第9話 消した足跡
夜明け前の森は、まだ青黒かった。
トージャは小屋の中と周囲を、丹念に元へ戻していった。敷き草は森の窪みに捨てて土を被せ、囲炉裏の灰は掻き出し、焚き火の跡は掘り返して冷たい土と混ぜた。壺や椀は洗って、棚の奥へ。狩人の休憩小屋として、誰かが昨日まで使っていた。それ以上でも、それ以下でもない状態に、彼は九日間の生活の痕跡を埋めていった。
巡回する戦士の目で見れば、隠すべきものは案外多い。煙の匂いの染みついた天井。油の飛んだ石。同じ場所を何度も往復した、踏み固められた土の道。彼はそれらを一つずつ潰し、最後に小屋の周囲へ落ち葉を撒いて、人の暮らしの輪郭を森の床に溶かした。
自分の仕上げを、彼は一度、巡回隊のつもりで眺め直した。狩人が少し前まで使っていた小屋。それだけが残っている。それで、十分なはずだった。
最後に残ったのは、土の上の絵だった。
少女が小枝で描いた、大穴の歪な輪。何度もなぞられて、線は深く刻まれていた。
彼は枝箒を手に、しばらくその輪を見つめていた。消さなければならない。だが、その線は、この小屋で交わした数少ない会話そのものだった。
すると、傍らに立った少女が、静かにしゃがみ込んだ。
彼女は自分の手のひらで、輪の線を撫でるように消していった。何の未練も見せず、丁寧に、土を均して。最後に一度だけ、その場所を、軽く叩いた。
まるで、礼を言うように。
少女の荷物は、ほとんどなかった。
身に着けて運ばれてきた服は、洗って繕って、彼が持たせた小袋と杖だけが、彼女の持ち物の全てだった。大穴を目指す旅をする者なら、食料も、道具も、防護の装備も持っているはずだった。それらが一つもない。どこかで失ったのか、仲間とはぐれたのか、それとも――。
彼女の過去は、彼女の持ち物と同じくらい、空白だった。
「……行くぞ」
トージャは声を絞り出した。少女は杖を手に、頷いた。
出発の前、彼は彼女の明るい髪に、濃い色の布を巻いた。
その髪は、森の中では目立ちすぎた。朝の光を受ければ、遠くからでも白く浮く。彼女は理由を察したらしく、されるがままになっていた。それから彼女は一度だけ、小屋の方を振り返った。九日を過ごした場所への、一瞥だった。すぐに前を向き直したところに、彼女の決意のようなものが見えた。
移動は、彼の想定よりも順調だった。
平坦な場所では、彼女は杖をついて自分の足で歩いた。歩幅は小さかったが、一定のリズムを崩さなかった。無駄に体力を消耗しない、長距離の歩き方だった。休憩の取り方も心得ていて、座ればすぐに足首の包帯を点検し、痛む前に休もうとする。怪我人を運ぶというより、慣れた旅の相棒と歩いているような感覚が、彼にはあった。
休憩の申し出も、彼女の方からだった。手のひらを下へ向ける、彼が教えた「止まろう」の合図。限界まで頑張って倒れるのではなく、余力を残して休む。その判断ができる旅人は、多くない。彼は彼女の回復を喜ぶと同時に、その「旅慣れ」の出どころへの疑問を、また一つ深めていた。
途中の休憩では、少女が先に水の革袋を彼に差し出した。
自分の分を後回しにして、まず世話をする者へ。それもまた、彼女の育ちの欠片だった。彼は礼の代わりに頷いて受け取り、一口飲んで、袋を返した。
近くの藪に、あの白い花の草が咲いていた。彼女の傷を癒した薬草だ。少女はそれに気づくと、自分の脇腹に手を当て、花を見て、小さく頭を下げた。何に礼を言ったのか。花にか、彼にか、それともこの土地にか。彼の語彙では区別がつかなかったが、その仕草の丁寧さだけは伝わってきた。
難所の一つ、急な斜面では、彼が彼女を背負った。
思ったより軽かった。だが、軽さに油断はできなかった。彼の背で、彼女は体を固くもせず、重心を彼に預けきっていた。背負われることにも、慣れている者の預け方だった。
「……っと」
斜面を登りきったところで、彼は彼女を下ろし、息を整えた。左肩は文句を言わなかった。蔓の綱も、仕事を果たしてくれた。
二つ目の難所、沢の渡り場では、アクシデントが起きた。
並べ直した足場の石が、彼女の体重でわずかに傾いだのだ。彼女の体が流れに傾く。トージャは咄嗟に腕を伸ばし、彼女の腕を掴んで引き寄せた。冷たい水飛沫が二人の足元で弾けた。
「大丈夫か」
少女は濡れた足元を見て、それから彼を見て、小さく頷いた。驚いた顔をしていたが、取り乱してはいなかった。彼女は掴まれた腕とは反対の手で、彼の袖をしっかりと掴んでいた。落ちる瞬間に、掴むべき場所を掴む。その判断の速さにも、彼はどこか既視感のようなものを覚えた。
掴んだ腕から、彼女の速い脈が伝わってきた。驚きは、していたのだ。ただ、それを表に出さない訓練のようなものが、彼女の中にはあった。彼は対岸に渡りきるまで、その腕を離さなかった。
午後、森の奥で魔獣の気配がした。
姿は見えなかった。だが、鳥の声が一斉に途切れ、風のない枝葉が微かに揺れた。トージャは反射的に、懐の平たい石を取り出していた。
