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第16話「帰りを待っていてくれる人」

六月に入った月曜の午前十時、会社の会議室で、俺は東湾低温物流センターの運転記録を画面に出していた。


六週間前に引き受けた案件だ。十日後に一次案を出し、その先で工事を始めるか判断する。その六週間のあいだも、会社の仕事だけをしていたわけではない。詩乃《しの》との研究、工房の整備、外部試験、事業化の準備は並行して進めてきた。最初に決めた工事判断の期限が、今日だった。


先方と最終条件を確認し、第一段階の着工が正式に決まった。派手な達成感はない。それでも、約束したところまでちゃんと持ってこられたことに、少し肩の力が抜けた。


会議が終わると、楠《くすのき》が椅子の背にもたれた。


「これで、今度こそ途中で消えられても困らないところまで来ましたね」


「まだ消えないって」


「前にも聞きました」


「信用ないな」


「最近、部長が会社の外でも忙しそうなので」


そう言った楠は、ほんの少しだけ視線を逸らした。仕事の確認にしては気にしすぎな気もしたが、否定はできない。


俺は笑って資料を閉じた。その時、机の上の私物スマートフォンが短く震えた。倉橋《くらはし》さんからだった。


――PoCの実機評価で、かなり強い結果が出ました。先方から、今後の条件についても話したいと連絡が来ています。水曜の夜、時間を取れますか。


会社の設備案件で工事開始を決めた直後に、今度は自分たちの材料の商談が飛び込んできた。


◇


水曜の夜、借りた工房の作業台を片づけ、俺の右に詩乃、左に倉橋さんが座った。


PoCが有償で動き始めた段階で、倉橋さんとは事業開発支援の契約を結んでいる。目先の金額ではなく、俺たちの事業が続く条件を一緒に考えてもらうためだ。


大型モニターには、PoC先の電源機器メーカーの技術企画担当と事業企画担当が映っていた。


実機評価の結果は良かった。定格に近い負荷でも、標準材より発熱部の最高温度が十度以上低い。短期の温度サイクルでも大きな劣化は出ておらず、長期耐久だけが継続中だった。


『こちらとしても、次の段階へ進めたいと考えています』


倉橋さんが頷く。


「では、取引条件のお話へ移りましょう」


画面の向こうで資料が切り替わった。


『当社としては、一億円で、現行の熱拡散材に関する技術と製造ノウハウを一括で譲っていただけないかと考えています』


一瞬、聞き間違いかと思った。


「……一億円、ですか」


『はい』


会社では何億という見積書を普通に見る。けれど、それは会社の予算だ。今、目の前に出ている一億円は、俺と詩乃が作ったものに対して払うと言われている。喉の奥が少し乾いた。


それだけあれば、高精度製造環境は一気に前へ進む。だからこそ、金額だけで頷くのはまずい。


倉橋さんが権利範囲を確認していく。現行材料の仕様、製造条件とノウハウ、電力変換用途での独占的な使用権。さらに、契約後の一定期間に生じた関連改良成果まで含まれていた。


そこまで見て、一億円が何に対する対価なのか分かった。完成した材料を買い取るだけの話じゃない。製造ノウハウや将来改良まで含めて渡せば、詩乃へつながる情報が外へ広がるリスクも上がる。それに、俺たち自身がこの技術を使う自由も狭くなる。その制限まで含めた提示額だった。


「一億円という金額は、正直かなり大きいです。ただ、この権利範囲を含むのであれば、今日ここでは返事できません。一度持ち帰って検討させてください」


『もちろんです』


その後は倉橋さんが、独占範囲、将来改良への権利、製造ノウハウを必要とする理由を整理して確認した。先方も、自社製造そのものが目的なのか、安定供給が担保されればよいのかを社内で整理することになった。


