第7話 新たな盤面
◆財務管理の初日
伯爵家の財務室は、バルトが使っていた頃の名残が、まだそこかしこに残っていた。
几帳面に整理された書棚、インク瓶の並んだ机、羊皮紙の束が詰め込まれた引き出し。二十年以上この部屋を仕切っていた男の痕跡は、本人が去った後も、奇妙な存在感を放っていた。
「片付けます」
そう言ったのは、慎が新たに財務補佐として任命した若い使用人、ニールだった。十七歳で、読み書きと計算が得意だというので、アルベルトが推薦してきた。
「いえ、まだそのままにしておいてください」
「……そのままに、ですか」
「誰かが使っていた机は、その人間の仕事のやり方を教えてくれます。しばらく観察してから、変えた方がいいところだけ変えます」
ニールは、よく分からない、という顔をしていたが、素直に頷いた。
慎は、まず棚の書類を一通り確認することから始めた。前世の監査でも、引き継ぎの最初にやることは同じだ。前任者がどんな資料を、どんな基準で保管していたのかを把握する。そこに、仕事の癖と、隠したいものが見えてくる。
「これを全部、年ごとに並べ直してください」
「はい」
「それと、この棚の一番下の段——」
慎は、屈んで棚の下段を確認した。他の段と比べて、明らかに埃が薄かった。
(最近まで、頻繁に出し入れされていた棚だ)
「ここに何が入っていましたか」
ニールは、首を傾けた。
「さあ……私はバルト様の仕事を直接は知りませんので」
「分かりました。他の使用人に聞いてみます」
慎は、メモを取りながら、財務室全体を丁寧に確認していった。書類の種類と配置、インクの残量、紙の使用状況。小さな痕跡が、積み重なれば、ある程度の仕事の実態が見えてくる。
一時間ほど確認を続けたところで、慎は一つの違和感に気づいた。
領地の各村からの税収報告書が、年ごとに綴じられている。三年前、二年前、一年前。だが、その隣にあるべき「今年の分」が、見当たらない。
「ニール、今年の税収報告書はどこにありますか」
「え……バルト様が、いつもそちらの引き出しに入れておいたはずなのですが」
確認すると、引き出しは空だった。
(今年の税収報告書が、ない)
慎の頭の中で、警戒信号が鳴り始めた。
バルトは逃げる際に、重要な書類を持ち出したと言っていた。礼拝堂に運んだ木箱の中に、今年の記録も含まれていたのかもしれない。あるいは——
(わざと持ち出させた、という可能性もある)
まだ、分からない。だが、確認すべきことが、また一つ増えた。
◆継母の影
昼過ぎ、食事のために部屋を離れようとしたとき、廊下の向こうから、聞き慣れない足音が聞こえてきた。
軽やかで、しかし芯のある足音。使用人ではない、貴族特有の歩き方だった。
角を曲がったところで、正面から現れた女性と、危うくぶつかりそうになった。
「まあ」
声をかけてきたのは、四十代半ばと思われる、美しい女性だった。金色に近い栗色の髪、整った顔立ち、上質な絹のドレス。目元が涼しく、どこか人を値踏みするような視線を持っていた。
(この人物は……)
慎は、ジルの断片的な記憶の中から、この顔を探した。すぐに見つかった。
(継母——ソフィア・ヴァンディアール)
ゲオルクの後妻。アルベルトとジルの実母は、十五年前に病死しており、その三年後にゲオルクが再婚した相手だ。子供はいないが、伯爵家の中で着実に自分の影響力を広げてきた人物、とジルの記憶は語っていた。
「ジル。牢から出て以来、顔を見せないと思っていたわ」
ソフィアは、微笑みながら言った。口調は親しげだが、その目は笑っていない。
「申し訳ありません。財務の確認で、忙しくしておりました」
「あら、財務管理を引き受けたの。伯爵様からそんな話は聞いていなかったわ」
(父上が、ソフィア様に話していない。意図的か、それとも単に後回しにしていたのか)
「最近決まったことですので。お義母様にも、改めてご報告するつもりでした」
「そう」
ソフィアは、ゆっくりと慎の顔を見つめた。