石と石を、一度だけ打ち合わせる。乾いた、小さな音。
少女は即座に動きを止め、近くの幹の陰に身を寄せ、息を潜めた。目だけが彼を見て、指示を待っていた。合図は、一度で正しく伝わった。
気配の正体は、匂いでおおよそ見当がついた。獣の匂いと、高さのある枝の折れ方から見て、鹿ほどの中型獣が群れで移動しているらしい。襲う気配ではなかったが、群れに驚かれて踏み荒らされる危険はあった。
少女の手が、彼の袖の端を握っていた。震えはなかった。指先の力だけが、緊張を正直に伝えていた。彼はその手を、そっと自分の袖に置いたままにした。どちらの無事も、この静けさに懸かっていた。
二人はそのまま、長い時間をやり過ごした。気配はやがて遠ざかった。何が通ったのかは分からなかった。だが、分かる必要もなかった。避けられたのなら、それで十分だった。
少女が、幹の陰からそっと顔を出し、彼に親指を立てて見せた。
どこで覚えた仕草なのか。無事だ、という合図のつもりなのだろう。彼は思わず、小さく笑ってしまった。緊張の中の、その笑みは、本物だった。
岩棚に着いたのは、夕方の少し前だった。
沢の上流、岩が庇のように張り出し、その下に数人が横になれる乾いた空間がある。滝の音が絶えず響き、周囲の物音を掻き消していた。先に運んでおいた草と布と水の壺が、岩陰に無事に残っていた。
少女は岩棚の奥に座り込み、深く息を吐いた。半日の移動は、回復途中の体には堪えたはずだった。
トージャは足首を改めて確認した。腫れはほとんど戻っていなかった。休憩の配分と、難所で体重をかけさせなかった判断が正しかった。脇腹の傷も、包帯に新しい血は滲んでいない。移動は、彼女の回復を後退させずに済んだ。
彼は短い時間だけ火を焚き、温かい汁物を作った。当分の間、彼女が口にできる最後の温かい食事になるかもしれなかった。少女は両手で椀を包み、ゆっくりと味わうように飲んだ。それでも彼女は、弱音に相当する仕草を一度も見せなかった。代わりに、岩棚の入り口から見える景色に、静かに見入っていた。
岩の切れ目からは、森の向こうの空が見えた。大穴のある方角の空は、夕方の光の中でも、うっすらと紫がかって見えた。
彼女の視線は、そこから動かなかった。
トージャは設営を済ませ、石の合図を、岩棚でもう一度確認した。危険があれば隠れる場所。火を焚くのは夜の短い時間だけ。彼は一つずつ、身振りで示した。少女は一つずつ、頷いた。
すると彼女は、自分でも平たい石を二つ拾い、岩棚の入り口の脇に置いた。合図の石を、自分の持ち物として用意したのだ。習ったことを、自分の暮らしに取り込む速さ。彼は頷いて、それを認めた。
食料は四日分を置いた。長引くようなら、彼が巡回の後に運び足す。辿り着くことさえできれば、ここは小屋よりずっと安全な場所であるはずだった。
「明日は、来られない」
日が落ちる前に、彼は砦へ戻らなければならなかった。明日の朝、巡回が始まる。道案内としての務めがあり、そして何より、巡回隊をこの岩棚に近づけない役目は、彼にしかできなかった。
彼は身振りで説明した。明日、自分は仲間と森を歩く。だが、ここへは来ない。明後日には、必ず戻る。
少女は真剣に聞いていた。明後日がどんな日になるか、彼女には知る由もなかった。彼自身にも、確約はできなかった。それでも彼は、戻ると伝えた。やがて彼女は、自分の膝の上に置かれた小刀を手に取った。彼が護身用に置いていったものだ。彼女はそれを、両手で彼に差し出した。
返そうとしているのか。
トージャは首を振り、彼女の手を軽く押し戻した。
「持っていろ。……自分の身は、自分で守れ」
言葉は通じない。だが、押し戻す手の意味は伝わったらしい。少女は小刀を抱えるように持ち直し、深く頭を下げた。
「トージャ」
背を向けかけた彼を、少女の声が止めた。
以前の、区切るような「トー、ジャ」ではなかった。彼の名を、一つの言葉として、はっきりと呼んだ。それから彼女は、胸に手を当て、頷いて見せた。大丈夫だ、という意味だと彼は受け取った。行ってこい、という意味だったのかもしれない。
彼は背を向け、森を下り始めた。一度だけ振り返ると、岩棚の陰から、彼女が小さく手を振っていた。
明日、彼は敵としてではなく、味方の顔をして、少女の居場所を守るために歩く。巡回隊の誰よりも森を知る自分が、誰よりも大切な秘密を抱えて、先頭を歩くのだ。
その重さを背負って、トージャは夕闇の森を、砦へと急いだ。
砦の門では、見張りが声をかけてきた。
「明日は巡回だそうだな。早く休め」
「ああ」
彼は短く答えて、門をくぐった。明日、彼は守るべきものを二つ抱えて森に入る。一つは、この砦と巡回隊の仲間たち。もう一つは、岩棚で彼の帰りを待つ、名も知らぬ少女だった。
どちらも、決して裏切るわけにはいかなかった。




