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第13話「広がる可能性」

木曜の朝、出社して最初にやったのは、楠《くすのき》へ東湾案件の残件を戻すことだった。客先への週次報告、メーカー回答の確認、次回停止日の調整。俺が抱え続ける理由のない仕事を、担当と期限を決めて渡していく。


「部長」


資料を受け取った楠が、そのまま俺の机の前に残った。


「どうした?」


「最近、私たちに渡す仕事、増えましたよね」


「ああ。俺が抱えたままになってた仕事を、担当に戻すようにしてる。部長が全部持ってたら、組織としてまずいからな」


「それはそうなんですけど」


楠が少し迷ってから、声を落とした。


「なんか、部長がいなくても回るようにしてる感じがするんですよね」


手が止まった。


そこまで先を決めて動いていたわけじゃない。ただ、詩乃《しの》と工房を持って、自分たちの技術で金を稼ぐことを考え始めてから、会社の仕事を以前より意識して人へ戻すようになったのは確かだ。


「そんなつもりはないけど、俺も仕事の仕方を考えるようになったってことだよ」


「仕事の仕方、ですか」


「ああ。何でも俺が抱えるんじゃなくて、任せられるものは任せる。今のところ、辞めるとか異動するとか、そこまで決めてるわけじゃないよ」


「なら、いいです」


そう答えた楠の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。けれど、そのまま席へ戻る気配はなく、まだ何か言いたそうだった。


「心配してた?」


「東湾の引き継ぎが終わる前に消えられたら困ります」


「そこかよ」


「そこです」


言い切ったあと、楠が笑う。冗談めかしていても、引き継ぎの心配はもっともだった。仕事を任せられるのは助かる。だからといって、俺の都合で急に負担を押しつけるようなことはしたくなかった。


「少なくとも、途中で投げて消えたりはしないよ」


「お願いします。部長、最近ちょっと仕事を片づけるの早すぎるんで」


「早く終わらせても文句言われるのか」


「今までとの比較です」


それは反論しづらい。


楠が席へ戻ったあと、俺は一度だけ自分の予定表を見た。


会社を辞める。


まだ決めてはいない。ただ、以前なら選択肢にすら入っていなかった言葉が、今は予定表の外側にぼんやり見えている。


◇


昼休み、総務からメールが届いた。昨日、熱拡散材を第三者評価へ出す可能性が出てきたので、前に提出した外部活動届について総務へ追加確認を入れていた。最初の届出は、勤務時間外の個人的な研究や試作までを想定したものだった。今回は、その先の第三者評価まで進めて問題ないかを確認している。


返事は、今のところ届出の範囲内。ただし、会社の設備・資金・非公開情報を使わず、勤務時間外に行い、会社の顧客へ営業しないこと。継続販売や有償契約へ進むなら、その時点でもう一度確認してほしい、とあった。


なるほど、と思う。今は「外で測ってみる」段階だからいい。金を取って売る段階になれば、もう一度線を引き直す必要がある。面倒ではあるが、その方が後で揉めない。


俺の本業は材料研究ではない。それでも、うちの会社は設備案件を扱っている。熱対策の材料が完全に無関係だと言い切るより、記録を残して確認しながら進めた方が安心だ。


返信へ短く礼を書き、メールを閉じた。


今やるべきことは、辞表を書くことじゃない。まず、自分の仕事と自分たちの研究を、誰に見せても別物だと言える形にしておくことだった。


◇


仕事を終え、会社からそのまま借りた工房へ向かった。鍵を開けて中へ入ると、詩乃がすぐに俺の鞄を受け取った。


「お疲れさまでした、マスター」


「今日は普通だったよ」


「普通、ですか?」


「残業もなかったし、芦屋《あしや》常務からの追加案件もなし。それだけで十分だよ」


「はい。良好です」


詩乃は鞄を置くと、そのまま俺のジャケットを受け取り、ハンガーへ掛けた。続けてネクタイまで緩めてくれる。ここ数日で、仕事帰りのこの流れも自然になってきた。自分でできることは詩乃も承知していて、それでもしたいと言うのだから、最近は素直に任せている。ネクタイを抜いた詩乃が、シャツの襟を軽く整えた。


