第一話 処刑まで、あと72時間
◆死亡欄には「過労」と書いてくれ
死ぬ瞬間というのは、もっと劇的なものだと思っていた。
黒崎慎、32歳。大手商社・東陽物産の経理監査部に所属して十年。最後に見た光景は、深夜2時のオフィスの白い蛍光灯と、机の上に積まれた決算資料の山だった。
監査という仕事は、要するに「嘘を見つける仕事」だ。決算書の数字、子会社からの報告書、現場の言い分――そのどれもが、誰かの都合のいいように歪められている可能性がある。慎の仕事は、その歪みを見つけ、正しい形に戻すことだった。
その晩も、慎は子会社の不正在庫の証拠を固めていた。担当部長が「在庫は適正です」と繰り返す報告書の裏で、出荷記録と棚卸記録のあいだに、誰も気づかないはずの3,000万円分の矛盾を見つけていた。
「黒崎、明日の役員会までに固めとけよ。お前以外、誰も気づいてないんだから」
そう言ったのは上司だった。労いの言葉はなかった。慎は「分かりました」と答えて、また机に向かった。
胸の奥に、何かが詰まったような違和感を覚えたのは、その10分後だった。息が、うまく入ってこない。視界の端が暗くなる。
(これは……まずいな)
数字に強い慎は、自分の身体の異常にも、妙に冷静な分析を加えていた。動悸、冷や汗、視界の狭窄――これは典型的な過労由来の急性症状だ。救急車を呼ぶべきだ。そう判断した瞬間には、もう机に頬をつけて倒れていた。
最後に思ったのは、案外くだらないことだった。
(死亡欄には「過労」と書いてくれ。労災、ちゃんと認定されますように)
監査屋の最後の仕事は、自分自身の死因に「不正な過小評価」がないよう祈ることだった。
そして、意識は途切れた。
◆目覚め
次に目を開けたとき、慎は石造りの部屋の中にいた。
ひんやりとした空気、薄暗い灯り、藁を敷いた硬い寝床。鉄格子の向こうには石の通路が伸びている。
(……これは、どういう状況だ)
慎は冷静にメモを取るような頭の動かし方で、状況を整理しようとした。まず第一に、ここはオフィスではない。第二に、自分は寝床に横たわっている。第三に――
「……ッ」
声を出して、違和感に気づいた。出てきた声が、自分のものではなかった。慎の声は低く、十年間の残業で擦れた声だった。だが今出た声は、もっと高く、若く、滑らかだった。
手を見た。見慣れた、ペンだこのある指ではない。日に焼けていない、傷の少ない、貴公子然とした指だった。
慎は深呼吸をひとつして、自分にこう問いかけた。
(落ち着け。これは異常事態だが、異常事態の分析こそが俺の専門分野だ)
監査の基本は「まず事実を確認し、解釈は後にする」ことだ。慎は寝床から起き上がり、壁にかかった小さな鏡――というより、磨かれた金属板に映る自分の姿を確認した。
映っていたのは、見知らぬ青年だった。淡い金髪、整った顔立ち、年齢は20代前半といったところ。明らかに、黒崎慎ではない誰かだ。
(身体が変わった、というのが一番シンプルな仮説だな)
慎は壁に貼られた羊皮紙の断片や、牢の隅に置かれた私物――おそらくこの身体の持ち主のものらしい手帳――を手に取った。手帳には流麗な文字で、こう記されていた。
『ジル・ヴァンディアール、伯爵家三男』
(ジル・ヴァンディアール……俺は今、この人物になっている、ということか)
手帳の他の記述から、慎は急速に状況を把握していった。ここは「アルテシア王国」という国らしい。ヴァンディアール伯爵家という貴族の家があり、ジルはその三男。そして手帳の最後のページには、震えるような筆跡で、こう書かれていた。
『証拠が、おかしい。誰かが――』
そこで文章は途切れていた。
(……これは、重要な手がかりかもしれない)
慎は手帳を懐にしまい込んだ。前世の癖で、重要書類を放置しないという習慣が、こんな場所でも顔を出した。
◆牢番との対決
足音が近づいてきた。重い革靴の音が、石の通路に響く。
「ジル・ヴァンディアール。気分はどうだ」
牢の鉄格子の向こうに立っていたのは、武装した牢番だった。腰に剣を提げ、嘲るような笑みをこちらに向けている。
「……状況を整理させてもらえますか」
慎は努めて冷静な声で言った。十年間、どんな修羅場でも数字とファクトだけを信じてきた癖は、こんな異常事態の中でも、しっかりと顔を出した。
牢番は鼻で笑った。
