不満があるなら、まだ調整できる」


「いえ。条件への不満ではありません。むしろ、ここまで考えていただいたことには感謝しています」


俺は一度、言葉を選んだ。


「だからこそ曖昧に残るより、今は自分の事業を本業としてやってみたいと思っています」


社長が腕を組む。


「会社との提携も断るということか」


「それは別だと思っています。独立した後、双方にメリットがある仕事があれば、普通の取引先として改めて検討していただけると嬉しいです。出資についても、会社に残る条件としてではなく、必要になった時に事業として判断していただきたいです」


社長は少し黙ってから息を吐いた。


「そこまで考えているなら、役員の話だけ引っ込めても仕方ないな」


「申し訳ありません」


「謝ることではない。ただ、今日辞めますは困る」


「そのつもりはありません」


そこは先に考えてきた。東湾の残件はすでに楠《くすのき》たちへ戻し始め、最近は案件ごとに責任者を立てて、俺の返事待ちで止まらない形へ変えている。ゼロから引き継ぐわけではない。


「約一か月半を引継ぎ期間としていただきたいです。東湾の残りと、今持っている案件の責任者移管、楠たちへの引継ぎまで終わらせます。最終日は、人事と調整して月末に合わせたいです」


人事部長が手元の予定表を確認する。


「有給の残りもあります。全部を最後にまとめるより、引継ぎ状況を見ながら消化した方がいいでしょう」


「分かりました」


社長が俺を見る。


「神堂《しんどう》君。退職後も、会社とはできるだけいい関係でいてもらいたい。独立したから終わりではなく、また一緒に仕事ができるなら、こちらとしても歓迎する」


「ありがとうございます。私も、そういう関係でいられたらと思っています」


本心だった。会社には嫌なこともあったが、二十年以上働いた場所だ。教えてもらったことも、人も、仕事もある。それを全部否定しないと独立できないわけじゃない。


「では、正式な退職届と引継ぎ計画を人事へ出してくれ。一か月半で足りないなら相談する。逆に、早く終わっても勝手に消えるなよ」


「承知しました」


最後の一言には、少し笑ってしまった。


◇


部署へ戻る前に、楠だけを小会議室へ呼んだ。


「何ですか。部長だけ社長室に呼ばれたと思ったら、今度は私ですか」


「先に言っておこうと思って」


椅子へ座った楠の表情が少し固くなる。


「……辞めるんですか」


思ったより早く見抜かれた。


「一か月半後を予定してる」


「やっぱり消えるじゃないですか」


「途中では消えないって言っただろ。だから一か月半は残る」


楠はしばらく俺を見たあと、椅子の背へ身体を預けた。


「何となく分かってました。最近、部長が仕事を渡す量が増えてたので」


「押しつけすぎた?」


「今さら聞きます?」


「聞くだけ聞こうかと」


「仕事は増えました。でも、前より決めやすくなりました。誰に聞けばいいか分かるし、部長の返事待ちで止まることも減ったので」


それなら少し安心した。


「東湾は最後まで見る。ただし、俺が抜けても回る形で終わらせる。今持ってる案件も、一つずつ担当を決める」


「私が全部もらうんですか?」


「全部を任せるつもりはないよ。それだと俺と同じことになる」


「それならいいです」


少し間があって、楠が視線を落とす。


「寂しくはありますけど」


言い切っても、楠はすぐには顔を上げなかった。


思っていなかった言葉で、返事が一瞬遅れた。


「……ありがとう」


やがて楠が顔を上げ、いつもの調子に戻すように口元を緩めた。


「でも、送別会で泣いたりはしませんから」


「まだ一か月半あるよ」


「結構長いですね」


「急に冷たくないか?」


楠が笑う。俺もつられて笑った。


◇


会社へ退職の意思を伝えたことで、逆に外の準備を急がないといけなくなった。水曜の夜、工房から倉橋《くらはし》さんとオンラインで話す。


『会社側の整理が終わったなら、法人化は進めた方がいいと思います』


倉橋さんが言った。


『量産契約へ進む時に個人名義のままでは、設備契約、雇用、融資、責任分担の全部がやりにくくなります』


「はい。なので、株式会社で考えています」


『いいですね。今後、企業との取引や出資を受ける可能性まで考えるなら、それが分かりやすいでしょう』


在職中に登記へ進むことになるので、会社の総務にも法人化予定は改めて出しておく。退職日までは、これまで確認してきた競業・情報管理の線を崩さない。そこを前提に、すでに紹介してもらっていた司法書士と税理士へ必要書類と進め方を確認した。


