第27話 二人の降る者
◆対話の間へ
朝、ガウスが宿舎に迎えに来た。
「ヴァルクス様が、お待ちです」
慎は、ロイドとともに、ガウスに導かれて聖堂へ向かった。
聖堂の内部は、外から見た以上に、荘厳だった。高い天井、色彩豊かな窓、静謐な空気。数百年の祈りが積み重なった場所特有の、独特の重みがあった。
「対話は、ヴァルクス様とヴァンディアール殿の、二人だけで行っていただきたいとのことです」
ガウスがそう告げると、ロイドが険しい顔をした。
「私が同席することは、認められないのか」
「申し訳ありません。ヴァルクス様のご意向です。ただ、対話の間の外で、待機していただくことは可能です。何かあれば、すぐに対応できるようにします」
慎は、ロイドに向かって、静かに言った。
「大丈夫です、ロイド殿。行ってきます」
「……気をつけろ」
「はい」
ガウスに導かれ、慎は一人で、対話の間へと進んだ。
対話の間は、聖堂の奥にある、小さな部屋だった。質素だが、品格のある空間。中央に、簡素な机と、二脚の椅子が置かれている。
一脚の椅子に、一人の老人が座っていた。
エルト・ヴァルクス。
◆ヴァルクスの姿
ヴァルクスは、慎の想像していた姿とは、少し違っていた。
慎は、もっと威圧的な、権力者らしい人物を想像していた。だが、目の前にいたのは、穏やかで、どこか疲れた老人だった。
白髪、深い皺、静かな目。だが、その目の奥には、長い年月を生きてきた者特有の、深い知性が宿っていた。
「よく、来てくださいました」
ヴァルクスの声は、静かで、落ち着いていた。
「ジル・ヴァンディアール殿。いや——」
ヴァルクスは、少し間を置いた。
「あなたの、本当の名前で呼んだ方が、いいですか」
慎は、その言葉に、内心で驚いた。
(本当の名前——私の前世の名前を、知っているのか)
「私の本当の名前を、ご存知なのですか」
「いいえ。それは知りません。ただ、あなたが、ジル・ヴァンディアールではない、別の誰かであることは、知っています」
「……そうですか」
慎は、向かいの椅子に座った。
「では、ジルとお呼びください。今の私は、ジル・ヴァンディアールですから」
「分かりました、ジル殿」
ヴァルクスは、静かに微笑んだ。
「まず、長旅をお疲れ様でした。道中、何事もありませんでしたか」
(道中の妨害について、知っているのか、それとも探っているのか)
慎は、慎重に答えた。
「少し、ありました。何者かに、妨害を受けました」
ヴァルクスの表情が、わずかに曇った。
「……やはり、ありましたか」
「ご存知だったのですか」
「いいえ。ただ、危惧はしていました。私があなたを招いたことを、快く思わない者が、聖都の中にもいます」
「あなたの計画に、反対する者ですか」
「反対する者もいれば、逆に、あなたと私が手を組むことを恐れる者もいます」
慎は、その言葉を、頭の中で整理した。
(やはり、聖都内部は分裂している。ヴァルクス自身も、それを認識している)
「ジル殿。あなたを招いたのは、他でもありません。私は、あなたと話がしたかった」
「なぜですか」
ヴァルクスは、少し間を置いた。
「同じ立場の者と、話す機会は、めったにないからです」
「同じ立場、というのは」
「あなたも、私も、この世界の者ではない。別の世界から、この世界に来た。違いますか」
慎は、少し沈黙した。
(ヴァルクスは、はっきりと認めた。自分も転生者であることを)
「……あなたも、転生者だということですか」
「そうです」
ヴァルクスは、静かに頷いた。
「私がこの世界に来たのは、もう四十年以上前になります」
「四十年」
「ええ。あなたよりも、遥かに長く、この世界にいます」
◆ヴァルクスの過去
「私の話を、少し聞いてもらえますか」
ヴァルクスは、静かに切り出した。
「はい」
「私が元いた世界のことは、あまり覚えていません。四十年も経つと、記憶は薄れていくものです。ただ、一つだけ覚えているのは、私が、ある組織で働いていたということです」
「どんな組織ですか」
「国際的な援助organization——貧しい国々を支援する仕事をしていました。飢餓や貧困と戦い、少しでも世界を良くしようとしていた」
