第二話 沈黙する証言
◆届いた記録
朝――といっても、牢の中では太陽の位置でしか時間を判断できない――、重い足音とともに、牢番が分厚い紙束を運んできた。
「調査官様からだ。これで全部らしい」
紙束は鉄格子の隙間から押し込まれた。慎はそれを受け取り、藁の寝床に座り直して、紙を広げていく。
(……思ったより、量がある。ロイドという男、案外仕事はきっちりやるタイプらしい)
紙束には三種類の文書が含まれていた。
一つ目は、晩餐会の出席者リストと座席表。二つ目は、毒の小瓶が発見された際の現場報告書。三つ目は、当日の警備記録――誰がいつ、どの区画を巡回していたかという記録だった。
慎は前世の監査資料を読むときと同じ姿勢で、紙を机――というより膝の上に並べた。
(まず、突合せだ。複数の資料が、お互いに矛盾していないかを確認する。これが監査の基本中の基本)
◆杯の記録に潜む矛盾
座席表を見ると、ラングドル公爵の席は会場中央、上座に近い位置にあった。ジルの席は、それよりやや離れた末席に近い場所だ。
(……物理的に、僕の席から公爵の杯に直接毒を入れるのは、かなり難しい距離だな)
慎は座席表に記された各人の位置を、頭の中で会場の見取り図として再構成した。距離、視線、給仕の動き――。
次に、現場報告書を確認する。そこには「公爵の杯は晩餐開始から30分後に毒が混入されたと推定される」と記されていた。
(30分後、というのは妙に具体的だな。何を根拠にしている?)
報告書の根拠を読み進めると、「公爵が体調不良を訴えたのが開始40分後であり、毒の作用時間から逆算した」とあった。
(なるほど。逆算自体は合理的だ。だが、この30分後という時間帯に、誰が公爵の杯に近づけたのか、という情報がここにはない)
慎は警備記録に目を移した。当日の給仕担当者のリストと、巡回記録だ。
ここで、慎の目が止まった。
「……これは」
給仕担当者のリストの中に、「リース」という名前があった。注釈には「臨時雇い、晩餐会当日のみ」と書かれている。
(臨時雇いの給仕が、貴族の晩餐会に入り込める、というのは普通あり得るのか?)
慎は前世の感覚で、これを「内部統制の不備」と呼んだ。重要なイベントに、身元確認の甘い人員を入れることは、不正のリスクを格段に高める。
さらに座席表と給仕の配置を突き合わせると、このリースという人物が担当していた区画は――まさに、公爵の席を含む上座のテーブルだった。
(出席者の中に、僕がいる。だが、僕の席からは公爵の杯に届かない。一方で、この『リース』という臨時の給仕は、公爵の杯に直接触れられる立場にいた)
慎は紙の上に、自分なりの「相関図」を描き始めた。
公爵の杯に物理的にアクセス可能だった人物:- 給仕担当(リース、他常勤の給仕数名)
・公爵の隣席の数名(座席表より)
ジル(慎)の席からのアクセス可能性:- ほぼゼロ(距離・視線の観点から、現実的でない)
(……これだけでも、僕が実行犯であるという仮説には、重大な疑義がある。なぜ捜査側は、この座席の距離関係を検討しなかったんだ?)
慎はもう一つの文書、小瓶発見の報告書に目を移した。
そこには、「捜査官が私室を確認したところ、寝台脇の引き出しから毒の小瓶を発見した」とあり、発見時刻は「晩餐会翌日の朝、8時頃」と記されていた。
慎は警備記録の方を確認した。ジルの私室がある区画の警備状況――。
「……あった」
警備記録には、晩餐会当夜から翌朝にかけて、ジルの私室区画の巡回記録が記されていた。そして、発見時刻とされる「朝8時」の直前、つまり「朝7時45分から8時」の15分間だけ、巡回記録に空白があった。
(15分間だけ、警備が途切れている。この空白の時間に、誰かが小瓶を仕込んだとしたら――)
慎は紙を見つめながら、思わず口元に小さな笑みを浮かべた。
(これは、ガバガバすぎる。前世なら、この程度の証拠で『不正の証拠あり』として役員会に報告したら、逆に僕の調査能力を疑われるレベルだ)
◆エミリアの報告――書斎の発見
その夜、エミリアが再び牢を訪れた。今度は、薄汚れた古い手帳と、燃え残った紙の切れ端を手にしていた。
「ジル様の書斎、本当に念入りに調べたわ。本棚の裏の壁に、隙間があったの」
「隙間、ですか」
「ええ。そこに、この手帳が隠されていた」
エミリアが差し出した手帳を、慎は丁寧に受け取った。表紙には何も書かれていない、ごく普通の手帳だった。中を開くと、見覚えのある筆跡――手帳の最後のページと同じ、ジル本人の字だった。
最初のページには、こう記されていた。
『伯爵家の帳簿に、不審な点がある。過去三年分の収支を確認したところ、領地税の一部が、記録上の入金額と実際の入金額で食い違っている』
慎は息を呑んだ。
