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第17話「この成果は会社のものではありません」

月曜の夜、工房のシャッターを閉めてから、俺は作業台の上に契約書案を広げた。梅雨らしい細かな雨の音が、閉めたシャッターの向こうから聞こえていた。右に詩乃《しの》、向かいには倉橋《くらはし》さん。外部弁護士は大型モニターの向こうだ。


金曜に基本条件まで合意した適用開発契約の、最初の条文案が昼に届いた。


総額は最大四千八百万円。一千二百万円、一千二百万円、二千四百万円の三段階だ。数字そのものより、その金額と引き換えに何を約束するかの方が重要だった。


契約書案は、金曜に合意した線をそのまま維持していた。材料の基礎技術と製造ノウハウは俺たちの側に残し、二製品群向けの適用設計だけを必要な範囲で相手が使える。量産供給は採用判断後の別契約だ。


弁護士と倉橋さんが条文を確認し、俺も問題ないと答えた。ここまでは予定どおりだった。


弁護士が次の資料へ切り替える。


『神堂《しんどう》さん。契約そのものとは別ですが、勤務先との関係だけ、もう一度確認した方がいいです』


「副業の届けは出しています。PoCへ進む時にも再確認しました」


『はい。いただいた資料も見ています』


そこで弁護士が少し言葉を選んだ。


『ただ、勤務時間外に私費で作った、という事実だけで、技術の帰属が自動的に決まるわけではありません』


俺は黙って続きを待った。


『勤務先の業務範囲と、神堂さんの現在や過去の職務、それから今回の技術を作るに至った行為。この辺りがどこまで重なるかは見られます』


東都環境システムは、倉庫や工場の空調・冷却設備を扱う会社だ。俺自身は材料研究者じゃない。業務統括として、営業、設計、現場の間をつなぎ、設備条件を決める側だ。それでも、「熱をどう扱うか」という言葉だけなら完全に無関係とは言い切れない。


「だから、会社へもう一度出すんですね」


『そうです。今回の契約内容を全部見せる必要はありません。まずは、外部活動が有償の適用開発まで進むことと、技術の概要、会社の資産や情報を使っていないことを正式に伝える。帰属について確認が必要なら、その窓口でやりましょう』


倉橋さんも頷いた。


「事業側としても、先に整理しておいた方がいいです。後から量産の話が大きくなってから揉めるより、今の方がずっと軽いです」


「分かりました」


俺は手元のフォルダを開いた。会社側と混ざらないよう、これまで分けて残してきた契約・支払い・購入・製造・外部試験の記録と、副業届の履歴がそろっている。


詩乃が勤務日と休日を照合できる一覧も用意すると言い、会社へはまず索引だけを出すことにした。弁護士もそれでいいと言った。確認に必要のない資料まで、一緒に渡す必要はない。


今夜やることが一つ増えたが、不安が増えたというより、手順が見えた感じの方が近かった。


◇


翌日の昼休み、総務へ追加の連絡を入れた。前回は、第三者評価と有償PoCまで。今回は、その先の適用開発契約が具体化したことを伝える。


相手先の機密に触れる契約書そのものは添付しない。代わりに、業務内容、予定期間、契約上限額、勤務先の顧客ではないこと、会社設備・勤務時間・非公開情報を使っていないことをまとめた。


木曜に返ってきた回答は、思ったより淡々としていた。今回の適用開発契約については、これまで届け出た外部活動の延長として取り扱う。ただし、継続的な製造販売、法人化、勤務先事業との競合が拡大する場合は再協議。そして、技術の帰属については必要に応じて法務・知財部門で確認することがある。


