第19話 大陸の地図
◆ミレスからの返信
オルグレン侯爵から書状を出して十一日後、返信が届いた。
侯爵の執務室に呼ばれ、慎は受け取った書状の内容を、侯爵と並んで確認した。
ミレス公国の財務担当との間で、長年の信頼関係を持つオルグレン侯爵の問い合わせは、予想以上の情報を引き出していた。
「ミレス公国でも、やはり同じことが起きていた」
侯爵は、書状を机に置きながら言った。
「具体的には」
「三年ほど前から、地方の修道院を通じた資金の動きが増えているとのことだ。そして、その修道院に頻繁に出入りする聖職者が、一年ほど前に聖都から赴任してきた人物だと」
「赴任してきた人物の名前は」
「ヴェルナ出身だという話だけで、名前までは確認できていない。ただ、赴任の経緯が、グレイ主教のケースと同じだ。聖都から推薦状が届き、公国の大聖堂で受け入れた」
慎は、手帳に書き込んだ。
(ミレス公国でも、ヴェルナ出身の聖職者が送り込まれている。グレイ主教と同じ手口で、地方の修道院を資金の中継点として使っている)
「返信の中で、ミレス公国側は、どの程度この問題を認識していますか」
「おかしいとは感じているが、まだ確証が持てていない、という段階だそうだ。私の問い合わせが、むしろ彼らに状況の深刻さを伝えた、という感じだった」
「ミレス公国と情報を共有することは可能ですか」
「今回の返信を見る限り、連携できる可能性はある。ただ、正式な外交チャンネルを通すには時間がかかる。私の個人的な繋がりを使えば、もう少し速く動けるが」
「その方が、今は助かります。ガウスが設定しようとしている外交的な協議の場は、聖都が情報をコントロールしやすい形になる可能性があります。それとは別の、各国が直接連携できるルートがあれば、聖都としては対処が難しくなります」
侯爵は、少し考えてから頷いた。
「分かった。ミレスとの非公式な情報共有を、引き続き私が担う。他の国についても、私の繋がりを使って当たってみる」
「ありがとうございます。本当に助かります」
侯爵は、少し苦い表情で言った。
「礼を言われると、落ち着かない。私はこれまで、この問題を知りながら黙っていた人間だ。今さら感謝されるような立場ではない」
「過去のことと、これからのことは、別だと思います」
「……お前はよくそういう言い方をするな」
「事実なので」
侯爵は、短く笑った。
◆ロイドへの報告と分析
昼前、ロイドにミレスからの情報を報告した。
ロイドは、書類を読みながら、静かに唸った。
「アルテシアとミレス。少なくとも二か国で、同じ構図が進行している」
「ガウスの過去の行動記録と合わせると、さらに二か国が関わっている可能性があります。合計四か国」
「ヴァルクスは、大陸の複数の国を同時並行で攻めていた、ということだ」
「そして、各国が個別に対応している限り、全体像が見えない。これは、意図的な設計だと思います。一国が不正に気づいて調査を始めても、それが自国内の問題に見えてしまうから、他国に連絡しようという発想が生まれにくい」
「なるほど。縦割りを利用した、というわけか」
「はい。各国が連携し始めれば、全体像が見えてくる。それが、今一番重要な手を打つことだと考えています」
ロイドは、しばらく考えてから言った。
「陛下に、ミレスとの非公式な情報共有を認めてもらう必要がある。正式な外交チャンネルではなく、今回のような個人的な繋がりを活用することについて」
「はい。今日の午後にでも、陛下にお時間をいただけますか」
「手配する」
「もう一点。グレイ主教と、もう一度話したいと思っています」
ロイドは、少し眉を上げた。
「また何か、引き出せるものがあると思うのか」
「ミレスの状況を伝えた上で、グレイ主教の反応を見たいんです。自分の計画が他国でも進行していることを知った上で、それでも黙り続けるのか、それとも何かを話すのか」
「……なるほど、カードを見せることで、相手の腹を探る、ということか」
「前世でも、このやり方で何度か情報を引き出せた経験があります」
「分かった。グレイ主教への面会を今日の夕方に設定する。私も同席する」
◆グレイ主教との最後の対話
夕方、グレイ主教の収監室を訪ねた。
前回から数日が経ち、グレイ主教はさらに落ち着いた様子だった。焦りや、緊張の色が薄れ、むしろある種の静けさが漂っていた。
「また来ましたか」
「少し、お聞きしたいことができました」
「どうぞ」
慎は、直接切り出した。
「ミレス公国でも、同じことが進行していることを確認しました」
グレイ主教は、表情を変えなかった。
「……そうですか」
