第6話 嵐の後、次の雲
◆制裁の朝
審理から三日が経った。
処刑が予定されていた日を過ぎ、王都はいつも通りの朝を迎えていた。市場には人が溢れ、大通りには馬車が行き交い、教会の鐘が正刻を告げる。何事もなかったかのような、穏やかな景色だ。
だが、ヴァンディアール伯爵家の中では、まだ嵐の余韻が続いていた。
「バルトの処分が、正式に決まった」
ロイドが、執務室に慎を呼んで、そう告げたのは、審理の翌々日のことだった。
「どのような処分ですか」
「領地税の横領について、全額返納の上、伯爵家の職を解く。刑事罰については、本人が全面的に協力することを条件に、軽減が認められる見込みだ」
慎は、小さく息を吐いた。
「軽減、というのは」
「完全な無罪にはならない。だが、死刑や投獄は免れる。本人が、上の指示で動いていたという証言をすることが、条件になっている」
「上の指示――教会の、誰かの指示ということですね」
「そうだ。バルトは、カシアンという聖職者から直接、資金の管理と移動を指示されていたと証言した。そして、カシアンもまた、さらに上の誰かから指示を受けていた、と言っている」
「さらに上、というのは」
ロイドは、少し間を置いた。
「そこから先は、バルト自身も知らないらしい。あるいは、知っていても言えない事情があるのか」
慎は、手帳の最後に書き留めた言葉を、頭の中で反芻した。
『灰の方』
あの夜、外套姿の男が漏らした一言。バルトも、カシアンも、その指示系統の末端に過ぎないとすれば――その頂点に立つ存在が、まだどこかにいる。
「カシアンへの対応は」
「教会の聖域権を主張して、今も礼拝堂の中に留まっている。正式な召喚状を出しているが、教会側がそれに応じるかどうかは、まだ分からない」
「つまり、今のところは泳がせている状態ですね」
「正確には、泳がせざるを得ない状態だ」
ロイドは、苦々しい表情でそう言った。
「教会は、この国の法の外に、一定の自治権を持っている。それを崩すには、国王陛下の直接の勅命が必要になる。今の段階では、まだそこまでの根拠が揃っていない」
「分かりました」
慎は、頷きながら、頭の中で次のステップを組み立て始めた。
(今は、直接教会を攻める段階ではない。まず、伯爵家の内部を立て直し、次の足場を固める必要がある)
前世の監査でも、一つの不正を潰した後、すぐに次の不正に飛びつくことは得策ではなかった。まず現状を整理し、影響範囲を把握し、それから次の手を打つ。焦りは、判断を曇らせる。
「ロイド殿。一つお願いがあります」
「何だ」
「バルトの横領について、三年分の全記録を見せていただけますか。金額、時期、移動先――全部です」
ロイドは、怪訝そうな顔をした。
「それは、財務の処理担当者が確認すれば済む話だ。お前が見る必要はないだろう」
「見たいんです」
慎は、あえてそう言い切った。
「バルトが横領した資金が、どこに流れたのか。カシアンを経由して、その先に何があるのか。数字の流れを追えば、必ず何かが見えてきます」
ロイドは、しばらく慎の顔を見つめていたが、やがて静かに頷いた。
「……分かった。明日中に手配する」
◆父との対話
その日の夕方、慎は伯爵家の屋敷に戻った。
牢を出て以来、初めて自分の部屋に足を踏み入れる。石造りの牢と比べれば、遥かに清潔で広い空間だったが、どこか他人の家に来たような、妙な距離感があった。
(そりゃそうか。この部屋の本来の持ち主は、僕じゃないわけだから)
慎は、部屋の中を見回しながら、そっと苦笑した。ジル・ヴァンディアールとして生きていくことは決めた。だが、この身体の記憶と、自分自身の記憶の間には、まだ微妙なずれがある。
「入っていいか」
ドアの向こうから、低い声がした。
「どうぞ」
現れたのは、父ゲオルクだった。審理の場よりも、どこか老けて見える。いや、正確には、疲弊して見えた。
「バルトの件、改めて話しておく必要があると思って来た」
「はい」
ゲオルクは、部屋の椅子に腰を下ろした。慎も、向かいに座る。
「あの男を雇ったのは、私だ。二十年以上、信頼して全てを任せてきた。その男が、三年にわたって横領をしていたとは……」
ゲオルクは、言葉を切った。
