第26話 聖都への道
◆街道の日々
王都を出発してからの数日は、静かな旅だった。
馬車は、整備された街道を、着実に進んでいった。窓の外には、アルテシア王国の領地が広がり、やがて国境を越えて、聖都へと続く道に入った。
「聖都に行くのは、初めてか」
ロイドが、馬車の中で問うた。
「はい。この身体になってからは、初めてです」
「私は、若い頃に一度だけ行ったことがある。王室調査官になる前、外交使節の護衛としてだ」
「どんな場所ですか、聖都は」
ロイドは、少し考えてから答えた。
「静かで、荘厳で——そして、閉じている」
「閉じている?」
「聖都は、独自の法と秩序を持つ、一つの世界だ。外部の人間は、その秩序の中では、常に異物として扱われる。王国とは、根本的に違う場所だ」
慎は、その言葉を、頭の中に留めた。
(聖都では、王国の常識が通用しない。その前提で、動く必要がある)
「ヴァルクスと会うとき、注意すべきことはありますか」
「相手の土俵で戦うことになる、ということを忘れるな。聖都の中では、聖都の論理が支配する。お前が普段使っている、事実と証拠の積み重ねが、そのまま通用するとは限らない」
「では、どうすべきですか」
「お前のやり方を、変える必要はない。ただ、相手がその土俵で、どんな論理を使ってくるかを、冷静に見極めることだ」
慎は、頷いた。
旅の間、慎はヴァルクスについて分かっていることを、繰り返し整理した。
ヴェルナ出身の聖職者を育て、各国に送り込み、資産を掌握しようとした。目的は、聖都を大陸の独立した政治的権威にすること。そして、おそらく、ヴァルクス自身も転生者である。
(同じ立場から、なぜ正反対の道を選んだのか)
その問いが、旅の間、ずっと慎の頭の中にあった。
◆道中の事件
聖都まであと三日という地点で、予想外のことが起きた。
宿場町で一泊した翌朝、馬車の車輪が破損していることが分かった。
「昨夜は、なんともなかったはずだが」
ロイドが、車輪を確認しながら、眉をひそめた。
車輪の一部が、明らかに人為的に傷つけられていた。自然な破損ではなかった。
「……誰かが、細工したのか」
「その可能性が高いです」
慎は、冷静に状況を分析した。
(誰かが、私たちの聖都行きを妨害しようとしている。ヴァルクスが対話を望んでいるなら、彼の指示ではない。とすれば——)
「ロイド殿。これは、ヴァルクスの妨害ではないかもしれません」
「どういう意味だ」
「ヴァルクスは、対話を望んでいます。彼が私たちの到着を妨害する理由はありません。これは、対話を望まない別の誰かの仕業かもしれません」
「別の誰か、というのは」
「聖都内部で、ヴァルクスと私の対話を、望まない勢力です。対話によって状況が変わることを恐れる者が、いるのかもしれません」
ロイドは、しばらく考えた。
「……ヴァルクスの支持者、あるいは反対者、どちらの可能性もあるな」
「はい。ヴァルクスの計画を、これ以上邪魔されたくない支持者かもしれないし、逆にヴァルクスが私と手を組むことを恐れる反対者かもしれない」
「どちらにしても、我々の到着を望まない者がいる、ということだ」
慎は、周囲を見回した。
宿場町は、静かだった。だが、その静けさの中に、何か見られているような感覚があった。
「ロイド殿。予定を変えて、別の経路で聖都に向かいましょう。車輪の修理には時間がかかりますし、この経路が把握されている以上、次の妨害があるかもしれません」
「別の経路は、あるのか」
「宿の主人に聞いたところ、山側を回る道があるそうです。時間は一日余分にかかりますが、人目につきにくい」
「分かった。そちらで行こう」
車輪を応急修理し、二人は山側の道を進んだ。
その選択は、正しかった。
後で分かったことだが、本来の街道の先で、身元不明の集団が待ち構えていたという情報が入った。
◆夜襲
山側の道に入って二日目の夜、二人は小さな宿場で一泊した。
その夜、慎は妙な胸騒ぎで目を覚ました。
前世の監査でも、危険な現場に踏み込む前は、こういう感覚があった。理屈ではなく、何かがおかしいという直感。それを無視すると、痛い目に遭うことを、慎は経験から知っていた。
慎は、静かに起き上がり、隣室のロイドを起こした。
「ロイド殿」
「……どうした」
「何か、おかしい気がします。外の様子を確認したいのですが」