慎は、その話を聞きながら、意外に思った。
(貧困と戦っていた——理想主義者だったのか)
「私は、その仕事に、人生を捧げていました。だが——」
ヴァルクスの声に、わずかな苦さが混じった。
「気づいたのです。どれだけ現場で頑張っても、根本的な構造が変わらなければ、貧困はなくならない、と。援助の裏で、権力者たちが利益を貪り、援助物資が正しく届かない。そういう構造そのものを変えなければ、いくら現場で努力しても、無駄なのだと」
「それで、どうしたのですか」
「構造を変えようとしました。組織の中で、上を目指しました。より大きな権限を得て、構造そのものを変えようと。だが——」
ヴァルクスは、少し目を閉じた。
「上に行けば行くほど、私自身が、その構造の一部になっていきました。理想を実現するために権力を求めたはずが、いつの間にか、権力を維持することが目的になっていた。そして、あるとき、私は倒れました。過労と、心労で」
慎は、その話に、自分自身の前世を重ねた。
(過労で倒れた——私と、同じだ)
「気がついたら、この世界にいました。ヴェルナという、小さな街の、若い聖職者の身体の中に」
「それが、四十年前」
「はい。最初は、混乱しました。だが、私はこの世界で、もう一度、理想を追求できると考えました。前の世界では、構造に飲み込まれて失敗した。だが、この世界でなら、最初から正しい構造を作ることができる、と」
「最初から、というのは」
「前の世界では、すでに出来上がった巨大な構造の中で、私は無力でした。一人の人間が、どれだけ努力しても、何百年もかけて作られた仕組みは、簡単には変わらない。だが、この世界は違った。ここでは、私自身が、構造を作る側に回れる可能性があった」
ヴァルクスは、遠くを見るような目をした。
「ヴェルナの礼拝堂で、私は最初の数年を過ごしました。この世界の言葉を学び、習慣を学び、そして——この世界の権力構造を、じっくりと観察しました。前の世界での経験があったから、この世界の仕組みの弱点が、よく見えました」
「弱点、というのは」
「権力が、あまりに一部に集中していること。貴族が土地と富を独占し、民衆はそれに従うしかない。教会は、本来ならそれを是正する立場にあるはずが、貴族と結びついて、既存の構造を守る側になっていた」
慎は、その分析を聞きながら、ヴァルクスの視点の鋭さを感じた。
(前世で援助organizationにいたなら、権力構造の分析には長けている。それを、この世界に適用した)
「それで、あなたは、教会を内側から変えようとした」
「はい。教会が、貴族と結びついた既存の構造の一部であるなら、その教会を、逆に構造を変える力に変えればいい、と考えました。そのために、私は聖職者として、少しずつ位を上げていきました」
「二十年かけて、上位評議会に入った」
「よく調べていますね。その通りです。そして、上位評議会に入ってから、私は本格的に、計画を始めました」
「計画、というのは、各国の資産を掌握することですか」
ヴァルクスは、少し首を振った。
「それは、手段の一つに過ぎません。私の本当の目的は、教会を、各国の王権から独立した、対等な権威にすることでした。そうすれば、教会は、貴族の既存構造を守る側ではなく、民衆のために、その構造を是正する側に回れる」
「理念としては、理解できます。ですが——」
慎は、静かに言った。
「その理念を実現するために、あなたは各国の民衆から、間接的に富を奪いました。貴族家の資産を奪うことは、最終的には、その領地に住む民衆の負担になります。あなたが救おうとしている民衆を、あなた自身が、傷つけている」
ヴァルクスは、しばらく沈黙した。
「……その矛盾も、分かっています」
「分かっていて、続けている」
「はい。それが、私の弱さです」
◆前の世界の話
しばらく、二人とも沈黙した。
やがて、ヴァルクスが、静かに口を開いた。
「ジル殿。あなたは、前の世界のことを、どう思っていますか」
慎は、少し考えた。
「どう、というのは」
「懐かしいですか。それとも、戻りたいですか」
「戻りたいとは、思いません」
慎は、正直に答えた。
