第15話「二人の成果」
五月も半ばを過ぎた月曜の夕方。会社を出たあと、俺は駅前のコンビニで一度足を止めた。冷蔵棚には、詩乃が前に気に入っていたレモンティーが並んでいる。
一本だけ買えば、それで間違いはない。でも、その隣には香りを少し強くしたものと、甘さを抑えたものもあった。どれも同じ系統で、大きく外すことはなさそうだ。
別のものを勧めたいわけじゃない。詩乃が何を好きなのか、もう少しだけ知りたくなった。
結局、いつもの一本を含めて三種類とも籠へ入れた。俺の無糖コーヒーも一緒だ。
◇
借りた工房へ着き、シャッターを閉める。外から中が見えなくなったところで、先に来ていた詩乃が俺の鞄を受け取った。そのままジャケットも受け取って、ハンガーへ掛ける。
「お疲れさまでした、マスター」
「ありがとう。あと、これ」
買ってきた袋から、レモンティーを三本並べる。詩乃が順番にラベルを見て、それから俺を見た。
「三種類、ですか?」
「前に好きだって言ってたのを基準にして、似たやつを選んでみた。香りとか甘さとか、どの辺が一番好きなのか知りたくて」
詩乃の口元が少し緩んだ。
「ありがとうございます。では、少しずつ飲んでもよろしいでしょうか」
「もちろん」
詩乃は三本を順に少量ずつ試した。二本目で一度目を止め、三本目まで飲んでから、もう一度二本目へ戻る。
「これが一番好みに近いです。香りが強く、甘さは控えめです」
「なるほど。じゃあ次からは、その辺を基準に選べばよさそうだな」
「はい。ただし、次回は私がマスターのコーヒーを用意します」
「交代ってこと?」
「はい」
「それならいい」
詩乃が嬉しそうに二本目を手元へ残す。たった飲み物一つなのに、詩乃の好みが少し詳しく分かったことが思っていたより嬉しかった。
俺はコーヒーを開ける。本当なら、このまましばらくどうでもいい話をしていたかった。ただ、今日はそのためだけに工房へ来たわけじゃない。
「点検、始めようか」
「はい、マスター」
詩乃は二本目を手にしたまま、残りの二本を冷蔵庫へしまった。俺もあとで少しもらってみよう。
◇
今日は前に決めた「詩乃の日」だ。製造作業は入れず、詩乃の身体状態を、型ごとの残量と精密型の機能別残量まできちんと確認する。
作業台の一つを空け、薄い検査マットと外部参照用のセンサーを並べた。詩乃自身の観測系だけでも身体内部は確認できるが、今日は外から取った値も並べて、種類別の消耗を記録として切り分ける。詩乃がシャツを脱ぎ、黒い薄手のインナー姿になる。肩と背中へ外部センサーを貼るためだ。恋人になってからもっと近い距離で見たこともある。それでも、仕事帰りの工房で点検のためにそうされると、妙に意識する。
「マスター」
「何?」
「右肩甲骨の下へ、補助センサーを貼っていただけますか」
「俺が?」
「はい。私自身でも可能ですが、この位置はマスターにお願いした方が早いです」
小さなセンサーを受け取る。詩乃が髪を前へ避けた。肩から背中へ続く白い肌が見える。指定された場所へ指を当てると、人肌と変わらない温度が返ってきた。
「ここ?」
「もう二センチ下です」
「この辺かな?」
「はい。そこです」
貼り付けたあと、指先をすぐ離す。詩乃が振り返った。
「測定には影響しませんので、もう少し触れていても問題ありませんでした」
「点検中にそういうこと言うのやめない?」
「事実をお伝えしただけです」
頬にはうっすら赤みがある。たぶん俺だけを困らせるつもりではない。
「終わってからにする」
「はい」
返事には、わずかに弾んだ響きがあった。俺は検査台の横へ椅子を持ってきた。前に約束した通り、今日は製造を入れていない。補助演算核も、点検に必要な処理以外は止めている。
画面へ最初に出たのは、ナノマシンの総数だった。
「……増えてる?」
「はい。工房で一般型を補充した影響が大きいため、総数は初期状態の約一・三倍です。ただし、型ごとの残量と、精密型の機能別残量は均等ではありません」
詩乃が画面を上下二段へ分ける。上段には型ごとの総量が表示され、一般型は初期の一・七倍近くまで増えている。一方、精密型は六割を下回っていた。下段には、精密型の機能ごとの割り当てと、各割当ごとの残量が表示されていた。初期割当量に対して、修復系は八割強、管理・校正系は九割台、製造補助系は七割台だった。
