第40話 声の在り処
◆勝者のいない朝
ヴェルナの決戦が終わった翌朝、丘の上には、雨が降っていた。
細い、糸のような雨だった。地面を叩くほどの勢いはなく、ただ音もなく、石畳と、崩れた礼拝堂の壁を、濡らしていく。慎は、その雨の下に、しばらく立っていた。
勝った、という実感が、なかった。
前世で、大きな不正を暴いたときも、同じだった。数か月かけて積み上げた証拠が、ついに相手を追い詰め、会議室で相手が言葉を失う。あの瞬間、周囲は「勝った」と言った。だが慎の胸に残ったのは、勝利感ではなく、いつも、奇妙な虚しさだった。
不正を暴いても、不正が生まれた構造そのものは、変わらない。一人を追い詰めても、その一人を生み出した土壌は、そこに残り続ける。
(今も、同じだ)
コルネリウスを止めた。儀式は阻止した。だが、コルネリウスを操っていたかもしれない「声」は、まだ、どこにも姿を見せていない。
雨に濡れた手のひらを、慎は、じっと見た。
この手は、ジル・ヴァンディアールの手だ。だが、この手を動かしている意識は、黒崎慎のものだ。二つの理が、この一つの身体の中で、混ざり合っている。
祭壇の記録は、こう言っていた。「二つの理が交わる地」と。
(僕自身が、二つの理の、交わりそのものなのかもしれない)
「こんなところにいたのか」
背後から、ロイドの声がした。傘も差さず、雨に濡れるまま、ロイドは慎の隣に、並んで立った。
「風邪をひくぞ」
「ロイド殿こそ」
二人は、しばらく、無言で雨を見ていた。
「……勝った気が、しないんだろう」
ロイドが、ぽつりと言った。
慎は、少し驚いて、ロイドを見た。
「顔に、書いてある」ロイドは、前を向いたまま言った。「私も、王室調査官を長くやってきた。大きな事件を解決した朝ほど、こういう顔になる」
「どういう、顔ですか」
「終わったのに、終わっていない、という顔だ」
慎は、静かに笑った。的確だった。
「祭壇の声、か」
ロイドが、続けた。
「コルネリウスが操られていたとすれば、この事件の底は、私たちが思っているより、ずっと深い。そして、その底には——」
「まだ、誰も見たことのない、何かがいる」
慎が、引き取った。
雨脚が、わずかに強まった。丘の下では、四か国連合の兵士たちが、天幕を張り、負傷者を運び、投降した聖職者を移送している。勝者の営みが、そこにはあった。
だが、慎とロイドの立つ丘の上だけは、まだ、戦いが終わっていなかった。
「一つ、気がかりなことがあります」
慎は、言った。
「なんだ」
「コルネリウスは、崩れました。声に操られていた、と自分でも認めた。でも——ヴァルクス殿は、崩れなかった」
ロイドの眉が、動いた。
「ヴァルクスも、操られていたのではないか、という話だったな」
「はい。ヴァルクス殿自身も、その可能性を認めています。世界を変えたいという衝動が、自分のものではなかったかもしれない、と。でも、コルネリウスのように、明確な『声』を聞いてはいなかった」
「差がある、ということか」
「二人とも、おそらく転生者です。同じ祭壇から、この世界に来た。なのに、一方は明確な声に操られ、一方は漠然とした衝動しか感じなかった。この差が、何を意味するのか」
慎は、雨に濡れた祭壇の、方角を見た。地下に眠る、黒い石の塊。
「その差の中に、声の正体を知る、手がかりがある気がします」
◆檻の中の男
その日の午後、慎は、拘束されたコルネリウスの尋問に、向かった。
コルネリウスは、ヴェルナの街はずれの、古い蔵に、監禁されていた。窓のない、石造りの部屋。かつて穀物を貯蔵していたその場所が、今は、大陸を揺るがそうとした男の、檻になっていた。
扉を開けると、コルネリウスは、床に座り込んでいた。
決戦のときの、あの冷たく整った顔は、そこになかった。頬はこけ、目の下には濃い隈が刻まれ、まるで一夜で十歳も老けたように見えた。
「……また、あなたか」
コルネリウスは、慎を見上げて、力なく言った。
「体調は、いかがですか」
「体調」コルネリウスは、乾いた笑いを漏らした。「そんなことを、私に聞くのか。私は、あなたたちを、支配しようとした男だぞ」
「今のあなたが、支配を望んでいるようには、見えません」
コルネリウスは、しばらく、慎を見つめた。それから、視線を、床に落とした。
「……眠れないのだ」
「眠れない?」
「あの声が、消えてから。ずっと、眠れない」慎は、静かに、コルネリウスの向かいに、腰を下ろした。焦って質問を重ねるのではなく、相手が自ら語り出すのを、待つ。前世のヒアリングで学んだ、最も重要な技術だった。追い詰められた人間は、沈黙の中でこそ、真実を語り出す。