「ヴェルナ出身の聖職者が赴任して、地方の修道院を使って資金を動かしている。アルテシアと同じ手口です」
「確認できたのなら、そうなんでしょう」
「否定しないんですか」
「否定する理由がありません。事実ですから」
慎は、グレイ主教を観察した。
認めた。あっさりと。
(この男は、今、何を考えている。諦めているのか、それとも別の何かを考えているのか)
「グレイ主教。あなたは、自分の計画が潰れた今、ヴァルクス大司教についてどう思っていますか」
初めて、グレイ主教の表情に、何かが動いた。
怒りでも、悲しみでも、後悔でも——何か複雑なものが、その目に浮かんだ。
「……なぜ、そのようなことを聞くのですか」
「ヴァルクス大司教がガウスをここに寄越して、あなたの釈放を求めなかったことについて、あなたはどう感じているか知りたかったからです」
グレイ主教は、しばらく沈黙した。
慎は、その沈黙を待った。
「……ガウスが、釈放を求めなかった」
「はい。外交的な協議の場を設けることを求めましたが、あなた個人の釈放については、言及しませんでした」
またしばらく、沈黙が続いた。
「そうですか」
グレイ主教は、静かにそう言った。その声の中に、何かが混じっていた。慎には、それが何なのかを正確に言葉にすることはできなかったが、おそらく、裏切られた、という感覚に近いものではないかと思った。
「一つだけ、教えてもらえますか」
グレイ主教が、初めて自分から質問してきた。
「何ですか」
「あなたは、ヴァルクス様を追い詰めることができると思っていますか」
慎は、正直に答えた。
「法的に処罰することは、難しいと思っています。聖都の独自の法体系がある以上、世俗の法で直接対処することには限界がある」
「では、何ができる」
「ヴァルクスの計画が複数の国で進行していることを、全ての関係国に明らかにすることができます。各国が連携して動けば、これ以上の計画の実行は難しくなります」
「それだけですか」
「今の段階では、それが最も現実的な目標です」
グレイ主教は、しばらく考えてから言った。
「……一つだけ、話します」
慎は、姿勢を正した。
「ヴァルクス様の計画の最終的な目標は、私も完全には知りません。ただ、一度だけ、踏み込んだことをおっしゃっていた」
「何を」
「聖都を、単なる宗教組織ではなく、大陸の各国に対して独立した政治的権威を持つ機関にする、と。そのために、各国の王権を相対的に弱め、教会への依存を高める。それが、長期的な目標だとおっしゃっていた」
「大陸規模の権力構造の変更、ということですか」
「簡単に言えば、そういうことです」
慎は、その言葉の重みを、静かに受け取った。
(財産の収奪は手段。王権の相対的な弱体化は中間目標。最終目標は、聖都が大陸の政治的権威として独立すること——これが、グレイ主教が言っていた「第一段階の先にあるもの」の正体だ)
「それを、なぜ今話してくれたんですか」
グレイ主教は、静かに答えた。
「ヴァルクス様が、私の釈放を求めなかった。それが、答えです」
ロイドが、横から口を開いた。
「切り捨てられた、と感じたということですか」
「私は、ヴァルクス様の理念を信じて動いてきました。だが、そのヴァルクス様が、私を守るより計画を守ることを選んだ。それなら、私がヴァルクス様の計画を守る理由はない」
「それが、今日話してくれた理由ですか」
「はい」
慎は、グレイ主教を見た。
この男は、完全な悪人では、なかった。ヴァルクスの理念に共鳴して動き、そして最後に切り捨てられた。それが、今日の証言に繋がった。
「ありがとうございます」
「礼には及びません。私は、自分の判断で話しました」
「それでも、重要な情報です」
グレイ主教は、窓の外を見た。
「一つだけ、お願いがあります」
「何ですか」
「ヴァルクス様の計画を止めてください。あの理念そのものは、間違っていなかったかもしれない。だが、方法が、正しくなかった」
慎は、静かに頷いた。
「やれる限りのことをします」
◆陛下への報告
その夜、国王への報告の場が設けられた。
ミレスからの情報、グレイ主教の新たな証言、ヴァルクスの最終目標——それら全てを、慎とロイドが順番に説明した。
国王は、黙って聞いていた。
レオンハルトが、最初に口を開いた。
「大陸の政治的権威として独立する、か。それは、これまでの聖都とは、根本的に違う性質の組織になろうとしているということだ」
「はい。これは、一国の内政問題ではなく、大陸の秩序に関わる問題です」
「他の国々は、この状況を把握しているか」
「まだ、各国が個別に問題を認識している段階です。全体像を把握している国はないと思います」
