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第14話「詩乃が自分で選んだ服」

土曜の朝、俺は工房の鍵を机の引き出しへ入れたまま家を出た。今日は工房へ寄らない。試験も投資もいったん置いて、週末は詩乃《しの》と過ごすと決めた。


玄関で靴を履いた詩乃が、俺の隣へ立つ。


「今日は、どこへ行く予定でしょうか」


「まず、服を見に行こうと思ってる。今日は詩乃が、自分で着たいものを選んでみて」


「はい」


「昼は、俺が若い頃に何度か行ってた店に連れていきたい。そのあと、もう一か所だけ付き合って」


「最後はまだ秘密ですか?」


「秘密ってほどじゃないけど、着いてからの方が面白いと思う」


詩乃が口元を緩めた。


「承知しました、マスター」


◇


電車で二駅ほど移動し、駅前の商業施設へ入った。最初の目的は服だ。今では、詩乃の服もそれなりに増えた。


休日の人混みを歩いていると、すれ違った人の視線が時々詩乃へ戻る。男だけじゃない。女性まで一度通り過ぎてから振り返ることがある。


最初の買い物では、それが気になって仕方なかった。今も、他の男にじろじろ見られるのが平気になったわけじゃない。


ただ、その視線の先にいる女性が俺の隣を歩いていることを、少し誇らしく感じている自分もいた。口にすると格好悪そうなので、詩乃には言わないでおく。


そんなふうに隣を歩く詩乃を見ていると、今着ている服も、最初はほとんど俺が選んだものだったと気づく。あの頃は人目を避けることと俺の好みを優先して、それで十分だと思っていた。


でも最近の詩乃は、飲み物にも過ごす場所にも、自分の「好き」を少しずつ持つようになっている。服だって同じでいい。今日は俺が一着選んで渡すんじゃなく、詩乃自身が何を着たいと思うのかを見てみたかった。


詩乃が店の入口で足を止め、棚に並んだ服へ目を向けた。


「まず、こちらのお店を見てもよろしいですか?」


「もちろん。時間はあるし、詩乃が着てみたいと思うものから、ゆっくり見よう」


「真人様のお好みも、考慮してよろしいのでしょうか」


「うん。それを外せって意味じゃないよ。詩乃が着たいと思えて、そのうえで俺も喜びそうなやつがあるなら、一番いい」


詩乃は少し考えてから頷いた。


「はい。では、両方を満たすものを探します」


そこからが意外に長かった。詩乃は片っ端から服を手に取るわけではない。生地に触れ、色を見て、鏡から少し離れて合わせる。値札より先に縫い目と形を見るのは、いかにも詩乃らしい。


俺なら最初に黒か白へ目が行く。詩乃はその棚も見たが、しばらくして深い青緑のワンピースを手に取った。


色は落ち着いていて、首元も露出は少ない。ただ、上半身は身体に沿う生地で、胸元から細い腰へ続く線がかなり分かりやすい。膝下へ落ちるスカート部分だけが、歩けば柔らかく広がる形だった。


「これを試着してみたいです」


「うん。俺も着てるところ見てみたいな」


詩乃がワンピースを自分の身体へ当てる。


「色は私が気になりました。形は、真人様がお好きそうなものを少し意識しています」


「そこは残すんだ」


「はい。私が着たいことと、真人様に喜んでいただきたいことは、両立できますので」


それなら、いかにも詩乃らしい。


試着室のカーテンが閉まる。数分後、開いた。


一瞬、返事が遅れた。青緑の色が白い肌と長い黒髪によく映える。それより問題なのは形だった。布地が胸の丸みを隠さず、その下で一度細くなり、腰から裾へ広がっている。露出はほとんどないのに、いつもの外出着より体つきがはっきり分かった。


