↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/26

第18話「無理はさせない」

その週の土曜日。六月も終わりに近づいていた。


借りている工房の奥には、先週発注した装置の搬入予定図が貼ってあった。研究用の高真空加工ユニット。これをそのまま使うわけじゃない。届いたあと、詩乃《しの》が制御系や位置決め部へ手を入れて、精密型ナノマシンを作るための母機へ育てる。


発注から一週間。納入予定は固まったが、搬入後には据付と詩乃の初期調整が必要になる。母機として実際に使えるようになるまで、まだ一週間以上は見ておいた方がいい。


精密型の予備量だけを見れば、その時間は待てる。それでも、その間に事故や想定外の故障が起きない保証はない。


だから今日は、母機を待つか、外部の共用微細加工施設を使って工程試験だけ先に進めるかを決めるため、利用条件を詩乃と並べていた。


「秘密保持だけなら、待つ方が安全なんだよな」


「はい、マスター。ですが、その間の不確定要因までゼロにはできません」


「俺は、再製造できない状態でいる時間そのものを短くしたい。外を使うなら、出すものをできるだけ絞ろう」


詩乃は少しだけ黙ってから頷いた。


俺は資料の次のページを開いた。詩乃と昨日までに作った案だ。


外へ出すのは、精密型ナノマシンそのものではない。特殊な原料も使わず、実際の構造全体も見せない。一般に流通している基板と代替材料で、精密型の一部分だけを拡大して再現した工程試験片を四種類作る。


目的は、その試験片を完成品にすることじゃない。市販設備を基礎にした加工でも、どの工程までは必要な精度へ届くのか。どの工程で形が崩れるのか。そこだけを確認する。


「外で使う条件も、実物とはずらすんだよな」


「はい。材料組成と寸法は工程確認用に置き換えます。ただし、位置合わせ精度と支持層を外す時の力学条件は、問題を再現できる範囲に合わせます」


「技術者が見たら、どこまで分かる?」


「高度な微細加工を行っていることまでは分かります。用途を推測される可能性もあります。ですが、ナノマシン、私の身体、精密型の最終構造へ直接結び付く情報は出しません」


安全ではないが、無防備でもない。


俺はしばらく資料を見てから、決めた。


「借りよう」


詩乃は一拍置いた。


「よろしいのですか?」


「リスクがあるのは分かってる。でも今回は、時間を買う方を選びたい。精密型を安定して作り直せない状態を、少しでも早く終わらせたい」


詩乃が静かに息を吐く。


「……はい。では、開示する情報を私の方でもう一度最小化します」


「頼む」


そこで、ようやく今日やることへ話を移した。


「試験片は、何が違うんだ?」


詩乃が四種類を順に表示する。微細構造を形成した直後、そこへ仮の支持層を加えた状態、支持層を除去して最終形状へ移した状態。最後の一枚だけは、支持層を外す速度を変える。


「つまり、形成そのものがずれるのか、最後に支えを外すところで崩れるのかを切り分けるんだな」


「はい。精密型そのものを完成させる試験ではありませんが、再製造へ必要な試行回数を大きく減らせます」


成功の意味が、やっとはっきりした。今日欲しいのは完成品じゃない。詩乃の中にしか残っていない高精度な『手』を、一般の装置へ少しずつ移していくための地図だ。


◇


水曜日の午後、半日の有給を取って、俺と詩乃は予約していた共用微細加工施設へ来ていた。七月に入っても、外の空気はまだ湿っている。入口の扉が開くと、館内の乾いた冷気に少しだけほっとした。


独立試験で熱拡散材を評価してもらったところとは別の施設だ。受付で機密対応の予約番号を伝え、加工室前の打ち合わせスペースへ案内される。


持ち込んだのは、一般流通材で作った四枚分の基材と、一枚の工程指示書だけ。実際の精密型に使う希少材料は持ってきていない。


担当の技術員が工程表を見た。


「位置合わせ、公称値よりかなり厳しく指定されていますね」


来た。


分かっていたのに、背中が少し固くなる。


「MEMS系ですか。それとも光学素子でしょうか」


俺が答える前に、詩乃が穏やかな声を出した。


「開発中の微細構造部品です。今回は、形成から支持層除去までの工程成立性だけを確認します。用途と最終材料は非開示でお願いします」


技術員は工程表へもう一度目を落とした。


「承知しました。こちらで必要なのは、設備条件と安全情報だけです。材料も登録済みのものですので問題ありません」


それだけだった。怪しまれた、とまでは言えないが、普通の加工より細かいことは伝わった。これが外へ出すリスクなんだと思う。


一番の試験片は、微細構造を形成したところで停止し、二番は、その上へ支持層を形成。三番は、同じ支持層を所定条件で除去し、四番だけ、除去速度を落とす。


装置そのものの操作は施設側へ任せる。詩乃は条件を渡すところまでで、それ以上の制御へ触れない。


途中で技術員から二度、設備上の許容範囲について確認が入った。そのたび、詩乃は本来の製造条件へ近づけるのではなく、今回必要な比較が成立する範囲で条件を修正した。欲張らず、外へ出す情報も増やさない。