禁止でも、全面承認でもない。今の段階なら、それで十分だった。


金曜の夕方、外部弁護士から最後の修正版が届いた。俺は工房で、詩乃と倉橋さんと三人で最終版を確認した。


「真人様。前回確認した製造条件の非開示も維持されています」


「うん」


「支払い条件も変更ありません」


倉橋さんが言う。


「神堂さん、最後にもう一度だけ。署名したら、次は実際に開発を進める契約です。評価を通せなければ最後の二千四百万円は入りません」


「分かってますよ」


「なら大丈夫です」


俺は電子署名の画面へ名前を入れた。


四千八百万円。一億円より小さいが、今の俺にはこっちの数字の方が重かった。


権利を手放す対価じゃない。これから仕事を進めるための開発費だ。


「送ります」


クリックする。数秒後、先方側の署名完了通知が表示された。


「……決まったな」


「はい、真人様」


倉橋さんが小さく頷く。


「おめでとうございます。ここからが本番です」


「分かってますよ」


「先に言っておかないと、神堂さんは入金を見て設備を買い始めそうなので」


「適用開発に必要な追加設備の見積もりは、もう取ってます」


倉橋さんが額へ指を当てた。


「やっぱり」


詩乃の口元も少し緩んでいる。


「真人様。先方の追加評価条件が確定してから、必要な設備構成を最終決定する予定です」


「分かってるよ。今日決めるって言ったわけじゃないから」


「はい」


倉橋さんが笑った。


「二人とも、そこはちゃんと相談してくださいね」


契約確認が終わり、倉橋さんを見送ってから、俺たちも工房を出た。


夕方から続いていた雨は、まだ細かく降っている。駅までの道は濡れた街灯を映して、いつもより少し暗く見えた。


俺が鞄から折り畳み傘を出そうとすると、詩乃が工房の傘立てを指した。


「マスター。こちらをお使いください」


見ると、二人で入れそうな大きめの傘が一本増えている。


「これ、詩乃が用意したの?」


「はい。二人で使用できる大きさのものを用意しました」


「じゃあ、使わせてもらうか」


俺が傘を開くと、詩乃がすぐ隣へ入った。並んで歩き出す。雨音が傘の上で細かく続く。肩が触れるくらいの距離になる。俺は無意識に、傘を少し詩乃の方へ傾けていたらしい。


「マスター。左肩が濡れています」


「詩乃が濡れるよりいいだろ」


「よくありません」


詩乃が俺の腕へそっと手を添えた。


「もう少し、こちらへ」


言われるまま傘を中央へ戻す。その拍子に、肩がもう一度ぶつかった。詩乃がこちらを見る。


「これで半分ずつだな」


「……はい、マスター」


少しだけ嬉しそうに笑った。


駅までの短い道だった。仕事の話をしようと思えば、いくらでもできた。契約も、次の設備も、会社への届け出もある。それでもその時は、どちらからともなく話さなかった。ただ同じ傘の下で、雨の匂いと互いの体温を感じながら歩いた。