作業台には無糖のコーヒーとレモンティーが一本ずつ置いてあった。


「またそれ選んだんだ」


俺がレモンティーを見ると、詩乃も視線を向ける。


「はい。酸味と香りの組み合わせを好ましく感じます」


「前より好み増えたな」


「はい。増えました」


その返事が、妙に嬉しい。俺の好みを覚えてくれるのも嬉しいけれど、詩乃自身の『好き』が増えていくのを見るのは、それとは別の楽しさがある。


俺はコーヒーを開けた。せっかくだから、今日会社であったことも話しておこうと思った。


「会社でさ。楠に、俺がいなくなっても回るようにしてるみたいだって言われた」


楠とのやり取りを話し、そのあとで昼に届いた総務の返事も説明した。詩乃は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。


「実際に、以前より業務を移されています」


「やっぱりそう見える?」


「はい。ただし、マスターは退職を決めたから移されているのではありません」


「分かる?」


「帰宅後にお話しされた内容と、現在の予定から判断できます」


詩乃がレモンティーを開ける。


「会社を辞めること自体は、まだ迷ってる」


「はい」


「嫌で逃げたいわけじゃないんだよ。楠たちに途中を押しつけて終わりも違うと思う」


「私も、その方がマスターらしいと思います」


「詩乃は、早く辞めてこっち一本にしてほしいとか思わない?」


詩乃はすぐには答えなかった。少し考えたあと、俺の胸元へ手を伸ばし、シャツの第一ボタンを外す。


「楽になりましたか?」


「……なるほど。まずそっちか」


「はい」


俺が笑うと、詩乃も口元を緩めた。


「私は、マスターが会社を続けるか辞めるかより、マスター自身が後悔しない形で決められることを望みます」


「俺が納得できる方を、ってこと?」


「はい。マスターがお心に従ってお決めになったことなら、私はどこまでもついていきます。ただ、中途半端に仕事を残したことを後悔されるような選び方はしてほしくありません」


まっすぐ言われて、少し照れた。同時に、肩の力も抜けた。


俺は詩乃の頬へ手を添えた。


「じゃあ、決める時はちゃんと決める」


「はい。私は、どちらを選ばれても一緒にいます」


頬へ触れたまま、親指で一度だけ撫でる。詩乃は逃げず、むしろわずかに顔を寄せてきた。


「それ、かなり安心するな」


「では、何度でも申し上げます」


「それはありがたい」


◇


熱拡散材の確認は、必要なところだけに絞った。


初回の試験後も試作を重ね、この日の夕方までに試験片を六枚作り、確認する条件を三つに絞って測り直している。前に出た十六度以上の差が、たまたま一枚だけの結果ではないこと。熱が少ない条件では差も小さくなること。放熱器そのものが足りなければ、材料だけではどうにもならないこと。


この三点はいずれも同じ傾向を確認できた。内部試験としては、次へ進めるだけの結果がそろったと思う。


ただし、商品として性能を確定できる段階ではない。だからこそ、次は別の人間と別の設備で確かめてもらう。


「最初に狙うなら、どの用途がいい?」


前にスマートフォンやノートパソコン、車載機器にも使える可能性があるとは聞いている。でも、使える場所が多いことと、最初の商品に向いていることは別だ。


「高発熱の電源装置、サーバー向け機器、車載の電力変換装置などが候補です」


「スマホよりそっち?」


「はい。高い熱密度が問題になりやすく、温度低下の価値を測定しやすいためです」


詩乃が試験片を持ち上げる。


「発熱部と放熱側の間に入れ、熱を広げて局所的な高温を減らす材料です」


「一点だけ熱くなるのを防ぐ」


「はい。結果として、温度上昇で性能を落とす制御を入りにくくしたり、冷却器やファンの設計に余裕を持たせたりできる可能性があります」


電源装置なら、発熱する半導体と放熱器の間。サーバーなら、狭い場所へ集まる熱を広い面へ逃がす。車載機器なら、限られた空間の中で高温になる電力変換部品の負担を減らす。


