第28話 割れる聖堂
◆決断への問い
「ヴァルクス殿。これから、どうするつもりですか」
慎の問いに、ヴァルクスは長い沈黙で応えた。
対話の間には、静かな時間が流れていた。窓から差し込む光が、少しずつ角度を変えていく。もう、どれくらい話しているのか、慎自身にも分からなくなっていた。
「……あなたと話して、多くのことが、はっきりしました」
ヴァルクスは、静かに口を開いた。
「私は、理想のために、道を誤った。前の世界で憎んでいたものに、自分自身がなっていた。それは、認めます」
「では」
「だが、止めることが、正しいのかどうか——それが、まだ分からないのです」
「どういう意味ですか」
ヴァルクスは、少し疲れた顔で言った。
「私が今、全てを止めれば、四十年の計画が崩れます。それによって、これまで巻き込んできた者たち——グレイのような者たちの犠牲も、全て無駄になる。そして、この世界の権力構造を変えるという、本来の目的も、達成されない」
「あなたが止めなければ、これから、さらに多くの人が犠牲になります」
「分かっています。だから、迷っているのです」
慎は、少し考えてから、静かに言った。
「ヴァルクス殿。一つ、申し上げてもよいですか」
「どうぞ」
「あなたは、計画を止めることが、これまでの犠牲を無駄にすると考えている。ですが、それは逆です」
「逆?」
「これまでの犠牲を無駄にしないために計画を続ける、というのは、犠牲の上にさらに犠牲を積み重ねることです。本当に犠牲を意味あるものにするなら、そこで立ち止まり、これ以上の犠牲を止めることです」
ヴァルクスは、じっと慎を見つめた。
「……過去の犠牲を、悼むことと、未来の犠牲を、防ぐこと。それは、別のことだと」
「はい。過去は変えられません。ですが、未来は、まだ変えられます。あなたが今、止めることを選べば、少なくともこれ以上の犠牲は、防げます」
「そして、この世界の権力構造は、変わらないまま残る」
「変え方が、間違っていたのです。人を傷つけて変える構造は、また別の誰かを傷つける構造になります。本当に変えたいなら、傷つけない方法を、探すべきです」
「傷つけない方法など、あるのですか」
「時間はかかります。ですが、あります」
慎は、静かに、しかし確信を込めて言った。
「事実を明らかにし、人々に判断の材料を与え、少しずつ合意を作っていく。それは、権力で押し付けるより、遥かに遅い。ですが、そうやって作られた変化は、誰かを踏みにじることなく、根付きます」
ヴァルクスは、長い間、沈黙していた。
「……あなたは、そういう方法を、信じているのですね」
「信じているというより、それしか、正しい方法を知らないだけです」
ヴァルクスは、静かに笑った。
「四十年前の私が、あなたに会っていれば——」
その言葉は、途中で消えた。
やがて、ヴァルクスは、静かに言った。
「ジル殿。少し、考える時間をください。私は、四十年間、この道を進んできました。それを止めるという決断は、一夜では、できません」
「分かりました」
「明日、もう一度、話しましょう。そのときには、私の答えを、お伝えします」
慎は、頷いた。
「承知しました」
◆対話の間を出て
対話の間を出ると、外で待っていたロイドが、すぐに近づいてきた。
「どうだった」
「長い話でした。詳しくは、宿舎で」
ガウスが、二人を宿舎まで案内した。
道すがら、慎はガウスの様子を観察した。ガウスは、どこか落ち着かない様子だった。
「ガウス殿、何か気になることが」
ガウスは、少し声を落とした。
「聖都の中で、動きがあります」
「動き、というのは」
「ヴァルクス様があなたと対話していることを、快く思わない者たちが、集まっています。上位評議会の中の、強硬派です」
「強硬派、というのは」
「ヴァルクス様の計画を、もっと推し進めるべきだと考えている者たちです。彼らは、ヴァルクス様が最近、弱気になっていることに、不満を持っています」
慎は、その情報を、頭の中で整理した。
(ヴァルクスの計画に反対する穏健派だけでなく、逆に計画をもっと進めたい強硬派もいる。そして、その強硬派は、ヴァルクスが私と対話することで、計画を止める方向に傾くことを、恐れている)