詩乃が鏡の前で半歩だけ身体の向きを変える。


「真人様」


「ん?」


「どうでしょうか」


「……かなり似合ってる」


「間がありました」


「理由は分かってるだろ」


詩乃の耳が、ほんの少し赤くなった。


「はい」


「色もいい。自分じゃ思いつかなかったけど、詩乃にはすごく合ってる」


「ありがとうございます」


詩乃が鏡の中の自分をもう一度見る。


「では、これにしたいです」


「うん。俺もそれがいいと思う」


「買っていただいてもよろしいでしょうか」


こういうところで、きちんと確認を取るのは詩乃らしい。


「もちろん。最初からそのつもりだよ」


「ありがとうございます、真人様」


会計を済ませると、詩乃は元の服へ戻らず、そのまま着ていくことを選んだ。店員にタグを外してもらい、着てきた服を袋へ入れる。


店を出て少し歩いたところで、詩乃が俺の左腕を見る。


「真人様」


「ん?」


「このまま、腕を組んで歩いてもよろしいでしょうか?」


人前でそう聞かれたのは初めてだった。


「もちろん」


詩乃の腕が絡むと同時に、二の腕へ柔らかな重みが触れた。さっき試着室の前で散々見たはずなのに、見るのと触れるのは別だった。上半身に沿うワンピースのせいか、いつもより存在感が分かりやすい。思わず前だけを見る。


「歩きにくいでしょうか」


「いや。歩く方は問題ない」


「では、別の問題でしょうか」


「分かってて聞いてるだろ」


「はい」


詩乃の頬が熱を帯びる。それでも離れる気はないらしい。むしろ腕を抱くように、少しだけ身体を寄せてきた。


俺の方まで妙に意識してしまう。四十五歳にもなって、人混みの中で恋人と腕を組んだだけでこんなに落ち着かなくなるとは思わなかった。でも、不快ではなく、むしろ、このままもう少し歩きたかった。


◇


昼は、駅から少し離れた古い洋食屋へ入った。二十代の頃、給料日のあとに何度か来た店だ。店内は改装されていたが、壁際の木製ベンチと、少し甘いデミグラスソースの匂いは覚えていた。