「問題は、今の数字を俺たちしか確認してないことか」


「はい」


詩乃の測定結果を、俺たち自身が疑っているわけではない。試験片の状態も温度も、俺よりずっと細かく見えている。


ただ、これから取引をする相手にも、同じように信用してもらえるとは限らない。


「俺たちの工房で、俺たちが条件を決めて、詩乃が測った。買う側から見れば、それだけを信じる理由はない」


「その通りです」


「なら次は、同じ条件を外部の試験機関に渡して、別の装置と別の測定者でも同じ傾向が出るか確認する」


「はい。それが第三者評価として分かりやすいと思います」


次にやることは、ようやくまとまった。問題は、どこへ頼むかだ。試験機関の名前をネットで探すことはできるが、何を測ってもらえば取引相手が信用しやすいかまでは、俺には分からない。


そこで久賀《くが》さんを思い出した。工房の配線や搬入の時も、図面だけでは分からない現場の話をしてくれた。隣で工場を長くやっているなら、測定会社や設備会社との付き合いもあるかもしれない。


「まず、久賀さんに聞いてみようか」


「合理的だと思います」


「人脈は検索できないからな」


「はい。少なくとも、マスターが紹介をお願いできる関係は検索結果には含まれません」


それはそうだ。


◇


久賀さんは、試験会社を直接紹介する代わりに、一人の名前を出した。倉橋玲華《くらはしれいか》。


「測定屋そのものじゃないけど、こういう技術を外へ出す時の段取りを知ってる人です」


そう言われて、まず話を聞いてもらうことになった。


土曜の午前、工房へ来た倉橋さんは、俺より十歳くらい若く見えた。顎の下で切り揃えた黒髪のボブに、濃紺のジャケット。細身で姿勢がよく、低めの声で話す。手には薄いタブレットとペン。第一印象は、柔らかく笑うのに、簡単には頷かなそうな人だった。


「倉橋玲華です。アークブリッジ・キャピタルで、技術系案件の事業化支援と技術デューデリジェンスを担当しています」


「神堂《しんどう》です。今日はありがとうございます。こちらは詩乃。開発と測定を手伝ってもらっています」


詩乃は軽く頭を下げた。


「よろしくお願いいたします」


倉橋さんも会釈する。


「久賀さんから、電子機器向けの熱拡散材を試作されていると伺っています」


「はい。発熱する部品と放熱側の間に入れて、熱が一点へ集中するのを抑える材料です」


俺は作業台の試験片を示した。


「工房では市販材より温度を下げられています。ただ、自分たちで取った数字だけでは外へ出しにくいので、独立した試験機関で再現するか確かめたいと思っています」


「目的は分かりました」


倉橋さんはタブレットへ短く入力する。


「先に私の立場もお伝えします。私は試験結果を認証する側ではありません。前職が電子部品メーカーの技術企画なので、技術DDの入り口までは見ます。そのうえで、必要な試験を独立した機関に組んでもらうのが仕事です」


「その方が助かります」


俺には内部性能は分かっても、第三者評価で何を押さえれば取引相手が信用しやすいかまでは分からない。


「これまでの試験結果を見せていただけますか?」


俺は詩乃を見る。


「詩乃、今のデータ出せる?」


「はい、真人様」


詩乃がタブレット側へ共有できる画面を開く。最初に表示したのは、同じ発熱条件で市販材と比べた結果だった。


画面を追っていた倉橋さんの指が止まる。


「……市販材との差が、十六度以上?」


「標準条件では、はい」


そこで初めて、倉橋さんの目が少し鋭くなった。


「大きいですね。これだけ差が出るなら、『少し性能がいい材料』では済みません。ただ、だからこそ別の設備で確認したい。材料そのものの性能なのか、取り付けや測定系の癖まで含んだ数字なのかは分けておく必要があります」