「気づけなかったのは、私の失態だ」
「それは、監査体制がなかったから、仕方のない部分もあります」
慎は、あえて穏やかな言い方をした。
「一人の人間に財務を全部任せて、誰もチェックしない状態というのは、不正が起きやすい環境です。バルト個人の問題というよりも、そういう仕組みがなかったことの問題でもあります」
ゲオルクは、少し意外そうな顔をした。
「……お前は、怒らないのか。バルトに対して」
「怒りは、しています」
慎は、正直に言った。
「ただ、怒りだけで動いても、問題は解決しません。なぜそうなったのかを分析して、再発を防ぐ仕組みを作る方が、長期的には意味があります」
「監査、というのはそういうものなのか」
「……監査?」
ゲオルクが、思わず問い返す。
「いえ、財務管理、という意味です」
慎は、慌てて言い直した。前世の言葉が、つい口から出てしまった。
ゲオルクは、しばらく慎の顔を見つめていた。
「お前は、本当に変わったな。牢に入る前とは、まるで別人だ」
「処刑を目前にすると、人は変わるものです」
「……そうかもしれないな」
ゲオルクは、小さく息を吐いた。
「バルトの後任について、お前の意見を聞きたい。伯爵家の財務を、これから誰に任せるべきか」
(ここで、正しい判断をする必要がある)
慎は、少し考えてから答えた。
「当面は、特定の一人に全てを任せる体制は避けた方がいいと思います。複数の人間が、互いにチェックし合える仕組みを作る。誰か一人が全権を持つ状態が、今回の問題の根本にありましたから」
「複数で管理する、か……」
「はい。具体的には、集金担当と記帳担当を分ける。そして定期的に、第三者が記録を確認する。それだけで、不正のリスクは大きく下がります」
ゲオルクは、しばらく考え込んでいた。
「……分かった。具体的な仕組みは、お前に任せる」
「私に、ですか」
「お前が一番、この件を分かっているだろう。それに――」
ゲオルクは、少し言いにくそうに続けた。
「今回の件で、伯爵家の財務は外部にかなり知られてしまった。信頼できる人間は、今は限られている。お前しかいない」
慎は、内心で複雑な気持ちを感じながら、静かに頷いた。
「分かりました。やってみます」
◆兄との距離
翌朝、廊下でアルベルトとすれ違った。
「……よく眠れたか」
アルベルトが、ぶっきらぼうに言った。
「まあまあです。兄さんは」
「眠れなかった」
アルベルトは、短く答えた。歩みは止めず、そのまま通り過ぎようとしたが、慎は声をかけた。
「兄さん。審理の前に渡してくれた書状、助かりました。あれがなければ、証拠の組み立てがもっと難しくなっていました」
アルベルトは、足を止めた。
「……あれは、私が以前から気になっていたものを、まとめたに過ぎない。礼には及ばない」
「気になっていた、というのは、どれくらい前からですか」
アルベルトは、振り返った。
「一年ほど前から。だが、確信が持てなかった。それに、父上がバルトを信頼しているのが分かっていたから、余計な波風を立てるのも、と思って」
「その迷いは、正しいものだったと思います」
「え」
「確信のない段階で動いても、証拠がなければ逆に攻撃される。兄さんが慎重に動いたのは、結果として正しい判断だったと思います」
アルベルトは、しばらく黙っていた。
「……お前に、そう言ってもらえるとは思わなかった。お前を切り捨てようとした人間に」
「それは、もう終わったことです」
慎は、あっさりと言い切った。
「過去の判断を責めても、今何も変わりません。それより、これからどう動くかの方が、ずっと重要です」
アルベルトは、何か言いかけて、止めた。やがて、静かな声で言った。
「……お前が、伯爵家の財務管理を引き受けると、父上から聞いた」
「はい」
「手伝えることがあれば、言え」
それだけ言って、アルベルトは再び歩き出した。
慎は、その背中を見送りながら、小さく頷いた。
(一歩ずつ、だな)
信頼というのは、一日では築けない。前世でも、社内の人間関係は、時間をかけて積み上げるものだった。急がず、着実に、実績で示していく。それが、唯一の正解だ。
◆エミリアの問い
午後、エミリアが屋敷を訪ねてきた。