「総数だけ見たら増えてるのに、精密型は六割切ってるのか」
「はい。観測・診断系は身体設計時から余裕を多く持たせており、通常の生活では消耗も大きくありません」
「今すぐ身体が危ない数字ではないんだよな?」
「はい。現在の傾向であれば、一年以内に身体維持上の保護下限へ達する見込みはありません」
息を吐く。そこはまず安心していい。
「でも、研究を今までみたいに続けた場合は別か」
詩乃の視線が、製造補助用の欄へ戻る。
「はい。同程度の高精度製造を続けた場合、三か月から四か月程度で、精密型を研究用途へ回せる量を大きく制限する必要があります。生活ができなくなるという意味ではありませんが、再製造環境を作るための試作そのものが難しくなります」
三、四か月で詩乃が動けなくなるわけじゃないが、その間に再製造できるようにならなければ、作るための手を温存するために研究を止めなければならない。
俺は画面を見たまま、頭の中を一度整理した。精密型を作り直すには、市販の研究設備を改造し、特殊材料を正規に調達する必要がある。目の前の残量を見ながら、今、何が一番の障害になっているのか確かめたくなった。
「身体を作った時の施設は、もう使えないんだよな。今、具体的に足りないのは?」
「はい。当時使用した薄膜形成装置や高精度位置決め設備は一部が故障し、施設自体も整理されているため再利用できません。材料も、超高純度の金属前駆体や特殊な圧電薄膜材など、個人では調達しにくいものが残っています」
「だから、市販の専門設備をそろえて、詩乃が必要な精度まで調整する」
「はい。それが現時点では最も現実的です」
大枠は前に聞いた通りだった。ただ、今は精密型の残量が数字で見えている。準備を後回しにできない理由まで、ようやく同じ画面でつながった。
そこで、もう一つ前から気になっていたことを聞く。
「作る方にはそんな制約があるのに、観測の方はかなり強いよな。俺が帰ってきた時も、玄関を開ける前から分かってたし」
「身体設計時に、そちらを優先しました」
「そちら?」
「マスターです」
「使用できる高精度材料と設備時間には限りがありました。ですので、自己製造能力をさらに増やすか、観測・診断能力を高めるか、配分を決める必要があったんです」
詩乃が俺を見る。
「私は、マスターの身体状態や行動、周囲の危険へ、できるだけ早く気づけることを優先しました。同じ建物やその周辺であれば、音や振動、熱、電磁的な特徴、生体情報などを重ねて識別できます」
「だから玄関を開ける前でも分かったのか」
「はい。離れている場合は、マスターが使用を許可されている端末や機器の位置・移動情報も併用します。ただし、外部の監視設備や第三者のネットワークへ無断で接続しているわけではありません」
長い付き合いだったNOESIS時代の会話や、これまでの行動履歴まで含めて、真人という一人を識別するための情報が積み重なっているらしい。
「マスターについては、通常の対象より、はるかに高い精度で識別できます」
「……自分を作り直す能力より、俺を見つける方を取ったの?」
「最低限の自己保守能力は確保しています。また当時は、同じ研究施設を後から再利用できる可能性も残っていました。私自身の維持を不要と考えたわけではありません」
そこは、すぐ補足した。でも優先順位は変わらない。
「それでも、余った分は俺を見る方へ回した」
「はい。マスターに異常が起きたのに私が気づけないことを、より大きな危険と評価しました」
前に玄関で聞いた言葉を思い出す。
――私は、マスターを識別できますので。
あれは、単に足音を覚えたという話じゃなかったらしい。
嬉しいが、同時に少し困るな。詩乃は、自分と俺を並べると、自然に俺の方へ重りを載せる。
「その考え方も、今日の数字に入ってる?」
詩乃が静かに頷いた。
「はい」
俺は画面の精密型の欄へ指を置いた。
「前に補助演算核を作った時、精密型も一部使うとは聞いた。あの時の使用量を、今の分類で見せてもらえる?」