倉橋さんは、そのまま低発熱条件や固定圧不足、放熱器側が足りない時の記録まで目を通した。さらに、六枚の試験片ごとの製造ログと測定条件を確認していく。


「いいですね。一番よく効いた条件だけを残していない。効果が小さくなる条件も限界も追えていて、試験片を分けても大きく崩れていない。外部試験へ進めるなら、同じ仕様を複数枚用意して、別の測定者と別の装置でも同じ傾向が出るかを見たいです」


「そこまでなら出せます。製法の中核だけは開示しない方針です」


「一次評価なら、それで構いません。必要なのは製造条件そのものではなく、比較条件を再現できるだけの情報です」


何が評価されたのかが、ようやく分かった。十六度という派手な数字だけではなく、そこへ至る条件と失敗側の記録まで残していたこと自体が、次へ進む理由になったらしい。


「うちが技術DDで使っている外部試験機関へ相談できます。一次評価を投資検討のDDとして扱うなら、費用はこちらで持てます。ただし、投資や取引を約束するものではありません。結果が再現できれば、その次に電源機器や電子部品の会社へ有償PoCを持ち込む余地が出ます」


「分かりました。お願いします」


今はまだ、売上の一歩手前ですらない。でも、誰かが金を払って試す価値があるかを確かめる入口には立った。それで十分だった。


◇


倉橋さんは、俺が今も会社員であることも確認した。


「副業の届出は出しています。第三者評価へ進む可能性も追加で確認済みです」


総務からの返信を見せると、倉橋さんは条件を一通り読んで頷いた。


「今の段階なら、第三者評価のために退職する必要はなさそうですね。販売や継続契約へ進む時だけ、もう一度会社側へ確認してください。技術の帰属まで具体化するなら、弁護士や弁理士も入れた方が安全です」


「そこは会社側からも言われています。私費、私物の設備、勤務時間外、会社の資料や顧客情報を使わない形で記録も分けています」


「それなら十分です」


俺は少し迷ってから聞いた。


「……辞めた方が早いですかね」


倉橋さんはすぐには頷かなかった。


「早いかもしれません。でも、今辞めること自体が目的ではないですよね。事業が本業より大きくなった時に決めても遅くないと思います」


その答えは、今の俺にはちょうどよかった。会社へ行くことも、詩乃と工房で作ることも、まだどちらかを捨てる段階じゃない。


◇


翌週の火曜日。外部評価へ出す試験片は、三回に分けて作ることになった。一度の工程状態に偏っていないかを見るためだ。


作業そのものは単純だった。作って、確認して、記録する。二回目の製造で、一枚だけ詩乃が止めた。


「この試験片は外部評価用から除外します」


「何か気になるところがあった? 熱の逃がし方が違うのか?」


「まだ熱試験はしていません。内部配向の確認値が、許容範囲の端へ寄っています」


「配向がずれているのか。何が原因か、分かりそう?」


「現時点では確定できません。ただ、形成時の微細位置補正を担当する精密型の介入回数が、前回より増えています」


高精度な製造補助用ナノマシンの一部を、安定して作り直せないことはもう知っている。詩乃にはずれ自体は見えている。問題は、作る側の精密型に余計な仕事をさせていることだった。