「ここは、真人様が以前から利用されていたお店ですか?」


向かいの席に座った詩乃がメニューを開く。


「若い頃にな。頻繁に来るほどお金なかったから、給料入った後とか」


店へ入る前は、もっと立派な場所だったような気がしていた。たぶん店が縮んだんじゃなくて、二十代の俺が勝手に大きく見ていただけだ。


「最初に来た時は、メニューの中で一番高いハンバーグ頼んだんだよ。別に大した値段じゃないのに、給料で好きなもの食えるのが妙に嬉しくて」


「その頃の真人様は、お一人だったのですか?」


「一人だよ。仕事終わりに寄って、腹いっぱい食べて帰ってたな」


「では今日は、当時とは違いますね」


向かいにいる詩乃を見る。青緑の袖が、古い木のテーブルの上で目立っていた。


「だな。だいぶ違う」


詩乃がメニューから目を上げる。


「今日ここを選ばれたのは、当時真人様が嬉しかった味を、私にも食べさせたいと思われたからでしょうか」


「そう。昔の俺が、ちょっと贅沢した気分になってた味を詩乃にも食べてもらいたかった」


「では、同じものをいただきます」


「魚の方も見てなかった?」


「気になっています。ですが今日は、真人様が好きだったものを知りたいです」


そんなふうに言われると、若い頃に一人で食べていた時間まで、少しだけ別の意味を持ったような気がした。


「じゃあ、次に来た時は魚にしようか」


「はい。その時は自分で選びます」


二人ともハンバーグを頼んだ。料理が来るまでの間、詩乃がワンピースの袖を指先で整える。


「服、自分で選ぶの楽しかった?」


「はい」


「俺の好みを入れたせいで、結局そっちに寄りすぎたりしない?」


詩乃は首を横へ振った。


「いいえ。色は私が選びました。形は真人様に喜んでいただけるものを意識しました。その組み合わせを私自身が着たいと思ったので、同じではありません」


「なるほど」


「真人様に合わせることをやめたいわけではありません」


詩乃がそう言って、自分の袖を見る。


「私がそうしたいことと、自分で選ぶことを、両方できるようになったのだと思います」


それなら、今の詩乃には合っている気がした。


やがてハンバーグが届く。俺が昔より少し味が薄く感じる一方で、詩乃は一口ずつ確かめるように食べていた。


「どう?」


「はい。デミグラスソースに少し甘みがあります。肉の香りも強すぎません」


もう一口。


「真人様が若い頃に、これを嬉しいと思われた理由を少し想像できます」


「そこまで分かる?」


「味だけではありません。先ほどのお話も含めて、です」


昔一人で食べたものを、今は向かいに詩乃が座って食べている。それだけで、同じ店の同じ料理が別のものに見えた。


◇


食事がひと段落したころ、テーブルの上でスマートフォンが震えた。画面には『母』と出ている。


『たまには顔を見せなさい。父さんも気にしてます』


相変わらず短い。


「ご家族からですか?」


「母親。実家とは別に仲悪いわけじゃないんだけどな。最近ほとんど帰ってないな」


両親はまだ元気だ。姉と妹もいるが、全員それぞれ別に暮らしている。四十五にもなれば、家族がいることと、日常的に顔を合わせることは別だった。


「いつか、お会いする機会はありますか?」


「……まあ、そのうちな」


詩乃が少しだけ姿勢を正した。


「その際は、きちんとご挨拶いたします」


何の挨拶を想定しているのか聞くのが怖くて、そのままスマートフォンを伏せた。


◇


店を出たあと、俺は駅へ戻らず、別の路線へ乗り換えた。


「最後の一か所ですか?」


「そう」


「まだ教えていただけないのでしょうか」


「着いたら分かるよ」


電車で郊外へ出て、駅前からタクシーに乗る。住宅地が途切れ、窓の外に低い山と林が増えてきた頃、詩乃が外を見ながら言った。


「工房より、かなり遠いですね」


「毎日通う場所として見に来たわけじゃないよ」


三十分ほどで、古い門の前に着いた。タクシーが走り去る。門の向こうには、使われなくなった二階建ての建物が見える。その周りを木立が囲み、奥は緩い斜面へ続いていた。


道路側には、不動産会社の小さな看板が立っている。元は企業の研修施設だった土地だ。ネットで売却情報を見つけてから、気になっていた。


「ここですか?」


「そう。俺たちの将来の秘密基地候補」


「秘密基地、ですか?」


「なんか格好いいだろ?」


詩乃が少し笑う。


「はい。格好いいです」


そんなことを真面目な顔で返されると、冗談半分で言ったはずの「秘密基地」が急に現実味を帯びて聞こえた。


道路脇の歩道から、中を眺める。今日は内見を予約していないので、敷地には入らない。それでも、今の自宅や借りた工房とは規模が違うことは分かる。


詩乃も門の向こうへ視線を巡らせてから、こちらを見た。


「マスターは、どんな秘密基地にしたいのですか?」


「そうだな……」


門の横から伸びる塀に沿って、少しだけ歩いた。五月の日差しは明るいが、枝の影へ入ると風が涼しい。車の音は遠く、風が若葉を揺らす音の方がよく聞こえる。古い建物はそのまま住むにはくたびれているが、周囲にこれだけ余白があること自体は魅力的だった。


