第15話 霧の中の顔
◆ロイドへの報告
翌朝、慎は誰よりも早くロイドの執務室を訪ねた。
エミリアから聞いた話——モンテーニュがガルデン商会をファルスタットに紹介した可能性——は、すぐに共有すべき情報だった。だが同時に、慎重に扱わなければならない情報でもあった。
「モンテーニュが、ガルデン商会の紹介者だった、か」
ロイドは、話を聞き終えてから、しばらく黙っていた。
「情報の出所は、ファルスタット夫人の証言ですね。間接的ではありますが、夫人がその名前を鮮明に覚えていたのは、それだけ印象に残っていたからだと思います」
「モンテーニュ自身は、そのことを話していないのか」
「はい。最初に接触してきたとき、この件への協力を申し出てきましたが、ガルデン商会については一切触れていませんでした」
「意図的に隠していた、か」
ロイドは、立ち上がり、窓の外を見た。
「……あいつとは、長い付き合いだ」
「ご存知だったんですか」
「王城に勤めて何年にもなる。顔くらいは知っている。有能で、上司の受けもいい男だ」
ロイドは、しばらく沈黙した。
「だからこそ、慎重にやらなければならない。もしモンテーニュが意図的に動いているなら、法務部の内部に、グレイ主教の息がかかった人間がいることになる。それは、これまでの調査全体に、影響を与える可能性がある」
「法務部が関わっていたとすれば、書類の隠蔽や、手続きの遅延など、様々な形で調査を妨害できる立場にあります」
「そうだ。まず、モンテーニュと我々の間でどんな情報を共有してきたかを、洗い直す必要がある」
慎は、手帳を開いた。
「モンテーニュに話した内容は、グレイ主教の件の概要と、複数貴族家への工作の可能性、それと今後は連携したいという意向です。具体的な証拠の内容や、調査の進捗は話していません」
「その範囲なら、まだ致命的な情報漏洩にはなっていない」
「ただ、彼が王城での私の動きを観察していたとすれば、シデル財務長官への接触や、ファルスタット子爵の来訪についても、把握している可能性があります」
「……急がなければならないな」
ロイドは、慎を見た。
「今日中に、モンテーニュの過去の行動記録を確認する。王城には、各官僚の来訪記録や書簡の写しを保管する仕組みがある。それを使えば、ある程度の動きを追える」
「私は、並行してガルデン商会の実態調査を続けます。シデル殿が、資金の流れを調べてくれています」
「分かった。今日は、それぞれ別々に動く。情報は、今夜まとめて共有しよう」
「一つだけ確認させてください。モンテーニュ本人に、今日中に接触することは避けた方がいいですか」
「避けろ。向こうが疑いを持って動く前に、証拠を固める必要がある」
◆シデルからの報告
昼過ぎ、財務局からシデルが直接執務室を訪ねてきた。
いつもの無愛想な表情だったが、その目が、いつもより少し緊張しているように見えた。
「ガルデン商会の資金の出所について、確認が取れました」
「どのような結果でしたか」
シデルは、手にしていた書類を机の上に広げた。
「商会の設立資金は、表向きは王都の複数の商人からの出資ということになっています。ですが、その出資者の一人が、別の商会を経由して資金を用意しており、その別の商会の資金の出所が——聖ヴェルナ教会財団に行き着きます」
「つまり、一段階クッションを置いて、教会財団から商会に資金を流していた」
「そうなります。直接的な繋がりではなく、間に別の組織を挟むことで、繋がりを見えにくくしていた」
(これは、典型的なマネーロンダリングの多段階構造だ。一段では追いにくくしてあったが、丁寧に追えば繋がる)
「シデル殿、この調査の記録は、どこに保管していますか」
「財務局の金庫です。今回の件は、外部への漏洩を避けるため、私一人で作業しました」
「賢明な判断だと思います。その記録は、当面、金庫に保管したままにしてください。ロイド殿と私以外には、内容を話さないようにお願いします」
シデルは、少し眉を上げた。
「……何か、懸念事項がありますか」
「調査に関わっている別の人物について、確認中のことがあります。詳細は、もう少し待ってください」
「分かりました」
シデルは、書類を手に取り直してから、静かに付け加えた。
「ヴァンディアール殿。王城での調査は、伯爵家とは違います。この場所には、様々な利害が絡み合っている。私も長年ここにいて、それは痛いほど分かっています」