本店所在地は、久賀《くが》さんと貸主側へ確認を取り、当面は今の工房を使える。土地を買えば後で移せばいい。


事業目的は、材料開発、技術開発、研究受託。将来やるかもしれないことを何十個も並べるつもりはない。


資本金も、見栄のために大きくしない。設備購入と研究資金を別に確保したうえで、取引に必要な範囲を税理士と詰める。


一つだけ、まだ空欄が残った。


『会社名、ですね』


倉橋さんが少し笑った。


『そこだけは私が決めるものではないので、お二人でどうぞ』


「一番難しいかもしれません」


横の詩乃が言う。


「候補は増えています」


「前にも言ってたな。そろそろ見せてよ」


「まだです」


「何でそこだけ秘密なんだよ」


倉橋さんが画面の向こうで笑っている。


『決まったら教えてください。登記の書類は名前以外から先に準備できます』


会社名は決まらなかった。でも、会社を作ること自体はもう「いつか」の話ではなくなった。


◇


土曜の夜、自宅のソファで、俺と詩乃はあの土地の資料をもう一度開いた。


前に外から見ただけの、元企業研修施設。土地の正確な境界、建物状態、電力、上下水道、地盤。買うなら確認しなければならないことは山ほどある。


「購入できるかは、まだ分からないんだよな」


「はい。現在の手元資金だけで無理なく購入する前提にはできません」


「契約の残りも、未来の売上も、入る前から当てにはしない」


「はい」


ただ、道がないわけでもない。法人を作り、今の適用開発契約と第三者評価の実績を示す。自己資金を入れ、土地と事業計画を見せた上で金融機関へ相談する。倉橋さんにも、法人化後なら融資先の候補は探せると言われている。


まだ融資を受けられると決まったわけじゃないが、「どうやったら買えるか」は前より見えるようになった。


俺がタブレットへ簡単な線を引く。


「道路側は、会社の入口がいいな。客が来ても変じゃない建物と、熱拡散材の試験室。搬入もこっちから」


「生活区画とは分けますか?」


「分けたい。取引先が来るたび家の前を通るのは嫌だろ」


「はい。私も分けたいです」


詩乃が画面へ手を伸ばし、奥側へ別の枠を置く。


「お住まいは、この辺りがよいと思います。道路から距離があり、既存の木立も残せます」


前に二人で話した家の希望は、そのまま住居区画へ落とし込んでいく。大きな窓のそばの食卓、風呂、本棚とPC部屋、二人で立てるキッチン、衣装室。それから寝室は、詩乃が迷わず一室だけ置いた。


「そこは変わらないんだな」


「はい、マスター」


その返事が妙に嬉しくて、俺は笑った。


詩乃はソファの横へ置いていた資料を取ろうとして、少し身体を伸ばす。俺は腰へ手を回した。


「マスター?」


「こっちの方が見やすいだろ」


そう言って引き寄せると、詩乃は俺の膝へ横向きに腰を下ろした。太腿へ柔らかな重みが乗る。背中が胸元へ触れ、腰へ回した腕の内側に体温が伝わった。


詩乃が楽に座れるよう腕を添えると、安心したように身体を預けてきた。俺もタブレットを二人の正面へ持ち直す。


「で、秘密基地は?」


詩乃の指が、住居よりさらに奥を指す。


「公開する研究区画とは別にした方がよいと思います。高精度製造設備、演算設備、私自身に関わる研究は、外部の方が立ち入る場所から物理的に分離します」


「やっぱり地下?」


「地下は有力です。ただし、いきなり巨大な空間を作るのではなく、地盤、排熱、電力、避難経路、搬入方法を確認してから第一期を決めます」


「そこは現実的だな」


「秘密基地ですので、安全性は重要です」


「詩乃、その言い方気に入ってるだろ」


「はい」


俺はタブレットに、地上の三つの区画を書いた。仕事、生活、非公開研究。三つに分け、その下へ小さく「地下」と書く。今は線だけだ。


土地だってまだ俺たちのものじゃない。それでも、会社で渡された昇進資料を見ていた時より、ずっと楽しかった。


「家より研究区画を先に作ることになるかな」


「高精度製造環境は、私の保守にも必要ですので、稼働順としては先行させたいです」


「分かってるよ。でも、風呂も後回しにしすぎないでほしいな」


「優先度を上げておきます」


「そこは真面目に計算するんだ」


詩乃が俺の腕の中で笑いながら、画面上の住居部分を指で拡大し、浴室の枠を少し大きくした。


「これでいかがでしょうか」


「いいね」


「では、こちらも」


続けて、衣装室も少し広がる。


「それ便乗してない?」


「私の希望です」


「なら採用」


詩乃が振り返ったので、近づいた頬へまず口づける。すると詩乃は少しだけ身体をひねり、今度は正面から俺を見た。


「そこだけですか?」


「何が?」


「採用のお祝いです」


言いながら首へ腕を回される。


「自分で増やしに来るんだ」


「はい。マスターが許してくださると思いましたので」


「正解」


今度は唇へ触れた。短く終えるつもりだったのに、詩乃の腕が離れず、そのままもう一度重ねる。膝の上の重みも、腰へ回した腕の中の柔らかさも心地よかった。


離れると、詩乃は俺の肩へ頬を寄せたまま、画面へ視線を戻す。


「このまま続けてもよろしいでしょうか」


「秘密基地の設計を?」


「それもです」


思わず笑う。腰へ回した腕を少しだけ強めた。


「昇進断った週に何してるんだろうな、俺」


「二人の将来を設計しています」


「こっちの方が、今は面白いな」


「私もです」


俺はタブレットをもう一度見る。買えるかどうかも分からなかった土地は、今では調べる項目と資金の作り方まで見え始めている。


「次は、不動産屋に正式な資料をもらおう。境界も建物も電気も、全部見てからだ」


「はい、マスター」


詩乃が楽しそうに笑う。まだ何も完成していない。それでも、昇進したあとの役職や権限を考えていた時より、詩乃と秘密基地の続きを考えている今の方が、俺にはずっと楽しかった。


【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】


本作品は「カクヨム」でも連載しています。

「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。


また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。


第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。


ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。

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