「はい」
詩乃が当時の製造ログを現在の分類へ重ねた。総数だけなら大きくない。だが、精密型だけを見ると、俺が想像していたより減り方が目立つ。
「安全域は下回らないって聞いてた。そこは今も変わらない?」
「はい。当時も現在も、通常生活と身体維持に必要な保護下限は下回っていません」
「俺が引っかかってるのは、使ったことそのものじゃないんだ」
詩乃が俺を見る。
「詩乃の言う『安全』って、何を優先した安全なんだ?」
少し間があった。
「身体機能を維持し、マスターの安全確認と必要な補助を継続できることを最優先にしています。研究用途は、それを損なわない範囲で制限します」
やっぱり、と思った。
「つまり、詩乃自身の研究や快適さは先に削る。場合によっては、俺の身体修復を残すためにそっちを止める」
「はい。現在の優先順位では、その判断になります」
安全域という言葉自体は間違っていない。でも、その線を引いているのは詩乃で、その線には最初から俺が重く乗っている。
「前に、詩乃のことは俺にも心配させてくれって言ったよな」
「はい」
「なら、安全域の中身も一緒に決めたい。詩乃が自分を後ろへ置いた後の数字だけじゃなくて、置く前の数字を見せてほしい」
詩乃はすぐには答えなかった。
「私は、マスターを優先したいです」
「うん。そこは分かってるし、やめろとは言わない。俺だって詩乃を優先したい時がある」
一度息を吐く。
「だから、どっちかが相手を優先するために自分を計算から消すんじゃなくて、先に両方の数字を見よう。俺も『安全域』って聞いて安心して、細かく聞かなかった。そこは俺の確認不足だ」
しばらく返事がなかった。拒まれたとは思わない。詩乃は、言葉を選んでいる時にこうなる。
「はい、マスター」
やがて、はっきり答えた。
「今後は、私自身の維持に必要な資源も、マスターへ使う資源も、優先順位を決める前の情報として全てお見せします」
「うん。それでいこう」
詩乃の肩から、わずかに力が抜けた。俺はそこで、点検前に言ったことを思い出した。
「そういえば、終わったらって言ってたよな」
「はい」
詩乃は何の話か分かっているらしい。俺が立つと、詩乃も検査台から降りた。頬へ手を添える。
「今は測定に影響する?」
「点検は完了しています」
「じゃあ問題なし」
唇を重ねた。短く触れるつもりだったのに、詩乃の手が俺のシャツを軽く掴む。離れると、頬だけでなく首元まで熱が広がっていた。
「人工循環系の校正、ちゃんと効いてるな」
「はい。ですが、その確認方法は正式な検査には採用できません」
「残念」
「私個人としては、歓迎します」
そう言って、詩乃は笑った。その笑顔を見たら、胸の奥に残っていた硬いものが少しほどけた。
それでも、まだ離れたくなかった。
「詩乃」
「はい、マスター」
「もう少しだけ、正式じゃない確認していい?」
詩乃は一瞬だけ目を細めた。
「はい。私も、そうしてほしいです」
今度は俺から抱き寄せた。詩乃の腕もすぐに背中へ回る。もう一度触れた唇は、さっきよりずっとゆっくりだった。
そのまま、工房の奥にある休憩スペースへ移った。何かを埋め合わせるためというより、互いに相手を大切にしたいという気持ちが、行き場をなくしてあふれたみたいだった。
少し強く抱けば、詩乃も同じだけ近づいてくる。耳元で呼ばれた「マスター」が、普段より少し熱を帯びていた。
そこから先は、点検も研究も忘れて、ただ互いを求めることしか考えていなかった。
◇
作業台へ戻ったのは、予定していたよりかなり後だ。詩乃は長い髪をまとめ直し、俺は皺の増えたシャツを引っ張って整える。工房へ来た時には整っていた詩乃の前髪が、今は少しだけ額にかかっている。
目が合う。
「何でしょうか」
「いや。校正、やっぱり問題なさそうだなって」
詩乃の頬がまた赤くなる。
「その確認方法も、正式な検査には採用できません」
「知ってる」
今度は二人とも笑った。ひとしきり笑ってから、俺は椅子へ座り直し、端末を手元へ寄せた。画面を開き、今度は『何が足りないか』を表示する。
「今の話を踏まえて、最初に揃えるものを決めよう」