「はい」
「だから、一つだけ言わせてください。今回の件で、誰かを疑いたくなる状況があるかもしれない。ですが、証拠が固まる前に動くのは危険です。特に、相手の立場が高い場合には」
「肝に銘じます」
「それと——」
シデルは、珍しく、少しだけ表情を和らげた。
「もし、財務的な観点で何か迷うことがあれば、いつでも来てください。私にできる範囲で、協力します」
慎は、深く頭を下げた。
(この男は、信頼できる)
◆記録の中の名前
夕方、ロイドから書状が来た。
「モンテーニュの行動記録を確認した。すぐに来てくれ」
慎は、すぐにロイドの執務室へ向かった。
ロイドは、机の上に複数の書類を広げていた。来訪記録、書簡の写し、それと何枚かのメモのような紙。
「モンテーニュは、この一年間で、ガルデン商会の代理人として登録されている弁護士事務所と、三度面会している記録がある」
「公式の記録として残っていたんですか」
「王城では、外部の人間との面会記録を残す慣習がある。本人も、まさかそれが証拠になるとは思っていなかっただろうが」
「面会の内容は」
「記録には、『法律相談』としか書かれていない。だが、三度の面会の時期が、いずれもグレイ主教の関係する財団の手続きと重なっている」
「つまり、法務部の立場を使って、財団や商会の法的な手続きを助けていた可能性がある」
「状況証拠としては、十分に強い」
ロイドは、書類の一枚を指差した。
「さらに、これを見てくれ」
書類には、モンテーニュの名前と、二つの数字が並んでいた。
「これは、財務局の記録の抜粋だ。モンテーニュの個人の資産申告書の、一部だ」
「資産申告書を確認したんですか」
「王室の官僚は、毎年資産を申告する義務がある。この二年間で、モンテーニュの申告資産が、給与収入では説明できないほど増加している」
(収入と釣り合わない資産の増加——前世でも、不正の最も分かりやすいサインの一つだ)
「金額の規模は」
「二年間で、給与の五倍以上に相当する資産増加だ。出所の説明がない」
慎は、手帳に書き込んだ。
「これだけ揃えば、モンテーニュへの事情聴取の根拠としては十分ですか」
「十分だ。ただ、聴取のタイミングが重要になる。モンテーニュが気づいて逃げるより前に動く必要があるが、かといって、今夜すぐに動くのも、別のリスクがある」
「別のリスク、というのは」
「モンテーニュが動けなくなった瞬間に、上位の人間が証拠を隠滅する可能性だ。末端を押さえる前に、頂点の人間の動きを封じる必要がある」
「頂点の人間——ガルデン商会の実経営者ですか」
「そうだ。グレイ主教が『王都の中枢に近い人物』と言っていた」
慎は、今日一日の情報を、頭の中でまとめた。
ガルデン商会は聖ヴェルナ教会財団から資金を受け取っている。モンテーニュは商会の法的な手続きを助けていた。そして商会の実経営者は、王都の中枢に近い人物——。
(この三つの点を繋ぐ線が、もう一本あるはずだ)
「ロイド殿。オルグレン侯爵との繋がりについて、何か記録はありましたか」
ロイドは、少し間を置いた。
「……一つ、気になるものがあった」
「何ですか」
「モンテーニュと、オルグレン侯爵の面会記録が、この二年間で六度ある。いずれも、表向きは社交上の会合だが、その頻度は、通常の社交関係にしては多い」
「六度」
「ただし、それだけでは何も言えない。侯爵は、多くの官僚と交流がある人物だ」
「侯爵から、エルハイムとファルスタットの情報を提供されたのは、なぜだったんでしょうか」
「それが、ずっと引っかかっていた」
ロイドは、腕を組んだ。
「侯爵が自分から情報を持ってきた。その情報は正確だった。だが、正確な情報を持つ人間が、なぜ今まで黙っていたのか」
「最初から味方だったわけではないから、とも考えられますが」
「あるいは——」
ロイドは、慎を見た。
「我々の調査が、商会に近づいていることを察知して、先に情報を提供することで、商会本体への調査の矛先を逸らそうとした、という可能性もある」
慎は、その仮説を頭の中で検討した。
(侯爵がガルデン商会の実経営者であれば、調査が商会に向かう前に、自分から別の情報を提供して、我々の注目を別に向けようとした——それは、あり得る行動だ)
「侯爵がガルデン商会の実経営者である可能性は、どう評価しますか」