(これは……完全に監査報告書の冒頭と同じ書き方だ。ジル本人にも、こういう感覚があったのか)
ページをさらに進めると、具体的な数字と、疑わしい人物の名前が列記されていた。
『執事バルト、領地税の集金記録に不自然な遅延。三年間で、合計してかなりの額が一時的に「未収」として処理されているが、最終的な決算では「処理済み」となっている。この間、資金がどこにあったのか不明』
『教会への寄進記録にも、同様の不自然さ。寄進額が決算書上では一定だが、実際の納入記録とは一致しない』
慎の中で、頭の中の表がさらに更新されていく。
疑わしい人物・組織:1. 執事バルト――領地税の集金・管理を担当。資金の動きに不自然な遅延あり。
2. 教会(具体的にどの聖職者かは未記載)――寄進記録の不一致。
そして、手帳の最後に近いページには、こう記されていた。
『今夜、確認のため、バルトの記録をもう一度見る。誰にも言わないように。もし何かあったら、エミリアに伝えてほしい――』
文章はそこで途切れていた。日付を確認すると、晩餐会のわずか3日前だった。
「……これは」
エミリアの声が、わずかに震えていた。
「ジル様は、何かに気づいていた。そして、それを確認しようとした、その直後に……」
「晩餐会で、公爵毒殺の濡れ衣を着せられた、ということですね」
慎は静かに頷いた。
(タイミングが、あまりにも一致している。これは偶然とは考えにくい)
◆名前が一致する
慎は、先ほど確認した警備記録の写しを取り出し、エミリアに見せた。
「この『リース』という臨時雇いの給仕、何か知っていますか」
エミリアは名前を見て、しばらく考え込んだ。
「……聞いたことがあるかもしれない。執事のバルトが、晩餐会の準備のために、何人か臨時の使用人を雇い入れたと言っていたの。その中の一人かもしれない」
慎の中で、二つの線が一本に繋がった音がした。
(執事バルト――領地税の不正の疑惑がある人物。そして、彼が雇い入れた臨時の給仕『リース』は、公爵の杯に直接アクセスできる立場にいた)
「エミリアさん。確認したいことがあります。このリースという人物、今どこにいるか分かりますか」
「調べてみる。バルトに直接聞くのは危険そうだから、使用人仲間に当たってみるわ」
「ありがとうございます。それと――もう一つ」
慎は手帳の最後のページを指した。
「ジル様が『今夜確認する』と言っていた、バルトの記録。それが今、どこにあるのか分かりますか。もし残っていれば、決定的な証拠になります」
「分からないけど……執事の部屋か、領地税の管理をしている部屋に、何かあるかもしれない」
「危険を冒してほしいわけではありません。ただ、もし機会があれば」
「分かったわ。気をつけて調べてみる」
エミリアはそう言うと、手帳を慎に預けたまま、足早に牢を後にした。
◆消えた証人
翌朝、エミリアが慌てた様子で戻ってきた。
「リース、見つからないの」
「見つからない、というのは」
「使用人仲間に聞いたら、晩餐会の翌日――公爵が倒れたと分かったその日のうちに、もう辞めていたって。住所も、登録されていたものが嘘だった。誰も、彼の本当の素性を知らないみたい」
慎は予想していたことではあったが、それでも小さく息を吐いた。
(……証人を消す、というのは、こういう事件では定番の手口だ。前世でも、不正の鍵を握る関係者が、調査が始まる直前に『退職』するケースは、何度も見てきた)
「予想はしていましたが、これで確信が強まりました」
「確信?」
「リースという人物は、おそらく今回の事件のために、一時的に雇われた『実行役』です。事件後、すぐに姿を消すよう、誰かに指示されていたんでしょう」
「誰かって……」
「執事バルトか、あるいはバルトに指示を出していた、もっと上の人物。手帳に書かれていた『教会』の名前が、気になります」
エミリアの顔が、わずかに青ざめた。
「教会を疑う、というのは……かなり危険なことよ」
「分かっています。だからこそ、慎重に進める必要があります」
慎は、頭の中の調査計画書を更新した。
確定した事実:1. 座席の物理的配置から、ジルが実行犯であることに合理的な疑義がある
2. 私室での小瓶発見時、警備記録に説明のつかない空白がある
3. 執事バルトが、領地税・教会寄進に関する不正の疑いがある
4. 臨時雇いの給仕「リース」が、事件直後に姿を消している
未確定だが疑わしい事実:1. バルトの不正と、今回の冤罪が関連している可能性2. 教会の何者かが、この事件に関与している可能性
(……まだ、決定的な証拠とは言えない。だが、十分に『再調査すべき合理的な根拠』にはなっている)
◆ロイドの忠告
その日の午後、ロイドが再び牢を訪れた。今回は一人ではなく、部下を一人連れていた。
「進展はあったか」