「前の世界で、私は過労で死にました。報われない仕事に、人生を捧げて。戻りたいとは、思いません」
「私も、同じです」
ヴァルクスは、静かに言った。
「前の世界で、私は理想のために働き、そして倒れた。あの世界に、戻りたいとは思いません。ただ——」
「ただ?」
「あの世界で果たせなかった理想を、この世界で果たしたい。その思いだけは、四十年間、変わっていません」
慎は、その言葉に、ヴァルクスの本質を見た気がした。
(この人は、前世の未練を、この世界で晴らそうとしている。果たせなかった理想を、こちらで実現しようと。だが、その執着が、方法を歪めた)
「ヴァルクス殿。一つ、申し上げてもよいですか」
「どうぞ」
「あなたは、前の世界の未練を、この世界に持ち込んでいます。果たせなかった理想を、こちらで果たそうとしている。ですが、この世界は、前の世界ではありません。この世界には、この世界の人々がいて、その人々の人生があります」
ヴァルクスは、慎を見た。
「あなたの理想のために、この世界の人々を犠牲にすることは、あなたが前の世界で戦っていた権力者と、同じことをしているのではないですか」
ヴァルクスは、長い沈黙の後、静かに答えた。
「……その言葉は、重いですね」
「事実を、申し上げているだけです」
「ええ。そして、その事実から、私はずっと目を逸らしてきた」
ヴァルクスは、深く息を吐いた。
「あなたと話して、改めて分かりました。私は、いつの間にか、自分が最も憎んでいたものに、なっていた」
慎は、その言葉を、静かに受け取った。
だが、まだ、これで終わりではなかった。
◆理想と手段
「後戻りできない、というのは」
慎が問うと、ヴァルクスは答えた。
「四十年です。四十年かけて、この計画を進めてきました。その間に、多くの者を巻き込み、多くのものを犠牲にしてきた。今さら、止めることはできません。止めれば、これまでの全てが、無駄になる」
「それは、サンクコストの誤謬です」
慎は、静かに言った。
「サンクコスト?」
「すでに費やしたものを惜しんで、間違った道を進み続けること。これまでの投資が無駄になることを恐れて、さらに大きな損失を生む。前世で、そういう判断の誤りを、何度も見てきました」
ヴァルクスは、少し驚いた顔をした。
「……あなたも、そういう世界から来たのですね」
「はい。私は、そういう判断の誤りを見つけて、正す仕事をしていました」
「監査、ですか」
慎は、少し驚いた。
「なぜ、それを」
「あなたの動き方を見ていれば、分かります。数字を追い、記録を確認し、矛盾を見つける。それは、私の前の世界で言えば、監査や会計の専門家の動き方です」
「……その通りです」
「面白いですね」
ヴァルクスは、静かに微笑んだ。
「私は、理想を実現しようとして、構造を変えようとした。あなたは、矛盾を正そうとして、不正を暴こうとする。似ているようで、根本的に違う」
「どこが違うと、思いますか」
「私は、あるべき理想を、先に描いた。そして、その理想に向けて、現実を変えようとした。あなたは、目の前の矛盾を、一つずつ正そうとする。理想を描くのではなく、間違いを直す」
慎は、その分析を、興味深く聞いた。
(ヴァルクスは、自分と私の違いを、正確に理解している)
「あなたの言う通りかもしれません」
慎は、静かに言った。
「私は、大きな理想を描くのが、得意ではありません。ただ、目の前に矛盾があれば、それを正したくなる。それだけです」
「それは、ある意味で、賢明です」
ヴァルクスは、少し寂しそうに言った。
「大きな理想を描く者は、その理想のために、目の前の人間を犠牲にすることを、正当化してしまう。私が、そうであったように」
「では、あなたは、自分が間違っていると認めるのですか」
ヴァルクスは、しばらく沈黙した。
「……方法が間違っていたことは、認めます。だが、理想そのものが間違っていたとは、思いません」
「理想と方法は、切り離せるものですか」
「それが、あなたと私の、最大の対立点かもしれませんね」
ヴァルクスは、静かに言った。
「私は、切り離せると考えていた。正しい理想のためなら、多少の手段は正当化されると。だが、あなたは、方法そのものが正しくなければ、理想も正しくないと考える」
