第13話 王城の霧
◆初めての出勤
王室経済顧問として、王城に初めて足を踏み入れた朝のことを、慎はおそらく長く覚えているだろうと思った。
前世でいうなら、転職初日の感覚に近い。知らない場所に、知らない人間関係が広がっていて、自分がどこに立てばいいのかが、まだ分からない。ただ違うのは、前世の転職では、最低でも業界の常識を共有していた。ここでは、宮廷というものがどう動くのかを、一から把握する必要があった。
与えられた執務室は、王城の東棟の、比較的小さな部屋だった。窓から中庭が見え、採光は悪くない。机と椅子と、空の棚。ここを、どう使っていくかは、慎次第だった。
「ご不便がありましたら、何でも申しつけてください」
担当の使用人、若い男性のカルロが、丁寧な態度で言った。
「ありがとうございます。まず、いくつか教えてもらえますか」
「はい、何でしょう」
「この王城で、財務に関する書類はどこで管理されていますか」
カルロは、少し驚いた顔をした。着任初日に、そんなことを聞く人間は珍しいらしい。
「財務局は、北棟の三階にあります。王室の収支全般を管理しています」
「財務局の責任者の方は、どういった方ですか」
「財務長官のシデル様です。長年、王室の財政を取り仕切っておられる方で……えーと、正直に言うと、かなり厳格な方です」
「厳格、というのは」
「外部の方に対して、書類の開示にあまり積極的でない方です。前任の王室顧問の方も、なかなか苦労されていたと聞いています」
(前任の顧問も苦労していた、か。つまり、財務局は現状、閉じた組織として動いている)
「分かりました。まず、シデル財務長官に挨拶に行きたいと思います。案内してもらえますか」
カルロは、少し心配そうな顔をしたが、「承知しました」と頷いた。
◆財務長官との顔合わせ
北棟の三階、財務局の扉を開けると、中には十数人の事務官が、それぞれの机で黙々と作業をしていた。静かで、効率的な雰囲気だった。
「シデル財務長官に、お目にかかりたいのですが」
受付の事務官に告げると、しばらく待たされた後、奥の部屋に通された。
財務長官ジャック・シデルは、六十代半ばと思われる、細身の男性だった。白髪に鋭い目、口元は固く引き結ばれている。机の上には、書類が整然と並んでいた。乱れが一切ない、几帳面な人物だということが、部屋の雰囲気からも伝わってきた。
「ヴァンディアール殿ですか。王室経済顧問とのこと、聞いています」
シデルの声は、無愛想ではないが、温かくもなかった。
「初めてお目にかかります。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
シデルは、軽く頭を下げた。だが、その目は、慎を慎重に観察していた。
「率直にお聞きしますが、経済顧問として、具体的に何をなさるおつもりですか」
(試している。外部から突然来た若い顧問が、財務局にどこまで踏み込んでくるかを見ている)
慎は、あえて穏やかな口調で答えた。
「まずは、現状を把握することから始めます。財務局の仕事に、無用な干渉はしません。ただ、陛下から特に依頼されている件について、必要な情報をご提供いただけると助かります」
「陛下から依頼されている件、というのは」
「複数の貴族家への不正な経済工作の調査です。グレイ主教の件に関連して、被害を受けた可能性のある貴族家の財務状況を確認したいと考えています」
シデルは、少し間を置いた。
「貴族家の財務状況は、各家の自己申告に基づくものです。王室が直接確認するには、正式な手続きが必要になります」
「正式な手続きについて、教えていただけますか」
シデルは、また少し間を置いた。
(慎重な男だ。が、悪意は感じない。正確に手続きを踏むことへのこだわりが、ある種の誠実さに見える)
「……陛下の署名入りの調査命令書があれば、対応できます。それをご用意いただけますか」