ロイドは、すぐに目を覚ました。長年の調査官の勘で、慎の言葉を軽視しなかった。
「私が見てくる。お前は、ここで待て」
ロイドが、静かに部屋を出た。
しばらくして、緊張した表情で戻ってきた。
「……宿の周りに、数人の人影がある。武装している」
慎の背筋が、冷たくなった。
「私たちを、狙っているんでしょうか」
「その可能性が高い。この宿には、他に泊まり客はいない」
慎は、素早く状況を分析した。
(相手は武装している。こちらは二人。正面から戦うのは不利だ。逃げるにしても、囲まれていれば難しい)
「ロイド殿。宿の主人は、信用できますか」
「分からない。だが、確認する時間はない」
「裏口は」
「ある。ただ、そちらも見張られている可能性がある」
慎は、少し考えた。
「一つ、試したいことがあります」
「何だ」
「相手が、私たちを殺そうとしているのか、それとも足止めしようとしているのかを、確認したいです」
「どうやって」
「灯りをつけます。こちらが起きていることを、相手に知らせる」
「正気か。こちらの居場所を教えることになるぞ」
「もし相手が殺すつもりなら、すでに踏み込んできているはずです。踏み込んでこないということは、様子を見ている。それは、殺すことより、別の目的があるということです」
ロイドは、しばらく考えてから、頷いた。
「……賭けだが、理屈は通っている」
慎は、部屋の灯りをつけた。
そして、あえて窓の近くで、書類を読むふりをした。こちらが警戒していること、そして起きていることを、相手に示す。
しばらく、何も起きなかった。
やがて、外の人影が、少しずつ動き始めた。
そして——引いていった。
慎は、窓の外を確認した。人影は、消えていた。
「……引きましたね」
「殺すつもりなら、引かなかっただろう」
「はい。相手の目的は、私たちの足止め、あるいは警告だったんだと思います」
ロイドは、少し考えた。
「誰が、何のために」
「聖都でのヴァルクスとの対話を、望まない者です。私たちを殺すのではなく、警告することで、引き返させようとした」
「引き返すと思うか、我々が」
慎は、静かに首を振った。
「引き返しません。ここまで来て、引く理由はありません」
「同感だ」
その夜は、交代で見張りをしながら過ごした。
明け方まで、二度と人影は現れなかった。
◆警告の意味
翌朝、二人は宿を発つ前に、宿の主人にそれとなく昨夜のことを尋ねた。
宿の主人は、何も知らない様子だった。少なくとも、演技には見えなかった。
街道を進みながら、慎は昨夜の出来事を、繰り返し分析した。
(相手は、殺すことができたはずなのに、しなかった。警告に留めた。それは、なぜか)
一つの可能性は、相手が慎の存在価値を認識していること。慎を殺せば、それが問題になる。あるいは、慎の持つ何かを、まだ利用できると考えている。
もう一つの可能性は、相手がヴァルクスの敵対勢力で、ヴァルクスと慎の対話を妨害したいが、殺すまでの権限や覚悟はない、ということ。
(どちらにしても、聖都の内部は、一枚岩ではない)
「ロイド殿。昨夜のことで、一つ確信したことがあります」
「何だ」
「聖都の内部は、明確に分裂しています。ヴァルクスの計画を進めたい者、それに反対する者、そして私とヴァルクスの対話を妨害したい者。少なくとも、複数の勢力が動いています」
「その分裂を、利用できるか」
「利用できます。ヴァルクスとの対話の中で、聖都内部の状況を見極めて、こちらに有利な形に持っていく。それが、明日の対話の一つの目標になります」
ロイドは、頷いた。
「昨夜、お前の直感が、我々を救った」
「直感というより、経験です。危険な現場に踏み込む前の、あの感覚は、前世で何度も経験しました」
「前世でも、命を狙われたのか」
「命を、ということはありませんでした。ただ、大きな不正を暴くときは、様々な妨害がありました。書類が消えたり、証人が急に証言を変えたり。物理的な脅しに近いこともありました」
「どこの世界でも、不正を暴く者は、狙われるということか」
「そうかもしれません」
慎は、少し苦笑した。
「ただ、それでも続けるのが、私の性分なので」
ロイドも、短く笑った。
「知っている。もう十分、分かっている」
◆山道の対話
山側の道は、静かで、人けがなかった。
