第20話 大陸の夜明け
◆外交協議の始まり
レオンハルトがミレスへ向けて出発する二日前、ガウスとの正式な外交協議が始まった。
場所は、王城の会議室。国王と王太子は同席せず、王室側はロイドと慎が代表として臨んだ。聖都側はガウスと、補佐役の若い聖職者が二人。
「では、始めましょう」
ガウスが、穏やかな笑顔で言った。最初の謁見から数日が経ったが、その落ち着きは変わっていなかった。
「今日の議題は、グレイ主教の処遇と、今後の両者の関係についての確認です」
「こちらも、同じ認識です」
ロイドが答えた。
「まず、グレイ主教の処遇についてですが、聖都としては、一点お願いがあります」
「はい」
「正式な裁判が行われる前に、グレイ主教と面会させていただきたい。聖都の代理人として、彼の状況を直接確認する権利があると考えています」
慎は、ロイドと視線を交わした。
(面会を求めてきた。グレイ主教に直接何かを伝える、あるいは何かを確認する必要がある、ということだ)
「面会については、条件付きで対応できます」
慎が答えた。
「条件とは」
「面会の際には、王室調査官の立会いが必要です。また、グレイ主教が面会を望まない場合には、強制はしません」
「それは、承知しました」
(あっさりと受け入れた。条件そのものより、面会の実現が優先事項だということだ)
「次に、今後の両者の関係についてですが」
ガウスは、書類を一枚取り出した。
「聖都として、この件が両者の信頼関係を損なわないよう、新たな友好協定の締結を提案したいと思います。具体的には、教会施設への課税の免除範囲の見直しと、聖職者の法的保護の強化について、あらためて合意を取り付けたいと」
慎は、その提案を聞きながら、頭の中で素早く分析した。
(課税免除の範囲の見直しと、聖職者の法的保護の強化——これは、グレイ主教の件で縮小した教会の特権を、別の形で回復しようとする提案だ。そして、新たな協定という形で合法化してしまえば、今後同様の手口を使っても、法的に問題にならなくなる)
「その提案については、慎重に検討する必要があります」
慎は、穏やかだが明確に言った。
「慎重に、というのは」
「課税免除の範囲と聖職者の法的保護は、今回の件と直接関わる部分です。事案が解決していない段階で新たな協定を締結することは、調査の公正性に疑義を生じさせる可能性があります」
「事案の解決と協定の締結は、別の話ではないですか」
「別の話ではない部分があります。新しい協定の内容が、今回の調査結果に影響を与える可能性がある場合、順序として、調査の完結が先であるべきです」
ガウスは、少し眉を上げた。
「調査の完結、というのは、どの段階を指しますか」
「グレイ主教に関わる全ての証拠の整理と、関係者への聴取の完了。それと——」
慎は、ここで一拍置いた。
「他の関係国との情報共有が、一定程度完了した段階です」
ガウスの表情が、わずかに変わった。
「他の関係国、とは」
「この件が、アルテシア王国のみの問題ではないことは、すでに確認されています。関係する国々が把握した上で、協定の内容を検討することが、長期的に両者の利益になると考えます」
「……それは、時間がかかりますね」
「はい。ただ、急いで不完全な協定を結ぶより、全ての事実が明らかになった上での協定の方が、持続性があります」
ガウスは、しばらく沈黙した。
その沈黙の中で、慎は相手の考えを読んだ。
(ガウスは、各国への情報共有が進んでいることを、今この瞬間に初めて確信した。それまでは、可能性として考えていたかもしれないが、今の発言で確定した。そして、それが進んでいるということは、時間がかかれば状況がさらに不利になる、と計算している)
「……承知しました。調査の進捗を踏まえながら、協議を続けましょう」
ガウスは、穏やかな笑顔でそう言った。
だが、その目の奥が、最初と少し変わっていた。
◆ガウスとグレイ主教の面会
協議が終わった翌日、ガウスとグレイ主教の面会が行われた。
慎は、ロイドとともに立会人として同席した。