長い沈黙の後、コルネリウスが、口を開いた。
「妙な話だが……あの声が聞こえていた間の方が、私は、穏やかだった」
「穏やか、ですか」
「迷いが、なかった。何をすべきか、常に、はっきりしていた。支配せよ。統べよ。その一つの目的に向かって、まっすぐ進めばよかった。迷いも、後悔も、なかった」
コルネリウスは、自分の両手を、じっと見た。
「だが今は、迷いだらけだ。自分が、何のために生きてきたのか、分からない。支配することが、全てだと思っていた。それが、自分の意思ではなかったとしたら——私は、空っぽだ。声が抜けた後には、何も、残っていない」
慎は、その言葉に、胸を突かれた。
(これは、恐ろしい話だ)
声は、コルネリウスから、迷いを奪っていた。そして、迷いを奪うということは、人間性そのものを、奪うということだった。迷い、後悔し、悩む。それこそが、人間を人間たらしめるものだ。声は、その全てを、「支配せよ」という一つの衝動で、塗りつぶしていた。
「コルネリウス」
慎は、静かに言った。
「今、あなたが感じている迷いや、後悔や、空虚。それこそが、あなた自身のものです。声に塗りつぶされていた、本当のあなたが、戻ってきている証拠です」
コルネリウスは、顔を上げた。
「……こんな、苦しいものが、私自身だと言うのか」
「はい。苦しいのは、あなたが、人間だからです」
コルネリウスは、長い間、慎を見つめていた。その目に、ゆっくりと、何かが滲んだ。
「……あなたは、なぜ、私にそんなことを言う。私は、あなたを、束縛された道具にしようとした男だぞ」
「あなたも、束縛されていたからです」
慎は、静かに答えた。
「あなたは、加害者であると同時に、被害者でもある。あなたを操っていた存在を、僕は、突き止めたい。そのためには、あなたの記憶が、必要なんです」
コルネリウスは、しばらく沈黙した後、静かに、頷いた。
「……話そう。私が、覚えている限りのことを」
◆最初の記憶
「私の、最初の記憶は」
コルネリウスは、遠い目をして、語り始めた。
「ヴェルナの、あの丘だ。目を覚ますと、私は、丘の上に、倒れていた。夜だった。星が、出ていた。自分が、誰なのか、どこから来たのか、何も、分からなかった」
慎は、黙って、聞いた。
「体は、若い聖職者のものだった。頭の中には、この世界の言葉や、常識が、断片的に、入っていた。だが、それ以前の記憶——自分が、本当は何者だったのか、という記憶は、なかった」
「別の世界にいた、という感覚は」
「あった。それは、確かに、あった」コルネリウスは、頷いた。「自分が、この世界の人間ではない、という感覚。もっと、複雑で、進んだ世界にいた、という感覚。だが、具体的な記憶は、何もない。名前も、顔も、家族も、仕事も——何も、思い出せなかった」
慎は、その話を、注意深く、記憶に刻んだ。
(ヴァルクスも、僕も、前世の記憶は、ある程度、残っている。ヴァルクスは援助organizationにいたことを覚えているし、僕も、監査の仕事や、過労で倒れたことを、覚えている。だが、コルネリウスは、前世の記憶が、完全に、消えている。この差は、何だ)
「コルネリウス。前世のことを、本当に、何も覚えていないのですか。断片でも」
コルネリウスは、目を閉じた。
「……一つだけ。ずっと、引っかかっていることがある」
「なんですか」
「疲れていた、という感覚だ」
慎の背筋が、冷たくなった。
「私が、この世界に来る、直前。私は、ひどく、疲れていた。心も、体も、限界だった。何かに、追い詰められて、もう、これ以上は無理だ、と思っていた。その感覚だけが、記憶の底に、残っている」
(疲れ果てて、限界だった)
慎自身の、前世の最期と、同じだった。ヴァルクスも、過労で倒れた、と言っていた。
三人の転生者。全員が、前世で、疲れ果て、限界を迎えていた。
(偶然、ではない)
慎の中で、一つの仮説が、形を成し始めた。
(この祭壇は——いや、この祭壇の背後にある「何か」は、疲れ果てた者を、選んで、呼び寄せているのではないか。限界まで追い詰められ、心が弱り、抵抗する力を失った者を)
心が弱っている者は、操りやすい。声に、支配されやすい。
(もし、そうなら——僕も、標的だったのかもしれない)
慎は、自分の前世を、思い出した。過労で、倒れた。報われない仕事に、人生を捧げて、限界を迎えていた。まさに、コルネリウスやヴァルクスと、同じ状態だった。
