第9話 嘘の地図
◆朝のロイド
翌朝、慎は早めに屋敷を出て、ロイドの執務室を訪ねた。
手には、昨夜まとめた手帳のメモと、土地関係の書類の写しを携えている。前世でいうなら、役員会の前日に監査報告書を最終確認する感覚に近かった。証拠が揃ってきたとき、一番慎重になるべき瞬間だ。
「来るだろうと思っていた」
ロイドは、すでに机に書類を広げて待っていた。
「昨夜のまとめです」
慎は、手帳の該当ページを開いてロイドの前に置いた。
ロイドは黙って読んだ。途中、一度だけ顔を上げて、慎を見た。
「土地の収穫記録と集金記録の差額、これは確認済みか」
「はい。五年分の記録を突合せしました。差額の合計は、三年分で相当な額になります」
「具体的には」
「バルトの横領総額のうち、この土地分だけで約三割を占めています。残りは他の領地からの同様の操作と、教会への寄進の水増し分です」
ロイドは、静かに息を吐いた。
「整理すると、こうなるな。バルトはこの土地の税収を低く見せかけることで差額を横領しつつ、同時に土地の収益性も低く偽装することで、資産価値を下げた。その上で、教会系の財団への安値売却を準備していた」
「そういうことです」
「そしてその財団の背後には、グレイ主教がいる可能性が高い」
「はい。カシアンのヴェルナ出身という事実と、財団の設立時期、グレイ主教の就任時期が全て三年前後に集中しています。これは偶然とは考えにくい」
ロイドは、机の上に、自分の持っていた書類を一枚加えた。
「実は、昨夜一つ追加の情報が入った。聖ヴェルナ教会財団の登録書類を改めて調べたところ、設立時の出資者の一人として、仮名と思われる人物の名前があった。その仮名を解析すると、グレイという名の頭文字と一致する可能性が高い」
「つまり、グレイ主教が財団の設立に直接関わっていた、ということですか」
「証明はできない。だが、状況証拠としては強い」
慎は、頭の中の構図が、さらに鮮明になるのを感じた。
(グレイ主教がヴェルナを拠点に財団を作り、カシアンを王都に呼び寄せ、バルトを使って伯爵家の資産を抜き出す仕組みを三年かけて作り上げた。そして最終目標は、鉱山を持つ土地の取得——)
「ロイド殿。この鉱山について、実際の価値はどの程度のものか、専門家に確認してもらえますか」
「鉱山の価値か。確かに、それによって売却の不当性の程度も変わる」
「はい。差額が小さければ、単純な横領で済む話ですが、大きければ——」
「伯爵家の主要資産を根こそぎ奪う計画になる」
「そうです」
ロイドは立ち上がり、窓の外を見た。
「分かった。今日中に、鉱山の専門家に連絡を取る。ただ、一つ懸念がある」
「何ですか」
「動きが速くなっている。お前が調査を続けていることは、ソフィアを経由してグレイ主教の耳にも入っているはずだ。向こうが、先手を打ってくる可能性がある」
「先手、というのは具体的に」
「売却を強引に進める。父上への圧力を強める。あるいは——」
ロイドは、少し間を置いた。
「お前を再び、何らかの形で追い詰める」
慎は、静かに頷いた。
「覚悟はしています」
「覚悟があっても、一人でいる時間は減らせ。牢の中では守れたが、外では難しい」
「分かりました。注意します」
◆鉱山調査の結果
その日の午後、ロイドから書状が届いた。
予想より、ずっと早かった。
開封すると、簡潔な一文が書いてあった。
「鉱山の専門家による初期評価が出た。直接会って話したい。今夜、いつもの執務室に来られるか」
慎は、すぐに返事を出して、夕方にロイドの元へ向かった。
執務室には、ロイドと、初めて見る壮年の男性が一人いた。髭を蓄え、日焼けした肌に、職人特有の手をしている。
「鉱山技師のモルトだ。王室の地下資源調査を長年担当している」
「ジル・ヴァンディアールです」
慎が名乗ると、モルトは職人らしい率直な目でこちらを見た。
「あの土地の測量記録を見せてもらった。三年前の調査結果だな」
「はい」
「あの調査は、半端なところで止まっている。本来なら、さらに深部まで掘削して確認すべきだったのに、表面の地層調査だけで終わっている。誰かが、意図的に調査を止めた可能性がある」