梅雨はあまり好きじゃないが、こういう帰り道なら悪くないと思った。


◇


翌週の水曜、午後四時過ぎに会社の自席へ戻ると、内線が鳴った。


『神堂君、少しいいか』


聞き慣れた声だった。


芦屋《あしや》常務。


その呼び出し方にも、嫌な予感を覚えるようになっていた。


◇


常務室へ入ると、机の上に薄い紙の束が置かれていた。一番上に、俺が総務へ出した外部活動の追加申告書がある。


「座ってくれ」


「失礼します」


芦屋常務は書類へ指を置いた。


「ずいぶん大きな仕事になっているようだね」


「適用開発の契約が成立しました」


「四千八百万?」


「上限額です。全部が確定で入るわけではありません」


「それでも、個人の副業という規模ではないだろう」


そこは否定しなかった。


「継続供給へ進む前には法人化も含めて再協議するよう、総務から回答をもらっています」


「そういう手続きの話だけじゃない」


芦屋常務が背もたれへ身体を預ける。


「熱を扱う材料なんだろう?」


来た。


「電源機器向けの受動型熱拡散材です」


「うちは冷却設備を扱っている。君自身、長年この会社で温度管理や設備条件を見てきた」


「はい」


「なら、その経験が技術へ入っていないとは言い切れないんじゃないか」


理屈としては分かる。だから、ここで感情だけで否定するつもりはなかった。


「技術の帰属について確認が必要なら、総務から法務・知財の正式な窓口へ回してもらいます。開発履歴と資金、設備の記録は提出できます」


「私に見せてもらってもいいだろう」


「どの資料でしょうか」


「製造条件だよ。会社の業務と重なるか見れば分かる」


そこは違う。


「製造条件そのものは、外部活動側の営業秘密です。必要性があるなら、法務同士で範囲を決めて確認してください」


芦屋常務の眉が動いた。


「神堂君。会社を疑っているのかね」


「疑うという話ではありません。会社の非公開情報を私が外へ持ち出さないのと同じです。外部活動側の非公開情報も、必要な手続きなしには出せません」


少し沈黙が落ちた。芦屋常務が書類を指で揃える。


「会社でやるという選択肢は考えないのか」


「会社で?」


「東都の事業に組み込めばいい。設備も営業網もある。君個人で抱えるより、ずっと大きくできる」


悪い提案だとは思わない。俺が何も持っていなければ、魅力的に聞こえたかもしれない。でも、欲しいのは事業規模だけじゃない。


「今のところ、そのつもりはありません」


「なぜだね」


「この技術は、会社の仕事として作ったものではないからです」


芦屋常務の視線が止まる。俺は続けた。


「会社で作った成果まで、私個人のものだと言うつもりはありません。ですが、会社の外で、会社の資産や情報を使わずに作った技術まで、最初から会社の成果として扱うのも違うと思っています」


「それを決めるのは君だけじゃない」


「はい。だからこそ、正式な窓口で確認してください」


一度息を置く。


「会社の業務に近いという理由だけで結論を出すのではなく、どこで、何を使って、どう開発したのかを記録で見て判断していただきたいです」


芦屋常務はしばらく俺を見ていた。


「ずいぶん、会社と線を引きたがるようになったものだな。個人で大きな契約が取れるようになると、会社の方が邪魔に見えてくるのかね」


「そういう話ではありません。必要な手続きだと思っています」


芦屋常務は面白くなさそうに書類を揃えた。


「……まあいい。そこまで言うなら、法務へ回そう」


「お願いします」


声を荒げる必要はなかった。


常務室を出る頃には、手のひらに少し汗をかいていた。平気だったわけじゃない。ただ、昔みたいに「上がそう言うなら」と飲み込む気はなかった。


◇


金曜、外部活動用の口座へ、二つの入金が並んだ。PoCの残金百万円と、新しい適用開発契約の初回一千二百万円。合わせて一千三百万円だ。昼休みにスマートフォンで確認した俺は、さすがに画面を二度見した。


投資口座で三千万円を超えた時とは、また違う。こちらは全部、これから果たす約束が付いている。


その夜、工房の作業台には、精密型ナノマシンを再製造する母機候補として問い合わせていた三社分の見積書が並んでいた。


母機候補にしているのは、精密型ナノマシンの再製造に必要な加工精度へ近づけられそうな研究装置だ。個人名だけで問い合わせた時には、用途確認だけで話が止まった会社もあった。今回は、工房の所在地、有償PoCの実績、契約書、それから研究用途を提示して、ようやく正式な見積もりまで進めている。


設備を買うにも、資金だけあればいいわけじゃない。熱拡散材の仕事を始めた時に欲しかった「取引できる立場」が、ようやく一つ形になった。


「第一候補はこれでいいと思う」


俺が指したのは、一千六百万円台の研究用高真空加工ユニットだった。薄膜形成用の真空系、小型の微細加工部、精密位置決めステージ。それに防振と温度管理の周辺設備。工房へ最初に揃えた熱拡散材の試作・評価用機器より、明確に製造側へ寄った研究装置だ。


そのままで、詩乃を作った旧研究施設と同じ精度が出る機械ではない。むしろ、詩乃が制御系を組み替え、誤差を一つずつ潰していくための母機だ。


「これなら、手を入れられる?」


「はい。性能だけなら第二候補が上ですが、制御部が閉じています。第一候補は機械側の構成を確認しやすく、位置決め系も交換できます。私が必要な精度へ近づけるのであれば、こちらを推奨します」