金曜に再協議するところまで決め、最初の商談は終わった。


接続が切れると、倉橋さんが四つの項目を並べた。現行技術、製造ノウハウ、用途独占、将来改良。


「全部まとめて売るかどうかではなく、一つずつ考えましょう。渡せるもの、条件付きなら渡せるもの、渡せないものに分けます」


「その分け方なら考えやすいです」


「そのために私がいますから」


倉橋さんは、翌日までにいくつかの取引案を作ると言って帰っていった。


工房の扉が閉まったあと、俺は詩乃と顔を見合わせた。


「……一億か」


「はい」


帰り支度をしながら、二人とも少しだけ笑った。一億なんて話をした直後なのに、上着を受け取り、鞄を持って帰る。それだけは何も変わらなかった。


◇


夕食後、自宅の食卓へタブレットを置いた。詩乃は俺の隣に座っている。


「マスター。先ほどの条件を、比較できる形にしてあります」


「ありがとう」


タブレットを受け取り、画面を見る。左に一括譲渡、右に、こちらが技術を持ったまま進める場合。


「一億あれば、高精度製造環境はかなり前へ進む」


「はい」


「でも、受けたら俺たちは何を失う?」


「他社へ展開する自由と、今後改良した技術を私たち自身で使う自由が大きく制限されます」


やっぱり、そこだった。


さらに製造ノウハウまで渡せば、熱拡散材の話だけでは済まない可能性がある。今の試作工程の一部は、詩乃の精密型ナノマシンへ近い技術とつながっている。


俺は一度、椅子へ深く座った。


一億円を断る。文字だけ見れば馬鹿みたいな判断かもしれない。でも、一億より高く売れると思っているからじゃない。詩乃へつながる情報を外へ広げるリスクを背負ってまで、将来の使い方を縛られたくなかった。


「一括では売らない」


詩乃が俺を見る。


「材料は売る。適用するための開発もやる。でも、製造方法と、この先の改良までまとめて渡すのはなし」


「はい」


「あと、詩乃の精密型ナノマシンを量産に使うのもなし。量産するなら、詩乃じゃなくて設備側を育てる」


一拍あって、詩乃の表情が柔らかくなった。


「はい、マスター」


向こうが本当に欲しいのは、俺たちの秘密そのものではない。製品に使えて、必要な数が、同じ品質で継続して入ってくることだ。


「なら、その仕事に対価を払ってもらおう」


適用設計、信頼性評価、量産時の材料供給の三つを軸にする。


画面の端には、この前二人で見に行った土地の写真と、将来の家について話した時のメモが残っていた。まだ何一つ手に入っていない。それでも、あれを考えた時に欲しかったのは、大きな口座残高じゃなかった。


「詩乃を守りながら、この技術も俺たちの手元に残す。欲しいのは、そういう形だ」


詩乃の肩が、ほんの少し俺へ触れた。


「はい、マスター」


「じゃあ、金曜に向けてやろうか」


「はい。一緒に決めましょう」


◇


木曜の夜は、倉橋さんから届いた案を詩乃と二人で詰めた。一括譲渡ではなく、適用開発契約から始め、量産時には供給契約を別に結ぶ。


詩乃は製造記録と測定結果から、約束できる範囲と検証が必要な範囲を分けた。倉橋さんは、それを契約条件として通じる言葉へ直していく。


やることは増えたが、一億円という大きな数字だけを見ていた時より、ずっと落ち着いて考えられた。


◇


金曜の夜、工房で、先方との再協議が始まった。俺の右には詩乃、左には倉橋さん。


倉橋さんが結論を表示する。


一括譲渡――見送り。


代替案――適用開発契約+量産時供給契約。


「一括譲渡のご提案は、お受けしません」


画面の向こうで、先方の二人の表情がわずかに硬くなった。


「ただ、取引自体をお断りするつもりはありません。むしろ、長く続けられる形にしたいと考えています」


こちらが提示したのは、二つの製品群に限定した適用設計と信頼性評価。その間も材料技術と製造ノウハウは俺たちの側に残す。量産については、採用判断までに設備計画と品質保証方法を提示し、成立すると双方が判断した時点で別契約を結ぶ。