慎は、メモを取りながら聞いた。
「表面の調査だけで、どの程度のことが分かりますか」
「地表の岩石構成と鉱脈の走り方から、ある程度の規模は推測できる。あの土地の場合——」
モルトは、机の上に広げた地図を指差した。
「この地層の走り方は、王国北部の大鉱山と同じ地質帯に属している。北部の鉱山は、今この国で最も産出量の多い鉄鉱石の産地だ。あの土地がその地質帯に入っているなら、同等かそれ以上の鉱脈がある可能性は、十分にある」
「つまり、土地の価値は」
「農地として売るなら、帳簿上の価格に近い。だが、鉱山として開発するなら——」
モルトは、少し言いにくそうに続けた。
「農地としての売値の、数十倍から、場合によっては数百倍になりうる」
しばらく、執務室に沈黙が落ちた。
ロイドが、静かに言った。
「数十倍から数百倍か」
「あくまで可能性の話だ。実際に掘削して確認しなければ、確定的なことは言えない。だが、可能性としては十分にある」
「ありがとうございます、モルトさん。非常に助かりました」
慎が礼を言うと、モルトは立ち上がり、無言で頷いて部屋を出ていった。
二人になったところで、ロイドが口を開いた。
「数十倍から数百倍。これは、単純な横領や不動産詐欺の話ではない」
「はい。もしこれが本当なら、グレイ主教は伯爵家の資産の中から、将来的に王国最大級の鉱山になりうる土地を、農地の価格で手に入れようとしていたことになります」
「その利益は——」
「グレイ主教の組織、あるいはその背後にいる何かに流れていく」
慎は、手帳に数字を書き込んだ。
(これは、もう伯爵家一家の問題ではない。国家レベルの資産に関わる話だ)
ロイドも、同じことを考えていたらしかった。
「この案件、私の権限を超えてきた。国王陛下に直接報告する必要があるかもしれない」
「いつ、動きますか」
「証拠をもう一段固めてから。ソフィアとグレイ主教の直接の繋がりを確認できれば、陛下への報告の材料が揃う」
「では、私の方でも動いてみます」
「どうするつもりだ」
「ソフィア様に、直接話を聞きます」
◆ソフィアとの対話
翌日の午前、慎はソフィアに面会を申し込んだ。
返事はすぐに来た。午後に、ソフィアの部屋でお茶を、ということだった。
(向こうも、こちらの動きを把握している。だから、すぐに応じた。逃げるつもりはない、ということかもしれない)
慎は、この会話で何を確認すべきかを、事前に整理した。
目的は、ソフィアを追い詰めることではない。今の段階では、まだそれをする根拠が足りない。目的は、ソフィアの反応を見ることと、一つだけ、直接確認したいことがあった。
午後、ソフィアの部屋に通された。広い窓から午後の光が差し込む、上品な部屋だった。すでにお茶の準備が整っていた。
「来てくれたのね」
ソフィアは、微笑みながらそう言った。その微笑みは、自然に見えたが、目の奥に何かが隠れているのを、慎は感じた。
「ありがとうございます、お義母様。お時間をいただいて」
「あなたが話したいというから。何かしら」
慎は、お茶を一口飲んでから、静かに切り出した。
「ヴェルナ街道沿いの土地の件です。父上から、売却を検討しているというお話を聞きました」
「そうよ。伯爵家の財政を安定させるために、整理できる資産は整理した方がいいと思って」
「聖ヴェルナ教会財団への売却、という話ですね」
ソフィアの表情が、わずかに変わった。ほんの一瞬だが、慎はそれを見逃さなかった。
「……その財団のことを、どこで知ったの」
「売却の書類に、記載がありました。財務担当として、確認しました」
「そう」
ソフィアは、お茶を一口飲んだ。
「あの財団は、信頼できる組織よ。適正な価格での取引だわ」
「その『適正な価格』の根拠について、確認させていただけますか。あの土地には、三年前に地下資源の調査が行われています。その調査結果を踏まえた価格設定になっていますか」
今度こそ、ソフィアの表情が明確に変わった。
微笑みが、わずかに固まった。
「地下資源の調査……あなた、そんなことまで調べたの」
「財務担当として、資産の正確な価値を把握することは、私の仕事です」
「……大した働きぶりね」