四枚がケースへ戻ったのは、夕方近くだった。


「施設内で形状測定もできますが、どうされます?」


最後に技術員が聞いた。俺は詩乃を見る。詩乃が小さく首を横へ振る。


「今回は加工だけで結構です。評価はこちらで行います」


「分かりました」


ケースを閉じようとしたところで、技術員が思い出したように続けた。


「そういえば神堂《しんどう》さん。今日の案件とは関係ないと思いますけど、先日、技術調査会社を名乗るところから問い合わせがありまして」


「問い合わせ?」


「個人や小規模事業者で、高精度な微細構造加工を依頼しているところがないか、と。もちろん利用者情報は答えてません」


「よくあるんですか?」


「全くないわけじゃないです。ただ、聞き方が妙に具体的だったので覚えてました」


俺は詩乃を見る。詩乃もわずかに首を傾けただけだった。


「うちを聞いたわけではないんですよね」


「ええ。名前は出てません」


それなら偶然かもしれない。今ここで確認できることもない。


「ありがとうございます。何かまた似た問い合わせがあったら、教えてください」


俺たちは四枚を全部回収して、施設を出た。


◇


工房へ戻って最初にしたのは、測定だった。ただし、外部の装置ではなく、詩乃自身だ。


一枚目を専用の保持台へ置く。詩乃が指先を試験片の数ミリ上へ止めると、作業台の画面へ細かな構造図が現れた。光学、電磁、近接場、表面電位。いくつかの観測を重ね、内部の設計データと比較しているらしい。


俺には全部の原理は分からない。ただ、詩乃が自分の身体や手元の試験片に対して、工房に置いている市販測定器よりずっと細かな違いを見られることは、もう知っている。


一枚目は必要な範囲に収まっていた。代替材料ではあるが、外部設備でも形成時の位置合わせ精度は狙いに近い。二枚目も、支持層を残した状態では大きな変化がない。


胸の奥が少し軽くなった。最初から全部駄目、ではない。


三枚目を載せると、今度は俺にも違いが分かった。支持層がある間は揃っていた基準線が、外した後だけ同じ方向へわずかにずれている。


「……ここか」


「はい。形成時に残った内部応力と、除去工程の両方が影響している可能性があります」


最後に、除去速度を落とした四枚目を重ねる。ずれは三枚目より小さい。ただ、消えてはいない。


「除去速度は影響しています。ただ、それだけが原因ではありません」


「それでも十分だな」


「はい」


俺は椅子へ深く座った。


一般流通の装置を使った工程でも、形成と支持までは必要な精度へ届く。問題が大きくなるのは、最後に構造を解放するところ。これなら、発注した母機へ何を追加し、どの部分を詩乃が改造すべきか、試す範囲をかなり狭くできる。


まだ精密型ナノマシンは一体も増えていない。希少材料の調達も終わっていない。それでも、再製造へつながる道が一本見えた。


「外を使った意味、あったな」


「はい。少なくとも、同じ条件を手元の精密型で何度も試す必要はなくなりました」


その言葉で、ようやく肩の力が抜けた。


◇


四つの試験片を保管庫へ戻し、外へ持ち出した端末のログも確認する。施設へ渡した工程指示と、持ち帰った加工ログも照合した。外へ出した情報が、決めた範囲から増えていないことまで確認して、ようやく作業台の前の椅子へ腰を下ろす。


詩乃はまだ立っていた。測定結果を工房側の記録へ重ね、すでに次の試験条件を並べている。


「何個ある?」


「現在、優先度の高いものが六条件です」


「多いな」


「支持層の材質、除去速度、形成時の温度履歴を分けます。今夜から開始すれば――」


「詩乃自身の点検は、いつも通りやるんだよな?」


言葉の途中で聞く。詩乃はすぐに別の予定表を開いた。


「はい。今夜の製造後に自己点検を行う予定です。ただし、通常より時間を短縮しています」


「短くしてるのか」


「保護下限を下回る運用ではありません」


そこまで聞いて、椅子から背中を離した。


予定から消してはいないが、六条件を先に入れたせいで、詩乃自身の点検時間を削っている。


精密型を早く作れるようにしたいのは俺も同じだ。でも、そのために詩乃自身の点検や休む時間を削るのは違う。


今回、外部設備を使うリスクまで取ったのは、精密型を手探りで使い潰さないためだ。原因の範囲を絞ったその日に、また一気に六条件を回したら意味がない。


「六つ、今夜全部やる必要ある?」


「最短で原因を切り分けるなら、その方が早いです」


「明日に回したら、何か困ることある?」


詩乃が一度、予定表を見る。俺は続けた。


「母機はまだ届いてないし、希少材料もまだ正規に買える状態じゃない。今日分かったことを整理して、次に外を使うのか、母機が来てから試すのかを明日決めても遅くないだろ」