応接間で向かい合うと、彼女はしばらく、何か言いたそうな顔をしていた。
「何か、聞きたいことがあるんですね」
慎が先に言うと、エミリアはわずかに驚いた顔をした。
「……分かるの」
「なんとなく」
エミリアは、少し迷ってから、口を開いた。
「あなたは、本当にジル様なの?」
「……どういう意味ですか」
「牢に入る前のジル様と、今のあなたは、本当に別人みたいだもの。考え方も、話し方も、物事の見方も、全部違う。記憶喪失にしては、あまりに整然としすぎている」
慎は、しばらく沈黙した。
(正直に話すべきか。それとも、濁すべきか)
前世の監査でも、情報の開示範囲は、常に慎重に決める必要があった。全てを話すことが、必ずしも最善ではない。だが、信頼できる相手に嘘をつき続けることも、長期的にはリスクになる。
「正直に言います」
慎は、静かに口を開いた。
「ジル・ヴァンディアールの身体の中に、別の人間の記憶と意識がある、と言ったら、信じますか」
エミリアは、しばらく目を瞬かせていた。
「……別の人間、というのは」
「別の世界の、別の人間です。日本という国で、会社員として働いていた男が、死んで、気がついたらジルの身体にいた。そういうことです」
エミリアは、長い間、黙っていた。
慎は、その沈黙を待った。
「……信じるかどうかよりも先に、一つだけ確認していいですか」
「どうぞ」
「ジル様の意識は、どこに行ったの」
その問いに、慎は少し詰まった。
「……分かりません。気がついたときには、もうここにいました。ジル様の記憶の一部は、断片的に残っています。でも、意識という意味では、今ここにいるのは私です」
エミリアは、窓の外を見た。その横顔には、複雑な感情が浮かんでいた。
「……ジル様が、手帳に『証拠がおかしい』と書き残した。その続きを、あなたが引き受けてくれた、ということは分かる」
「はい」
「そして、あなたは、ジル様が気づいていた不正を暴いた」
「そうです」
エミリアは、しばらく考えていた。それから、静かに慎を見た。
「……私は、あなたのことを、信じます。ジル様の身体の中にいる人間として、ではなく、今ここにいるあなた自身として」
「ありがとうございます」
「でも、一つだけ約束して」
「何でしょう」
「ジル様が気づいていた不正の、全部の正体を、必ず明らかにしてほしい。ジル様が最後に追おうとしていたものを、あなたが代わりに完成させてほしい」
慎は、静かに頷いた。
「約束します」
エミリアは、小さく微笑んだ。その笑顔は、牢の外でこちらを見つめていたときの、あの覚悟を決めた目と、同じ光を持っていた。
◆数字の中の影
翌日、ロイドから届いた書類の束を、慎は執務室で広げた。
バルトが三年にわたって操作していた領地税の記録、全記録だ。
(では、始めよう)
慎は、前世の癖で、まず全体の構造を把握することから始めた。数字の細部を見る前に、全体の流れを掴む。どの時期に、どれくらいの規模で、どの方向に、資金が動いているのか。
記録を時系列に並べ直すと、最初のパターンが見えてきた。
横領が始まったのは、三年前の春だ。最初は小さな金額で、じわじわと規模が拡大している。こういう増加パターンは、前世でも何度も見た。最初は様子を見ながら、発覚しないと分かると大胆になっていく。典型的な不正の成長曲線だ。
次に、移動先を確認する。カシアンの管理する礼拝堂への「特別寄進」――その金額が、特定の時期に急増していた。
(三年前の春から始まり、一年半前に急増している。この一年半前というタイミングに、何があったのか)
慎は、記録の横に、王都の出来事の年表を作り始めた。何か、資金が急増したタイミングと一致する出来事があるはずだ。
「一年半前か……」
アルベルトが、いつの間にか執務室の入口に立っていた。
「覗いていたんですか」
「通りかかっただけだ。何を調べている」
「バルトの横領の記録です。一年半前に、資金の移動規模が急増しているんですが、その理由が見えなくて」
アルベルトは、少し考える顔をした。それから、執務室に入ってきて、慎の横から記録を覗き込んだ。
「……一年半前、か。あの頃、王都で何かあったな」