ソフィアは、しばらく慎を見つめていた。その目は、先ほどまでの微笑みとは打って変わって、値踏みするような、鋭い光を持っていた。
「ジル。あなたに一つ聞いていいかしら」
「はい」
「なぜ、そこまでするの。あなたは伯爵家の三男。たとえ財務を担当していても、それほど深く踏み込む必要はないはずよ。なぜ、わざわざ」
慎は、ためらわずに答えた。
「矛盾を見つけたら、正したくなるからです。それが、私の性分です」
ソフィアは、しばらく慎の顔を見つめていた。
「……あなた、本当にジルなの?」
「そうですよ」
「以前のジルとは、まるで違う」
「処刑を目前にすると、人は変わるものです」
ソフィアは、また微笑んだ。今度の微笑みは、先ほどよりも、何か含みを持っていた。
「そう。まあ、いいわ。土地の件は、もう少し待ってもらえる。あなたが調べたいのなら、調べてみれば」
「ありがとうございます」
「ただし、一つだけ」
ソフィアは、声のトーンを落とした。
「あまり深いところまで首を突っ込まない方が、身のためよ。あなたはもう一度、痛い目を見たいわけではないでしょう」
それは、明確な牽制だった。脅しと取ることもできる言い方だった。
慎は、表情を変えずに答えた。
「ご忠告、ありがとうございます。気をつけます」
その後、お茶の時間は当たり障りのない話で続いて、慎は部屋を辞した。
◆廊下での確信
ソフィアの部屋を出て、廊下を歩きながら、慎は今の会話を反芻した。
(地下資源の調査について触れた瞬間、表情が変わった。知っていた、ということだ)
そして、最後の牽制。「深いところまで首を突っ込まない方が、身のため」——これは、相手が焦っているときの反応だ。余裕があれば、もっと別の言い方をする。
(ソフィアは、こちらの調査の速度に、焦りを感じている)
だが、同時に慎は、別のことも考えていた。
ソフィアが本当に全てを知っているのか、あるいは自分自身も一部だけしか知らないのか。グレイ主教の計画の全容を、ソフィアは把握しているのか。
(利用されている側の可能性も、ゼロではない)
前世の監査でも、不正に関与した人物全員が、全容を知っているわけではなかった。知らないまま、都合のいい役割を担わされている人間も、少なくなかった。
(ソフィアが、グレイ主教に利用されているとしたら——その構図も含めて、明らかにする必要がある)
自室に戻ると、エミリアが待っていた。
「ソフィア様と話してきたの」
「ええ」
「どうだった」
「予想通り、というか、予想以上でした」
慎は、会話の内容を簡潔に伝えた。エミリアは黙って聞いていたが、最後の「身のため」という言葉のところで、眉をひそめた。
「……脅されたのね」
「牽制、という方が近いですね。直接的な脅しではないので、証拠にはなりません」
「でも、そういうことを言うということは——」
「こちらが、何かに近づいていることを、向こうも認識している、ということです」
エミリアは、少し考えてから言った。
「次は、どう動くの」
「ロイド殿と相談して、グレイ主教への直接的なアプローチを検討します。ソフィア様経由では、もう情報の入手が難しくなってきました。別の経路を使う必要があります」
「別の経路、というのは」
「グレイ主教の就任前の経歴——ヴェルナにいた頃の記録。そこに、何かが必ずある」
慎は、窓の外を見た。遠くに、大聖堂の尖塔が見える。
「あの男が何者なのか。それさえ分かれば、全部が繋がる」
◆夜の書状
その夜遅く、屋敷の外からの使いが、一通の書状を届けてきた。
宛名は、ジル・ヴァンディアール。差出人の名はなかったが、封蝋には、慎が見たことのない紋章が入っていた。
精巧な細工の、灰色の封蝋だった。
(グレイ主教から、か)
慎は、書状を慎重に開封した。
中には、短い文章が書かれていた。
「ヴァンディアール伯爵家のジル様へ。一度、お目にかかりたい。明後日の午前、王都大聖堂の来訪者応接室にて。お越しいただけるなら、喜んで歓迎いたします。グレイ」
慎は、書状を読み返した。
(グレイ主教が、直接会いたいと言ってきた)
これは、どう解釈するべきか。