「それを変える必要があるな」
国王が、低い声で言った。
「各国が個別に対応している限り、ヴァルクスの計画は止まらない。連携が必要だ」
「はい。そのためには、正式な外交チャンネルより速い形で、各国に情報を共有する必要があります。オルグレン侯爵の個人的なネットワークを活用することが、今は最も現実的です」
「侯爵の活動を、公式に認める形が必要だな」
国王は、レオンハルトに視線を向けた。
「王太子として、非公式な外交使節の役割を担ってもらうことを考えている。形式上、友好国への表敬訪問という形で、各国を回ってもらう。その過程で、今回の情報を各国の要人と直接共有する」
レオンハルトは、静かに頷いた。
「承知しました。どの国から回りますか」
「ミレスが最初だろう。既に非公式な繋がりがある」
「分かりました。準備します」
国王は、最後に慎を見た。
「お前には、ここで証拠の整理と、外交協議の場での対応を引き続き担ってもらいたい。聖都との協議は、できる限り先送りしながら、各国との連携が整うまでの時間を稼ぐ必要がある」
「承知しました。ガウスとの次の接触については、私が対応します」
「頼んだ」
謁見が終わり、廊下を歩きながら、ロイドが言った。
「大きくなったな、本当に」
「はい」
「お前が最初に牢の中にいた頃から、ここまで展開するとは、想像もしていなかった」
「私もです」
「一つ聞いていいか」
「何ですか」
「お前は、疲れていないか」
慎は、少し考えた。
「疲れています。ただ、止まりたいとは思っていません」
「その感覚が続く限りは、大丈夫だな」
ロイドは、それだけ言って、自分の執務室の方向へ歩いていった。
◆エミリアとの夜
執務室に戻ると、エミリアが待っていた。
最近、こういう形が習慣になっていた。慎が夜遅くまで仕事をしていると、エミリアが顔を出して、その日の話を聞く。特別なことではないが、慎には、それがこの生活の中で大切な時間になっていた。
「グレイ主教が話したの」
「はい。ヴァルクスの最終目標について」
慎は、会話の内容を伝えた。
エミリアは、黙って聞いていたが、最後に一つだけ言った。
「グレイ主教って、かわいそうな人ね」
「そうですね」
「信じていた人に切り捨てられて、それでも最後に話してくれた」
「理念を信じていたけれど、方法を選び間違えた。前世でも、似たような人間を何人か見てきました」
「でも、あなたは怒っていないでしょう、グレイ主教に対して」
「怒りよりも、もったいないという感覚の方が近いです。あの頭の良さと行動力が、違う方向に使われていれば」
エミリアは、少し考えてから言った。
「あなたも、前世ではそういう立場だったかもしれないわね。才能があって、一生懸命働いて、でも報われなかった」
慎は、その言葉を受け取った。
「似ているかもしれません。ただ、私は誰かを傷つけたわけではないので、それが違うところです」
「うん」
しばらく、二人とも黙っていた。
「ねえ、一つ聞いていい?」
「はい」
「今の仕事が終わったら、どうしたいの?」
慎は、その問いを、初めて正面から考えた。
今まで、この先のことを具体的に考えたことが、実はほとんどなかった。常に目の前の問題を解決することだけを考えてきた。
「分かりません」
「本当に?」
「正直なところ。ただ——」
慎は、少し考えてから続けた。
「こういう仕事は、終わらないんだと思います。一つを解決すれば、次が出てくる。それが自分の性分に合っているなら、ずっと続けることになる」
「飽きないの?」
「今のところは。飽きるよりも、まだやることがある、という感覚の方が強いです」
エミリアは、少し笑った。
「それがあなたらしいわ」
「エミリアさんは、この先どうしたいですか」
「私?」
「一緒に巻き込んできてしまって、ずっと思っていたんですが。エミリアさんには、エミリアさん自身の望む将来があるはずで」
エミリアは、少し間を置いてから答えた。
「あなたの隣にいること、かな」
「それは、婚約者としての答えですか」
「そういう部分もあるけど——それだけじゃない」
エミリアは、窓の外を見た。
「あなたが問題を追いかけるとき、私は横で別の角度から見ることができる。それが、役に立てているなら、私はそれでいい」
「十分以上に役立っています。何度も助けてもらいました」
「じゃあ、これからも助けてあげる」
「ありがとうございます」
「また——」
「言いました。でも、本当にそう思っているので」
エミリアは、今度は笑わずに、静かに頷いた。
「分かってる」
しばらく、二人とも窓の外を見ていた。
王城の夜が、静かに続いていた。
遠くで、夜警の鐘が鳴った。