三人が揃った部屋に、最初しばらく沈黙が漂った。
「グレイ。元気そうだ」
ガウスが、静かに口を開いた。
「ガウス殿。わざわざ来ていただきましたか」
グレイ主教の声は、感情を含んでいなかった。
「ヴァルクス様からの伝言を持ってきた」
「聞かせてください」
「ヴァルクス様は、あなたのことを心配されている。そして、これ以上の発言は控えるよう、望んでいると」
グレイ主教は、少し間を置いてから答えた。
「伝言は、受け取りました」
「それだけか」
「それだけです」
ガウスは、グレイ主教を見た。何かを読み取ろうとするような目だった。
「あなたは、もう話してしまったのか」
グレイ主教は、答えなかった。
ガウスは、静かに息を吐いた。
「……そうか。残念だ」
「残念とおっしゃるなら、一つだけ聞かせてください」
グレイ主教が、初めてガウスを正面から見た。
「ヴァルクス様は、私の釈放を求めましたか」
ガウスは、一瞬だけ沈黙した。
「……外交的な協議の中で、可能な対応を検討している」
「それが、答えですか」
「……」
「ガウス殿。あなたは誠実な方だと思っていました。だから、正直に答えてください。ヴァルクス様は、私の釈放を優先事項としていますか」
ガウスは、長い沈黙の後、静かに言った。
「……計画の継続が、最優先だ」
グレイ主教は、それを聞いて、静かに目を閉じた。
「分かりました。伝言には感謝します。ただ、私はこれ以上、黙ることはしません」
ガウスは、立ち上がった。
「……それが、あなたの答えか」
「はい」
ガウスは、慎に視線を向けた。その目に、珍しく、何か率直なものが浮かんでいた。
「ヴァンディアール殿。あなたは、うまくやった」
「何が、ですか」
「グレイを、話す気にさせた。それは、私には、できなかったことだ」
ガウスは、それだけ言って、部屋を出ていった。
慎は、グレイ主教を見た。
グレイ主教は、目を開けて、窓の外を見ていた。
「よかったんですか」
「はい」
「ヴァルクスへの忠誠は、もうないんですか」
「忠誠ではなく、理念への共感でした。ただ、理念と方法は別のものです。方法が間違っていることを、あなたが証明してくれた」
慎は、それ以上は何も言わなかった。
◆王太子の出発
翌朝、レオンハルトがミレスへ向けて出発した。
表向きは「友好国への表敬訪問」という形だったが、携えている資料と書状は、この旅の本当の目的を示していた。
王城の正門前で、慎はレオンハルトを見送った。
「行ってきます」
「お気をつけて、殿下」
「ミレスで、何か動きがあればすぐに知らせる。お前は、こちらで時間を稼いでくれ」
「承知しました」
レオンハルトの馬車が、正門を抜けて王都の大通りへ消えていった。
慎は、その背中を見送りながら、今日から本格的に「時間を稼ぐ」仕事が始まることを実感した。
ガウスとの外交協議を長引かせながら、各国の連携が整うのを待つ。それが、今の役割だ。
◆ヴァルクスの動き
レオンハルトが出発した三日後、予想外の事態が起きた。
ロイドが、慌てた様子で執務室に飛び込んできた。
「聖都から、正式な抗議書が届いた」
「どんな内容ですか」
「グレイ主教の逮捕を『不当な宗教迫害』と位置づけ、即時釈放を求める内容だ。そして——」
ロイドは、書状を慎に渡した。
「各国の大聖堂を通じて、同様の抗議書を発することを予告している」
慎は、書状を読んだ。
丁寧な外交文書の形式だったが、その内容は、これまでより明らかに強硬だった。
(ガウスの面会で、グレイ主教が話していることが確認された。そして、王太子のミレス訪問の情報も、何らかの形で聖都に届いた。ヴァルクスが、直接動いてきた)
「陛下への報告が必要ですね」
「すでに上げている。陛下は、今日の午後に緊急の評議を開くと言っている」
「分かりました。評議に向けて、対応策を整理します」
慎は、机の前に座り、手帳を開いた。
ヴァルクスが強硬に出てきたことは、ある意味では好機でもあった。
