第3話 逃げる影、迫る刻限
◆証拠としての毒
夜が明けて、牢の中にも薄い光が差し込んできた。慎は、こぼれた椀の残りを布の切れ端に丁寧に包み込んだまま、朝を待っていた。
「ロイド殿に、これを確認してもらいたいのですが」
牢番にそう告げると、しばらくして、ロイドが部下とともに現れた。
「夜更けに、おかしな使いが来たそうだな。報告は受けている」
慎は布の包みを差し出した。
「これが、その椀に残っていたものです。匂いを確認しただけですが、毒物特有の苦味があります。専門の方に分析してもらえますか」
ロイドは部下に包みを渡し、すぐに鑑定へ回すよう指示した。
「……仮にこれが本当に毒だったとして、何が変わる?」
「無実の人間を、わざわざ処刑前に毒殺しようとする必要はありません。逆に言えば、誰かが『処刑を待たずに、僕を確実に消したい』と考えている、ということです」
「つまり――」
「正式な手続きの結果より、僕が真実に近づくことの方が、その人物にとって脅威だということです」
ロイドは、しばらく黙って慎を見つめていた。
「半日待て。鑑定結果が出れば、これは正式な証拠として扱える」
◆消えた執事
その日の午前中、エミリアが息を切らして牢にやってきた。
「バルトの部屋、もう空っぽだったの」
「空っぽ、というのは」
「私物がほとんど運び出されていて、使用人に聞いたら、今朝早くに『急な所用で領地に戻る』と言って、馬車を用意させていたみたい」
慎は頭の中で、状況を再構成した。
(……夜更けの刺客が失敗したことに気づいて、すぐに逃亡準備を始めた、ということだろう。判断は速いが、それは裏を返せば『相当焦っている』ということでもある)
「行き先は分かりますか」
「分からない。でも、馬車の支度をしていた御者の一人が、『教会の方に立ち寄ってから』と話していたのを聞いたって」
「教会、ですか」
(手帳に書かれていた『教会への寄進記録の不一致』と、今回の逃亡先が一致する。これは、偶然とは考えにくい)
慎は紙の端に、簡単な相関図を書き加えた。
バルト → 教会(具体的な人物は不明) → 逃亡準備
「エミリアさん。バルトを直接追うのは危険です。今は、彼が運び出した荷物の中に、何があったのかを確認する方が重要だと思います」
「荷物の中身までは分からないけど……使用人の一人が、『重そうな木箱をいくつか運んでいた』と言っていたわ」
「帳簿か、現金か、あるいは証拠の隠滅物かもしれません」
慎は静かに頷いた。
(時間との勝負になってきたな。バルトが完全に逃げ切れば、証拠も一緒に消える)
◆兄アルベルトの来訪
その日の昼過ぎ、思いがけない人物が牢を訪れた。
「……アルベルト兄さん」
整った身なりの青年が、牢の前に立っていた。ジルの長兄、アルベルト・ヴァンディアールだった。エミリアから聞いていた人物像――優秀だが、家のために弟を切ろうとした、冷たい男――と一致する、隙のない佇まいだった。
「お前が、最近妙な動きをしているという話を聞いた」
「妙な動き、とは」
「執事の不正を調べている、と。父上にも、調査官にも」
アルベルトの声には、抑えた怒りが滲んでいた。
「お前は、自分が何をしているのか分かっているのか? バルトは、この家の財務を二十年近く取り仕切ってきた人間だ。もし彼の不正が公になれば、伯爵家の信用は完全に失われる」
「兄さんは、バルトの不正を知っていたんですか」
アルベルトの表情が、わずかに固まった。
「……薄々、感じてはいた。だが、確証はなかった」
「確証がなくても、何かおかしいと感じていた。それなのに、見過ごしていたんですね」
「お前に何が分かる」
アルベルトの声が、初めて少し荒くなった。
「父上は、もう何年も前から領地の財政に苦しんでいる。バルトの管理に問題があると分かっても、彼を解任すれば、その後の財務処理を誰が担うんだ。代わりがいない以上、見過ごすしかなかった」