「そろそろ休みなさい」
「はい」
「明日も、また何かあるでしょうから」
「おそらく」
エミリアが立ち上がり、扉に向かった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
扉が閉まった。
慎は、手帳を最後にもう一度開いた。
今日分かったこと、グレイ主教の証言、ヴァルクスの最終目標、ミレスとの連携、レオンハルトの訪問計画——それらを、最後に短くまとめた。
書き終えて、手帳を閉じる。
懐にしまいながら、慎は一つだけ思った。
(次は、ガウスとの外交協議だ。時間を稼ぎながら、各国との連携を固める。それができれば、ヴァルクスの計画を止めることができる)
仕事は、まだ続く。
だが、確かに、前に進んでいた。
◆翌朝の地図
翌朝、慎は執務室の机に大きな地図を広げた。
大陸の地図だ。アルテシア王国を中心に、周辺の国々の位置関係が描かれている。
それぞれの国に、今分かっている情報を書き込んでいく。
アルテシア王国——グレイ主教が逮捕。財団と商会の資金の流れは概ね解明済み。
ミレス公国——ヴェルナ出身の聖職者が赴任。地方修道院を通じた資金の動きあり。侯爵経由で非公式な連携が始まっている。
そして、ガウスの過去の行動記録から浮かんだ残り二か国。一つは、王国の南西に位置する港湾国家ラーセン侯国。もう一つは、東方の商業都市を複数抱えるデミア連邦だ。
どちらも、三年前から聖都との条約交渉が活発化し、課税免除の範囲拡大について合意しているという記録がある。
(四か国。これが、ヴァルクスの計画の現在の射程範囲だ)
地図を見ながら、慎は一つの仮説を立てた。
ヴァルクスが複数の国を同時に攻める場合、その国の選定には基準があるはずだ。でたらめに選んでいるわけではない。
共通点を探すと、四か国に一つの傾向が見えた。
いずれも、大陸の主要な交易路の要所に位置している。アルテシアは北部の街道、ミレスは中部の河川交易、ラーセンは南西の港、デミアは東方の商業ルート。
(交易路の要所。つまり、経済的なネットワークの節点を、教会の影響下に置こうとしている)
財産の収奪だけでなく、大陸の経済的な動脈を掌握することが、もう一つの目的だったのかもしれない。
慎は、その考えを手帳に書き留めた。
まだ仮説の域を出ないが、確認する価値がある。
◆レオンハルトとの準備
昼前、レオンハルトが執務室を訪ねてきた。
「ミレスへの出発の準備を始めている。一つ、お前の意見を聞きたかった」
「何ですか」
「ミレスで誰と会うべきか。公国の要人の中で、この問題に対して動ける立場にある人物を教えてほしい」
慎は、オルグレン侯爵からの書状の内容を思い出した。
「侯爵の書状によると、ミレス公国の財務担当官が、この問題に最も近い情報を持っています。ただ、財務担当官だけでは、政治的な決断を下すことができません。公国の意思決定者、つまり公爵か、その直近の側近に直接話す必要があります」
「公爵への伝手は、侯爵が持っているか」
「直接ではないかもしれません。ただ、財務担当官を通じて引き合わせることは可能かもしれないと、書状に書かれていました」
「なるほど」
レオンハルトは、メモを取りながら聞いた。
「もう一つ。ミレスで話すべき内容の優先順位を教えてほしい。全てを話す時間があるとは限らない」
慎は、少し考えた。
「最も伝えるべきは、この問題が一国の内政問題ではなく、複数国が同時に狙われているという事実です。そして、各国が個別に対応する限り、全体像は見えないということ。連携の必要性を理解してもらうことが、最初の一歩です」
「具体的な証拠は、持参すべきか」
「ミレスの状況と、アルテシアの状況を並べて見せることで、手口の一致が明確になります。証拠の一部は、持参した方が説得力が増します。ただし、全てを外部に出すことは、情報管理の観点から避けた方がいいでしょう」
「どの程度の証拠を持参するか、絞り込む手伝いをしてくれるか」
「もちろんです。今日の午後にでも、資料の選定を一緒にやりましょう」
「助かる」
レオンハルトは、立ち上がりながら言った。
「お前と話すと、整理されていくな」
「整理することが、一番の仕事なので」
「それを嫌味なく言えるのが、お前の強みだ」
レオンハルトは、少し笑いながら部屋を出ていった。
慎は、地図を折り畳んで、資料の選定作業に入った。
ミレスへの訪問が成功すれば、各国の連携の基盤ができる。その基盤の上に、ヴァルクスの計画を無効化するための外交的な包囲網を作る。
一歩ずつだ。
だが、その一歩が、確実に先へ繋がっていた。
(第20話に続く)