「なるほど。じゃあ、第一候補がいいな」


詩乃なら、出来上がった試験構造が狙いどおりかは自分で確認できる。今は、測る側を増やすより、詩乃が必要とする精度で実際に作れる設備を整える方が先だった。


「ただ、納入と据付のあと、私が調整する期間も必要です」


「最短でも二週間くらい?」


「はい。安全性だけを優先するのであれば、それまで精密型を使用する試験を停止するのが確実です」


「二週間か……長いな」


精密型は、今も補充できないまま少しずつ減っている。安全域があると分かっていても、詩乃のことだと思うと二週間をただ待つのは長く感じた。


「外の加工設備を借りれば、その二週間を少し縮められないかな」


「工程の一部であれば可能です。ただし、外部利用には確認すべき点があります」


「じゃあ、候補だけ調べてみようか。使うかどうかは、それを見てからでいい」


「はい、マスター」


「母機は発注する。外部設備も、つなぎとしては使えそうだし、候補だけ見ておこう」


「はい」


発注書を開き、そのまま署名欄へ進む。詩乃が少し意外そうに俺の手元を見た。


「マスター。迷われないのですね」


「高いけど、必要なんだろ?」


「はい」


「なら買うよ。詩乃のために必要な設備なんだから」


詩乃の頬に、わずかに赤みが差した。


「……ありがとうございます、マスター」


「うん。一緒に、作れるところまで持っていこう」


詩乃の笑顔を見て、俺も少し頬が緩んだ。届いてからが大変なのは分かっている。それでも、補充できずに減っていくものを見守るだけだった時より、ずっと先が楽しみだった。俺は発注内容をもう一度確かめ、署名を入れた。


その横には、もう一つ別のファイルも開いている。法人化の準備項目だ。事業目的、資本金、本店所在地、口座と会計。


量産供給へ進む前に、個人名義のままではなく受け皿を作る。まだ登記はしない。まず税理士と司法書士へ相談し、何をいつ切り替えるかを決める段階だ。


会社名の欄だけは空白だった。


「ここ、決まらないな」


「急いで決める必要はありません」


「詩乃は候補ないの?」


「あります」


「あるんだ」


「ですが、今お伝えするとマスターが笑う可能性があります」


「余計聞きたい」


「まだ秘密です」


「ずるいな」


「候補がもう少し増えてからお見せします」


仕事のファイルなのに、そこだけ少し楽しかった。


◇


翌週の月曜、工房へ着くと、倉橋さんから共有が入っていた。PoC先の、これまでの契約窓口とは別の関連部門を名乗る担当者から、追加情報の照会が来たという。


要求されていたのは、評価結果ではなかった。積層時の細かな配向条件、工程中の圧力条件、校正の手順。今の契約で共有すると決めた品質基準より、ずっと奥にある情報だ。


「これ、契約で決めた確認範囲じゃないよな。少し変だな」


俺が言うと、詩乃が内容を確認する。


「はい、マスター。少なくとも現在合意している評価項目には必要ありません」


倉橋さんへ電話を入れる。


『私も同じ判断です。ただ、相手が意図的に抜こうとしていると決めつける必要はありません』


「どう返します?」


『必要な目的を正式窓口から確認します。現時点では、契約で合意した品質情報だけ返しましょう』


「分かりました。先方の社内で情報が行き違っているだけかもしれませんし、今は深読みせず正式窓口から確認してもらいましょう」


『はい。そのつもりです。それと、照会自体は記録しておいてください。今後同じ範囲の要求が続くなら、相手側にも整理してもらいます』


電話を切る。詩乃が要求項目と契約上の開示範囲を並べる。


「マスター。こちらの三項目は回答不要として分類します」


「うん。理由だけ付けて返そう」


秘密だから全部拒否、では話にならない。必要な性能は示し、再現性も品質も証明する。でも、作り方そのものまで渡す契約にはしていない。そこは、契約を結ぶ時に決めた通りだった。


◇


木曜の午後、会社の小会議室には、俺のほかに総務の担当者、法務・知財の担当者、そして芦屋常務がいた。


机の上には、俺が提出した資料の索引がある。工房契約、購入記録、勤務時間外の開発履歴、外部試験、会社顧客と取引先の照合結果。実際の製造条件は入れていない。


昨夜、詩乃と一緒に職務履歴と外部開発の時系列を洗い直し、会社側から聞かれそうな点を先に整理していた。会社の資料そのものを詩乃へ渡したわけではない。俺が説明できる範囲の過去案件と、手元にある外部開発記録を突き合わせ、どこを聞かれても事実へ戻れるよう索引を作った。


詩乃はさらに、会社側から出そうな論点を、既存業務との重なり、設備・資金の独立、顧客情報の分離に分けてくれた。製造条件そのものを求められた場合は、常務へ直接渡さず正式な法務・知財窓口で必要範囲を決める。その対応方針まで昨夜のうちに確認してある。