馬車が進む中、慎とロイドは、これまであまり話してこなかったことを、話す時間ができた。
「一つ、聞いてもいいか」
ロイドが言った。
「はい」
「お前は、この件が終わったら、どうするつもりだ」
慎は、少し考えた。
「分かりません。ただ、こういう仕事は、終わりがないんだと思います。一つが片付けば、次が出てくる」
「疲れないか」
「疲れます。でも、止まりたいとは思いません」
ロイドは、しばらく黙ってから言った。
「私は、王室調査官として、長年この仕事をしてきた。矛盾を見つけ、それを正す。地味で、報われないことも多い仕事だ」
「はい」
「だが、お前と出会ってから、この仕事の意味を、改めて考えるようになった」
「意味、というのは」
「矛盾を正すことは、単なる職務ではなく、世界を少しでも良くすることなのかもしれない、と」
慎は、少し驚いて、ロイドを見た。
「ロイド殿らしくない言葉ですね」
「そうかもしれない。お前に影響されたんだろう」
ロイドは、少し照れたように、窓の外を見た。
慎は、その横顔を見ながら、思った。
(この人も、変わってきている。最初に牢の前で私を尋問していた頃とは、違う)
「ロイド殿。エミリアさんは、あなたの従妹ですよね」
「ああ」
「彼女が私を最初に信じてくれたのは、あなたの影響もあったのかもしれませんね」
ロイドは、少し考えた。
「……どうだろうな。エミリアは、昔から自分で判断する子だった。私の影響というより、彼女自身が、お前の中に何かを見たんだろう」
「そうですか」
「ただ、一つ言えるのは——」
ロイドは、慎を見た。
「エミリアが誰かをあそこまで信じるのは、珍しいことだ。お前は、それだけの人間だということだ」
慎は、その言葉を、静かに受け取った。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。事実を言っただけだ」
慎は、少し笑った。
「それは、私がよく言う台詞ですね」
ロイドも、短く笑った。
◆聖都の見え始め
山道を抜け、再び平地に出ると、遠くに聖都の姿が見え始めた。
慎は、窓から身を乗り出して、その光景を見た。
聖都は、丘の上に築かれた、白い都市だった。中心には、王都の大聖堂よりも遥かに大きな、荘厳な聖堂がそびえている。その周囲を、白い石造りの建物が取り囲み、都市全体が、朝の光の中で、静かに輝いていた。
「あれが、聖都か」
「はい。想像より、遥かに大きいですね」
「聖都は、この大陸で最も古い都市の一つだ。数百年、いや、それ以上の歴史がある」
慎は、その光景を見ながら、複雑な感情を覚えた。
美しい。荘厳だ。だが、この美しさの裏で、ヴァルクスが大陸規模の計画を進めている。
(美しいものが、必ずしも正しいとは限らない)
前世でも、立派なオフィスビルの中で、巨額の不正が行われていることが、何度もあった。外見の立派さと、中身の健全さは、別のものだ。
「ロイド殿。聖都に入る前に、確認しておきたいことがあります」
「何だ」
「聖都に入れば、私たちは聖都の秩序の中に入ります。王国の保護は及びません。もし、ヴァルクスとの対話が決裂した場合、どうやって聖都を出るか、事前に考えておく必要があります」
「その通りだ。私も、それを考えていた」
「一つ、案があります。ガウス殿を頼ることです。彼は、ヴァルクスと私の対話を望んでいます。対話が決裂しても、彼なら、私たちの安全な退去を手配してくれるかもしれません」
「ガウスを、どこまで信用できる」
「完全には、信用できません。ただ、彼は組織の中で、疑問を持ち始めている。少なくとも、私たちを一方的に見捨てるような人物ではないと思います」
ロイドは、少し考えた。
「……賭けにはなるが、他に手がないなら、それも選択肢だ」
「はい。あくまで、最後の手段としてですが」
◆聖都の門
聖都の門に着いたのは、その日の午後だった。
門は、白い石で作られた、荘厳なものだった。門の前には、聖都の衛兵が立っている。王国の兵とは違い、儀礼的な装いだったが、その目は鋭かった。
「アルテシア王国から参りました。ヴェルナ大司教エルト・ヴァルクス様の招きにより、参上いたしました」
慎が告げると、衛兵は書類を確認し、しばらく待つよう言った。
やがて、一人の聖職者が門に現れた。