一つは、こちらの調査を知って、牽制しに来る可能性。ソフィアが牽制したのと同じ意図で、直接対話することでこちらを探ろうとしている。
もう一つは、逆に、こちらの能力を認めた上で、何らかの取引を持ちかけてくる可能性。
あるいは——罠。
(どれの可能性が高いか)
慎は、三つの可能性を頭の中で検討した。
牽制なら、行っても情報を引き出すことができる。取引なら、相手の目的をより深く知る機会になる。罠なら——ロイドに状況を共有した上で行けば、孤立することは避けられる。
どの可能性であっても、行くことのメリットは、行かないことのメリットを上回る。
(決まりだ)
慎は、すぐにロイドへの書状を書き始めた。グレイ主教からの招待の内容と、自分が行くつもりであること、そして事前に状況を共有したいということを、簡潔に記した。
書き終えて、封をする。
明後日——グレイ主教と、初めて直接向き合う日。
前世でいうなら、不正の主犯に対する最初のヒアリングに相当する場面だ。
(準備が必要だ。何を聞くか、何を見るか、何を話さないか)
慎は、手帳を新しいページに開いた。
◆準備の夜
まず、聞くことを整理する。
グレイ主教に直接確認できるのは、この機会だけかもしれない。向こうも、こちらの手の内を探ろうとしてくる。情報を引き出しながら、こちらの情報は最低限しか渡さない。前世のヒアリングでも、常にそこが勝負どころだった。
「確認したいこと、その一」
慎は声に出さず、頭の中で整理した。
ヴェルナとの繋がり。グレイ主教がヴェルナ出身かどうか、直接聞くことはできない。だが、話の流れの中で、ヴェルナという地名に対する反応を見ることはできる。
「確認したいこと、その二」
カシアンとの関係。カシアンは今も礼拝堂の聖域内にいる。グレイ主教が彼を呼び寄せた経緯を、どう説明するか。
「確認したいこと、その三」
聖ヴェルナ教会財団との関係。これは直接聞くのは難しい。だが、もし向こうが取引を持ちかけてくるなら、その内容の中に、財団への言及があるかもしれない。
「話さないこと」
土地の鉱山価値については、まだ伏せておく。こちらが知っていることを、全部見せる必要はない。前世の監査ヒアリングでも、手の内を全部明かす前に、相手の反応を見ることが重要だった。
(持っている証拠の七割は見せない。残りの三割で、相手がどこまで知っているかを測る)
慎は、手帳に要点を書き終えてから、次のページに、もう一つのことを書いた。
「グレイ主教が、なぜ今このタイミングで直接会おうとしているのか」
これが、一番重要な問いだった。
ソフィアの牽制が効かなかったから、自分で出てきたのか。あるいは、別の理由があるのか。
(向こうが動いてきた、ということは、こちらの調査が、何かに触れた、ということだ)
何に触れたのか。土地の鉱山か、財団の設立経緯か、それともグレイ主教の経歴の空白か。
どれに触れたとしても、向こうが焦っていることは確かだ。
(焦っている相手は、ミスをしやすい)
前世の監査で、不正を行った担当者がヒアリングに呼ばれたとき、最も多くのミスをするのは、事前に準備しすぎて、逆に矛盾が増えるケースだった。言い訳を用意すればするほど、その言い訳の間の矛盾が大きくなる。
グレイ主教も、何かを言い訳しようとしてくるはずだ。そのとき、どこに矛盾が生まれるかを、冷静に観察する。
夜が深くなるにつれて、慎の頭の中の準備は、少しずつ整っていった。
ロイドへの書状は、早朝に使いを出せば午前中には届く。エミリアには、大聖堂への訪問について話しておく必要がある。アルベルトにも、一応知らせておいた方がいいだろう。
一人で動くより、複数の人間が状況を把握していた方が、万が一のときに対応できる。
(孤立しないこと。これが今の最優先事項だ)
慎は手帳を閉じ、部屋の灯りを落とした。
窓の外、夜の王都の向こうに、大聖堂の尖塔が暗闇の中に浮かんでいる。
明後日、あそこに行く。
グレイ主教と向き合う。
(前世で、何十回やってきたことだ。場所が変わっても、やることは同じだ)
慎は、目を閉じた。
珍しく、すぐに眠気が来た。
準備が整ったときの、いつもの感覚だった。
(第10話に続く)




