第10話 灰色の男
◆大聖堂の朝
約束の日の朝、慎は屋敷を出る前に、全員に状況を伝えた。
ロイドには前日の書状で既に知らせてあり、返事も来ていた。「大聖堂周辺に部下を配置する。何かあれば合図を」という内容だった。合図は、慎が大聖堂の正面扉を出た時点で、部下の一人と目を合わせること。それだけでいい。
アルベルトには昨夜話した。兄は無言で頷き、「父上には、お前が戻るまで何も言わない」とだけ言った。
エミリアには、今朝伝えた。
「一人で行くの」
「ロイド殿の部下が周囲にいます。完全に一人ではないです」
「……気をつけて」
それだけ言ったエミリアの顔が、昨夜より少し青かった。慎は、あえて軽い口調で答えた。
「ヒアリングに行くだけです。前世でも、何百回もやってきた」
「前世のことは分からないけど、あなたが平気そうにしているときの方が、私は心配になるわ」
慎は、少し笑った。
「それは、鋭い観察です」
王都大聖堂は、城下町の中心部に位置していた。石造りの巨大な建物で、尖塔は王城の塔にも匹敵するほどの高さがある。正面の広場には、早朝から信者たちが集まり、礼拝に向かっている。
普通の市民が日常的に訪れる場所だ。それが、こういう組織の温床になっているという皮肉を、慎は静かに感じながら、正面扉をくぐった。
内部は、想像より遥かに広かった。天井が高く、光が縦に差し込んでいる。聖職者が数人、静かに行き来している。
「ジル・ヴァンディアール様でいらっしゃいますか」
声をかけてきたのは、若い聖職者だった。穏やかな笑顔で、こちらを来訪者応接室へと案内する。
廊下を進みながら、慎は周囲を観察した。
飾られた絵画、柱の彫刻、床の石のパターン。表向きは荘厳な宗教施設だが、ところどころに、慎の目を引くものがあった。
廊下の奥、通常の来訪者が立ち入らないと思われる区画に続く扉が一つ。その扉の前に、礼拝服を着ているが、腰の部分が微妙に膨らんでいる人物が立っていた。
(武装している。礼拝服の下に剣を隠している)
外側からは分からないように装っているが、前世で何度か、工場の現地調査に行ったときに警備員の動き方を覚えていた。あの立ち方は、武器を持つ人間特有のものだ。
大聖堂の中に、武装した人員がいる。
(宗教施設としては、不自然だ)
慎は、その観察を頭の中にしっかりと刻み込みながら、応接室の扉の前に立った。
◆灰色の男
扉を開けると、部屋の中央に、一人の男が座っていた。
第一印象は、「目立たない」だった。
年齢は五十代半ばか。灰色の主教服を纏い、白髪交じりの短い髪を持つ。顔立ちは整っているが、特別に印象的というわけではない。どこにでもいそうな、穏やかな老人に見えた。
だが、慎はその第一印象を、すぐに疑った。
(この種の「目立たなさ」は、作られたものだ)
前世でも、最も手強い相手ほど、初対面の印象を意図的に薄くする傾向があった。警戒心を緩めさせてから、本当の交渉を始める。それが、長年不正を隠してきた人間の常套手段だ。
「ジル様。よくおいでくださいました」
グレイ主教は、穏やかな声でそう言った。立ち上がりもせず、しかし無礼な印象も与えない、絶妙な距離感だった。
「お招きいただき、ありがとうございます」
慎は、向かいの椅子に腰を下ろした。
「若いお方だと聞いていましたが、なるほど。ご立派な方ですね」
「お会いできて光栄です」
社交辞令を返しながら、慎は観察を続けた。
手の位置、視線の動き、声のトーン。相手が何を準備してきているのかを、会話の最初の数分で把握する。前世でのヒアリングでも、最初の五分が最も情報量が多かった。
「先日の審理のことは、私も耳にしました。大変なご苦労をされましたね」
「おかげさまで、無実が証明されました」
「それは何よりです。伯爵家の名誉のためにも、よかった」
グレイ主教は、自然な流れで言葉を続けた。
「実は今日お越しいただいたのは、他でもありません。我々教会としても、バルト殿の件には、大変困惑しているんです」
(来た。最初の話題をバルトに持ってくる、か)
「どういう意味ですか」
「彼が横領した資金の一部が、我々の施設への寄進という形を取っていたと聞きました。我々は、正当な寄進として受け取ったに過ぎませんが、それが不正な資金であったとなると、教会の立場としても、対応を考えなければなりません」
(先手を打ってきた。被害者の立場を演じて、こちらの追及を先に封じようとしている)
「それは、大変でしたね」
慎は、あえて同意した。
「ですが、一つだけ確認させていただけますか。カシアン殿は、ヴェルナのご出身だとお聞きしました。主教様とは、いつ頃からのお知り合いですか」
グレイ主教の表情が、ほんの一瞬だけ動いた。