「その強硬派の中心にいるのは、誰ですか」
ガウスは、少し躊躇してから答えた。
「……はっきりとは、分かりません。ただ、最近、上位評議会の中で、急速に発言力を増している人物がいます。名前は、コルネリウス。比較的若い司教ですが、その主張は、ヴァルクス様よりも遥かに過激です」
「過激、というのは」
「ヴァルクス様は、あくまで教会を王権と対等な立場にすることを目指していました。ですが、コルネリウスは、教会が王権の上に立つべきだと主張しています。各国の王を、教会の下に置くべきだ、と」
慎は、その情報に、緊張を覚えた。
(ヴァルクスの計画より、さらに過激な思想を持つ人物がいる。そして、その人物が、聖都内部で発言力を増している)
「ガウス殿。道中で私たちを妨害したのは、そのコルネリウスの一派でしょうか」
「その可能性が、高いと思います」
「なぜ、彼らは私たちの対話を妨害したのですか」
「あなたとヴァルクス様が対話することで、ヴァルクス様が計画を止める方向に傾くことを、恐れたからでしょう。彼らにとって、計画の停止は、絶対に避けたいことです」
慎は、深く考えた。
(つまり、ヴァルクスを説得できたとしても、それで終わりではない。ヴァルクスが止めても、コルネリウスの一派が、計画を引き継ぐ可能性がある)
「ガウス殿。このことを、ヴァルクス殿は、知っていますか」
「ある程度は。ただ、ヴァルクス様は、自分が始めた計画を、自分がコントロールできると考えています。コルネリウスたちのことも、まだ抑えられると」
「それは、危険な楽観だと思います」
慎は、静かに言った。
「四十年かけて作った計画が、すでにヴァルクス殿自身の手を離れ始めているとしたら——彼が止めても、計画は止まらないかもしれません」
ガウスは、暗い顔で頷いた。
「私も、それを恐れています」
◆宿舎での分析
宿舎に戻り、慎はロイドに、対話の全てを報告した。
ヴァルクスが転生者であること、彼の過去と動機、そして、計画を止めるかどうか迷っていること。さらに、ガウスから聞いた、強硬派コルネリウスの存在。
ロイドは、全てを聞き終えてから、険しい顔で言った。
「……厄介なことになってきたな」
「はい。ヴァルクスを説得できても、それで終わりではない可能性があります」
「コルネリウスという男が、計画を引き継ぐ、ということか」
「その可能性があります。しかも、ヴァルクスより過激な思想を持っている。教会が王権の上に立つべきだ、という主張は、各国にとって、直接の脅威です」
ロイドは、しばらく考えた。
「ヴァルクスを説得することに、意味はあるのか」
「あります」
慎は、はっきりと答えた。
「ヴァルクスが計画を止め、さらに協力すれば、コルネリウスの一派を抑えることができるかもしれません。ヴァルクスは、四十年かけて計画を作った人物です。その全容を知っている。彼の協力があれば、コルネリウスの動きを封じる手がかりも得られます」
「ヴァルクスが、そこまで協力するか」
「それは、明日の彼の答え次第です」
ロイドは、少し黙ってから言った。
「一つ、気になることがある」
「何ですか」
「コルネリウスという男の存在だ。ヴァルクスより過激で、急速に発言力を増している。まるで——」
ロイドは、少し言葉を選んだ。
「まるで、ヴァルクスの計画を、横から乗っ取ろうとしているようだ」
慎は、その指摘に、はっとした。
(そうだ。コルネリウスは、ヴァルクスの計画に便乗して、それをさらに過激な方向に導こうとしている。ヴァルクスが作った基盤を、自分の目的のために使おうとしている)
「ロイド殿。その視点は、重要です。コルネリウスは、ヴァルクスの計画を、より過激な形で引き継ごうとしている。だとすれば、コルネリウスの背後に、さらに別の何かがある可能性もあります」
「別の何か?」
「分かりません。ただ、これまでの調査で、常にそうでした。一つの黒幕の背後に、さらに別の存在がいる。バルトの背後にカシアン、カシアンの背後にグレイ主教、グレイ主教の背後にヴァルクス——」
「そして、ヴァルクスの背後に、コルネリウス、あるいはさらにその先」
「はい。この構造は、まだ底が見えていません」
ロイドは、重い息を吐いた。
「……底なしだな」