「牢に入る前のあなたとは、随分と印象が違うのね。別人みたい」
「極限の状況が、人を変えるものだと思います」
「……そうね」
ソフィアは、それ以上は何も言わず、優雅な足取りで廊下を進んでいった。
慎は、その背中を見送りながら、頭の中に新しい名前を書き加えた。
(ソフィア・ヴァンディアール。現時点では、何も分からない。だが、目が笑っていなかった)
根拠のない疑念を持つことは、監査の世界では禁物だ。だが、観察することを止める必要もない。
◆ロイドの情報
夕方、ロイドが屋敷を訪ねてきた。
「グレイ主教について、少し分かった」
慎は、すぐに執務室に通した。
「一年半前、前任のアーノルド主教が急病で倒れた後、グレイ主教が就任した。経緯は公式には『聖都からの任命』となっているが、聖都の記録と照合すると、奇妙なことが分かった」
「奇妙なこと、とは」
「グレイという名前の人物が、聖都の正式な聖職者名簿に登録されたのは、アルテシアの大聖堂主教に就任する、わずか一か月前だ」
慎は、少し間を置いた。
「それは、どういう意味ですか」
「通常、聖職者は長年の修行と試験を経て、段階的に位を上げていく。名簿への登録が就任の一か月前というのは、制度上あり得ない話だ。既存の名簿から削除されて、別名で再登録された可能性か、あるいは——」
「名簿そのものが、改竄されている」
「その可能性が高い」
慎は、手帳を開いてメモを取った。
「グレイ主教の、就任以前の経歴については」
「ほぼ空白だ。どの教区の出身か、どこで修行したのか、公式な記録がほとんどない。唯一分かっているのは、就任の半年前まで、王都から東に三日ほどの地方都市にいた、という証言だけだ」
「東の地方都市、というのは」
「ヴェルナ、という小さな街だ。特に産業もなく、教会の礼拝堂が一つあるだけの、目立たない場所だ」
慎は、頭の中で地図を描いた。
(ヴェルナ。バルトの横領資金が流れた先の礼拝堂と、関係があるのだろうか)
「ロイド殿。カシアンという聖職者の出身地は、分かりますか」
ロイドは、少し考える顔をした。
「……確認してみる。だが、なぜ」
「バルトの横領資金が流れた先の礼拝堂を管理していたのがカシアンで、グレイ主教の就任前の所在地がヴェルナ。もし、カシアンもヴェルナの出身、あるいは関係者だとしたら——」
「グレイ主教とカシアンは、就任以前から繋がっていた、ということになる」
「はい。そして、その繋がりの中で、バルトを操り、伯爵家の資金を抜き取っていた、という構図が見えてきます」
ロイドは、静かに頷いた。
「……確認する。ただ、時間がかかるかもしれない。教会の内部記録に、外部から直接アクセスする方法は限られている」
「焦らなくていいです。確実に、一歩ずつ」
ロイドは、帰り際に、ふと振り返った。
「一つ、個人的なことを聞いていいか」
「はい」
「お前は、なぜそこまで動く。伯爵家の三男として、今回の審理で無実が証明されれば、あとは穏やかに暮らすことだってできるはずだ。なぜ、まだ調査を続けようとする」
慎は、少し考えてから答えた。
「矛盾を見つけたら、正したくなるんです。それは、もう性分というか、癖みたいなものです」
「癖、か」
「嫌な癖だと思います。自分でも」
ロイドは、珍しく、小さく笑った。
「そうでもない。その癖のおかげで、お前は助かった。そして、バルトの不正も明るみに出た」
「ロイド殿こそ、なぜここまで協力してくれたんですか。最初は、僕を処刑しようとしていた側だったはずです」
「……私も、矛盾が嫌いな性分でな」
ロイドは、それだけ言って、今度こそ執務室を出ていった。
慎は、その背中を見送りながら、小さく笑った。
(似た者同士、ということかもしれないな)
◆夜の会話
その夜、慎が財務室の確認を続けていると、扉がノックされた。
「兄さん?」
入ってきたのは、アルベルトだった。手に、一枚の書状を持っている。
「これを見て欲しい」
差し出されたのは、伯爵家の紋章が入った、正式な書状だった。内容を確認すると、眉がひそまった。