「今さら正気を装っても遅い。お前は二週間前、晩餐会でラングドル公爵の杯に毒を盛った。三日後、王都広場で公開処刑だ」
——処刑。三日後。
頭の中で警告音が鳴った気がした。これは決算報告でいうところの「重大な誤謬の疑いがある、不適正意見」レベルの非常事態だ。
「証拠は」
「は?」
「毒殺の証拠です。物的証拠、証言、動機。それらを今すぐ確認させてください」
牢番は一瞬怯んだが、すぐに苦笑した。
「お前の使っていた杯から毒の残滓が検出された。お前の私室から同じ毒の小瓶が見つかった。そしてお前には、公爵に冷遇された過去の遺恨がある。これ以上の証拠が必要か?」
慎は黙って聞いていた。前世の癖で、頭の中に勝手に三列の表ができていく。
証拠1:杯から毒の残滓。
――誰でも杯に後から毒を仕込める。第三者の介在を排除できていない。晩餐会には何人が出席し、誰が杯に近づける位置にいたのか、その記録はあるのか。
証拠2:私室から毒の小瓶。
――「見つかった」というだけで、いつ・誰が・どうやって発見したのかの記録がない。発見時に立会人がいたのかどうかも不明。
証拠3:動機(遺恨)。
――これは状況であって証拠ではない。動機があることと、実際に実行したことは、論理的に別の問題だ。
監査の世界では、これを「裏付けの取れていない不正の兆候」と呼ぶ。状況証拠の山であって、立証された事実ではない。
「これ、立証できてないですよね」
牢番の顔が固まった。
「……何を言っている。お前はもう詰んでいるんだぞ」
「詰んでいるのは証拠の方です」
慎は鉄格子に手をかけ、静かに続けた。
「杯の毒は、晩餐会に出席した誰でも盛れる可能性がある。第三者の介在を排除する証拠がない限り、犯人を特定したとは言えません。小瓶の発見状況に記録がない時点で、立会人なしの『発見』は証拠として脆弱すぎる。後から仕込まれた可能性を否定できていない。動機についても、遺恨があったことと毒を盛ったことの間には、直接の因果関係を示す証拠が一つもない」
牢番は何を言われているのか分からない、という顔でこちらを見つめていた。
「三日ありますね。十分です。やり直しましょう、この調査」
「お前……正気か?」
「正気じゃないと思うなら、調査官を呼んでください。きちんとした人間に、この証拠の杜撰さを説明したい」
その言葉に、牢番は奇妙な表情を見せた。怒りでも、嘲りでもない。何かに気づいたような――いや、思い出したような顔だった。
「……奇遇だな。もうすぐ来るよ、調査官は」
牢番はそう言い残し、踵を返して去っていった。
◆王室調査官ロイドの尋問
牢番が去ってから、さほど時間が経たないうちに、また足音が聞こえてきた。今度は一人ではない。複数の足音と、剣がこすれる音。
牢の前に立ったのは、灰色のマントを纏った、鋭い目つきの男だった。年齢は30代半ばといったところ。背筋はピンと伸び、隙のない立ち姿だ。
「私は王室調査官、ロイド・ファーンハイトだ。お前の処遇について、最終確認をしに来た」
ロイドは懐から羊皮紙を取り出し、淡々と読み上げた。
「ジル・ヴァンディアール。お前はラングドル公爵への毒殺未遂、もしくは既遂の罪に問われている。本日付で、三日後の処刑が確定する。何か申し立てはあるか」
(これが、今回の事件の「決裁権者」だな)
慎は瞬時に状況を分析した。牢番は現場の作業員レベル、ロイドはおそらく決裁ラインの責任者だ。ここで論破すべき相手は、牢番ではなくこの男だった。
「申し立てがあります。今回の立証プロセスには、複数の重大な欠陥があります」
ロイドの片眉が、わずかに動いた。
「欠陥、と言ったか」
「はい。第一に、毒の残滓が検出された杯について、晩餐会における出入りの記録、各人の着席位置、杯の管理状況に関する記録が一切示されていません。第二に、私室から発見されたという毒の小瓶について、発見時の立会人、発見の経緯、発見時刻の記録がありません。第三に、動機とされる遺恨について、それが実行に結びついたことを示す直接証拠が存在しません」
「……お前、本当にジル・ヴァンディアールか?」
ロイドの声に、わずかな警戒が混じった。
「以前の報告書にあった人物像とは、明らかに話し方が違う。お前のような分析的な物言いをする男だとは、誰の証言にもなかった」
(やはり、鋭い男だ。これは慎重に対応すべきだな)