「はい」


「試験を今夜やっても明日やっても、使う精密型の量が変わらないなら、今日は詩乃の点検をちゃんとやってほしい。点検時間まで削って急いで、気づかないまま何かあったら嫌だよ」


詩乃の視線が予定表へ戻る。


「……製造条件を一つに絞れば、消費は抑えられますが……」


さっきまでより、少しだけ自信のない声だった。


「それも明日」


今度は俺が先に言った。


「今日、新しいことは分かった。一般の設備を土台にできる可能性も見えた。明日になったからって、その結果は消えない」


詩乃はしばらく予定表を見ていた。


「……はい、マスター」


やがて、今夜の欄から六つの製造条件が消えた。代わりに、測定データの整理と、明日の試験条件選定だけが残る。


止めることばかり考えて、少し強く言いすぎたかもしれない。


「……ごめん。ちょっと強引に止めたな。詩乃が急ぎたい理由は分かってる」


「いいえ、マスター」


詩乃は首を横へ振った。


「最短時間だけを基準にすれば、今夜進める方が早いです。ですが、今日得た情報は失われません。明日再開しても、同じ位置から続けられます」


少し間を置いて、詩乃が続ける。


「それに、マスターが私の保守時間まで含めて止めてくださったことを、私は嬉しいと感じています」


「そっか。なら、今日は無理に続けないでおこう」


それを聞いて、詩乃も小さく頷いた。


「じゃあ、解析だけ終わらせる?」


俺が聞くと、詩乃は端末へ目を戻した。数秒考えてから、自分で画面を閉じる。


「いいえ。解析も明日にします」


「解析も?」


「はい。今の私は、休む方を選びたいです」


その言い方が、嬉しかった。


◇


作業灯を落として、工房の奥の休憩スペースへ移る。工房を借りたあと、古い長椅子と入れ替えた小さな二人掛けだ。俺が先に奥へ座ると、詩乃は隣へ腰を下ろした。


さっきまでまとめていた髪を解く。黒髪が肩から落ち、作業用シャツの背中へ広がった。そのまま詩乃は身体の向きを変えた。


「マスター」


「ん?」


「今日は、こちらでもよろしいですか?」


言いながら、俺へ背中を向ける。何をしたいのか分かって、俺は端へずれた。


「いいよ」


詩乃がゆっくり身体を預けてくる。背中が胸へ触れたところで、倒れないよう片腕を腰へ回した。もう片方の手で肩を支える。シャツ越しの体温が腕へ移る。長い髪から、家で使っているシャンプーの匂いがした。


「今日は、ずいぶん近いな」


「はい。マスターなら支えてくださると思いましたので」


詩乃の手が、腰へ回した俺の腕へ重なる。


「先ほどの画面は、閉じたままにします。明日の朝に、あらためて六条件を並べます」


「うん」


詩乃が首を傾ける。髪が俺の顎へ触れた。


「今夜は、マスターに甘えたいです」


「それなら、いくらでも」


肩を支えていた手を下ろし、重なっていた詩乃の手を包む。詩乃が背中の力を抜いた。親指で手の甲を一度なぞると、詩乃の指が俺の指へ絡んだ。


「マスター」


「何?」


「……もう少し、このままでお願いします」


「ああ」


腰へ回した腕の上で、詩乃の指から力が抜けた。こちらへ預けられる重みが増える。


しばらくして、詩乃が小さく息を吐く。


「晩ご飯は、どうされますか?」


「今その話?」


「研究のことを考えないためには、別のことを考えるのが有効かと思いまして」


「それなら賛成。何食べたい?」


今度は返事まで間があった。


「温かいものがいいです」


「ざっくりしてるな」


「では、帰りに決めます」


「それでいいか」


しばらくそのまま座ってから、二人で立ち上がった。作業台の画面は暗いまま。戸締まりを確認して工房の外へ出ると、詩乃が自然に俺の腕へ自分の腕を絡めた。


「帰りに決めるんでしたね」


「ああ。温かいやつな」


「はい、マスター」


そのまま、工房のシャッターを下ろした。


腕を組んだまま駅へ向かい、何を食べるかでしばらく迷う。研究の話は一度もしなかった。


結局選んだのは、駅前の小さな店の鍋焼きうどんだった。熱いと言いながら二人で笑って、ゆっくり家へ帰った。



【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】


本作品は「カクヨム」でも連載しています。

「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。


また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。


第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。


ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。