(……これは、前世でよく見た光景と同じだな。『不正が分かっていても、代わりの人材がいないから見過ごす』という、組織のよくある言い訳)
慎は、静かにアルベルトを見つめた。
「兄さん。今、バルトは逃げようとしています。荷物をまとめて、教会の方に向かっているそうです」
アルベルトの顔色が、明らかに変わった。
「……逃げる、だと?」
「ええ。そして、僕は昨夜、何者かに毒を盛られそうになりました。バルトの使いを名乗る人物からです」
「お前を、殺そうとした……?」
アルベルトは、しばらく言葉を失っていた。
「兄さんが見過ごしてきた『不正』は、おそらく単純な使い込みだけではありません。誰かを殺してまで隠したい何かが、その裏にあります」
アルベルトは、拳を握りしめていた。
「……父上には、まだ話すな」
「なぜですか」
「父上は、もう一度バルトを庇うだろう。家の体面のために。だが、今回の話が本当なら――もう庇いきれる規模じゃない」
意外なことに、アルベルトの声に、わずかな焦りが混じっていた。
「お前が無実だという証拠、本当に揃えられるのか」
「揃えます。あと一日半しかありませんが」
アルベルトは、しばらく慎の顔を見つめていた。前のジルとは違う何かを、感じ取っているような視線だった。
「……分かった。私にできることがあれば言え。父上には、まだ動かない」
そう言い残し、アルベルトは足早に立ち去った。
(完全に味方になったわけではない。だが、少なくとも『敵』ではなくなったかもしれない)
◆教会との接点
午後、ロイドが鑑定結果を持って戻ってきた。
「お前の言う通りだった。椀の残留物から、強い毒物が検出された。これは正式な証拠として記録する」
「ありがとうございます」
「だが、それだけじゃない」
ロイドは、もう一枚の紙を取り出した。
「お前の話を聞いて、執事バルトの過去の取引記録を、もう一度詳しく調べさせた。すると、奇妙な記録が出てきた」
紙には、いくつかの金銭の流れが記されていた。
「バルトが管理していた領地税の一部――『未収』として処理されていた資金――が、最終的に、ある教会施設への『特別寄進』として記録されていた。その施設の管理者は、カシアンという名の聖職者だ」
「カシアン……」
慎は、手帳に書かれていた『寄進記録の不一致』の文字を思い出した。
「このカシアンという人物について、何か分かりますか」
「正式には、地方の小さな礼拝堂の管理者だ。だが、最近、王都の大聖堂との間で、頻繁に書簡を交わしているという噂がある」
ロイドの声が、わずかに低くなった。
「大聖堂、というと――」
「王国の宗教組織の中枢だ。もし、この一件が大聖堂の上層部まで繋がっているなら……正直、私の権限では手が出せない範囲になる」
慎は、頭の中で再び相関図を更新した。
執事バルト → カシアン(地方礼拝堂) → 王都大聖堂(上層部、詳細不明)
(……これが、手帳に書かれていた『教会』の正体に近づく、最初の糸口かもしれない)
「ロイド殿。今すぐ、この繋がりを公にする必要はないと思います。ですが、明日の審理――もし開かれるなら――で、執事バルトの不正と、僕への毒殺未遂を、まず明確にする必要があります」
「審理を開く準備は進めている。王命による処刑は、新たな証拠が出た場合、一時的に延期を申し立てることができる。私の権限で、それを行使する」
「本当ですか」
「ただし、確実な証拠が必要だ。お前の推論だけでは、王命を覆すには弱い」
慎は頷いた。
「分かっています。残りの時間で、できる限りの証拠を固めます」
◆罠
夕刻、エミリアが再び牢にやってきた。今度は、明らかに様子がおかしかった。
「……追われたわ」
「追われた、というのは」
「バルトの荷物を運んでいた御者を探して、裏通りで聞き込みをしていたら、見覚えのない男たちに囲まれて。なんとか逃げたけど……」