「ただ、一つずつ、明らかにしていくしかありません。まず、明日のヴァルクスの答えを聞きます。それによって、次の動きが決まります」
◆夜の聖都
その夜、慎は宿舎の窓から、聖都の夜を眺めていた。
昼間の対話が、頭の中で繰り返されていた。
ヴァルクスの過去、彼の理想、そして道を誤ったことへの後悔。
(あの人は、私と同じ場所から来た。過労で倒れ、この世界に来た。そして、前世で果たせなかった理想を、こちらで実現しようとした)
もし、状況が少し違えば、自分もヴァルクスのようになっていたかもしれない、と慎は思った。
前世で、慎も感じていた。不正が横行し、正直者が報われない構造への、深い怒り。もし、その怒りを、大きな理想として抱え、それを実現する力を得ていたら——。
(私も、目的のために手段を選ばなくなっていたかもしれない)
その考えは、慎を、少し不安にさせた。
ヴァルクスと自分の違いは、紙一重なのかもしれない。
(いや)
慎は、首を振った。
違いは、明確だ。
ヴァルクスは、理想を先に描き、その理想のために現実を変えようとした。
慎は、目の前の矛盾を、一つずつ正そうとする。
理想のために人を犠牲にするか、目の前の一人を大切にするか。
その違いは、紙一重ではない。決定的だ。
(私は、目の前の一人を、犠牲にしない。それだけは、変えない)
慎は、窓の外を見た。
聖都の夜は、静かだった。だが、その静けさの中で、コルネリウスの一派が、何かを企んでいる。
明日、ヴァルクスは、どんな答えを出すのか。
そして、その答えの後に、何が起きるのか。
慎は、手帳を開き、今日の対話の内容を、丁寧に書き記した。
ヴァルクスの過去、動機、迷い。コルネリウスの存在。そして、計画の背後にある、さらに深い構造の可能性。
書き終えて、慎は手帳を閉じた。
◆異変
深夜、慎は物音で目を覚ました。
宿舎の外が、騒がしい。複数の足音、そして、何かを叫ぶ声。
慎は、素早く起き上がった。隣室のロイドも、すでに目を覚ましていた。
「何事だ」
「分かりません。外が、騒がしい」
二人が、警戒しながら様子を窺っていると、扉が激しく叩かれた。
「ジル殿! ロイド殿! ガウスです、開けてください!」
慎は、扉を開けた。
ガウスが、青ざめた顔で立っていた。息を切らしている。
「何があったんですか」
「ヴァルクス様が——」
ガウスは、言葉を詰まらせた。
「ヴァルクス様が、何ですか」
「拘束されました。コルネリウスの一派によって」
慎とロイドは、顔を見合わせた。
「拘束、というのは」
「今夜、コルネリウスが、上位評議会の一部を動かして、ヴァルクス様を『職務停止』にしました。名目上は、ヴァルクス様の健康上の理由、ということになっていますが、実際には——」
「クーデターですね」
「はい」
慎は、事態を、素早く理解した。
(コルネリウスが、動いた。ヴァルクスが私と対話し、計画を止める方向に傾いたことを察知して、先手を打った。ヴァルクスを排除して、計画の主導権を握るために)
「ヴァルクス殿は、今どこに」
「聖堂の奥に、軟禁されています。私も、詳しい場所は分かりません」
「私たちは、どうなりますか」
ガウスは、深刻な表情で言った。
「危険です。コルネリウスは、あなたがヴァルクス様と対話したことを、問題視しています。あなたたちを、そのままにしておかないでしょう」
慎は、冷静に状況を分析した。
(聖都の中で、コルネリウスがクーデターを起こした。ヴァルクスは拘束され、私たちは孤立している。王国の保護は及ばない)
「ガウス殿。あなたは、大丈夫なのですか。私たちを助けに来て」
「私は、ヴァルクス様の側近です。コルネリウスにとって、私も排除の対象です。だから——」
ガウスは、少し間を置いた。
「私は、あなたたちとともに、聖都を出ます。そして、外から、この状況を変える方法を探します」
「聖都を出られるのですか」
「私が知っている、目立たない経路があります。急げば、間に合うかもしれません」
ロイドが、鋭い声で言った。
「罠の可能性は」
「ありません」
ガウスは、はっきりと言った。
