第12話「二人で座れる場所」
五月に入って最初の土曜の朝。玄関へ行くと、詩乃はもう外へ出る準備を終えていた。濃い色の細身のパンツに、薄いグレーのシャツ。長い黒髪は低い位置でひとつにまとめている。
「工房を見に行くだけなんだけどな」
「はい。設備を確認しやすい服装にしました」
「その髪型、いいな」
詩乃が一度瞬きをする。
「ありがとうございます、マスター。今後も作業時にはこういたします」
「気に入った?」
「はい。作業中に髪が邪魔になりにくいですし……マスターにも喜んでいただけましたので」
詩乃が少しだけ笑う。
「そっちも理由に入るんだ」
「はい」
朝から負けた気がした。
◇
昨夜残した三件を、午前から順に見て回った。一件目は写真より住宅に近く、換気設備や機械音を考えると使いづらい。二件目は広いが、搬入口までに狭い階段がある。今の補助演算核なら運べても、今後装置が大きくなれば詰む。
三件目は、少し古い工場が並ぶ一角にあった。道路から入ると、正面に『久賀精研』と書かれた建物がある。その脇に、少し小さな平屋の作業所が離れて建っていた。
不動産会社の担当者がシャッターを開ける。
「以前は、こちらの工場の試作棟として使われていたそうです」
中へ入った瞬間、少し期待した。左右に作業台を置いても真ん中を人が通れる。壁際には棚を並べられる。奥には流し台と、小さな引き戸もあった。何より、食事をする場所に装置を置かなくていい。当たり前のことなのに、それだけで気分が上がった。
「神堂さんですか」
後ろから声がした。五十代後半、俺より一回りほど上に見える男が立っていた。灰色の作業着に、がっしりした肩幅。日に焼けた顔には細かな皺が刻まれている。
「はい。神堂です」
「久賀です。ここの持ち主で、隣の工場をやってます」
差し出された名刺を受け取る。久賀宗一という名前の下に、さっき看板で見た工場名が記されていた。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
俺は詩乃を紹介する。
「こちらは詩乃です。設備設計を手伝ってもらっています」
「詩乃です。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。不動産屋さんから、材料の試作で使うとは聞いてます。何を置く予定です?」
「熱管理材料の試作と比較試験です。今のところは小型装置が中心です」
久賀さんは、まず壁際の古い盤を開けた。
「動力は来てます。ただ、盤から先が古い。使う電力が決まってるなら、入れる前に電気屋へ見せた方がいい」
詩乃が表示を確認する。
「契約容量が足りていても、配線側の確認が必要という意味でしょうか」
「そうです。一か所だけ古い線へ負担集めたら意味ないんで」
次に、俺たちが作業台を置こうとしていた壁を指す。
「そこ、全部詰めない方がいいですよ。壊れた時に裏へ入れなくなる」
「背面保守の空間ですね」
「ええ。置けるのと、後で直せるのは別です」
詩乃なら、装置寸法も発熱もケーブルの曲げ半径も計算できる。それでも、長く現場を使ってきた人が最初に見る場所は少し違う。搬入口にも問題があった。小型トラックなら寄せられるが、雨の日は入口の一部に水が溜まりやすいらしい。
「精密機械なら、荷下ろし位置は手前にした方がいいですよ」
写真では分からない情報だ。詩乃がまた確認項目を増やす。
奥の引き戸を開けると、古い机と、二人掛けには少し狭い長椅子が残っていた。
「ここは元々、休憩と図面を見る場所です。倉庫にしても構いません」
詩乃が室内を見る。
「消耗品と予備材料の保管に使用すれば、作業室側を広くできます」
「ここは休憩場所のまま使いたい」
俺が言うと、詩乃がこちらを見る。
「二人で座れる場所は残そう。材料は別に置けばいい」
「はい」
横で久賀さんが少し笑った。
「休む場所は潰さない方がいいですよ。詰め始めると、最後は机の上で飯食うことになりますから」
俺と詩乃は同時に黙った。まさに今、それに近い。
「……経験あります」