だが、慎は、声を聞いていない。支配への衝動も、感じていない。
(なぜ、僕だけ、違うのか)
その問いが、この事件の核心に、繋がっている気がした。
◆疑いという鎧
尋問を終えて蔵を出ると、雨は、上がっていた。
慎は、ヴァルクスのいる天幕へと、向かった。ヴァルクスは、四か国連合の監視下で、比較的自由に過ごすことを、許されていた。協力者としての、待遇だった。
天幕の中で、ヴァルクスは、古い書物を読んでいた。慎が押収した、祭壇に関する資料の写しだった。
「コルネリウスと、話してきました」
慎が言うと、ヴァルクスは、書物から顔を上げた。
「彼は、どうでしたか」
「前世の記憶が、完全に、消えていました。ヴァルクス殿や、僕とは、違って」
ヴァルクスの表情が、曇った。
「……完全に、ですか」
「はい。ただ、一つだけ、覚えていました。この世界に来る直前、ひどく疲れ果て、限界だった、という感覚を」
ヴァルクスは、しばらく、沈黙した。
「私も、そうでした」ヴァルクスは、静かに言った。「過労で、倒れる寸前。心も体も、限界だった。あの感覚は、今でも、鮮明に覚えています」
「僕も、同じです」
慎は、言った。
「三人とも、前世で、限界を迎えていた。これは、偶然ではないと思います。この祭壇の背後にある何かは、疲れ果てた者を、選んで、呼び寄せているのかもしれません」
ヴァルクスの目が、鋭くなった。
「……弱った者を、選ぶ、ということですか」
「はい。心が弱っている者は、操りやすい。声に、支配されやすい。コルネリウスは、記憶を完全に失い、声に、完全に操られた。ヴァルクス殿は、記憶が残り、声というより、漠然とした衝動を感じた。そして、僕は——」
慎は、少し、言葉を切った。
「声も、衝動も、感じていません」
ヴァルクスは、じっと、慎を見た。
「なぜ、あなただけ、違うのでしょうか」
「分かりません。でも、一つ、思い当たることがあります」
慎は、慎重に、言葉を選んだ。
「コルネリウスは、こう言いました。僕に問い詰められて、自分の意思を疑った瞬間、声が聞こえなくなった、と。声は、疑いを持たない者にしか、影響を与えられないのかもしれません」
ヴァルクスの表情が、変わった。
「疑い……」
「はい。絶対的な確信を持つ者ほど、声に、操られやすい。自分は正しい、この道しかない、と信じ込んでいる者ほど、声の衝動を、自分自身の意思だと、思い込んでしまう」
慎は、続けた。
「僕は、いつも、自分を疑っています。自分の判断が、間違っているかもしれない。自分が、道を誤るかもしれない。その恐れが、常にある。ヴェルナの老人も、言っていました。自分が誤るかもしれないと恐れる者は、道を誤らない、と」
ヴァルクスは、その言葉を、噛み締めるように、聞いていた。
「……疑いが、鎧になっている、ということですか」
「そうかもしれません。疑いという鎧が、声の侵入を、防いでいる」
ヴァルクスは、深く、息を吐いた。
「私は、疑っていませんでした。世界を変えるという理想を、正しいと、信じ込んでいた。だから、声——あるいは衝動——が、私の中に、入り込んだ」
「そして、コルネリウスは、あなた以上に、疑いがなかった。自分が絶対に正しいと、確信していた。だから、完全に、操られた」
天幕の中に、重い沈黙が、落ちた。
(確信は、力だ。だが、同時に、弱点でもある)
慎は、思った。
確信を持つ者は、迷わず、まっすぐ進める。強い。だが、その確信こそが、声にとっての、入り口になる。
一方、疑いを持つ者は、迷い、悩み、遅い。弱く見える。だが、その疑いが、声の侵入を、防ぐ。
(僕が、この世界で生き延びてこられたのは、僕が強かったからではない。僕が、いつも、自分を疑っていたからだ)
皮肉な、真実だった。
◆聖都への道
「ヴァルクス殿」
慎は、切り替えるように、言った。
「祭壇の、もう一つの力の正体を、突き止める必要があります。記録の、擦れて読めない部分。その完全な形が、聖都の文書庫に、あるかもしれない」
ヴァルクスは、頷いた。
「聖都の文書庫には、この地の記録の、原本が、保管されているはずです。ヴェルナの記録は、元々、聖都から伝わったものが、多い」
「ベネディクト司教が、文書庫の調査を、許可してくれました。近く、聖都に向かいます」
ヴァルクスは、少し、迷うような表情を、見せた。
「……ジル殿。一つ、警告しておきたいことがあります」
「なんですか」
「聖都の文書庫の、最も奥まった場所——上位評議会の議長だけが、立ち入りを許される、禁書の間があります」
「禁書の間」