「私は、ヴァルクス様の計画には疑問を持っていました。ですが、コルネリウスのやり方は、それ以上に危険です。ヴァルクス様は、少なくとも、対話の余地を残していた。コルネリウスには、それすらない。彼は、目的のためなら、どんな手段も厭わない」
慎は、ガウスの目を見た。
そこには、嘘はなかった。
「ロイド殿。ガウス殿を、信じましょう」
ロイドは、少し考えてから、頷いた。
「……分かった。だが、警戒は解かない」
「当然です」
◆脱出の途上
三人は、ガウスの案内で、聖都の中を移動した。
深夜の聖都は、昼間の静謐さとは違う、緊張した空気に包まれていた。あちこちで、コルネリウスの一派と思われる者たちが、動き回っている。
「こちらです」
ガウスは、目立たない裏道を選んで、進んでいった。
慎は、移動しながら、頭の中で状況を整理していた。
(ヴァルクスは拘束された。コルネリウスが計画の主導権を握った。私たちは、脱出を試みている。だが——)
一つの考えが、慎の頭の中で、形を成していった。
「ガウス殿」
慎は、移動しながら、小声で問うた。
「はい」
「コルネリウスは、なぜ、このタイミングでクーデターを起こしたのですか」
「あなたとヴァルクス様の対話が、原因でしょう。ヴァルクス様が計画を止める方向に傾くことを、恐れて」
「それだけでしょうか」
「どういう意味ですか」
慎は、少し考えてから言った。
「コルネリウスは、ヴァルクスより過激な思想を持ち、急速に発言力を増していた。それは、コルネリウス個人の能力だけで、可能なことでしょうか」
ガウスは、足を止めた。
「……つまり、コルネリウスの背後にも、誰かがいる、と」
「可能性として。ヴァルクスの計画を、より過激な形で乗っ取る。それを、コルネリウス一人で企てたのか、それとも——」
「誰かが、コルネリウスを、動かしているのか」
「分かりません。ただ、この件は、いつも、一つ底があると思ったら、さらにその下があります」
ガウスは、しばらく黙っていた。
「……確かに、コルネリウスの台頭は、急すぎました。まるで、誰かが、彼を引き上げているかのように」
慎は、その言葉を、頭の中に刻んだ。
(コルネリウスの背後に、さらに別の存在がいる可能性。ヴァルクスすら、その存在を知らないかもしれない)
「今は、まず脱出を優先しましょう。この件の全容は、聖都を出てから、改めて考えます」
三人は、再び移動を始めた。
聖都の門が、近づいてきた。
だが、その門の前に、複数の人影があった。
コルネリウスの一派の、見張りだった。
「……見張られていますね」
慎は、小声で言った。
ガウスが、緊張した声で答えた。
「別の経路を、探します」
だが、その別の経路にも、見張りがいる可能性がある。
慎は、素早く周囲を確認した。
(正面突破は、無理だ。だが、このまま留まっていれば、いずれ見つかる)
一つの案が、慎の頭に浮かんだ。
「ガウス殿。聖都の中に、私たちに協力してくれる可能性のある人物は、いますか」
「協力してくれる人物、というと」
「ヴァルクスの計画にも、コルネリウスにも、反対している穏健派です。ベネディクトという司教のことを、聞いたことがあります」
ガウスは、少し驚いた顔をした。
「ベネディクト司教を、知っているのですか」
「間接的に。マルコ司祭を通じて」
「……ベネディクト司教なら、今の状況を、憂慮しているはずです。彼のところに行けば、一時的に身を隠せるかもしれません」
「では、そちらに向かいましょう」
三人は、門から離れ、ベネディクト司教のいる区画へと、進路を変えた。
聖都の夜は、深く、そして危険だった。
だが、慎は、まだ諦めていなかった。
(ヴァルクスは拘束された。だが、ヴァルクスとの対話は、無駄ではなかった。彼の迷い、彼の後悔——それは、この状況を変える、一つの鍵になるかもしれない)
そして、コルネリウスの背後にいるかもしれない、さらなる存在。
(この件は、まだ終わらない)
慎は、暗い聖都の道を、慎重に進んでいった。
夜明けまで、まだ時間がある。
その時間の中で、生き延び、そして次の一手を見つけなければならない。
慎の頭は、危機の中でこそ、冷静に、そして速く、回転していた。
前世でも、この世界でも、それは変わらない。
追い詰められたときほど、冷静に。
事実を見極め、次の一手を、探す。
(第29話に続く)