俺が言うと、久賀さんは何も知らないまま頷いた。
三件目で、ほぼ決まった。
◇
その場で即決はしなかった。三件を見終えたあと、駅前の喫茶店へ入った。昼を食べながら、それぞれの条件をもう一度並べる。
詩乃は電源、換気、搬入、床の振動、それから将来、高真空装置や精密位置決め機構を置ける余地まで比較した。俺は賃料、初期費用、解約条件、会社と混ざらない契約になっているかを見る。
「俺は三件目でいいと思う」
「はい。私も三件目を推奨します。最安ではありませんが、増設余地と搬入経路、それから休憩場所を維持できます」
そこを条件に入れるようになったらしい。
「じゃあ、申し込もうか」
「はい、真人様」
外でそう呼ばれると、まだ少し照れくさい。
◇
日曜は、家の中の装置を箱へ詰めるだけでは終わらなかった。工房へ何を入れるか、詩乃と一日かけて決めた。
今あるのは、補助演算核、家庭用の部品を改造して作った小型製造ケース、仮設の冷却系、材料保管箱。これだけでも試作品は作れる。ただ、商品候補として熱拡散材を評価するなら、家の食卓でやっていたような試験では駄目だ。入力電力、温度、固定圧、絶縁性を条件ごとに記録し、同じ試験を何度でも再現できる環境が要る。
詩乃が購入候補を並べた。プログラム可能な直流電源と電子負荷、多点温度を記録するデータロガーと校正済みセンサー、絶縁抵抗計と電力計。固定圧を一定にできる試験治具に、材料の乾燥と雰囲気管理に使う、小型の真空容器と乾式ポンプ。作業台、局所排気、安全保管庫、冷却水系。
市販品だけなら、どれも珍しい装置ではないが、一式にすると安くない。
「工房の初期費用と電気・換気の工事まで入れて、四百五十万前後か」
「はい。一部は中古品でも構いませんが、電源系と計測系は履歴の分かるものを推奨します」
先日決めた五百万円の枠に、ぎりぎり収まる。精密型ナノマシンを作り直すための設備ではない。そこはもっと先だ。まず、外へ売る熱拡散材を自分たちで安定して作り、数字を残すための研究環境を整える。
「全部すぐ届く?」
「いいえ。電源とセンサー類、作業台は数日。真空容器と乾式ポンプは一週間程度。排気工事と電気工事は物件引き渡し後です」
「じゃあ、鍵もらったら一気に完成、ではないな」
「はい。先に届く設備から順番に立ち上げます」
納期のかかる計測機器や試験治具は、申込が通った段階で工房宛てに発注した。会社の金も配送先も使わない。そこだけは最初からきっちり分ける。
投資の運用試験も、月曜から始めることにした。詩乃は日曜のうちに、公開情報だけを統合して判断する専用の分析環境を組み上げ、百万円だけを運用口座へ分けた。
「もう準備できたのか?」
「はい。月曜日の市場開始から運用できます」
「早いな」
「必要な制限と監査ログも設定済みです」
少し得意げに見えたので、それ以上は口を挟まなかった。
◇
週が明けて、書面と支払いを済ませた。火曜の夕方には鍵を受け取る。初日は、家から補助演算核と小型製造ケース、材料類を運び込んだ。
補助演算核のケースは、俺なら一人で抱えて運びたい重さではない。台車を寄せようとしたところで、詩乃が先に取っ手へ手をかけた。
「詩乃、待って。台車使おう」
「大丈夫です、マスター」
詩乃は一度だけ周囲へ視線を向け、それからケースを持ち上げた。そのまま工房の中へ運んでいく。俺なら腰を落として慎重に持つところなのに、歩幅も姿勢もほとんど変わらない。
「……前にも思ったけど、本当に力あるな」
「はい。マスターをお守りするために必要な出力は確保しております。ただし、第三者がいる場合は、人間として不自然に見えない範囲まで身体能力を制限しています」
「それはそうして。変に目立つのは困るからな」
「承知しております」
細身の身体だけ見ていると、いまだに感覚が追いつかない。見た目どおりの人間ではないと分かっていても、こういう時に改めて実感する。
翌日には、作業台と棚、直流電源、電子負荷、データロガーとセンサー類が届いた。真空系と排気工事はまだ先だ。