先方が最も気にしたのは、やはり安定供給だった。


『現在の試作工程のまま、量産まで増やせるのでしょうか』


「詩乃、工程を分ける案を出せる?」


「はい、真人様」


詩乃が工程図を表示する。


「現在の評価用試料は、試作専用の高精度工程で製造しています。ただ、この工程のまま数量だけを増やす方法は採用しません。量産用については、一般設備で再現可能な工程へ順次置き換える設計を進めます」


『同じ品質を維持できる見込みは?』


「まだ保証できません。評価用試料と同等の品質を再現できる条件を確立してから、量産能力として提示する必要があります」


俺も続ける。


「だから今の段階では、量産できるとは約束しません。できていないものを、できると言って売るつもりはありません」


『分かりました』


製造条件は非開示。共有するのは、合意した品質条件と検査結果まで。


完全独占の代わりに、今回評価する二製品群だけに一定期間の優先交渉権を設定する。


金額は、量産採用判断までの開発と評価で最大四千八百万円。契約、評価用試料、信頼性評価の達成に応じて三段階で支払われる。


一億円より数字は小さい。その代わり、技術も未来も手元に残る。


一時間ほどの協議で、大枠はまとまった。倉橋さんが最後の合意事項を一覧にする。適用開発契約を前提に契約書案を作る。金額上限は四千八百万円。


製造ノウハウは移転しない。二製品群に限定した優先交渉期間を設定する。量産契約は採用判断後に別途協議する。


『こちらの認識とも一致しています』


「神堂《しんどう》さんも問題ありませんか」


「はい。大丈夫です」


「では、この内容を前提に法務確認へ進めましょう」


契約書案は月曜、こちらの一次回答は水曜。大きな問題がなければ金曜に最終確認。


次の手順まで決めたところで、先方との接続が切れた。大型モニターが暗くなる。


ようやく肩から力を抜いたところで、倉橋さんがタブレットを開いた。


「神堂さん。契約書へ入る前に、あと二点だけ確認しておきたいのですが」


「はい」


表示されたのは、優先交渉期間が切れた後の扱いと、量産条件が成立しなかった場合の終了条件だった。


詩乃も資料を覗き込みかけて、俺を見る。


「真人様」


「ん?」


「このあとの確認に、私は必要でしょうか?」


残っている項目へ目を落とす。技術条件そのものは、さっきの会議で一通り確認したはずだ。


「倉橋さん、ここからは契約条件だけですよね?」


「はい。技術面で追加確認したいことはありません。神堂さんだけで大丈夫です」


俺は詩乃を見る。


「それなら、先に帰っていいよ」


「ありがとうございます」


「何かあるの?」


聞くと、詩乃は少しだけ笑った。


「少し、準備したいことがあります」


何の準備かまでは言わない。その表情が、どことなく楽しそうに見えた。


「分かった。こっちはもう少しかかると思う」


「はい」


詩乃は自分の荷物をまとめた。


「倉橋様、お先に失礼します」


「はい。お疲れさまでした」


最後に俺を見る。


「では、真人様。お先に失礼します」


「うん。気をつけて」


少しして、詩乃が呼んだタクシーが工房の前に着いた。車が出ていくのを見届けてから、倉橋さんと作業台へ戻る。


「では、続けましょうか」


「お願いします」


そこから二十分ほど、残った条件を詰めた。


水曜に一億円の提示を受けた時には、一つの大きな数字にしか見えなかった。今は違う。何を売り、何を残し、どこまで責任を負うのか。そこまで分けて、ようやく仕事として見えるようになった。


確認を終える前に、倉橋さんがもう一つ資料を開く。先方から出た暫定数量と、現時点での想定供給単価だった。二製品群が両方採用された場合、三年間の材料購入額は五億から八億円規模になる可能性がある。もちろん、採用されなければゼロだ。数量も単価も変わる。