慎は、これまでに整理した内容を、簡潔にロイドに説明した。座席の距離関係、警備記録の空白、執事バルトの名前、消えた証人――。
ロイドは黙って聞いていたが、説明が終わると、しばらく沈黙していた。
「……お前の言うことが事実なら、これは単純な毒殺事件ではない」
「そう思います」
「執事バルトの名前が出てきたのは、想定外だ。彼は伯爵家の財務を長年取り仕切っている。そう簡単に手を出せる相手じゃない」
ロイドは声を落とした。
「それに、お前の手帳に書かれていた『教会』という言葉――それが本当なら、もっと厄介なことになる。この国で、教会を敵に回すことの意味を、お前は分かっているか」
「正直なところ、まだ完全には分かっていません。ですが、事実を確認することと、それを敵に回すことは、必ずしも同じ意味ではないと思います」
ロイドは、慎の顔をじっと見つめた。
「お前は、本当に変わったな。前のジル・ヴァンディアールとは、まるで別人のようだ」
「それが、良い変化であることを願っています」
「……まだ判断はつかない」
ロイドは、エミリアと似たようなセリフを口にした。
「だが、これだけは言っておく。お前の調査が正しければ、すでに一人――公爵を巻き込んでまで、何かを隠そうとしている人物がいる。そして、お前は今、その人物にとって『最も都合の良い駒』だ。お前が処刑されれば、事件は綺麗に終わる」
「つまり、僕が真実に近づけば近づくほど――」
「お前の命は、もっと危険になる、ということだ」
ロイドは静かに、しかしはっきりと告げた。
「私はこれから、執事バルトの過去の記録を、密かに調べてみる。だが時間はない。あと二日だ」
「ありがとうございます」
「礼を言われる立場じゃない。これは、私自身の職務上の疑念だ。証拠が捏造されているなら、それを見過ごすことは、調査官としての私の責務に反する」
ロイドはそう言い残し、足早に牢を後にした。
◆夜更けの来訪者
その夜、慎は一人、牢の中で考えを巡らせていた。
(……バルト、教会、消えた証人。ピースは揃ってきているが、まだ『決定的な一手』が足りない)
頭の中で、調査計画の次のステップを組み立てていたとき、ふと、通路の奥から足音が聞こえた。
牢番のものとは違う、妙に静かな足音だった。
「……夜分遅くに失礼します」
声をかけてきたのは、見覚えのない使用人風の男だった。手には、湯気の立つ椀を持っている。
「処刑前のお方には、最後にせめて温かいものを、と。伯爵家からの差し入れです」
慎は男の顔を、じっと観察した。
(……目が合わない。視線が、ずっと椀と僕の手元の間を往復している。これは――)
前世で、何度も「不正の兆候がある人間」を観察してきた経験が、警鐘を鳴らしていた。緊張、視線の逸らし方、不自然に整えられた言葉――。
「伯爵家から、ですか。父――伯爵が、僕にそんな配慮をするとは、意外ですね」
「……奥様からのご指示です」
「母は、もう亡くなっています」
男の顔が、一瞬だけ強張った。
(……噓だ。それも、かなり浅い噓だ)
慎は鉄格子の隙間から差し出された椀を、慎重に受け取るふりをしながら、わずかに手元を逸らした。椀の中身が、わずかに床にこぼれる。
「これは失礼。少し緊張していまして」
男はそう言い、慌てて立ち去ろうとした。
「待ってください」
慎が声をかけると、男はびくりと体を震わせた。
「……名前を聞いていませんでした。あなたは、どなたの使いですか」
「……し、執事様の使いです」
「執事様――バルト殿、ということですね」
男の顔から、完全に血の気が引いた。
「失礼します!」
男はそう言い残し、逃げるように通路の奥へ走り去った。
慎は、こぼれた椀の中身を、指先で少しだけすくい取った。鼻先に近づけると、わずかに、苦味のある異臭がした。
(……これは、毒だな。十中八九)
慎は静かに、しかし確かな手応えを感じながら、思考をまとめた。
(つまり、執事バルトは――もう僕の調査に気づいている。そして、処刑を待たずに、直接僕を消そうとした)
これは、見方を変えれば、強力な証拠だった。
(無実の人間に対して、処刑前にわざわざ毒を盛る必要はない。これは、僕が『何かに気づいている』ことを、バルト自身が確信している証拠だ)
慎は牢の隅に、こぼれた椀の残りを丁寧に保管した。これも、いずれ使える「物的証拠」になる。
(……あと二日。だが、これで風向きが変わった)
牢の外、夜の闇の中で、何かが動く気配があった。慎は、その気配の方向――王都の中心、教会の尖塔がそびえる方角を、じっと見つめた。
(誰だ、本当の黒幕は。バルトは、おそらく手足の一人に過ぎない。その先に、もっと大きな何かがある)
夜は、まだ深い。
そして、処刑までの時間は、確実に少なくなっていた。
(第3話に続く)