「……今の段階では、可能性の一つだ。確証はない。ただ、侯爵の財産規模や、教会との複雑な距離感を考えると、関与がゼロだとも言い切れない」
「では、どう動きますか」
ロイドは、しばらく考えてから言った。
「陛下に報告する。この段階で、陛下に全ての情報を上げて、次の動きを判断してもらう必要がある。侯爵が関与しているかもしれないという話は、王室調査官の権限だけで処理できる範囲を超えている」
「同意します」
「明日の朝、陛下に面会を申し込む。お前も同席してくれ」
「はい」
◆夜の訪問者
その夜遅く、執務室で手帳を整理していると、扉がノックされた。
カルロが顔を出した。
「オルグレン侯爵様が、お会いしたいとのことです」
慎は、一瞬だけ躊躇した。
(侯爵が夜遅くに訪ねてくる。何かを察知したか)
「通してください」
オルグレン侯爵は、昼間に会う時よりも、いくらか疲れた顔をしていた。いつもの余裕が、わずかに削れているように見えた。
「夜分に失礼する」
「いえ、どうぞ」
侯爵は、椅子に座ると、いつものように周囲を確認してから口を開いた。
「単刀直入に聞く。今日、シデルが財務局で何かを調べていたな」
「財務の調査は、随時行っています」
「ガルデン商会についてだ」
慎は、表情を変えなかった。
「調査の内容については、公式に発表できる段階になるまで、お伝えすることは難しいです」
「……そうか」
侯爵は、少し考えるような顔をした。
「お前に、一つだけ言っておきたいことがあって来た」
「はい」
「ガルデン商会の件を調べているなら、近々、ある人物の名前が出てくるはずだ」
「どんな人物ですか」
「私だ」
慎は、表情を動かさなかった。内心では、予想はしていたが、侯爵自身の口から出たことで、状況が大きく変わった。
「侯爵は、ガルデン商会に関与されているんですか」
「出資者の一人だ」
「……それを、なぜ今話してくれるんですか」
オルグレン侯爵は、静かに答えた。
「お前が調べれば、いずれ分かることだ。なら、自分から話した方が、まだ意図を説明できる」
「意図、というのは」
「私は、グレイ主教の計画を全て知っていたわけではない。最初の接触は五年前で、商会への出資を勧められたのは、純粋な投資の話だった。だが、一年ほど前に、商会がグレイ主教の資金の流れと繋がっていると気づいた」
「気づいてから、どうしたんですか」
「撤退しようとした。だが、すでに深く関与していたため、簡単には抜けられなかった。そして——」
侯爵は、わずかに表情を歪めた。
「グレイ主教から、これまでの関与を証拠として持っていると言われた。撤退するなら、公にする、と」
「脅されていた、ということですか」
「そういうことだ」
慎は、この告白を、どう受け取るべきかを考えた。
侯爵の言葉が真実なら、彼は当初から悪意を持って関与したわけではなく、むしろグレイ主教に取り込まれた被害者の側面もある。だが同時に、一年前に気づいてから、王室や国王に報告せず、自分の保身のために黙っていたことも事実だ。
「侯爵は、なぜこれを私に話そうと思ったんですか」
「お前たちが、商会の調査に入った。もう時間の問題だと分かった。ならば、自分から話した方が、まだ選択肢が残る」
「選択肢、というのは」
「グレイ主教の計画の全容について、私が知る限りを話す。その代わり、私の関与については、できる限り配慮してほしい」
慎は、しばらく沈黙した。
(これは、自分一人で決められることではない。ロイドと陛下の判断が必要だ)
「侯爵。今夜の話は、ロイド殿と国王陛下に報告することになります。侯爵への対応は、私一人では決められません」
「分かっている。それで構わない」
「明日の朝、陛下への報告を予定しています。侯爵もご一緒いただけますか」
オルグレン侯爵は、少し驚いた顔をした。
「……私も、陛下の前で話す、ということか」
「その方が、速く、そして正確に状況が伝わります。侯爵が話してくれる内容は、陛下にとっても重要な情報になるはずです」
侯爵は、しばらく考えてから、静かに頷いた。
「……分かった。同席する」
侯爵が部屋を出た後、慎はすぐにロイドへの書状を書いた。
「明日の陛下への報告に、追加の同席者が一人増えます。オルグレン侯爵が、自ら事情を話すと申し出ました」
書き終えて、使いに渡す。
(動きが、一気に加速した)
グレイ主教の逮捕、モンテーニュの疑惑、そして今夜のオルグレン侯爵の自白——それぞれが別々に動いていた糸が、一本に束ねられようとしていた。