「はい。方法が人を傷つけるなら、その理想は、実現する価値がありません。傷つけられた人にとって、あなたの理想は、何の意味も持たない」
ヴァルクスは、目を閉じた。
長い沈黙が、対話の間に落ちた。
◆問いの核心
「ジル殿。一つ、聞かせてください」
ヴァルクスが、目を開けて言った。
「はい」
「あなたは、なぜこの世界に来たと思いますか」
慎は、その問いを、真剣に考えた。
「分かりません。ただ、偶然ではないような気がしています」
「私も、同じことを考えてきました」
ヴァルクスは、静かに言った。
「四十年間、なぜ私がこの世界に来たのかを、考え続けてきました。そして、一つの結論に至りました」
「どんな結論ですか」
「私たちのような存在は、世界が岐路に立つときに、送り込まれる。そして、その岐路において、世界がどちらに進むかを、決める役割を担っている」
「文書庫の記録にも、似たことが書かれていました」
「ええ。この世界には、そういう伝承が残っています。そして、私は、その伝承を信じています」
ヴァルクスは、慎を見た。
「私は、この世界を、より良い方向に導くために送り込まれた、と信じてきました。だから、権力の構造を変えようとした」
「では、私は」
「それが、私にも分からないのです」
ヴァルクスは、静かに言った。
「あなたが現れたとき、私は最初、あなたを障害だと思いました。私の計画を、邪魔する存在だと。だから、排除しようとした」
「バルトを使った工作、そして毒殺の冤罪ですね」
「はい。あの冤罪は、私の指示でした」
慎は、その言葉を、静かに受け取った。
(ついに、認めた。公爵毒殺の冤罪は、ヴァルクスの指示だった)
「なぜ、私を排除しようとしたのですか」
「あなたのような存在が、私の計画にとって、最も危険だからです。矛盾を見つけ、それを正す。私の計画は、多くの矛盾の上に成り立っている。あなたのような目を持つ者が現れれば、いずれそれが暴かれる」
「だから、先に消そうとした」
「はい。だが——」
ヴァルクスは、少し間を置いた。
「あなたは、消えなかった。それどころか、私の計画を、次々と暴いていった。そのとき、私は考え始めました。もしかしたら、あなたが現れたことにも、意味があるのではないか、と」
「意味、というのは」
「もし、私たちのような存在が、世界の岐路で役割を担うために送り込まれるなら——あなたが現れたのは、私の道が、間違っているからではないか、と」
慎は、その言葉に、はっとした。
(ヴァルクスは、私が現れたこと自体を、自分への警告と受け取り始めている)
「あなたは、私を止めるために、送り込まれたのかもしれない」
ヴァルクスは、静かに、そう言った。
「そう考えると、辻褄が合うのです。私が道を誤ったから、それを正す存在が、送り込まれた。それが、あなただ」
慎は、しばらく沈黙した。
「……それは、一つの解釈です」
慎は、慎重に答えた。
「ただ、私は、誰かに送り込まれたから動いているのではありません。私は、自分の意思で、矛盾を正そうとしています」
「それが、送り込まれた者の役割なのかもしれません」
「かもしれません。でも、役割かどうかは、私にとって、重要ではありません。役割だろうと、偶然だろうと、私がやることは変わらない。目の前の矛盾を、正す。それだけです」
ヴァルクスは、慎を見て、静かに微笑んだ。
「……あなたは、本当に、まっすぐな人だ」
「そうでしょうか」
「ええ。四十年前の私が、あなたのようであれば、こんな道には進まなかったかもしれない」
ヴァルクスの声に、深い後悔が滲んでいた。
慎は、その後悔を、静かに受け取った。
だが、後悔だけでは、何も解決しない。
「ヴァルクス殿。一つ、確認させてください」
「はい」
「あなたは、自分の道が間違っていたかもしれないと、感じている。では、これから、どうするつもりですか」
ヴァルクスは、長い沈黙の後、答えた。
「それを、あなたと話したかったのです」
対話は、まだ続く。
そして、その先に、この件の、真の結末が待っていた。
(第28話に続く)