「……これは、何ですか」
「領地の東側の一帯、ヴェルナ街道沿いの土地についての、売却の検討書類だ。父上の署名がある」
慎は、もう一度書類を読んだ。ヴェルナ街道沿いの土地売却——そして、売却先として記載されている名前は、「聖ヴェルナ教会財団」だった。
「兄さん。これ、いつ作られた書類ですか」
「日付を見ると、三週間前だ。バルトの不正が発覚する、少し前になる」
慎は、頭の中の構図が、急速に更新されていく感覚を覚えた。
(バルトが横領した資金は、聖ヴェルナの礼拝堂——カシアンの管理する施設——に流れていた。そして今、伯爵家の土地を、同じ系列の財団に売却しようとしている書類がある)
「父上に、この書類について話を聞きましたか」
「直接は聞いていない。父上の執務室の書類の中に、混じっていたのを見つけた。故意に見せようとした様子はなかった」
「誰が、父上にこの書類を持ってきたのか、分かりますか」
アルベルトは、少し間を置いてから、静かに言った。
「……書類の下書きを作ったのは、ソフィアの側近の使用人だ。私は、その筆跡を知っている」
慎は、思わず背筋を伸ばした。
(ソフィア——今日、廊下で挨拶した、継母)
「兄さん。これは、父上に話す前に、もう少し確認する必要があります」
「私もそう思う。だから、まずお前に見せた」
「ありがとうございます。少し時間をください。ロイド殿にも、確認してもらいたいことができました」
アルベルトは、書状を慎に預けて、静かに部屋を出ていった。
慎は、手元の書状と、バルトの横領記録と、今夜ロイドから聞いた情報を、頭の中で並べ直した。
(バルトの横領資金→カシアンの礼拝堂→聖ヴェルナ教会財団。そして今、伯爵家の土地を同じ財団に売ろうとしている書類が、ソフィアの側近によって作られた)
まだ、確証はない。ソフィアが意図的に動いているのか、それとも誰かに利用されているのか。あるいは、全く別の理由がある可能性も排除できない。
(だが、無視できる材料ではない)
慎は、手帳に書き込んだ。
『土地売却書類——聖ヴェルナ教会財団。ソフィアの側近が関与。グレイ主教との繋がり、要確認』
夜が深くなるにつれて、調査の輪郭が、少しずつ、しかし確実に、鮮明になってきていた。
◆見えてきた構図
翌朝、エミリアが屋敷に来たとき、慎はすでに財務室で作業を続けていた。
「また朝から篭っているの」
「少し、見えてきたことがあって」
エミリアは、慎の向かいに座り、机の上に広げられた書類を見た。
「土地売却の書類?」
「ええ。これと、バルトの横領記録と、ロイド殿から得たグレイ主教の情報を合わせると——」
慎は、紙の上に簡単な図を書いた。
「頂点に、グレイ主教がいる。彼は一年半前に就任したが、その経歴には大きな空白がある。就任の半年前まで、ヴェルナという地方都市にいたことが分かっている。そして、バルトの横領資金が流れた礼拝堂を管理するカシアンも、おそらくヴェルナと繋がりがある」
「つまり、グレイ主教もカシアンも、ヴェルナを拠点にしていた人物、ということ?」
「可能性として。そして今、伯爵家の土地を『聖ヴェルナ教会財団』に売却しようとする書類が見つかった。この財団名の『ヴェルナ』が、同じ場所を指しているのかどうか、まだ分からないけれど——」
「全部が、同じ場所に繋がっている、かもしれないってこと」
「そうです」
エミリアは、書類を見ながら、静かな声で言った。
「それで、ソフィア様が関わっているとしたら……ソフィア様は、グレイ主教と繋がっているということ?」
「まだ、分かりません。ソフィア様が意図的に動いているのか、それとも誰かに利用されているのか、あるいは本当に無関係か。判断するには、もっと情報が必要です」
「でも、見過ごすわけにもいかないわね」
「ええ。だから、まず事実を積み上げます。ソフィア様を疑う前に、この土地売却の書類が、どういう経緯で作られたのかを確認する必要があります」