「分かりました。すぐに準備します」
「それと——一つだけ申し上げておいても、よろしいですか」
「どうぞ」
シデルは、珍しく、少し表情を和らげた。
「財務というものは、数字を見るだけでは分からないことがあります。長年、各貴族家の財務に関わってきた立場から言うと、今回の件は、表に出ている数字より、もっと複雑なところで繋がっている可能性があります」
「どういう意味ですか」
「グレイ主教が工作していた複数の貴族家は、財務上も、互いに関係を持っている場合があります。一つの家を調べるだけでなく、家どうしの関係性も含めて見ないと、全体像は見えてこないでしょう」
(家どうしの関係性——それは、まだ考えていなかった視点だ)
「ありがとうございます。それは、重要なご指摘です」
「お役に立てれば」
シデルは、また表情を元に戻した。しかし、最初の無愛想さとは、少し違う温度になっていた。
(この男は、味方にできるかもしれない)
慎は、財務局を出ながら、そう感じていた。
◆宮廷の視線
王城での最初の数日間、慎は意図的に、目立たない動き方を選んだ。
前世の監査でも、新しい調査先に入ったばかりの時期は、まず観察を優先する。話を聞き、人間関係を把握し、誰が何を知っていて、誰が何を隠しているかを、ゆっくりと見極める。
だが、目立たない動き方をしていても、王城という場所では、視線は集まってくる。
「ヴァンディアール殿」
食堂で昼食を取っていると、声をかけてきたのは、三十代半ばの貴族風の男性だった。
「申し遅れました。リシャル・ド・モンテーニュと申します。王室法務部に勤めています」
「ジル・ヴァンディアールです。よろしくお願いします」
モンテーニュは、慎の向かいに座った。王城での食事は、立場に関係なく同じ食堂を使う慣習があった。
「噂の経済顧問殿に、一度ご挨拶したいと思っていたんです。グレイ主教の件、見事でしたね」
「おかげさまで」
「それにしても、あの件を短期間で解決されたのは驚きました。私どもも、以前から教会の財務関係に不審な点があることには気づいていたのですが、なかなか動ける状況ではなく」
(法務部が、以前から気づいていた。だが動けなかった。それは、なぜか)
「動けない状況、というのは、具体的にはどういったことが障害になっていましたか」
モンテーニュは、少し周囲を見回してから、声を落とした。
「教会の問題に直接手を出すには、相当の政治的な決断が必要です。法務部として書類を準備しても、上から止められることが多くて。正直なところ、誰かが上を動かすことを、待っていたんです」
「誰かが上を動かした、という意味では、今回は国王陛下ご自身が動かれましたね」
「そうです。だから、今回は動けた。でも、それには、お前さんが陛下を動かすだけの証拠を用意したからでもある。あなたがいなければ、私どもも、ずっと止まっていたでしょう」
モンテーニュは、率直な物言いをする人物らしかった。好感が持てたが、慎はすぐには全面的に信頼しないよう、自分を戒めた。
「法務部として、今後はどう動かれるつもりですか」
「被害を受けた貴族家への法的なフォローアップを、今進めています。ただ、被害の全容がまだ分かっていないので、そこが課題です」
「財務の調査と、法務の対応、連携できると効率的かもしれませんね」
「それを期待して、声をかけたんです」
モンテーニュは、少し笑った。
「お互い、やりやすくなれると思いまして」
慎は、手帳に、モンテーニュという名前を書き加えた。
(この男は、使える。ただし、情報の共有範囲は慎重に決める必要がある)
◆オルグレン侯爵の真意
四日目の午後、廊下でオルグレン侯爵と、再び鉢合わせた。
今度は、明らかに向こうが待ち構えていた。
「ちょうどよかった。少し話せるか」
侯爵に案内されたのは、廊下の奥の小さな談話室だった。
「着任から数日、どうだ。王城の空気には慣れたか」