その準備があるだけで、質問を受けた時に何を示し、どこから先は正式な窓口へ戻すべきか迷わずに済んだ。


法務担当が最初に言った。


「今日は技術の帰属を結論づける場ではありません。まず、会社の業務と神堂さんの職務、それから社外で行った開発を分けて確認します」


「承知しました」


法務担当は、設備・材料・勤務時間・端末・会社情報の利用有無をまとめて確認した。俺は索引を開き、自宅と個人工房、外部試験機関だけで開発していること、費用はすべて私費で、勤務時間外に外部活動用の端末と保存先を使っていること、会社の顧客データや図面、非公開資料は転用していないことを記録と一緒に答えた。


質問は細かい。でも、答えに困るものはなかった。最初から分けると決めて、そのために記録も残してきたからだ。


法務担当が次のページへ進もうとした時、芦屋常務が別のファイルを机へ置いた。


見覚えのある名前だった。南第二倉庫。去年、引き渡し直前に再試験を求めて、工程を止めた案件だ。


「これも確認した方がいいだろう」


芦屋常務が一枚の技術メモを開く。俺の名前が入っている。局所温度上昇への対策検討。制御盤内部の温度むらを抑えるため、市販の放熱シートとアルミ板の組み合わせを比較した記録だ。


「神堂君は、この時点で熱拡散の検討をしている」


一見すると、今の材料へつながって見えなくもない。


法務担当が俺を見る。


「神堂さん、この資料について説明できますか」


「はい」


メモを手元へ寄せた。懐かしいと同時に、少し腹が立つ。あの時、引き渡しを止めた理由は微量の漏れだった。後から本当に漏れが見つかったのに、工程を止めた俺の判断だけは散々責められた。でも、その話を今ここへ持ち込んでも意味はない。


「これは材料開発ではありません。当時、メーカーが販売していた市販品を比較して、制御盤へどれを使うか選んだ記録です」


「熱を広げる考え方自体は同じだろう」


芦屋常務が言う。


「考え方としては一般的です。ただ、この資料には新しい材料構造も製造方法もありません」


俺はページをめくる。


「次のページにメーカーの型番とカタログ番号があります。購入見積もりも会社側に残っているはずです」


法務担当が確認する。


「ありますね」


「今回の社外技術については、材料を自分で設計して試作した時点から別に記録しています。必要なら、製造ノウハウそのものを常務へ開示するのではなく、会社側の知財担当と私側の弁護士で範囲を決めて、技術比較が必要なら弁理士も入れてください」


「その形がいいでしょう」


法務担当が答えた。芦屋常務が口を挟む。


「しかし、問題意識を会社で得た可能性はある」


「それも含めて確認してください」


俺は芦屋常務を見る。


「会社の業務として行った仕事や、そこで作成した資料を、私個人の成果だと主張するつもりはありません。南第二倉庫の検討記録も、当然会社のものです」


一度言葉を切った。


「だからこそ、逆も同じように扱っていただきたいんです」


芦屋常務が眉を寄せる。


「逆?」


「会社の外で、私費で設備を用意し、会社の情報を使わずに開発した技術についても、まず事実関係を確認してから帰属を判断してください。会社の業務に近いという理由だけで、最初から会社の成果として扱われることには同意できません」


会議室が静かになった。法務担当が資料を閉じる。


「今日の確認内容をこちらで整理します。現時点では、会社側の成果だとも、完全に無関係だとも結論づけません。必要な比較は正式な窓口で行います」


「分かりました」


「確認中だからといって、現在届け出ている適用開発契約を停止するよう求めるものでもありません。ただし、会社情報の利用がない状態は今後も維持してください」


「もちろんです」


芦屋常務は何も言わなかった。


勝ったわけでも、決着したわけでもない。それでも、少なくとも「常務がそう言ったから」で技術を渡す話ではなくなった。それで十分だった。


◇


会社を出たのは、七時を少し過ぎていた。


玄関を開ける。


「おかえりなさいませ、マスター」


「ただいま」


もう、そのやり取りに照れはほとんどなかった。ただ、こうして当たり前になったことが嬉しかった。


淡い色の柔らかな部屋着を着た詩乃が、鞄と上着を受け取り、そのままネクタイまで緩めてくれる。


今日は会社で、技術の帰属について正式な確認がある日だった。それは詩乃も知っている。けれど、何があったのかは聞かれなかった。俺の顔を一度見ただけで、何も言わずにネクタイを整える。