ガウスだった。
「よく、おいでくださいました」
ガウスは、丁寧に頭を下げた。その表情には、これまでとは違う、どこか安堵のような色があった。
「ガウス殿。お迎えいただき、ありがとうございます」
「ヴァルクス様が、お待ちです。ただ、対話は明日にしていただきたいとのことです。今日は、長旅の疲れを癒していただければ、と」
「承知しました」
「宿舎を用意しています。ご案内します」
ガウスに導かれ、慎とロイドは聖都の中に入った。
聖都の内部は、外から見た印象通り、静謐だった。白い石畳の道を、聖職者たちが静かに行き交っている。喧騒はなく、ただ、荘厳な静けさが、都市全体を包んでいた。
「静かですね」
慎が言うと、ガウスは頷いた。
「聖都は、祈りと瞑想の場所です。世俗の喧騒とは、無縁の場所であるべきだと、されています」
「あるべき、というのは」
「理念として、です。現実が、常に理念通りとは限りませんが」
ガウスの言葉に、わずかな含みがあった。
慎は、それを聞き逃さなかった。
(ガウス自身が、聖都の現実と理念の乖離を、感じている)
◆宿舎にて
案内された宿舎は、質素だが清潔な部屋だった。
ガウスが去った後、慎とロイドは、明日の対話に向けて、最後の打ち合わせをした。
「明日、ヴァルクスと会う」
「はい」
「お前は、何を聞くつもりだ」
慎は、少し考えてから答えた。
「まず、ヴァルクスの本当の目的です。聖都を大陸の政治的権威にすること——それは、手段なのか、目的なのか。その先に、何を見ているのか」
「他には」
「なぜ、正反対の道を選んだのか。私と同じ立場から来たとして、なぜ人を操り、資産を奪う方法を選んだのか」
「それを聞いて、どうする」
「理解します。理解した上で、私の考えを伝えます」
「共感する部分が、あるかもしれないぞ」
「あるかもしれません。でも、共感と同調は別です」
ロイドは、頷いた。
「一つ、忠告しておく」
「はい」
「ヴァルクスは、長年、人を操ってきた男だ。言葉で、人の心を動かすことに長けている。お前が、いくら冷静でも、相手の言葉に飲み込まれる可能性がある。気をつけろ」
「分かっています」
「特に——お前が転生者であるという事実を、ヴァルクスは突いてくるだろう。同じ立場だという共感を利用して、お前を取り込もうとするかもしれない」
「はい。その点は、警戒しています」
ロイドは、少し黙ってから言った。
「お前を信じている。だが、油断はするな」
「ありがとうございます」
夜、慎は一人で、宿舎の窓から聖都を眺めた。
夜の聖都は、昼とはまた違う、静かな美しさを持っていた。中心の聖堂が、月明かりの中で、白く輝いている。
(明日、ヴァルクスと会う)
慎は、これまでの全ての出来事を、頭の中で振り返った。
処刑まで三日という状況で目を覚ましたあの朝から、ここまで来た。
伯爵家の牢から、王室の経済顧問として、そして今、大陸規模の陰謀の中心にいる聖都まで。
(全ては、あの朝から始まった)
そして、明日、その全ての糸を手繰り寄せてきた先にいる人物と、向き合う。
慎は、手帳を開いた。
明日、ヴァルクスに聞くべきことを、改めて整理する。
一、ヴァルクスの本当の目的。
二、正反対の道を選んだ理由。
三、転生についての、ヴァルクスが持つ知識。
四、この計画の、最終的な行き着く先。
書き終えて、慎は手帳を閉じた。
窓の外、聖都の夜が、静かに広がっていた。
遠くから、微かに、鐘の音が聞こえた気がした。
アルテシアの大聖堂の鐘は、まだ沈黙している。だが、この聖都では、鐘が鳴っている。
(同じ信仰が、片方では沈黙させられ、片方では鳴り続けている)
その矛盾もまた、この件の本質を、象徴しているように思えた。
慎は、窓を閉め、寝台に横になった。
明日に備えて、休む必要がある。
だが、なかなか眠れなかった。
明日、何が起きるのか。ヴァルクスが、何を語るのか。
そして、自分は、それにどう応えるのか。
(前世で、何百回もヒアリングをしてきた。だが、明日のは、そのどれとも違う)
相手は、同じ転生者。同じ立場から来て、正反対の道を選んだ人物。
その対話が、この件の行方を、大きく左右する。
慎は、目を閉じた。
やがて、静かに、眠りが訪れた。
聖都の夜は、深く、静かだった。
(第27話に続く)