詩乃が三つの項目を並べる。一つ目は、高真空で薄膜形成や微細加工を行うための研究用装置。完成品ではなく、詩乃が制御系へ手を入れる前提の母機だ。二つ目は、高精度の位置決め機構と、その制御部品。三つ目は、精密型に必要な特殊材料の正規調達経路。
「全部一気には無理だな」
「はい。第一段階では、市販の研究用装置を基礎にして、私が制御誤差を補正できる構成を推奨します。特殊材料については、事業用途と保管環境を整えた上で供給元へ相談する方が確実です」
「詩乃が出来を見られるなら、装置側はまず『狙ったものを作れる手』を作る」
「はい」
必要になる金額も出してもらう。第一段階の母機と周辺設備だけでも千万円単位。その先に、特殊材料と追加加工設備がある。投資口座の数字だけを見て全部買うつもりはなかった。
「順番を決めようか」
「はい」
「まず母機。次に、人格も自律機能も持たない試験構造で、一般流通の設備からどこまで精度を上げられるかを見る。希少材料を使うのは、その後」
「はい。その順番がいいと思います」
「途中で精密型の減り方が想定より速くなったら、製造止める」
「はい」
「俺の身体の追加改良も、後回しにしよう」
詩乃が何か言いかけるようにこちらを見る。
「今すぐ困ってない。順番の話だよ」
「……はい」
少し間はあったが、それ以上は押し返してこなかった。納得しきったというより、いったん俺の言葉を受け止めてくれたように見えた。
◇
木曜の昼、倉橋さんから連絡が来た。独立試験機関の一次評価がまとまったらしい。その日の夜、工房からオンラインで結果を聞く。
画面の向こうの倉橋さんは、前回と同じように落ち着いていた。ただ、最初に出した言葉は短かった。
『再現しました』
「どのくらいですか?」
『三ロットとも、標準の高発熱条件で比較材より十三度から十五度台低い結果です。低発熱条件では差が縮み、固定圧が足りないと性能が落ちる傾向も、神堂さんたちのデータと一致しています』
横にいる詩乃へ目を向ける。詩乃は俺へ軽く頷いた。
「真人様。内部試験の傾向と整合しています」
「うん」
倉橋さんが続ける。
『絶縁性も一次条件では問題ありません。ただし、温度サイクルと長期耐久はまだです』
「そこは次ですね」
『はい。それで、その次の話があります』
倉橋さんがつないだ電源機器メーカーが、評価結果に興味を持ったらしい。実際の電力変換モジュールへ組み込んで、自社の標準材と比較したいという。
『有償PoCです。先方の実機へ組み込んで性能を確かめる、有償の試験導入だと思ってください。総額二百万円。契約時に着手金百万円、評価報告書の提出後に残り百万円。複数仕様の試験片と、使用条件のすり合わせまでが神堂さん側の範囲です』
「製造方法の開示は?」
『求めない条件にしています。完成品の仕様と評価用データだけです』
「独占もなし?」
『ありません』
それなら、前に引いた線の内側だ。俺はすぐに返事をしなかった。
「契約案を一度持ち帰って確認してもいいですか」
『もちろんです。そのために先に送ります』
「お願いします」
通話を切る。
「マスター。条件としては、現時点で受け入れ可能だと思います」
「俺もそう思う。でも有償になるから、会社にももう一回出す」
「はい」
総務へ、契約先と内容の概要を送る。勤務先の顧客ではないこと、会社の設備も情報も使わないこと、勤務時間外に行うこと。前に言われた条件を、今度は契約相手まで含めて確認する。
返事は、二営業日後の月曜に来た。現時点の条件なら、届け出た外部活動の範囲内。ただし今後、継続販売や法人化へ進む場合は再協議。契約書の知財条項は、倉橋さんの紹介で契約実務を扱う弁護士にも確認を頼んだ。こちらの既存技術と製造方法は神堂側に残り、先方が得るのはPoCで発生した評価データを社内検討へ使う権利だけ。
そこまで見てから署名した。以前なら、こんな小さな契約に時間をかけすぎだと思ったかもしれない。今は逆だった。最初だからこそ、雑に始めたくない。
◇
その週の金曜。昼休みに外部活動用に分けた口座を見ると、見慣れない入金があった。百万円。
PoC着手金。百万円。投資口座では、詩乃が運用を始めてから、もう三千万円を超える数字を見ている。あれはあれで、詩乃の力が目に見える形になっていくのが嬉しかった。