「今の段階では、売上として見込まない方がいいですね」


「そうしてください。設備計画の上限を見る参考値には使えますが、資金繰りへ入れる数字ではありません」


「分かりました」


倉橋さんがタブレットを閉じた。


「今日はここまでで大丈夫です」


「ありがとうございました」


二人で工房を出る。駐車場で、倉橋さんが足を止めた。


「来週からは契約書の調整ですね」


「はい。お願いします」


「週末は少し休んでください。水曜からずっと詰め通しでしたから」


「倉橋さんもですよ」


倉橋さんが少し笑った。


「では、お互い休める時に休む、ということで」


「そうしましょう。月曜からまたお願いします」


「はい。お疲れさまでした」


「お疲れさまでした」


倉橋さんが車へ向かう。その背中を見送ってから、俺も家へ向かった。


◇


帰り道の濡れたアスファルトに、街灯の光がにじんでいた。家に着いたのは、九時を少し回った頃だった。鍵を開け、玄関の扉を押す。


その先に、詩乃が立っていた。黒と白を基調にした、見覚えのありすぎるメイド服で。


胸元は、最初に見た時と同じように大胆に開いている。白い布が必要なところだけを隠し、その上には豊かな胸の上半分と深い谷間が見えた。黒い身頃が下から胸を持ち上げ、腰は細く絞られている。