慎は一瞬、迷った。前世の記憶や、人格が変わったことを正直に話すべきか。だがそれは、現状ではリスクが大きすぎる。証拠不十分どころか、「呪術による人格乗っ取り」という、もっと重い罪状に発展する可能性すらある。
「処刑を目前にして、人間は変わるものです。残り三日しかないと分かれば、誰しも冷静に物事を見ようとするのではないでしょうか」
ロイドは数秒、慎の顔を見つめた。値踏みするような視線だった。
「……仮にその欠陥が事実だとしても、お前を処刑しないという結論には直結しない。状況証拠が積み重なれば、それは合理的な疑いを超える証明になる、というのが司法の原則だ」
「いいえ、違います」
慎は即座に言い切った。
「状況証拠は、それぞれが独立して検証可能で、互いに矛盾しないことが前提です。今回のケースでは、検証可能性そのものが欠落しています。それは『証拠の積み重ね』ではなく、『検証されていない仮説の積み重ね』に過ぎません」
牢の中に、一瞬の静寂が落ちた。
ロイドは、しばらく黙ってこちらを見ていた。やがて、小さく息を吐いた。
「……お前の言うことは、理屈としては分かる。だが私には、この事件を一から再調査する権限も、時間もない。三日後の処刑は、王命によって既に確定している」
「では、せめてこれだけ教えてください」
慎は食らいついた。
「晩餐会の出席者リストと、私室から小瓶が発見された際の報告書。それだけでも開示していただけませんか。処刑前の最後の願いとして」
ロイドは、しばらく考え込むような顔をしていた。
「……規則上、被告人にも最低限の記録開示請求権はある。だが、お前がそれを使って何をするつもりだ?」
「事実を確認するだけです。それ以上のことは、私のような身分の者にはできません」
慎は静かに、しかし確信を持って言った。
ロイドは部下に何か指示を出し、こう告げた。
「明日の朝までに、可能な範囲の記録を届けさせる。だが期待はしないことだ。お前の処刑が覆る可能性は、ほとんどないと思っていい」
そう言い残し、ロイドは踵を返して去っていった。
(……「ほとんどない」、か。裏を返せば、ゼロではないと言っている)
慎は小さく笑った。前世でも、こういう「言葉の中の小さな隙」を見つけるのが得意だった。ロイドという男は、おそらく根が真面目で、規則を重視するタイプだ。そういう人間は、矛盾を突きつけられたとき、無視できない。
◆父からの手紙
その日の午後、牢番が一枚の封筒を持ってきた。
「お前の父上――ヴァンディアール伯爵から、これを届けるよう言われている」
慎は封を切り、中の手紙を読んだ。
『ジルへ
此度の不始末、誠に遺憾である。伯爵家としては、お前の罪を軽くするための手は尽くした。だが、これ以上家の名を危険に晒すことはできない。お前が潔く罪を認め、家の名誉を最小限に保つことを望む。
会いに行くことはできない。理解してほしい。
父 ゲオルク・ヴァンディアール』
(……つまり、トカゲの尻尾切りだな)
慎は手紙を、感情を込めずに読み返した。前世で、似たような文面の「役員からの内部通達」を何度も見てきた。「会社のため」「組織の名誉のため」――都合の悪い事実を隠す側の人間が使う言葉は、どの世界でも似たり寄ったりらしい。
(伯爵は息子を守る気がない。それどころか、息子の罪を前提にして話を進めている。これは――おそらく伯爵自身も、この事件の『不自然さ』に薄々気づいているが、深く調べる気はない、ということだな)
監査の世界には「見て見ぬふりをする経営陣」というパターンがよくある。事実を確認すれば不都合が露呈するかもしれない――だから、確認自体を避ける。伯爵の態度は、まさにそれだった。
慎は手紙を丁寧に折り、懐にしまった。これも、いつか使える「証拠」になるかもしれない。
◆エミリアとの出会いと最初の手がかり
日が落ち、牢の中が一段と冷え込んできた頃、また足音が聞こえた。今度は、軽く、慎重な足音だった。
「……あなた、本当にジル様なの?」
声をかけてきたのは、薄茶色の髪をした若い女性だった。簡素なドレスに身を包んでいるが、目には強い意志の光がある。
「以前のジル様なら、こんな状況で冷静に喋れるはずがない。それに、今の喋り方……まるで別人みたい」
「失礼ですが、あなたは」
「エミリア・ラングレー。あなたの婚約者よ。……というか、本当に様子が違うわね。記憶喪失、それとも――」