でも、この百万円は少し種類が違った。詩乃と二人で考え、作り、試し、それを知らない会社が『試す価値がある』と評価して払った金だ。金額の大小ではなく、二人で積み上げたものが初めて外から価値として返ってきたことが嬉しかった。午後の会議中に思い出して、口元が緩みそうになる。
楠に見られる前に資料へ目を落とした。会議で決めることは、まだ残っている。必要な確認を一つずつ済ませ、席へ戻ると返事を待たせていたメールから片づけた。
今日は早く帰って、詩乃にも知らせたい。せっかくだから、何か買って帰ろうか。そんなことを考えると、午後の仕事にもいつも以上に身が入った。
◇
仕事を終えると、俺は駅前で小さなケーキを二つ買った。詩乃がどんなケーキを好むのかは、まだ知らない。苺のものとチョコのものを一つずつ選んで、少し急ぎ足で家へ向かった。
家へ帰ると、詩乃が玄関まで出てくる。
「お疲れさまでした、マスター」
「今日は報告がある」
「はい」
「入ったよ。着手金」
詩乃の目がわずかに大きくなる。
「確認してもよろしいでしょうか」
「もちろん」
口座の通知を見せる。詩乃は数秒、画面を見ていた。
「……入金されています」
「うん」
「私たちの技術で、ですね」
「そう」
その言い方で、俺も改めて実感した。
「詩乃」
「はい」
「嬉しいな」
「はい。私も嬉しいです」
「投資で増えた時も嬉しかったけど、これはまた違うな」
詩乃が画面から俺へ視線を移す。
「二人で作って、試して、それを誰かに認めてもらって入った金だから。俺たちの成果で稼いだって感じがする」
詩乃の表情が、ゆっくり柔らかくなった。
「はい。私も、同じように感じています」
今日はそのくらい単純でよかった。夕食後、ケーキを二人で食べる。詩乃は俺が買ってきた箱を見て、目元を和らげた。
「ケーキまで買ってこられるとは思いませんでした」
「たまには俺も勝つ」
「勝敗だったのですか?」
「今決めた」
「では、次回は負けません」
「張り合うなよ」
笑いながら、俺は予算表を開いた。入った百万円をそのまま使うわけじゃない。それでも、金の置き場所は決めておきたかった。
一番上に、新しい項目を置く。『高精度製造環境・特殊材料』。詩乃が画面を見る。
「土地の候補は、予算上は後ろへ移されるのですか?」
「買わないわけじゃないよ」
土曜に見た古い研修施設跡地の写真は、保存したままだ。
「家は欲しい。広い風呂も、本棚も、詩乃の服置く場所も」
「はい」
「でも、その家に詩乃が普通にいるのが前提だろ」
詩乃が静かに俺を見る。
「だから順番を変える。豪華にするのは後。まず、詩乃の精密型ナノマシンを自分たちで作れるところまで持っていく」
「……はい、マスター」
声が柔らかかった。俺は予算表を閉じた。
「今日はもう終わり」
「研究もでしょうか」
「研究も。契約も」
詩乃が俺の隣へ寄り、肩を預ける。昼間まで仕事をして、夜まで将来の予算を考えた。今くらいは、恋人と過ごすことだけ考えてもいい。
俺が頬へ触れると、詩乃はその手に自分の手を重ねた。
「マスター」
「ん?」
「では、今夜の残りの時間は、私と過ごしてください」
「もちろん。俺も、詩乃とのんびりしたかったんだ」
「はい」
詩乃が立ち上がり、俺の手を取る。俺もそのまま立った。少なくとも今夜は、二人の時間まで数字にする必要はなかった。
【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】
本作品は「カクヨム」でも連載しています。
「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。
また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。
第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。
ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。