「はい。私も、議長として、そこに、入ったことがあります。そこには、聖都が、数百年にわたって、秘匿してきた、危険な記録が、収められています。この祭壇についての、最も詳しい記録も、おそらく、そこにあるでしょう」
「なぜ、それを、警告として」
ヴァルクスは、慎を、じっと見た。
「禁書の間に入り、ある記録を読んでから、私の中の衝動は、強まりました。世界を変えなければならない、という衝動が。もしかしたら——」
ヴァルクスの声が、低くなった。
「あの部屋に、声の源が、あるのかもしれません」
慎は、その言葉に、緊張を、覚えた。
(禁書の間。声の源が、そこにあるかもしれない。だとすれば、そこに近づくことは——僕自身が、声の標的になる危険を、意味する)
だが、慎は、退く気は、なかった。
(声の正体を、突き止めなければ、この事件は、終わらない。そして、次に呼び寄せられる転生者が、また、操られる)
エミリアが、言った言葉を、思い出す。呼び寄せられる転生者もまた、被害者だ、と。
(それを、止めなければ)
「ヴァルクス殿。その禁書の間に、僕は、行きます」
ヴァルクスは、慎を見つめ、そして、静かに頷いた。
「……あなたなら、大丈夫かもしれない。疑いという鎧を、持っているあなたなら」
「そう、願います」
慎は、天幕の外を、見た。
雨上がりの空に、薄く、日が差し始めていた。
聖都へ。禁書の間へ。声の源へ。
これまでの戦いが、権力と、陰謀の戦いだったとすれば、これから始まるのは、もっと根源的な——この世界の理そのものと向き合う、戦いだった。
(僕は、二つの理の交わりだ。ならば、二つの理の秘密に、最も近づける存在なのかもしれない)
慎は、静かに、拳を、握った。
◆エミリアの不安
その夜、慎は、エミリアに、聖都行きのことを、話した。
禁書の間のこと。そこに、声の源があるかもしれないこと。そして、慎自身が、そこに向かうこと。
エミリアは、じっと、聞いていた。話が終わると、しばらく、沈黙した。
「……行くのね」
「はい」
「その、声の源のところに」
「そうです」
エミリアは、窓の外を、見た。ヴェルナの、静かな夜が、そこにあった。
「怖いの」
エミリアは、ぽつりと、言った。
「これまでの敵は、人間だった。バルトも、グレイ主教も、ヴァルクスも、コルネリウスも。人間なら、あなたは、言葉で、論理で、戦える。あなたの得意なやり方で。でも——」
エミリアは、慎を、見た。
「今度の相手は、人間じゃない。声、としか、分からない。祭壇の力。この世界の理。そんなものと、あなたは、どう戦うの」
慎は、その問いに、すぐには、答えられなかった。
エミリアの言う通りだった。これまでの敵は、人間だった。人間には、動機があり、論理があり、弱点があった。慎は、それを見抜き、突くことで、戦ってきた。
だが、声は、違う。それが何なのか、まだ、分からない。動機も、論理も、弱点も、見えない。
「……正直に言うと、分かりません」
慎は、静かに、答えた。
「どう戦えばいいのか、まだ、分かりません。でも、一つだけ、確かなことがあります」
「なに?」
「僕は、その声に、操られていない。疑いという鎧が、僕を守っている。だから、僕は、その声に、まっすぐ、向き合える。操られずに、正体を、見極められる。それができるのは、おそらく、僕だけです」
エミリアは、慎を、じっと見つめた。
「……あなたが、そう言うなら、止めない」
エミリアは、静かに言った。
「でも、約束して。もし、その声に、操られそうになったら、逃げて。無理に、正体を突き止めようとして、あなた自身が、コルネリウスやヴァルクスのようになるのだけは、絶対に、嫌」
慎は、エミリアの、その言葉に、込められた思いを、受け取った。
「約束します」
「本当に?」
「はい。僕は、僕自身を、失いません。何があっても」
エミリアは、少しだけ、微笑んだ。だが、その微笑みの奥には、まだ、消えない不安が、あった。
慎は、その不安を、理解していた。
そして、内心では、エミリアの不安が、正しいことも、感じていた。
(禁書の間で、僕を待っているのは、これまでのどの敵とも、違う何かだ)
人間の悪意なら、慎は、戦える。だが、人間を超えた何か——この世界の理に、根ざした何か——を相手にしたとき、慎の武器である「事実」と「論理」が、通用するのか。
それは、まだ、誰にも、分からなかった。
窓の外、ヴェルナの丘の上に、雲間から、月が、顔を出した。
その青白い光が、地下に眠る祭壇の、方角を、静かに、照らしていた。
(第41話に続く)