エミリアの手は、わずかに震えていた。
慎の中で、強い焦りが湧き上がった。
(僕の調査のために、彼女を危険に晒している。これは、想定していたリスクの範囲を超えている)
「エミリアさん。もう、これ以上は」
「やめない」
エミリアは、震える声でも、はっきりと言い切った。
「ジル様――いえ、あなたが本当のことを暴こうとしているのは分かっている。それに、もう私も巻き込まれている。今さら、何もしないで待っているなんてできない」
慎は、彼女の強い意志に、しばらく言葉を失った。
(……前世でも、こういう『覚悟を決めた協力者』には、何度も助けられた。彼女の意志を、無下にするべきではない)
「分かりました。ですが、これからは単独行動は避けてください。今、何が分かりましたか」
「逃げる途中で、男たちが話していたのを少しだけ聞けたの。『今夜のうちに、礼拝堂に証拠を全部移す』って」
「今夜……」
慎の頭の中で、時計の針が一気に進んだ感覚があった。
(バルトは、すでに逃げる準備をしている。証拠も、今夜のうちに教会の管理下に移される。そうなれば、おそらく二度と手に入らない)
「ロイド殿に、すぐに伝えなければ」
慎は牢の外に向かって声を張った。
「牢番! 今すぐロイド殿を呼んでください、緊急です!」
牢番は驚いた様子で駆け出していった。
慎は深く息を吸い、エミリアに向き直った。
「エミリアさん。今夜、おそらく大きく動くことになります。あなたには、もう一つだけ協力してほしいことがあります」
「何でも言って」
「ロイド殿が動けるのは、王命に基づく正式な権限の範囲内だけです。礼拝堂への強制捜査は、教会の自治権との関係で、すぐには難しいかもしれません。だから――」
慎は、これまでの調査の全てを思い返しながら、静かに、しかし強い確信を持って言った。
「証拠が、礼拝堂の中に運び込まれる『その瞬間』を、押さえる必要があります」
「それって……」
「バルトと、彼が証拠を運ぶ場面を、複数の証人の前で押さえる。それが、明日の審理で僕の無実を証明する、最後の決定的な一手になります」
エミリアは、しばらく慎の顔を見つめていた。
「……分かったわ。私も行く」
「危険です」
「あなただって、牢の中から指示を出すだけじゃ、不十分でしょう?」
エミリアは、わずかに笑った。
「大丈夫。今度は、一人では行かない」
牢の外に、慌てた足音が響いた。ロイドが、息を切らしながら駆けてきた。
「何があった」
慎は、これまでの状況を、簡潔に、しかし正確にロイドへ伝えた。バルトの逃亡準備、証拠の移送先、今夜という期限――。
ロイドの表情が、見る間に引き締まっていく。
「……今夜、礼拝堂の周辺を見張る部隊を組む。だが、礼拝堂そのものへの強制捜査は、私の一存ではできない」
「分かっています。ですが、証拠が運び込まれる『瞬間』を、外から目撃することはできるはずです」
「それを、明日の審理で証言として使う、というわけか」
「はい」
ロイドは、しばらく考え込んでいた。
「……分かった。今夜、私自身が現場に出る。お前は、牢から出られない以上、ここで待つしかないが」
「いえ」
慎は、静かに、しかし確信を込めて言った。
「僕も、行きます」
「正気か。お前は処刑を待つ囚人だ」
「処刑を待つ囚人だからこそ、真実を確認する最後の機会を、自分の目で見届ける必要があります」
ロイドは、慎の顔をじっと見つめた。
長い沈黙の後、ロイドは小さく息を吐いた。
「……今夜だけだ。お前を一時的に、私の監督下に置く形にする。何かあれば、私の責任になる」
「ありがとうございます」
牢の鉄格子が、初めて開いた。
外に出た慎の目に、夕暮れの王都の空が映った。前世では、こんなに鮮やかな夕焼けを見る余裕すら、なかったような気がする。
(あと、一日半。決着をつける)
夜が訪れる前に、慎たちは礼拝堂へと向かう準備を始めていた。