エミリアは、少し考えてから言った。
「……私、ソフィア様とは、何度かお茶を飲んだことがあるわ。伯爵家に挨拶に来たときに。直接話を聞ける機会を、作ってみましょうか」
「それは、危険ではないですか」
「あなただって、ずっと危険な場所にいるじゃない」
エミリアは、静かに笑った。
「それに、私はただお茶を飲みに行くだけよ。何も怪しいことはないわ。ソフィア様が何か話してくれれば、それは情報になる。何も話してくれなくても、様子を見ることはできる」
「……分かりました。無理はしないでください」
「分かってる」
エミリアは立ち上がり、書類の一枚を指差した。
「ところで、この土地って、どのあたりにあるの?」
「ヴェルナ街道沿いの、伯爵領の東端です。領地の中では、比較的規模の小さな土地ですが——」
「街道沿い?」
エミリアの声が、わずかに変わった。
「そのあたり、確か数年前に、新しい鉱山が見つかったって話があったわ。まだ本格的に採掘は始まっていないはずだけど、将来的には大きな価値が出るかもしれない、って」
慎は、思わず書類を見直した。
(鉱山……表面上は小さな土地だが、実際には将来価値が高い資産だった、ということか)
「エミリアさん、それ、重要な情報です」
「そうなの?」
「安く見える土地が、実は将来大きな価値を持つ。それを知っていて安値で売却させようとするなら——これは、単純な土地取引ではなく、資産の意図的な流出です」
慎は、手帳に素早くメモを書き込んだ。
(鉱山の存在——土地の実際の価値が、書類上の価格とかけ離れている可能性。これは、バルトの横領とは別の、もう一つの不正の入り口かもしれない)
調査の糸口が、また一本、増えた。
◆新しい一手
その日の夕方、慎はロイドに書状を送った。内容は二つ。一つは、土地売却書類と聖ヴェルナ教会財団についての情報提供。もう一つは、ヴェルナ街道沿いの鉱山の存在確認と、財団の法的な素性の調査依頼だ。
返事は翌日には来なかったが、慎はそれを焦らずに待った。
代わりに、財務室の整理を続けながら、別の角度から情報を集めていった。
過去三年の領地の収支記録を改めて確認すると、一つの傾向が見えてきた。ヴェルナ街道沿いの土地からの税収が、三年前から徐々に減少している。だが、その周辺の土地からの税収は、ほぼ変わっていない。
(特定の土地だけ、収益が下がっている。これは、実際の収益が下がったのか、それとも記録上だけ下げられているのか)
バルトが操作していたのは、全体の税収記録だった。その中に、この土地の収益も含まれていた可能性がある。
(つまり、この土地は実際にはちゃんと収益を上げているのに、帳簿上は低収益に見せかけていた。そして、安値でも売却を正当化するための根拠を、帳簿の上で作っていた——という構図が考えられる)
慎は、仮説を手帳に書いた。確証はない。だが、複数の事実が、同じ方向を指し始めている。これは、前世の監査でも何度も経験してきた感覚だ。
(資産を安く見せかけて、関係者に安値で売る。これは、典型的な利益相反取引だ)
「ニール」
財務室で作業していたニールが、顔を上げた。
「この土地に関する記録を、過去五年分、全部出してきてください」
「五年分、ですか。少し時間がかかりますが」
「急ぎません。ただし、正確に全部」
「はい、分かりました」
ニールが棚を調べ始めた横で、慎は窓の外を見た。
遠くに、王都の大聖堂の尖塔が見える。その頂点に、グレイ主教がいる。
(お前が何者なのか、必ず明らかにする)
心の中で、静かにそう思った。
急ぐ必要はない。事実を積み上げれば、必ずたどり着ける。前世でも、それを繰り返してきた。
監査という仕事は、派手ではない。数字と記録と、地道な確認作業の積み重ねだ。だが、その先に必ず、正しい答えがある。
慎は手帳を開き、今日分かったことを、丁寧に書き記した。
窓の外では、夕陽が王都を橙色に染めていた。
長い一日が、終わろうとしていた。
(第8話に続く)