設備が届くたび、詩乃はそのまま使わなかった。直流電源と電子負荷の制御ソフトを外部から閉じた専用PCへまとめ、センサー配線は余計な長さを減らして引き直す。固定圧を与える市販治具は一度ばらし、接触面をナノマシンでわずかに削って平坦度をそろえた。温度センサーの取り付け位置も、同じ条件で何度でも戻せるよう、専用の位置決め部品を作る。
「これ、もう元の製品と別物じゃない?」
俺が聞くと、詩乃は治具を確認しながら答えた。
「基本機能は同じです。再現性を上げるため、不要な誤差要因を減らしています」
市販の研究機器を基礎にして、詩乃が必要な精度まで調整する。先日話した、精密型を作り直すための設備も、最終的にはこういう発想の延長になるのかもしれない。ただし、今の改造は一般型ナノマシンでできる範囲だけだ。
「精密型は使ってない?」
「この治具調整には使用していません」
「それなら安心した。次の工程でも、精密型を使うかどうか教えてもらえると助かる」
詩乃が頷くのを見て、俺も治具へ目を戻した。どこで何を使っているかを知っておけば、無理がありそうな時に一緒に立ち止まれる。
◇
その水曜の夜、会社帰りに立ち寄ると、室内はもう工房らしい形になっていた。補助演算核と小型製造ケース。電源と負荷装置、比較試験用の発熱体と放熱器、固定圧治具、多点温度センサー。
まだ空いている場所には、来週届く真空容器と乾式ポンプを置く予定だ。
食卓の上に置いてあったものが移っただけじゃない。自宅では仮設だったものが、市販設備と組み合わさって、少しずつ研究設備になっている。
「接続状態、正常です」
詩乃が一つずつ立ち上げる。補助核が動き、製造ケースの制御がつながり、比較試験側のセンサー値が一覧へ並ぶ。返事に遅れはない。
「工房に移しただけでも違う?」
「はい。電源と冷却を家庭側から分けられたことと、身体保守用の処理と試作設備を同じ制約下へ置かなくてよくなったことが大きいです」
「これで、詩乃の負担も少しは減る?」
「はい。少なくとも、家庭側の電力や冷却と競合することは減ります」
「精密型そのものが戻るわけじゃないけど、無理をする理由は一つ減ったってことか」
「はい」
全部が解決したわけではない。それでも、詩乃が自分の保守を後回しにしなくて済む条件が一つ増えた。それだけでも、この場所を借りた意味はあった。
◇
最初の熱拡散材は、家から持ってきた小型製造ケースで作った。真空系がまだ届いていないので、商品化を想定した工程ではない。まずは、設計した構造に性能差があるかを見るための一枚だ。
灰色がかった白い薄板を、比較用の発熱体と放熱器の間へ固定する。片方は市販の高性能な熱伝導材で、もう片方が、詩乃の試験片。
「条件は?」
「入力電力、周囲温度、固定圧、放熱器、測定位置をそろえています。測定系は、先ほど校正した外部センサーと、私自身の観測を併用します」
「始めよう」
数字が上がり始める。最初の数分は似たようなものだったが、そこから差が出た。市販品側は発熱体の中心付近だけが先に上がる。試験片側は中心の上昇が鈍い代わりに、少し離れた場所の温度も上がっていく。
「広がってるな」
「はい。発生した熱を消しているのではなく、局所へ集中する前に周囲へ逃がしています」
十数分後、市販品側の最高温度は七十八・四度、試験片側は六十一・七度。表示を二度見した。
「……市販品より、十六度以上も下がってる……?」
「今回の条件では、そうなります」
俺は新しく入れたデータロガーの値をもう一度見る。詩乃の観測結果だけじゃない。市販の温度センサーも、同じ方向の差を出している。
「測定ミスは?」
「現時点では確認できません。ただし、一回の試験だけで性能を確定するべきではありません」
詩乃が別の表示を出す。試験片側は、中心から離れた場所の温度が市販品側より高い。ちゃんと熱が移動している。
「制御盤や電源だけじゃなく、スマホとかサーバーにも使えるって話だったよな」
「はい。高性能半導体、車載の電力変換装置、LEDなども候補です。ただし、最初の商品用途は高発熱の電源装置など、性能差を評価しやすい分野が適しています」