(正面から抗議書を出してきたということは、水面下での工作より、外交的な正面対決の方が有利と判断したということだ。だが、それは同時に、これまでの水面下の工作が続けにくくなることも意味する)
慎は、対応策を三つ書き出した。
一つ目。抗議書に対して、即座に反論する必要はない。慎重に時間をかけて返答することで、時間を稼げる。
二つ目。ミレスとラーセン、デミアへの連絡を急ぐ。各国に同様の抗議書が届く前に、状況を共有し、連携した対応を促す。
三つ目。グレイ主教の証言を正式な記録として確定させる。抗議書の中で「不当な逮捕」と主張されているなら、それに反論するための証拠を、より強固な形にしておく必要がある。
慎は、三つの対応策を紙にまとめてから、ロイドに渡した。
「評議では、これを提案します」
「私も同意見だ」
◆緊急評議
午後の評議には、国王と主要な閣僚が集まった。
ヴァルクスからの抗議書の内容が読み上げられ、各大臣から意見が出た。
外務大臣は「外交的な緊張を避けるため、グレイ主教の処遇を再検討すべき」と主張した。内務大臣は「国内の貴族家への不正があった以上、釈放は困難」と反論した。
議論が行き詰まったところで、国王が慎に発言を求めた。
「ヴァンディアール、お前の見解を聞きたい」
慎は、立ち上がった。
「二点、申し上げます。まず、今回の抗議書は、形式上は外交文書ですが、その実態は圧力です。圧力に対して即座に屈することは、今後も同様の手口が通用するという前例を作ります」
外務大臣が反論した。
「だが、各国の大聖堂を通じた組織的な抗議となれば、外交的な影響は無視できない」
「はい。だからこそ、二点目が重要です。今、王太子殿下がミレスに向かっています。ミレス公国と情報を共有し、連携した対応を取ることができれば、聖都の圧力は一国に対してではなく、複数国に対して同時にかけることになります。それは、聖都にとっても、相当の負担です」
「ミレス公国が、協力してくれる保証はあるか」
「保証はありません。ただ、ミレスでも同じ被害が出ている可能性が高い。自国の利害がかかっている以上、連携の動機は十分にあります」
「時間がかかるではないか。その間に、抗議が各国に広がれば」
「広がることは、想定しています。ただ、広がれば広がるほど、各国がこの問題に気づく機会も増えます。聖都が大々的に抗議することは、むしろ各国の注目を集める効果があります」
評議室に、しばらく沈黙が落ちた。
国王が、ゆっくりと口を開いた。
「ジル殿の言う通りだ。圧力に屈することは、この件だけの問題ではない。抗議書への返答は、慎重に時間をかけて行う。その間に、各国との連携を急ぐ。以上を方針とする」
外務大臣は不満そうだったが、国王の決定には従った。
◆ガウスへの返答
翌日、慎はガウスと会い、抗議書への王国としての一次回答を伝えた。
「正式な返答については、関係する記録の精査が必要であり、一定の時間をいただきたい。その間も、外交的な協議は継続する」
ガウスは、静かに聞いていた。
「時間の目安は」
「一か月程度を想定しています」
「一か月、か」
ガウスは、少し考えてから言った。
「ヴァンディアール殿。一つだけ、個人的に聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは、この件を最終的にどこまで持っていくつもりですか。ヴァルクス様を法的に追い詰めることが目標ですか」
慎は、正直に答えた。
「法的な処罰は、現実的には難しいと思っています。聖都の独自の法体系がある以上、世俗の法が直接及ばない部分がある」
「では、目標は何ですか」
「ヴァルクス様の計画が、これ以上実行できない状況を作ることです。そのためには、各国が状況を把握し、連携して対応することが必要です」
ガウスは、しばらく慎を見ていた。
「……あなたは、私に正直に話してくれるんですね」
「嘘をつく理由がないので」
「グレイとの面会のとき、あなたは立会いながら、私が話すことを止めようとしなかった。あの場で私がグレイに何かを強要しようとすれば、止める権限があったはずなのに」