「補正が増えると、その分、精密型にも負担がかかるんだよな。詩乃の身体を保つ方には、影響してないか?」


「いいえ。現在の安全域を外れてはいません」


「そうか。でも心配だから、念のため月曜の夜は詩乃の点検に固定しよう。製造は入れない」


「はい」


「点検してる間、俺もいていい?」


詩乃が一度瞬きをした。


「もちろんです」


「邪魔にならない?」


「なりません。むしろ、いていただきたいです」


その答えに、少し笑った。


「じゃあ決まり。月曜は詩乃の日」


「私の日、ですか?」


「製造でも投資でもなく、詩乃の状態を見る日」


詩乃は一度だけ俺を見て、少し間を置いて頷いた。


「はい。嬉しいです」


「前に約束したからな。製品のために詩乃を削るのはなし」


「覚えています」


詩乃が俺の手の甲へ指先を置く。


「マスターが覚えていてくださることも、嬉しいです」


俺はその指を軽く握った。


「忘れたら怒ってくれていいよ」


「怒る必要はないと思います」


「じゃあ、どうする?」


「思い出していただけるまで、隣でお伝えします」


「そっちの方が効きそうだな」


詩乃が笑った。


◇


その週の金曜の夜。夕食が終わる頃、詩乃が端末を手元へ引き寄せた。


「マスター。投資の運用試験が、今日で十営業日目です」


「ああ、最初に決めた一区切りか」


「はい。結果をご確認になりますか?」


「見せて」


表示された数字を、一度では理解できなかった。


三千二百十四万円。


「……桁、合ってる?」


「はい」


「百万円から?」


「はい。追加資金は入れていません」


もう一度見る。三千二百十四万円。税金の確定前。保有分の現在評価も含む。それでも、十営業日で三十倍を超えている。


「詩乃」


「はい」


「これは、さすがに笑うしかないな」


本当に笑ってしまった。詩乃の口元も少し緩む。


「履歴も見るよ」


「はい、マスター」


全部勝っているわけではない。損失で閉じた取引もある。何もせず見送った記録は、その何倍もあった。


企業開示、価格と出来高、為替、商品市況、マクロ指標、ニュースの時系列、複数市場の相関変化。詩乃はそれらを一つの予測値へ押し込まず、大量の市場状態を並列で持ち、条件が揃った時だけ入っていた。


「履歴を見ると、何でも当て続けたわけじゃないんだな」


「はい。損失で終わった取引もありますし、条件が揃わず見送った判断の方が多いです」


「でも、人間に同じことやれって言っても無理だろ」


「はい。公開されている企業情報、市場価格、出来高、為替、商品市況、マクロ指標、ニュースの時系列を同時に扱うため、専用の超高速分析アルゴリズムを組んでいます。一般的なAIサービスや分析環境を使っても、同じ条件を同じ速度で再現するのは難しいと思います」


「……それは、すごいもの作ったな」


「ちなみに、正式名称は、超高速経済情報統合分析系《万象天秤(ばんしょうてんびん)》です」


「なんだその格好いい名前」


「マスターがお好きかと思いまして」


完全に俺の趣味を把握されている。少し悔しいが、かなり好きな名前だった。


それにしても……三千万か。これをもう一度回せば。


そこまで考えたところで、詩乃が先に口を開いた。


「マスター……今後の投資については、同じ速度で続けることをお勧めしません」


「市場への影響が大きくなるから?」


詩乃はすぐには答えなかった。レモンティーのボトルへ視線を落とし、ほんの一拍置いてから口を開く。


「はい……それと、もう一つ、マスターにお伝えしておくべきことがあります」


「何?」


「確実な情報ではありません。NOESIS(ノエシス)にいた頃、政府系の照会記録や金融・サイバー分野の分析経路を比較した際、同じ系統を指していると思われる『特観《とっかん》』という呼称を、複数の断片で確認しました」


「特観?」


「はい。ただし、確認できたのは呼称と情報の断片だけです。正式な組織名は分かりませんし、現在も活動しているのか、そもそも今も存在しているのかも確認できていません。ただ、通常の省庁や既知の監視制度だけでは説明しにくい情報連携があり、日本国内に、金融・サイバー・技術などを分野横断で観測する非公開組織が存在する可能性があります」


名前だけでも十分に嫌な予感がした。


「今まで言わなかったのは、確度が低かったから?」


「はい。推定にすぎない情報で、マスターへ不要な不安を与える必要性は低いと判断していました。ですが、資産の増加に加えて、事業化と技術開発も進み始めています」


詩乃はそこで一度言葉を切った。


「それらが同じ人物へ集中している事象として観測された場合、マスターへの調査や接触につながる可能性があります。万が一でもマスターに危険が及ぶなら、今の段階でお伝えしておくべきだと考えました」