「カシアンは、優秀な聖職者です。ヴェルナで長年信者のために働いていましたが、王都での仕事が必要になったときに、適任だと思いまして。推薦したのは私です」
「ヴェルナには、主教様もご縁があるんですか」
「ご縁といいますと」
「就任前、ヴェルナにいらしたと聞きました」
グレイ主教は、静かに微笑んだ。
「各地を回る中で、ヴェルナにも立ち寄ったことはあります。特別なご縁というほどではありませんが」
(否定しなかった。だが、詳細も話さなかった。慎重な答え方だ)
慎は、次の質問を選んだ。
◆探りの応酬
「主教様は、聖ヴェルナ教会財団についてはご存知ですか」
グレイ主教は、今度は表情を変えなかった。
「ヴェルナにある、小さな慈善財団ですね。我々教会が地方の支援活動の一環として、間接的に関わっているものの一つです」
「間接的に、というのは」
「運営は地域の方々にお任せして、我々は精神的な支援をしているということです」
(「間接的に関わっている」と認めた。これは、後で使える言質になる)
慎は、自然な流れで話題を変えた。
「伯爵家の土地の件ですが、財団からの購入希望があったと聞いています。主教様はご存知でしたか」
「ヴァンディアール家の土地の話は、耳にしました。地元の財団が、農地の拡充を検討しているとか」
「農地として、ですか」
「はい。ヴェルナ周辺の農業支援の一環だと聞いています」
(農地として、か。鉱山の存在を知っているなら、そうは言わないはずだ。あるいは、知っていても、知らないふりをしている)
「実は、その土地について、三年前に地下資源の調査が行われているんです。鉱脈の可能性が示唆されています」
慎は、あえてここで打ち明けた。七割は隠す予定だったが、この反応は見ておく必要があった。
グレイ主教は、わずかに目を細めた。
「それは……初めて聞きます。農地として話を聞いていたので」
(目を細めた。驚きではなく、計算の動き方だ)
「調査の結果次第では、土地の価値が変わってきます。農地として売るより、鉱山として活用した方が、伯爵家にとっても有益かもしれません」
「それは、そうですね」
グレイ主教は、穏やかな声でそう言った。
「でしたら、財団への売却は、あらためて考え直す必要があるかもしれません。伯爵家にとって最善の選択をされることが、一番大切ですから」
(あっさりと引いた。これは、本当に諦めたのか、それとも別の手を考えているのか)
慎は、相手の引き方が、少し速すぎると感じた。
本当に鉱山の存在を知らなかったなら、もっと詳しく聞こうとするはずだ。逆に、知っていたなら、今の会話でこちらが把握していることを確認できた、と判断して引く。
(知っていた、という方が自然だ)
「一つだけ、個人的なことをお聞きしてもいいですか」
「どうぞ」
「主教様は、就任される前、どのような経歴をお持ちですか。聖都の名簿を確認したところ、就任の少し前に登録された形になっていたと聞きまして」
これが、今日一番の核心的な質問だった。
グレイ主教の表情が、初めて、明確に変化した。
微笑みが、わずかに固まった。
「名簿の記録については、行政的な手続きの問題があって、登録が遅れた部分がありました。経歴については、各地の教区で長年働いてきました。特定の場所というよりは、必要とされる場所に赴いてきたということで」
「具体的な教区名は」
「記録を確認しなければ、正確にはお答えできません」
(記録を確認しなければ、と言った。つまり、即答できない。自分の過去の経歴を、すぐに語れない、ということだ)
本物の聖職者なら、自分が何十年も働いた教区の名前を、記録なしに言えないはずはない。
慎は、表情を変えずに頷いた。
「分かりました。ご丁寧にありがとうございます」
グレイ主教は、ここで話題を変えた。
「ジル様。実は今日、別にお伝えしたいことがありまして」
「はい」
「伯爵家の今後についてです。バルト殿の不正で、財務が不安定になった今、伯爵家には支援が必要かと思います。我々教会としても、できる範囲でお力になりたいと考えていまして」
(支援の申し出。これが、本来の目的の一つか)
「どのような支援を、お考えですか」
「財団が、伯爵家との間で長期的な経済協力の関係を築くことが、双方にとって有益かと思います。具体的には、農業支援や、領地の開発協力など」
「農業支援と、領地の開発協力」
慎は、その言葉を頭の中で分解した。
(農業支援は表向き。領地の開発協力——これが本命だ。開発協力という名目で、鉱山の採掘に関与することを狙っている)
「ご提案、承りました。父と相談した上で、お返事します」
「それで十分です。急ぐことではありませんから」