◆出立前の確認
ロイドの執務室に通された慎は、卓上に広げられた王都の地図を見ながら、改めて状況を整理した。前世の監査でいえば、これは「実査計画書」を作る作業と同じだ。何を確認し、誰が、どの順番で動くのか――それを明確にしておかなければ、現場での判断が鈍る。
「礼拝堂の周辺の地理は、こうなっている」
ロイドが指で地図をなぞった。
「正面は大通りに面していて、人目が多い。荷を運び込むなら、おそらく裏手の搬入口を使うはずだ」
「裏手には、見張りはいますか」
「常駐の門番が一人いるだけだ。普段は荷馬車の出入りを記録する程度の役割だな」
慎は頷きながら、頭の中で動線を組み立てた。
「では、裏手の搬入口を見える位置に、ロイド殿の部下を配置してください。荷が運び込まれる瞬間を、複数人の証人で確認できるようにしたいです」
「それと、お前自身はどうする」
「僕とエミリアさんは、もう少し離れた位置から、全体の状況を見届けます。前面に出るのは危険ですが、証人としての立場は必要です」
「危険を承知の上で、現場に出るのか」
「処刑を待つ身としては、これ以上失うものは多くありません」
慎は、あえて軽い口調でそう言った。緊張をはらんだ部下たちの間に、わずかに笑いが漏れた。
エミリアが、地図の隅を指差した。
「ここ、礼拝堂の脇に小さな井戸があるの。昔、よく遊んだ場所だから覚えてる。井戸の陰なら、搬入口がよく見えるはずよ」
「助かります。位置の把握、ありがとうございます」
ロイドは、部下たちに向かって短く指示を出した。
「今夜、全員、私的な行動として動く。これは正式な強制捜査ではない。あくまで『偶然、不審な荷の搬入を目撃した』という体裁を保つ。教会との衝突は、今は避けたい」
部下たちは、緊張した表情で頷いた。
慎は、改めてこれまでの調査内容を、紙の上に簡潔にまとめ直した。
今夜の目的:1. バルトと証拠の荷が、礼拝堂に運び込まれる瞬間を、複数の証人で確認する
2. 可能であれば、荷の中身(帳簿等)を視認、もしくは押収の根拠を得る
3. 明日の審理で使える、客観的な証言・記録を残す
(……前世の現場検証と、本質的には変わらない。事実を、誰の目にも明らかな形で記録すること。それが全ての出発点だ)
慎は紙を折り、懐にしまった。
◆その頃、バルトは
王都の外れ、薄暗い裏通りの一室で、執事バルトは荷物をまとめる手を、何度も止めていた。
(……まずい。あの男――いや、ジル様の様子が、おかしい)
長年、伯爵家の財務を取り仕切ってきた自負がある。だからこそ、自分の不正がどれほど巧妙に隠されているか、誰よりも理解していた。
それが、たった数日で見抜かれかけている。
(いや、ジル様一人の力ではない。あの観察力、あの理屈の組み立て方……まるで、別人のようだ)
バルトは、震える手で帳簿の束を木箱に詰め込んだ。
(あの男に毒を盛ろうとしたのは、判断が早すぎた。失敗すれば、こちらの焦りを見せるだけだ。だが、もう後には引けない)
「カシアン殿に、全てを託すしかない」
バルトは、誰もいない部屋で、独り言のように呟いた。
(私一人の罪では済まない。だが、教会の庇護があれば――)
その先の言葉は、自分自身にも、はっきりとは言えなかった。
廊下の向こうから、足音が近づいてくる気配があった。バルトは慌てて荷物に布をかぶせ、何事もないかのように振る舞った。
「バルト様。馬車の準備が整いました」
「……分かった。すぐに発つ」
バルトは、震える指先を握りしめた。
(あと一晩。あと一晩だけ、隠し切れば)
その「一晩」が、果たして十分な時間なのかどうか――バルト自身も、確信を持てていなかった。
慎たちは、夜の王都を、静かに礼拝堂へ向かって進んでいた。
夜が訪れる前に、すでに動き出していた影。それを、確実に捉えるための時間が、今、始まろうとしていた。
(第4話に続く)