慎は数秒、彼女の表情を観察した。嘘をついている目ではない。むしろ、何かに賭けるような目だ。前世の監査で、内部通報者と向き合うときによく見た目だった。
「単刀直入に聞きます。あなたは僕が犯人じゃないと思っていますか」
「思っているわ。だから牢番の目を盗んで、お父様にも内緒でここに来たの」
「理由は」
「ジル様は不器用だけど、人を陥れるような狡猾さはない人だから。それに……」
エミリアは少し言葉を切り、声を落とした。
「事件の少し前から、ジル様は様子がおかしかったの。何かを調べているようで、夜遅くまで書斎にいることが多くなった。私に『おかしいと思うことがある』とだけ言って、詳しくは教えてくれなかったわ」
(……手帳に書かれていた『証拠が、おかしい』という記述と一致するな)
慎の中で、状況が少しずつ繋がっていく感覚があった。
「人物評価としては心情的すぎるかもしれませんが」と慎は内心で呟いた。だが――前世の監査でも、内部通報者の「違和感」が大きな不正発覚の出発点になることは何度もあった。彼女の証言は、調査の出発点として十分に価値がある。
慎は鉄格子越しに彼女を見て、初めてこの世界で笑った。
「いいでしょう。協力してください、エミリアさん。あと72時間で、この事件の不適正な部分を全部洗い出します」
「……『不適正な部分』?」
「証拠の矛盾点、という意味です」
エミリアは少し戸惑った顔をしたが、やがて小さく頷いた。
「分かったわ。私に何ができる?」
「まず、晩餐会の当日、誰が公爵の杯に近づけたか――出入りした人間の記録を全部知りたい。次に、僕の私室から毒の小瓶が見つかったときの状況、発見者と立会人の名前。そして――」
慎は懐から、先ほどの手帳を取り出した。
「ジル様が事件前に何を調べていたのか、その手がかり。書斎に何か残されていないか、確認してもらえますか」
エミリアは手帳を覗き込み、最後のページの記述に目を留めた。
『証拠が、おかしい。誰かが――』
「これは……ジル様の字だわ。本当に何かに気づいていたのね」
「ええ。そして、その『何か』に気づかれたことが、今回の冤罪の理由かもしれません」
慎の中で、仮説がひとつ立ち上がっていた。これは単なる濡れ衣ではない。誰かが、ジルが何かに気づくのを防ぐために、先手を打って彼を排除しようとしたのではないか――。
「もう一つ」
慎は最後に付け加えた。
「僕を取り調べた調査官の名前――ロイド・ファーンハイトという方ですが、彼は意外と話が分かる人かもしれません。彼が握っている記録を、なんとか引き出したい。エミリアさんから、何か接点はありますか」
「ロイド様なら……実は、私の従兄なの」
「それは、好都合です」
慎は思わず口角を上げた。前世の癖で、こういう「使える人脈」を見つけたときの感覚は、どんな世界でも変わらないらしい。
エミリアは少し呆れたような、それでも頼もしさを感じるような表情で、慎を見つめた。
「あなた、本当に変わったわね。前のジル様とは、全然違う」
「良い変化だと思ってもらえると嬉しいです」
「……まだ判断はつかないけれど。少なくとも、今は信じてみる」
エミリアはそう言うと、足早に牢を後にした。
慎は一人になった牢の中で、改めて状況を整理した。前世で使っていた「監査計画書」の形式を、頭の中で再現する。
調査対象:ラングドル公爵毒殺事件期限:72時間以内(処刑前)
現状の問題点:1. 杯の毒の混入経路が未検証2. 私室での小瓶発見の経緯が不透明3. 動機と実行の因果関係が未立証4. ジル本人が事件前から「何か」に気づいていた可能性
次のアクション:- エミリアによる晩餐会出席者リストの入手- 私室の小瓶発見時の記録確認- ジルの書斎の捜索- ロイドからの記録開示
(……これだけ揃えば、十分に「再調査の余地あり」という結論に持っていける)
慎は壁に背をつけ、小さく息を吐いた。
(死んでから二度目の徹夜になるとは思わなかったな)
苦笑しながら、慎は――いや、今はジル・ヴァンディアールとして生きることを選んだ男は、72時間後の運命を変えるための調査を、静かに始めていた。
牢の外では、夜がさらに深くなっていく。
そして、誰も気づかないところで、一人の人物が、ジルの牢の様子を遠くから見つめていた。
(……目を覚ましたか。厄介なことになりそうだ)
その人物の顔は、闇に紛れて見えなかった。
(第2話に続く)