グレイ主教は、また穏やかな微笑みを浮かべた。
「ジル様、一つだけ申し上げてもよいですか」
「はい」
「あなたは、非常に賢いお方だと思います。ですが、賢さというのは、使い方を誤ると、本人を傷つけることもある」
(ソフィアと同じ言い方だ。身のため、という牽制)
「ご忠告、ありがとうございます」
「伯爵家の繁栄が、我々にとっても大切ですから。無用な波風は、双方にとって得になりません」
「おっしゃる通りです」
慎は、立ち上がった。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございました」
◆応接室を出て
大聖堂の正面扉を出た慎は、広場を歩きながら、さりげなく周囲を確認した。
少し離れた場所に、ロイドの部下と思われる人物が一人、立っているのが分かった。目が合った瞬間、その人物が軽く頷いた。
慎も、気づかれないよう、ほんの少しだけ頷き返した。
(無事に出た、という合図)
それから、慎は記憶を整理しながら、ロイドの執務室へ向かった。
今日の会話で確認できたこと。
グレイ主教は、カシアンがヴェルナ出身であること、そして財団への土地売却の話を知っていた。直接的な否定はしなかった。聖ヴェルナ教会財団との「間接的な関わり」を認めた。そして、自分の就任前の経歴については、即答を避けた。
これだけで、証拠として使えるものは少ない。だが、向こうが何を認め、何を避けたかの記録には、価値がある。
そして——最も重要な観察があった。
廊下で見た、武装した人員。
大聖堂の内部に、礼拝服で隠した武装した人員がいる理由は何か。来訪者への対応なら、通常の警備で十分だ。わざわざ武装を隠す必要はない。
(何かを、隠している。物理的に、隠している何かがある)
応接室から出るとき、廊下の奥の扉を、もう一度確認した。武装した人員が守っていた扉。その向こうには、何があるのか。
ロイドに、それを伝える必要があった。
◆ロイドへの報告
執務室に入ると、ロイドはすでに戻っていた。
「無事だったな」
「はい。予想通りの展開でしたが、一つ想定外の発見がありました」
慎は、会話の内容を順に報告した。グレイ主教の発言、認めた部分と避けた部分、そして——廊下の武装した人員と、奥の扉のことを伝えた。
ロイドの目が、鋭くなった。
「武装した人員が、礼拝服で隠して内部にいる」
「はい。少なくとも一人、私が確認しただけで。他にもいる可能性があります」
「その奥の扉には——」
「何があるか分かりません。ですが、武装した人員がわざわざ警備しているということは、重要な何かがあると考えられます」
ロイドは、立ち上がった。
「書類か、資金か、あるいは——人間か」
「人間、というのは」
「カシアンが、礼拝堂の聖域に逃げ込んだとき、我々は立ち入りを拒否された。だが、カシアン本人は、礼拝堂ではなく大聖堂の方に移動している可能性がある」
慎は、その可能性を頭の中で検討した。
(カシアンが大聖堂の内部にいるなら、彼を連れ出すことができれば——直接の証言が取れる)
「ロイド殿。大聖堂への強制捜査は、できますか」
「通常はできない。だが——」
ロイドは、机の上の書類を取り上げた。
「今朝、国王陛下から、一通の書状が届いた。この一件に関して、王室調査官の権限を特例として拡大する、という内容だ」
「陛下が、動いたんですか」
「鉱山の価値について、モルトから報告が上がっていた。あの規模の資産が、教会系の組織に渡ろうとしていたという話を聞いて、陛下も動かざるを得なかったようだ」
慎は、静かに息を吐いた。
(国王が動いた。これで、正式な捜査の根拠が整った)
「いつ、動きますか」
「今日の午後。お前が大聖堂から出た後、私の部下が継続して周辺を監視している。今この瞬間も、内部の動向を確認中だ」
「そうでしたか」
「一つ、確認したい」
ロイドが、真剣な目で慎を見た。
「お前は、グレイ主教と話して、どういう人物だと感じた」
慎は、少し考えてから答えた。
「賢くて、慎重で、長年かけて計画を組み立ててきた人間だと思います。今日の会話では、ほぼ隙を見せなかった。だから、奥の扉が余計に気になります。あれだけ慎重な人間が、武装した人員を置いて守っているものが何か——それが、この事件の核心に近い何かだと思います」
「同意する」
ロイドは、部下に目配せした。
「動く」
◆大聖堂への再突入
午後の礼拝が始まる少し前、ロイドは正式な王室調査官の資格証明と、国王の特例許可状を携えて、大聖堂の正面扉を叩いた。
慎は、ロイドの隣にいた。
「お前は来なくていい」
「見届けたいです」
「危険かもしれない」
「承知の上で」
ロイドは、一秒だけ慎を見てから、「ついて来い」とだけ言った。