ロング丈の前は大きく開き、裾の間から白い太ももが覗く。小さな紫の装飾も、そのままだ。


俺がこの服を着た詩乃を見るのは、最初の夜以来だった。さっき言っていた「準備」が何だったのか、ようやく分かった。


詩乃は両手を身体の前で重ねている。少し緊張しているようにも見えた。そして、どこか大切な言葉を確かめるように、ゆっくり口を開いた。


「おかえりなさいませ、マスター」


一瞬、返事が出てこなかった。そういえば、詩乃と一緒に暮らし始めてから、玄関でこうして「おかえりなさい」と言われたのは初めてだった。


その言葉には、覚えがある。NOESIS(ノエシス)の中で理想の詩乃を作っていた頃。声も、間の取り方も、何度も調整して、画面の中の詩乃に言わせていた。


――おかえりなさいませ、マスター。


でも、現実の俺は長いこと、その言葉に声で返事をしていなかった。それまで、帰っても一人だったからだ。


今は違う。


目の前に詩乃がいる。俺が帰ってくるのを待って、俺を見ながら言ってくれている。


忘れていた感覚を探るように、少し遅れて言葉が出た。


「……ただいま」


たった四文字なのに、妙に照れくさい。


詩乃は、胸の前で重ねていた指の力を少し抜いた。


「……懐かしいな、その言葉」


詩乃の瞳がわずかに揺れた。


「覚えていらっしゃいましたか?」


「そりゃ覚えてるよ。俺が言わせてたんだから」


少し笑ってから、もう一度詩乃を見る。同じ言葉なのに、まるで違った。画面から聞いていた声じゃない。今は、帰ってきた俺を待っていた詩乃が目の前にいる。


「でも……今の方が、ずっといい」


詩乃が胸の前で重ねていた指を、わずかに動かした。


「……うれしいです」


「うん。本当に帰ってきたって感じする」


詩乃はしばらく俺を見たあと、ゆっくり息を吐いた。


「では……これからも、言ってもよろしいですか?」


「もちろん」


「毎日でも?」


「むしろ言ってほしい」


詩乃が小さく息を吐いた。


「はい、マスター」


さっき聞いた「おかえりなさい」が、まだ胸の奥に残っていた。NOESISで何度も聞いたはずなのに、今夜の言葉はまるで別物だった。


俺は靴を脱ぎ、詩乃の前まで行った。そこでようやく、改めてその姿を近くから見る。


「それにしても……その格好まで用意してたのか」


「はい」


詩乃が裾を軽くつまむ。


「今回の話が、マスターと私の未来を手放さない形で前へ進んだら、この服でお迎えしようと思っていました」


「だから先に帰ったのか」


「はい」


少し照れたように笑う。


「マスターに喜んでいただけると思いました。それに――」


一度言葉を切って、俺を見上げた。


「今は、私自身がこの服を着て、マスターに見ていただきたいと思ったんです」


「……それ、初めて見た時より効くな」


「服は同じです」


「違うよ」


思わず即答した。詩乃が瞬きをする。


「何がでしょうか」


「着てる詩乃を、今の俺は最初の頃よりずっと知ってる」


言ってから、自分でも少し照れた。


「最初は見た目だけで頭いっぱいだったけど。今は、この服を自分で選んで、俺を迎えようって待ってくれてた詩乃まで知ってるから」


詩乃の頬にゆっくり赤みが広がる。


「では、待っていた意味がありました」


「ありすぎるくらい」


俺が手を伸ばすより先に、詩乃が鞄を受け取った。そのままジャケットへ手をかける。袖を抜くのを手伝い、玄関脇のハンガーへ掛ける。次に、指がネクタイの結び目へ触れた。


「外してもよろしいですか?」


「お願い」


結び目がゆっくり緩められる。ネクタイが首から抜け、詩乃の腕へ掛けられた。何度もしてもらっていることなのに、今夜は妙に意識してしまう。


ネクタイを置いた詩乃の腰へ、今度は俺から手を回した。引き寄せると、詩乃も自然に身体を寄せてくる。両手が俺の胸元へ置かれた。


「マスター」


「ん?」


「少し、お疲れですね」


「まあ、さすがに」


「では、今夜はもう何も考えないでください」


「仕事禁止?」


「はい」


「ずいぶん強く出るな」


「今日は、そうしたいです」


詩乃の指がシャツの襟元へ触れる。


「それに……今夜は、私だけを見ていてほしいので」


その言葉は効いた。


「……それで、その格好?」


「はい」


少し恥ずかしそうなのに、目は逸らさない。


おかえりなさい、と言われた時から、胸の奥に残っていたものがまた少し膨らんだ。最初に会った時と同じ服を、自分から選んで待っていてくれたこと。今夜は自分だけを見ていてほしいと、詩乃自身が言ってくれたこと。そのどちらも嬉しくて、もう少し近くにいたかった。