着替えてリビングへ戻ると、詩乃はソファの端に座り、俺がいつも座る場所を最初から空けて待っていた。


隣へ座る。背もたれへ身体を預けた途端、思っていた以上に深く息が出た。それでも、詩乃は急かさなかった。


「……まだ決着はしてない」


俺から切り出すと、詩乃がこちらを見る。


「はい」


「でも、正式な確認に戻せた。芦屋常務だけで決める話じゃなくなった」


「そうですか」


詩乃の表情が、少しだけ緩んだ。


「南第二倉庫の資料まで出てきたよ」


今度は、眉がわずかに動く。


「そこまで確認されたんですね」


「ああ。でも昔の記録がちゃんと残ってた。市販品を比較しただけだって説明できたよ」


「はい」


「昨日、一緒に時系列を整理してくれただろ。あれ、かなり助かった。聞かれても焦らず答えられた。ありがとう」


詩乃の目元が少し和らぐ。


「お役に立てたのでしたら、嬉しいです」


それ以上、詩乃は聞かなかった。俺も黙ったまま、隣にある体温へ少しだけ身体を寄せた。


「……疲れたな」


口に出すと、自分でも思っていた以上に素直な声になった。


「はい。お疲れさまでした、マスター」


詩乃の手が、俺の手へそっと重なる。その温かさを感じながら、しばらく天井を見た。


ふと、詩乃の膝へ目が行く。前にも一度、ここで甘やかしてもらった。今日は、あの時より少しだけ遠慮しなくてもいい気がした。


「詩乃」


「はい」


「ちょっと、借りる」


「え?」


返事を待つより先に身体を横へ倒した。そのまま、詩乃の太腿へ頭を預ける。さすがに予想していなかったらしい。詩乃の身体が一瞬だけ固まった。


「……マスター?」


見上げると、本当に驚いた顔をしている。その顔がおかしくて、少しだけ笑った。


「びっくりした?」


「はい。少し」


詩乃もすぐに笑った。


「マスターから来てくださるとは思っていませんでした」


「今日はこれくらい、いいだろ」


「もちろんです」


答える声が、明らかに嬉しそうだった。


「むしろ、嬉しいです」


「じゃあ、しばらくこのままで」


「はい」


詩乃の指が、そっと髪へ触れた。額へ落ちた髪を払い、そのままゆっくり撫でてくる。前にしてもらった時より、こっちも変に身構えない。


「……やっぱり、これいいな」


「覚えていてくださったんですね」


「忘れるわけないよ」


詩乃が小さく笑う。指先が髪の間をゆっくり通る。会社で張っていたものが、一つずつほどけていくようだった。


「詩乃」


「はい」


「こういう時、詩乃がいてよかったって思う」


言ってから、少しだけ照れた。髪を撫でていた手が止まり、詩乃が俺を見下ろす。


「……ありがとうございます、マスター。とても嬉しいです」


それからまた、さっきよりゆっくり髪を撫で始めた。俺はその手を取って、手の甲へ軽く口づける。詩乃の指先がぴくりと動く。


「マスター?」


「今度は俺から」


「何のお返しでしょうか」


「ここにいてくれた分」


詩乃の頬に、薄く赤みが差す。


「それでは……足りません」


「足りない?」


「はい」


声は小さいのに、目は逸らさなかった。


「もう少し、近くにいてください」


俺は身体を起こした。そのまま肩を抱き寄せる。詩乃も自然に胸へ身体を預けてきた。額が触れる。鼻先が近い。


「今日は詩乃も甘えるんだな」


「マスターだけでは、少しずるいです」


「それはそうか」


笑うと、詩乃も笑った。その笑顔のまま、唇へ触れる。離れたあとも、詩乃は俺の胸元へ額を預けたままだった。背中へ回った手が、シャツをそっと掴む。


「……まだ、このままがいいです」


「ああ」


キスを重ねる代わりに、そのまま抱きしめた。しばらくして、胸元から詩乃の声がする。


「マスター」


「ん?」


「また疲れた時は、今日みたいに来てください」


「勝手に膝借りても?」


「はい」


少し間があって、詩乃が付け加える。


「むしろ、嬉しいです」


「じゃあ遠慮しない」


「はい。遠慮しないでください」


俺は笑って、もう一度詩乃を抱き寄せた。


会社の確認は終わっていない。来週になれば、また資料も契約も待っている。


それでも今夜は、腕の中の温かさだけを感じていたかった。



【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】


本作品は「カクヨム」でも連載しています。

「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。


また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。


第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。


ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。

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