応対に出てきた聖職者に、ロイドは静かに、しかし揺るぎない権威で告げた。
「王室調査官として、この施設内の確認を行う。国王陛下の特例許可状を持参している。ご協力をお願いしたい」
聖職者は、困惑した顔をしたが、許可状を見て、上の者を呼びに行った。
しばらくして、大聖堂の責任者と思われる高齢の聖職者が現れた。許可状を確認し、渋い顔をしたが、最終的に「陛下のご命令であれば」と通した。
廊下を進んでいくと、武装した人員が守っていた扉の前に来た。
「この先を確認させていただきたい」
守っていた人員が、一瞬、腰の武器に手をかけた。
ロイドの部下たちが、すぐに対応した。
数秒の緊張の後、守っていた人員は武器から手を離し、一歩下がった。
ロイドが扉を開けた。
◆扉の向こう
扉の向こうは、思ったより広い部屋だった。
棚が並び、大量の書類と、いくつかの金属製の箱が置かれていた。部屋の奥には、もう一つ扉がある。
そして、部屋の中央に、一人の男が立っていた。
カシアンだった。
「……来ましたか」
カシアンは、疲れ果てたような顔で、静かにそう言った。
「カシアン殿。王室調査官として、同行をお願いする」
ロイドが告げると、カシアンは一度だけ視線を奥の扉に向けた。その視線の意味を、慎はすぐに察した。
(奥にも、何かある)
「ロイド殿。奥の扉も確認してください」
ロイドが奥の扉を開けると、そこには木箱が積まれていた。
礼拝堂から運び込まれていた、あの木箱だった。
部下が箱を開けると、中には帳簿の束と、大量の書類が入っていた。バルトが持ち出した、全ての記録だ。
「……証拠です」
カシアンが、力のない声で言った。
「全部、そこに入っています。グレイ主教が、指示した記録も。私は、言われた通りに動いただけです。でも、最後まで逃げ切れるとは、思っていなかった」
慎は、棚の書類を一つ手に取った。
ヴァンディアール伯爵家の領地税の集金記録。バルトが操作した、本来の記録だった。
そして、もう一枚。聖ヴェルナ教会財団の設立書類。そこには、出資者として、「G・ライ」という署名があった。
(G・ライ——グレイ、の略だ)
慎は、その書類を、静かにロイドに渡した。
「これが、最後のピースです」
◆グレイ主教の反応
カシアンを連行し、書類を押収した後、ロイドは改めてグレイ主教のいる応接室の扉を叩いた。
グレイ主教は、すでに状況を察知しているようだった。扉を開けると、先ほどと同じ椅子に座っていたが、穏やかな表情は消えていた。
「カシアンが、話しましたか」
「はい」
「書類も、見つかりましたか」
「はい」
グレイ主教は、しばらく沈黙していた。
「……ジル・ヴァンディアール様は、本当に優秀なお方だ」
その声には、もはや牽制も、計算も、なかった。
「処刑を目前にした人間が、四日間でここまで到達するとは思いませんでした」
「証拠を積み上げただけです」
「そう。それだけのことが、なぜ誰もできなかったのか」
グレイ主教は、ふと笑った。
「あなたは、この世界の人間ではないのでしょう」
慎は、表情を変えなかった。
「どういう意味ですか」
「この世界の貴族の子息が、あなたのような考え方をするはずがない。数字を読み、記録を追い、矛盾を論理で押さえていく。それは、別の場所で長年積み上げた技術です」
(看破されたか)
慎は、少しの間だけ沈黙してから、静かに言った。
「私がどういう人間であれ、事実は事実です。記録は記録です。それを変えることは、あなたにも、私にもできません」
グレイ主教は、もう一度笑った。
今度は、穏やかな、諦めを含んだ笑いだった。
「……おっしゃる通りです」
ロイドが、正式に告げた。
「グレイ主教。王室調査官として、同行をお願いする」
グレイ主教は、静かに立ち上がった。
抵抗はしなかった。
ただ、部屋を出る直前に、振り返って慎を見た。
「一つだけ、教えていただけますか」
「何ですか」
「私の目的が、土地と鉱山だけだと思っていますか」
慎は、少し間を置いた。
「いいえ」
グレイ主教は、小さく頷いた。
「賢い。ならば、これからもお気をつけて」
それだけ言って、ロイドの部下に連れられ、部屋を出ていった。
慎は、その言葉を頭の中で反芻した。
(土地と鉱山だけが目的ではない——グレイ主教自身が、認めた)
では、本当の目的は何か。
伯爵家の資産を狙った今回の件は、もっと大きな計画の一部に過ぎない、ということだ。
(まだ、終わっていない)
大聖堂を出ると、夕暮れの空が王都を染めていた。
アーク2の決着はついた。だが、灰色の男が最後に残した言葉が、慎の胸の中に、静かに、しかし確実に残り続けていた。
(第11話に続く)