「止める必要がなかったからです。グレイ主教は、すでに自分の意思で話すことを決めていた。それを邪魔する理由はありません」
「あなたは、公正だ」
ガウスは、静かにそう言った。
「それが、あなたの一番の武器なのかもしれない」
「武器というより、性分です」
ガウスは、短く笑った。
「一か月、受け取ります。その間に、聖都でも内部の確認をします」
「よろしくお願いします」
ガウスが立ち上がり、部屋を出る前に、一度だけ振り返った。
「ヴァンディアール殿。ヴァルクス様が、あなたのことを知ったとき、何とおっしゃると思いますか」
「さあ。想像もつきません」
「私には、想像できます」
ガウスは、それだけ言って部屋を出た。
◆ミレスからの書状
ガウスとの会合から五日後、レオンハルトからの書状が届いた。
「ミレス公国の財務担当官と面会し、状況を共有した。公国内での同様の動きについて、公国側も問題意識を持ち始めていた。公爵への直接の面会を、明後日に設定できた。詳細は帰国後に報告する」
慎は、書状を読んで、静かに息を吐いた。
(動いた。レオンハルトが、ミレスの意思決定者に直接会える)
ロイドに書状を見せると、ロイドも同じ安堵の顔をした。
「公爵との面会が実現すれば、ミレスとの公式な連携が始まる」
「はい。それが実現すれば、ヴァルクスにとって、二か国を同時に相手にすることになります」
「ラーセンとデミアへの働きかけも、並行して進める必要があるな」
「侯爵に、引き続きお願いしています。ラーセンについては、侯爵の旧知の商人が港湾の財務に関わっているとのことで、そちら経由で接触を試みています」
「デミアは」
「デミアについては、まだ具体的な繋がりがない。ただ、デミアの商業ギルドの代表が定期的に王都に来ていると聞いているので、次回の来訪時に接触できるか、検討中です」
「焦らなくていい。一つずつだ」
「はい」
◆夜、執務室で
その夜、慎は一人で執務室に座っていた。
机の上に、大陸の地図を再び広げる。
アルテシア。ミレス。ラーセン。デミア。
四か国の上に、それぞれ現在の状況を書き込んでいく。
アルテシア——グレイ主教逮捕。証拠固め完了。外交協議で時間を稼いでいる。
ミレス——レオンハルトが公爵との面会を実現。連携の第一歩が始まった。
ラーセン——侯爵の繋がりで接触試み中。
デミア——まだ接触できていない。
(まだ全部ではない。でも、動き始めた)
地図を眺めながら、慎は処刑まで三日という状況で目を覚ましたあの日のことを、ふと思い出した。
あの朝から、ここまで来た。
伯爵家の牢から、王室の経済顧問として、大陸規模の問題に立ち向かう場所まで。
(前世の自分が見たら、驚くだろうな)
過労で死んで、報われなかった人生だと思っていた。だが、その経験があったから、今ここで動ける。
エミリアが言った言葉が、頭に浮かんだ。
「ここが、あなたの場所よ」
(そうかもしれない)
慎は、地図を折り畳んだ。
窓の外、王城の夜が静かに広がっている。
遠くに、王都の灯りが見えた。その向こうに、アルテシアの領地が広がっていて、さらにその先に、ミレスが、ラーセンが、デミアがある。
そして、その全ての向こうに、聖都がある。
エルト・ヴァルクス。
慎は、まだ会ったことのない、その男の顔を想像した。
グレイ主教を育て、計画を設計し、大陸の権力構造を変えようとした男。
(いつか、必ず向き合うことになる)
それが第何話になるのかは、まだ分からない。
だが、その日のために、今できることを積み上げていく。
それだけだ。
前世でも、この世界でも、自分のやり方は変わらない。
一つずつ、事実を積み上げる。
矛盾を見つけたら、正す。
それだけを、続けていく。
慎は、窓を閉め、執務室の灯りを落とした。
廊下に出ると、夜の静寂が広がっていた。
自分の部屋に向かいながら、慎は一つだけ、心の中で呟いた。
(さて、第4部の幕が上がる)
夜は、まだ続いている。
だが、夜明けは、必ず来る。
(第21話に続く)