「まだ慣れるほど時間が経っていませんが、少しずつ把握しているところです」
「正直な答えだな」
オルグレン侯爵は、椅子に腰を下ろした。その所作には、長年この場所で権力を行使してきた人間の余裕があった。
「実は、お前に伝えておきたいことがあって」
「はい」
「グレイ主教の件は、見事だった。だが、あの男が動いていた範囲は、お前が把握しているよりも広い可能性がある」
慎は、表情を変えずに聞いた。
「具体的には」
「被害を受けた貴族家として、カシアンが証言したのは五家から六家だったな。だが、私の把握では、もう二家ほど、同様の工作を受けていた可能性がある」
「どの家ですか」
「一つは、エルハイム伯爵家。もう一つは……ファルスタット子爵家だ」
慎は、その名前を手帳に書き留めた。
「侯爵は、どうやってその情報を」
「私にも、独自の情報網がある。長年、この国で生きてきたからな」
「その情報を、陛下やロイド殿には伝えていらっしゃいますか」
オルグレン侯爵は、少し間を置いた。
「……伝えていない」
「なぜですか」
「タイミングを見計らっていた。どこまで情報を出すかは、状況次第でもある」
(タイミングを見計らっていた。つまり、自分にとって最も有利な形で情報を出そうとしている、ということか)
「侯爵は、この件について、どのようなお立場でいらっしゃるんですか」
オルグレン侯爵は、慎を見て、少し目を細めた。
「率直な問いだな」
「失礼でしたか」
「いや、嫌いではない。正直に言おう」
侯爵は、少し前傾みになった。
「私は、グレイ主教の件が、この国の権力構造に与える影響を、非常に注視している。あの男の背後にいる勢力は、財産を狙っていただけではない。それは、お前も分かっているだろう」
「はい」
「その勢力と、私は長年、別の意味で関係を持ってきた。敵でも味方でもない、微妙な距離感を保ってきた」
慎は、慎重に言葉を選んで聞いた。
「つまり、侯爵はこれまで、その勢力と対立することを避けてきた、ということですか」
「そういうことだ。だが、陛下が正面から動き始めた今、その距離感を維持することは、もはや難しい」
「侯爵は、これからどちら側に立つおつもりですか」
オルグレン侯爵は、長い沈黙の後、静かに答えた。
「それを決めるために、お前を見ている」
「私を見ている、というのは」
「お前が、この件をどこまで本気で追えるのかを見ている。本気で追えるなら、私は陛下側に立つ。だが、途中で止まるようなら——」
侯爵は、言葉を続けなかった。
(途中で止まるようなら、勝ち馬の判定を変える、ということか)
この男は、正義ではなく、力を信頼する人間だ。どちらが最終的に強いかを見極めて、そちら側に立つ。それが、宮廷という場所で長年生き残ってきた、彼の処世術なのだろう。
「侯爵、一つだけ確認させてください」
「何だ」
「エルハイム伯爵家とファルスタット子爵家について、具体的にどういう工作が行われていたかについて、情報はありますか」
侯爵は、少し考えてから、一枚の紙を取り出した。
「これだけは、提供できる」
受け取った紙には、二家の財務状況の概要と、不審な資金移動の時期が記されていた。
(バルトの横領パターンと、ほぼ同じ手口だ)
「ありがとうございます」
「お礼はいらない。お前の仕事ぶりを、引き続き見させてもらう。それが私の条件だ」
侯爵は立ち上がり、部屋を出ていった。
慎は、紙を手帳に挟みながら、この人物との付き合い方を考えた。
(オルグレン侯爵は、今は情報を提供してくれた。だが、彼の忠誠心は条件付きだ。信頼しすぎず、しかし排除もせず、適切な距離を保つ必要がある)
前世でも、こういう「どちらにも転ぶ可能性がある人間」とは、何度も付き合ってきた。そういう人間は、扱い方次第で、最も強力な味方にも、最も厄介な敵にもなる。
◆ロイドとの連携
その夜、ロイドが王城の執務室を訪ねてきた。
「どうだ、初めての王城は」