慎は、手帳に今夜の会話の要点を書き留めた。
侯爵の告白が真実であれば、グレイ主教の計画は、侯爵のような大貴族を取り込むことで、王都の中枢にまで影響力を拡大しようとしていたことになる。
(第一段階に過ぎない、とグレイ主教は言った。貴族家の資産収奪も、大貴族の取り込みも、全てが何か大きな目的のための準備だとしたら——)
その先が、まだ見えない。
だが、明日の謁見で、また一歩近づける。
窓の外、夜の王都が、静かに息をしていた。
慎は手帳を閉じ、明日に備えた。
◆エミリアとの夜話
書状を出してから少し経った頃、エミリアが執務室の扉を叩いた。
「まだ起きていると思って」
「よく分かりましたね」
「あなたが夜中まで手帳を書いているのは、もう分かりきっているもの」
エミリアは、椅子を引いて座った。
「何かあったでしょう。顔に出てるわよ」
慎は、オルグレン侯爵の来訪について、要点だけを話した。侯爵がガルデン商会の出資者だったこと、脅されて抜けられなくなっていたこと、明日の謁見に同席することになったこと。
エミリアは、黙って聞いていたが、最後に一言だけ言った。
「……侯爵って、被害者なのか加害者なのか、どっちなの」
「両方だと思います」
「両方、か」
「最初は巻き込まれた被害者の側面がある。でも、気づいてから一年間、自分の保身のために黙っていた。その一年間で、さらに被害が広がったとすれば、その部分については責任がある」
エミリアは、少し考えてから言った。
「それって、ソフィア様と似ているわね」
慎は、思わず手を止めた。
「……確かに」
「利用されていた、でも動いていた、でも全容は知らなかった。グレイ主教は、そういう人たちを上手く使っていたのね。完全に悪い人間は目立つけど、曖昧な立場の人間は、見えにくいから」
慎は、エミリアの言葉を頭の中で繰り返した。
(曖昧な立場の人間を、意図的に作り出していた。完全な共犯者ではなく、でも無関係でもない人間を複数作ることで、もし一人が崩れても、他の人間を盾にできる)
「エミリアさん、それは重要な視点です」
「そう?」
「グレイ主教が各貴族家に送り込んだ人間——バルト、カシアン、モンテーニュ、そしておそらく他にも——それぞれが、完全な内情を知っているわけではなかった。知る必要がある部分だけを知らせて、動かしていた」
「縦割りにしていたってこと?」
「そうです。前世では、それをタコツボ型の情報管理と言っていました。一人が崩れても、他の人間には被害が及びにくい構造を作る」
エミリアは、少し考えてから、静かに言った。
「でも、それって、それだけ頭のいい人間が、長期間かけて作り上げた仕組みよね。グレイ主教一人で、全部設計したの?」
その問いに、慎は答えに詰まった。
(グレイ主教一人で、これだけ精密な仕組みを、五年以上かけて作り上げることは——不可能ではないが、難しい)
「その可能性は、ずっと気になっています。グレイ主教の背後に、さらに別の設計者がいる可能性は、まだ排除できていません」
「第一段階に過ぎない、って言っていたのよね、主教は」
「はい」
「じゃあ、第一段階を設計した人間と、全体計画を立てた人間が、別の可能性もある」
慎は、思わず立ち上がって、窓の外を見た。
夜の王都の向こうに、大聖堂の輪郭が暗闇に浮かんでいる。
(グレイ主教は、実行役に過ぎない可能性がある。本当の黒幕は、まだ姿を見せていない)
「エミリアさん、あなたはなぜそこまで鋭く考えられるんですか」
「さあ」
エミリアは、少し笑った。
「あなたが、何かを見落としていないか、ずっと横で考えているからかもしれないわ」
「ありがとうございます」
「また言った」
「また言いましたね」
二人は、短い間、笑った。
王城の夜の静寂の中で、その笑い声は、妙に温かく響いた。
「今夜は、もう休んで」
エミリアは立ち上がった。
「明日は大事な話し合いでしょう。疲れた顔で行ったら、侯爵に足元を見られるわよ」
「そうですね」
「おやすみなさい」
エミリアが部屋を出た後、慎はもう一度だけ手帳を開いた。
エミリアの問いを、最後の一行として書き留める。
『グレイ主教の背後に、さらなる設計者がいる可能性を排除するな』
書き終えて、手帳を閉じた。
窓の外、夜の王都が、静かに息をしていた。
(第16話に続く)