「工房借りて思ったんだよ。生活する場所と、作る場所を分けるだけでかなり楽になっただろ」


「はい」


「今後もっと設備が増えるなら、いつかまた狭くなる。だったら最初から、同じ土地の中で暮らす場所と研究する場所を分けられたら楽かなって」


俺は門の向こうの斜面を見る。


「地上は普通に暮らす家。それで地下には、めちゃくちゃ広い研究施設が欲しいな。外から見たら普通の家なのに、下へ降りたら秘密基地になってるやつ」


「では、大型設備を地上から直接搬入できる経路と、独立した電源・換気・避難経路も必要ですね」


「詩乃も乗ってきたな」


「秘密基地ですので」


楽しそうに答える詩乃を見て、俺まで笑った。


「どんな基地にするか、考えるだけでも楽しいな」


「はい。では、地上のお住まいについても伺いたいです。マスターは、どのような家を望まれますか?」


「まず風呂は広い方がいい」


「最初が浴室なのですね」


「大事だろ。あとは本棚。PC置く部屋。ソファも大きいやつ」


詩乃が少し考えて、口元を緩める。


「では、食卓はどうされますか?」


「そこは絶対、研究機材を置かない」


詩乃が笑った。


「はい。それは私も希望します」


「俺ばっかり言っててもしょうがないな。詩乃は、どんな家がいい?」


「私、ですか?」


「そう。今度は詩乃の番。遠慮なしで聞きたい」


すぐには答えなかった。服を選んだ時より長く考えている。


「では、服を置く場所が欲しいです」


「服から来たか。でも、それいいな」


「今日、自分で選ぶことを楽しいと感じました。大きな姿見と、服を選べる程度の収納があると嬉しいです」


「ウォークインクローゼットとか?」


「はい。そういうものです」


「了解。詩乃用に広めに取ろう」


「ありがとうございます」


詩乃が少し間を置く。


「それと、寝室は分けなくてよいと思います」


「急にそこ来る?」


「家の希望を聞かれましたので」


「まあ、俺も分ける気ないけど」


「では、一致しました」


真顔で言うから笑ってしまう。


「ほかにもある? せっかくだし、思いつくもの全部聞きたい」


「食事をする場所は、大きな窓のそばがよいです」


「いいな。朝飯とか、気持ちよさそうだ」


「はい。それと、家が広くなっても、食事は今のようにマスターの隣でいただきたいです」


家が大きくなったからといって、食卓の端と端に座る必要はない。そこは俺も同感だ。


「じゃあ、でかいテーブルを買っても、隣に座ろうな」


「はい」


「料理するなら、キッチンも今より広い方がいいか?」


詩乃が少し考える。


「現在より広い方がよいです。私一人で調理するためではなく、マスターが隣に立っても作業を分けられる程度に」


「俺、料理ほとんど詩乃に任せてるけど」


「存じています」


「そこは否定しろよ」


「事実ですので」


笑ってしまった。


「じゃあ、新しい家では俺も少しはやるか」


「はい。ご一緒できるなら、その方が嬉しいです」


家の話をしているだけなのに、欲しいものが少しずつ生活の形になっていく。大きさより、誰がどこに座って、何を一緒にするかの方が想像しやすかった。


古い研修棟の向こうに、午後の光が差している。今すぐ買うつもりはない。ここが本当に候補になるかも、まだ分からない。今日は、欲しい暮らしの形を見に来ただけだ。


「ここ、詩乃はどう思った?」


俺が聞くと、詩乃は少し考えてから首を横へ振った。


「まだ判断できません。建物の状態も、地盤も、周辺条件も確認していませんので」


「だよな」


「ですが」


詩乃が門の向こうではなく、今度は俺を見る。


「またここへ来たいです」


「気に入った?」


「はい。それに、今日のようにマスターと先の暮らしを考える時間も、また持ちたいです」


胸の奥が、妙にくすぐったくなった。


「じゃあ、候補から消さないでおく」


「はい、マスター」


風がもう一度吹いた。青緑の裾が揺れる。朝まで家になかった色が、もうずっと前から詩乃のものだったみたいに見えた。


「帰るか」


「はい」


「また来よう」


詩乃は、迷わず頷いた。



【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】


本作品は「カクヨム」でも連載しています。

「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。


また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。


第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。


ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。

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