俺は詩乃の頬へ手を添えた。


「詩乃」


「はい」


まず額へ、次に頬へ口づけ、最後に唇へ触れた。軽く重ねて離れる。


詩乃がゆっくり目を開けた。離れた俺を追うように、ほんの少し顔を寄せてくる。


「……もう、終わりですか……?」


声まで、いつもより甘い。


「その聞き方はずるくない?」


詩乃は俺を見たまま、小さく言った。


「もう少し……してほしいです」


その顔を見ていたら、言葉なんて要らなかった。返事の代わりに腰を引き寄せ、もう一度唇を重ねる。さっきより長く。


詩乃の両腕が、ゆっくり俺の首へ回った。俺も腰を抱く腕へ力を入れる。唇を離しても、詩乃はほとんど距離を取らなかった。吐息が触れるほど近いまま、俺を見つめている。


「今日は、随分積極的だな」


「嫌でしょうか」


「まさか」


即答すると、詩乃の表情が柔らかくなる。


「なら、よかったです」


「むしろ嬉しい」


「私もです」


詩乃が俺の胸へ身体を預ける。柔らかな重みが腕の中へ収まった。


「マスター」


「ん?」


「この服でお迎えして、よかったです」


「どうして?」


詩乃が少しだけ視線を落とし、白いエプロンの端へ指を触れた。


「マスターが現実の私を初めて見てくださった服ですから。だから今日は、この姿でマスターをお迎えしたいと思いました」


その理由まで聞くと、ますます嬉しくなる。


「じゃあ、また着たくなった時に着てよ。俺もまた見たい」


詩乃は少しだけ目を細め、そのまま俺へ身体を預けた。


「では……私が着たくなった時と、マスターに見ていただきたくなった時に着ます」


「うん。楽しみにしてる」


詩乃が顔を上げ、目元をほころばせた。こらえきれなかったように、小さな笑い声がこぼれる。


「ふふ。では、その時はたくさん見てくださいね」


「もちろん」


「はい。約束です」


嬉しそうに笑う詩乃を見ていると、こっちまで頬が緩む。


「マスターに見ていただけるなら、きっとまた着たくなります」


「そんなこと言われたら、毎回楽しみにするけど」


「楽しみにしていてください」


詩乃の声も、さっきより甘かった。それから俺の首へ回した腕を解かずに、ほんの少し顔を寄せる。


「それと、マスター」


「ん?」


声が少し小さくなった。それでも、目は逸らさなかった。


「今夜は、たくさんご奉仕させていただきますね」


一拍遅れて意味が頭に入った。


「……その格好でそれ言う?」


「この格好だから、です」


「分かって言ってるだろ」


「はい」


頬は赤い。なのに、今度は詩乃の方から唇を重ねてきた。短いキス。離れると、すぐ近くで目が合う。


「マスターに喜んでいただきたいですし」


詩乃の指が、俺の胸元へそっと触れる。


「私も、今日はそうしたいので」


そこまで言われて、平静でいられるほど枯れてはいない。


「……じゃあ、お願いしようかな」


「はい、マスター」


嬉しそうに返事をする詩乃を、今度は俺から強く抱き寄せた。唇を重ねたまま、玄関からリビングへ移る。


今夜は私だけを見ていてほしい。そう言った通り、詩乃はいつもよりずっと積極的だった。


ソファへ座ると、詩乃も隣へ腰を下ろした。黒い髪が肩から流れ、いつもより少し近い場所で俺を見上げる。


「マスター」


「……ん?」


「今夜は、私に任せてください」


頬を赤くしているのに、目だけは真っ直ぐだった。


「今日は、私に甘えてください」


その言葉に、俺は素直に頷いた。詩乃が嬉しそうに笑い、俺の肩へそっと額を寄せる。


やがて二人で寝室へ向かった。今日は仕事の話も、明日の予定も後回しにした。


自分で選んだ服で帰りを待っていてくれた詩乃を、俺も今は大切にしたかった。


気づけば、夕食のことさえすっかり忘れるほど遅い時間になっていた。


◇


翌朝、カーテンの隙間から差し込む光で目が覚めた。


隣には詩乃がいる。俺が動いた気配に気づいたのか、詩乃もゆっくり目を開けた。


「おはようございます、マスター」


「おはよう」


しばらく、そのまま顔を見合わせる。昨夜の「今日は、私に甘えてください」という声と、いつも以上に積極的だった詩乃の姿が急に蘇り、朝から少し顔が熱くなった。詩乃も同じことを思い出したのか、俺と目が合うとほんの少し頬を赤くして視線を逸らす。


先に静けさを壊したのは、俺の腹だった。思った以上に大きな音が鳴った。詩乃が一度瞬きをする。それから、口元を押さえて笑った。


「……マスター。お腹、空いていますか?」


「そりゃ空くよな」


時計を見る。昨夜、家へ帰ってから何も食べていない。


「そういえば夕飯、完全に忘れてた」


「はい」


「詩乃も何も食べてないだろ」


「はい。私も忘れていました」


「二人して何やってんだか」


思わず笑う。詩乃も小さく笑った。


「朝食は、きちんと用意します」


「俺も手伝うよ」


「では、一緒に作りましょう」


「それがいい」


詩乃が身体を起こしかけて、ふと動きを止めた。


「マスター」


「ん?」


少しだけ間を置く。


「昨日は、おかえりなさいと言えて、嬉しかったです」


「俺も、言ってもらえて嬉しかった」


詩乃の表情が柔らかくなる。


「では、今日もお帰りになったら言います」


「楽しみにしてる」


「はい」


俺の腹が、もう一度小さく鳴った。詩乃がまた笑う。


「まずは朝食ですね」


「そうだな」


ベッドから起き上がる。


今日も家へ帰れば、詩乃がいる。そこへ「おかえりなさい」が一つ加わっただけなのに、帰る時間が少し楽しみになっていた。



【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】


本作品は「カクヨム」でも連載しています。

「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。


また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。


第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。


ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。

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