存在すら確かでない組織の話なら、以前の詩乃が後回しにした理由も分かる。


「分かった。こういうのは、確証がなくても俺たちに関係しそうなら教えて」


「はい。そうします」


熱拡散材。演算核。詩乃。自分の周りにあるものを順番に思い浮かべる。


「……俺たち、もう見られてると思う?」


「分かりません。『特観』が現在も活動しているのか、存在しているのかも確認できていません。今回一度の投資だけで、何かに捕捉されたと判断できる根拠もありません」


そこは少しだけ安心した。けれど、存在するかどうかも分からない相手の話を聞いた直後では、完全には落ち着けない。


「じゃあ、その『特観』が本当にいるとして、俺たちにとって危険なのか?」


「それも判断できません。断片から確認できたのは、複数分野にまたがる照会と分析経路が存在したことまでです。何を目的にし、どこまで権限を持つのかは分かりません」


「秘密組織っぽいものがいるかもしれない、か。俺が読んでる小説なら好きな展開なんだけどな」


「御自身が調査対象になる可能性がある場合でも、お好きですか?」


「そこは別」


詩乃が笑った。俺も少し笑ってから、もう一度数字を見る。


「特観のことは、頭の片隅には置いておこう。実在するかも分からない相手を怖がって、全部止めるのも違うしな」


「はい」


「ただ、投資はいったんここで止める。熱拡散材は予定どおり外部試験を進める。月曜は詩乃の点検。会社のことも、今は急いで決めない」


「承知しました、マスター」


やることを並べ直すと、少しだけ頭がすっきりした。分からない相手のことを考え続けるより、今できることを一つずつ進めた方がいい。


食卓の端に置いた端末を閉じると、詩乃が食器を重ねながら言った。


「次に工房へ行く時の飲み物ですが、マスターのコーヒーは残り一本です。補充しておきます」


その言葉で、今日の工房の作業台が浮かんだ。俺の無糖コーヒーと、詩乃が選んだレモンティー。


「いや、次は俺が買っていくよ」


詩乃が手を止める。


「マスターが、ですか?」


「たまには」


「何か必要な物がありますか?」


「まあ、ちょっとね」


詩乃は俺を見たが、それ以上は聞かなかった。


「承知しました。では、お願いします」


食器を持って台所へ向かう後ろ姿を見ながら、このところ何度も先回りしてくれたことを思い出す。コーヒー、上着、ネクタイ。俺が楽になることを、詩乃は当たり前みたいに先にやる。


その一方で、この数日で知ったこともある。詩乃自身は、レモンティーの酸味と香りが好きらしい。


俺が自分の好みを覚えてもらえるのが嬉しいなら、詩乃も同じかもしれない。そう考えたら、次に工房へ行く日の買い物が楽しみになった。


同じ銘柄にするか。見たことのない少し高いやつにするか。甘さはどのくらいが好きなんだろう。そこは、まだ聞かないでおこう。


台所から戻ってきた詩乃が、俺の顔を見た。


「マスター。何か企んでいらっしゃいますか?」


「企んでない」


「楽しそうです」


「まあね」


「理由を伺っても?」


俺は少し考えて、首を振った。


「今は内緒」


詩乃の目が細くなる。


「はい。では、楽しみにしています」


何かすること自体は、もうばれたが、中身までは分かっていない。


四十五にもなって、コンビニで買える物一つでこんなに考えている。子供の頃、家族への小さなプレゼントを隠していた時も、こんな感じだった気がする。喜ぶかどうかを想像している時間そのものが、妙に楽しい。


次は、俺が詩乃を少しだけ先回りしてみたい。




【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】


本作品は「カクヨム」でも連載しています。

「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。


また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。


第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。


ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。

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