「何があったんですか」
「大聖堂の主教が、突然変わった。前の主教が急病で倒れて、後任に新しい人物が就いた。確か、地方出身の、あまり知られていない聖職者だったと記憶している」
慎の中で、何かが繋がる予感がした。
「その新しい主教について、詳しいことは分かりますか」
「私は詳しくない。だが、あの頃から、教会の動きが少しおかしくなったと、父上が話していたのを覚えている。具体的に何がおかしいのかは、分からなかったが」
(一年半前に主教が交代し、それと同時期に資金の移動規模が急増した)
慎は、手帳に素早くメモを取った。
(『灰の方』――カシアンが逃げ込んだのも、大聖堂の方向だった。そして、新しい主教は地方出身の、出自が不明確な人物)
まだ、確証はない。だが、線は繋がりつつある。
「兄さん。その主教の名前、分かりますか」
「名前か……確か、グレイという名だったと思う。グレイ主教、と呼ばれていたはずだ」
(グレイ――灰。英語で言えばグレイ。この国の言葉で言えば……)
慎は、再び手帳に書き込んだ。
『灰の方=グレイ主教の可能性』
(まだ、仮説に過ぎない。だが、次に確認すべき方向は、見えてきた)
「兄さん、ありがとうございます。助かりました」
アルベルトは、何も言わずに、ただ一度だけ頷いた。それから、執務室を出ていった。
慎は、再び記録に向かいながら、静かに笑った。
(一つ終われば、次が始まる。これが、この仕事の本質だな)
前世でも、一つの不正調査が終わると、必ず次の案件が待っていた。不正というものは、一か所を潰しても、別の場所で芽吹く。それを追い続けることが、監査屋という仕事だった。
この世界でも、それは変わらないらしい。
「ジル様」
扉の向こうから、エミリアの声がした。
「入ってください」
「晩ご飯の時間よ。ずっとそこにいたら、体に悪いわ」
「もう少しだけ」
「あと三十分だけよ」
慎は、手元の記録から目を離さずに、ぼんやりと答えた。
「……前の職場でも、同じことを言われていた気がします」
「前の職場?」
「なんでもないです。少ししたら行きます」
エミリアが、呆れたような、それでいて温かい息を吐く声が、扉越しに聞こえた。
◆次の影
その夜。
執務室の窓から、王都の夜景を見ながら、慎は一人で手帳を読み返していた。
ジルが残した最初の記録から、自分がこの三日で積み上げてきた記録まで、全てが一冊の手帳の中に収まっている。
(バルトの横領は終わった。だが、その先に、グレイ主教とおそらく繋がる、もっと大きな何かがある)
資金の流れは、教会の中に消えていった。そしてその教会の頂点には、一年半前に突然就任した、出自不明の主教がいる。
(次は、そこだ)
だが、今すぐ動くことは得策ではない。伯爵家の財務管理という、足元の課題を先に片付ける必要がある。土台がしっかりしていなければ、次の調査の拠点にならない。
慎は、手帳を閉じた。
そのとき、窓の外、夜の王都の中に、一つの灯りが動くのが見えた。
礼拝堂の方角から、大聖堂へと向かう、小さな灯り。夜更けに動くそれは、おそらく人が持つ手燭の光だ。
(夜中に、礼拝堂から大聖堂へ向かう人間。カシアンか、あるいはその使いか)
慎は、手帳を再び開き、短くメモを書き加えた。
『夜間の人の動き――要監視』
灯りは、やがて夜の闇に消えていった。
処刑の危機は去った。だが、本当の戦いは、まだ始まったばかりだ。
慎は、手帳を懐にしまい、窓から離れた。
明日からの仕事は、山ほどある。
(やるべきことを、一つずつ片付けていく。前世でも、それしかやってこなかった)
部屋の灯りを落とし、慎は初めて、自分の寝台に横になった。
牢の藁の寝床よりも、遥かに柔らかい。だが、なぜか眠気はすぐには来なかった。
(グレイ主教。灰の方。一年半前に就任した、謎の人物)
天井を見つめながら、慎は次の調査の設計図を、頭の中で少しずつ描き始めていた。
(まずは、グレイ主教の出自を調べる。どこから来たのか、何者なのか。情報は必ず、どこかに残っている)
窓の外で、夜風が木々を揺らす音がした。
それは、まるで次の嵐の予告のように、静かに、しかし確実に、聞こえていた。
(第7話に続く)