薄い一枚を挟むだけで、既存の冷却を働かせやすくする。用途を考えると、前より商品の姿が見えた。
「これ、思ってたより市場でかいな」
「用途候補だけで判断すれば大きいです。ただし、今確認できたのは一条件での内部試験だけです」
「もう売れる段階かな?」
「まだです」
迷いのない返事だった。
「耐久性、製造ばらつき、異なる固定圧、熱源形状による差を確認する必要があります。外部へ性能を示す場合は、第三者評価も必要です」
「だよな」
それでも、にやけるのは止められなかった。俺と詩乃で作った一枚が、ちゃんと数字を動かした。
「マスター、嬉しそうです」
「嬉しいよ」
「私もです」
詩乃も同じように喜んでくれている。それが分かると、並んだ試験結果をもう一度見たくなった。
◇
片づけが終わると、奥の小部屋へ入った。古い長椅子は処分し、小さな二人掛けを一つ置いた。作業設備の中では一番安いが、俺はこれが一番気に入っていた。
二人で腰を下ろすと、さっきまで張っていた肩の力が抜けた。隣の詩乃も、背もたれへそっと身を預ける。
「座ってみると、ちょうどいいな。ここを材料置き場にしなくてよかった」
「はい。マスターとこうして休める場所を残してくださって、嬉しいです」
「俺も、ここで一緒に休みたかったからさ。次はお茶を飲めるものも持ってこようか」
「でしたら、私が用意します。休憩にお誘いする楽しみが増えました」
嬉しそうに言われて、俺も笑った。工房へ来る理由が、また一つ増えた気がする。
詩乃の手が俺の手の横へ来る。俺が手のひらを上へ向けると、指が一本ずつ間へ入ってきた。
「一人で座るより、こちらの方が好きです」
「俺も」
それ以上は言葉にしなかった。詩乃が少しだけ顔を寄せる。俺も同じように近づき、唇がそっと触れた。
試験結果も見ず、次の設計も決めない。休む場所を残した意味は、たぶんこういうことだ。
◇
家へ戻ると、食卓が妙に広かった。演算核も材料ケースもケーブル箱もなくなっただけだ。俺はマグカップを、何も避けずにいつもの場所へ置く。
「やっと食卓に戻ったな」
「はい」
詩乃が夕食を並べる。結局、座る位置は以前と同じで俺の隣だった。
食べ始めて少しして、詩乃が端末へ一つだけ数字を出す。
「運用試験の途中経過をご確認になりますか?」
「うん、見せて」
表示された評価額を見て、箸が止まった。
百八十四万円台。
「……これ、百万円からだよな?」
「はい」
「三営業日で?」
「はい。現金残高と保有分の評価額を合わせた現在価値です。ただし、短期間の一結果です」
「分かってる。でも、すごいものはすごい」
詩乃の口元がわずかに緩む。
「最初の試験は、十営業日を一区切りにします。その時に判断根拠と見送った判断もまとめます」
工房では、薄い板一枚で温度が十六度以上変わった。投資では、百万円が三営業日で百八十万円を超えた。数字だけを見れば、どちらも少し現実離れしている。
それでも目の前では、詩乃がいつも通り俺の隣で味噌汁を飲んでいる。
俺もマグカップへ手を伸ばした。何も避けずに、いつもの場所へ置ける。それだけのことが妙に嬉しい。
工房では二人で研究をして、家へ戻れば隣で飯を食う。やることは増えたのに、前より二人の暮らしの形が整ってきた気がした。
【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】
本作品は「カクヨム」でも連載しています。
「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。
また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。
第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。
ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。