「新しい情報が、いくつか入りました」
慎は、今日の出来事を順に報告した。シデル財務長官との顔合わせ、モンテーニュとの会話、そしてオルグレン侯爵から得た情報——エルハイム伯爵家とファルスタット子爵家への工作の可能性。
ロイドは、静かに聞いていたが、侯爵の話のところで、眉をひそめた。
「オルグレン侯爵が、自分から情報を提供してきたか」
「はい」
「あの男が自分から動くのは、珍しい。よほど状況が動いていると感じたんだろう」
「侯爵は、今後どちら側に立つかを決めるために、私を見ている、と言っていました」
「……相変わらず、正直な男だ。腹の中を隠さない分、ある意味では分かりやすい」
ロイドは、侯爵から受け取った紙を確認した。
「エルハイムとファルスタット。この二家は、確かに以前から、財務の動きに不審な点があるという報告が、内部で上がっていた。だが、グレイ主教の件が解決してから動こうと、後回しにしていた」
「では、次はこの二家の調査を、並行して進めますか」
「そうなる。ただ——」
ロイドは、慎を見た。
「お前に、一つ注意しておきたいことがある」
「何ですか」
「王城での動きは、伯爵家での動きと根本的に違う。伯爵家では、関係者の数が限られていた。王城では、お前の動きは、常に誰かに見られている。情報が、予期せぬ方向に流れることがある」
「それは、分かっています」
「分かっているだけでは足りない。オルグレン侯爵があれだけ早く動いてきたことが、その証拠だ。お前が王城に来て四日で、侯爵はすでにお前を観察して、接触してきた」
慎は、ロイドの言葉の重みを、静かに受け取った。
「では、情報の共有範囲は、より慎重に管理する必要があります」
「そうだ。誰に、どこまで話すかを、常に意識しろ。それが、王城での調査の基本になる」
「財務長官のシデル殿は、信頼できそうですか」
「長年、純粋に財務の職務に徹してきた人間だ。政治的な野心は薄い。ただ、手続きを重んじる性格上、動きは遅くなる可能性がある」
「モンテーニュ殿は」
「有能な法律家だ。ただ、情報を得ると、上に報告する性格がある。それが、必ずしも悪いことではないが、お前が意図した以上に情報が広がる可能性はある」
慎は、それぞれの人物の特性を頭の中に整理した。
「ロイド殿は、今後もこの件に直接関わってもらえますか」
「もちろんだ。私は王室調査官として、引き続きこの件の調査責任者でもある。お前と私は、これまで通り連携して動く」
「ありがとうございます。心強いです」
「礼はいい。ただ——」
ロイドは、少し表情を緩めた。
「一つだけ言っておく。お前がここまで来たのは、自分の力だけではない。エミリアという婚約者の機転と行動力、アルベルト殿の情報提供、そして伯爵家の使用人たちの協力があった。王城でも、同じだ。一人で全部抱えようとするな」
「……エミリアさんにも、同じことを言われました」
「それだけ、周囲の人間がお前のことを見ている、ということだ」
ロイドは立ち上がり、部屋を出ていった。
慎は、一人になった執務室で、今日という一日を振り返った。
シデルの慎重さ、モンテーニュの率直さ、オルグレン侯爵の計算、そしてロイドの信頼。
王城という新しい舞台には、伯爵家とは比べ物にならない数の人間が関わっている。それぞれの思惑があり、それぞれの立場がある。
(これを全部把握しながら、正しい方向に動き続けることが、これからの仕事だ)
慎は、手帳を広げた。
今日分かったこと、今後の調査方針、人物の整理——それを、丁寧に書き記していく。
窓の外、王城の庭に、夜の静寂が広がっていた。
遠くから、夜警の足音が聞こえてきた。
(さて、明日は何が出てくるか)
慎は、手帳を閉じながら、静かに、しかし確かな手応えを感じていた。
王城という場所は、伯爵家よりも遥かに複雑で、危険で、そして——面白かった。
(第14話に続く)




