第10話 巡回
巡回の朝、砦の門前には戦士たちが集まっていた。
守護戦士団の本隊に、若手と、道案内のトージャ。巡回は二手に分かれる。一隊は沢沿いを進み、二隊は東の森の縁を回って、昼に合流する。トージャは副団長率いる一隊、沢沿い組の案内を任されていた。
小屋のある森を通るのは、彼の組だった。
カルドは二隊に配され、出発前に悔しそうな顔を見せた。フーアンは斥候として、すでに先行していた。
「いいか。目的は獣の動向の確認だ。戦うためじゃない。無闇に追うな」
副団長の短い訓示で、巡回は始まった。
休憩地点として狩人の小屋を提案したのは、トージャ自身だった。
避ければ、かえって目立つ。森を知る彼が、あの小屋を経路から外す方が不自然だった。それに、隊が小屋に寄るなら、自分の目の届くところで寄せた方がいい。見つかる危険は、目を逸らすことでは減らせない。近づいて、自分の手で管理する。彼はそう決めて、この朝を迎えていた。
出発前、母が小さな包みを渡してきた。昼の分の干し肉と果物だった。
「顔色が悪いわよ。……無理をしないで」
母は何も聞かなかった。今日も。彼は包みを受け取り、静かに頷いた。背負った袋には、斧と、薬の道具一式が入っていた。戦うための道具と、治すための道具。その両方を背負って歩くのが、今の彼だった。
森の中では、トージャは先頭を歩いた。
道々、彼は獣の痕跡を読み上げた。古い足跡。乾いた糞。爪の研ぎ跡。それらのどれもが、大型の魔獣がこの一帯を離れたことを示していた。彼の説明に、団の戦士たちは静かに耳を傾けた。戦士としての腕だけではない。この森における彼の目は、団の中でも信頼されていた。
午前の中頃、先行していたフーアンが一度、隊に合流した。
「沢の上流まで見てきた。異常なし。獣の新しい匂いもしねえ」
岩棚は、沢の上流だった。トージャの胸に、冷たいものが走った。だがフーアンの「異常なし」は、岩棚まで到達していない者の報告でもあった。滝の音と岩陰に隠れた小さな生活の気配は、通り過ぎるだけの目には留まらない。それを彼は知っていたし、フーアンの目が鋭いことも知っていた。安心はできなかったが、事実として、今日のところの無事は確認された。
彼は知っていた。どの窪みに水が溜まり、どの尾根が獣の通り道で、どの辺りから小屋が見えるのか。その全てを知った上で、隊の進路を、自然な範囲でわずかにずらし続けた。小屋そのものは巡回経路の範囲内だったが、近づく角度と滞在の仕方までは、案内人の裁量だった。
果たして、小屋は休憩地点になった。
「少し休む。各自、水を補給しろ」
副団長の声に、戦士たちは小屋の周囲に散った。一人が戸を開け、中を覗いた。トージャの心臓が、大きく跳ねた。
「囲炉裏、わりと新しいな。狩人が最近使ったんだろう」
彼は覗いた男の後ろから、努めて平静に言った。
「狩人の小屋ですから。俺も前に、雨宿りで使ったことがあります」
男は頷いて、囲炉裏の脇に腰を下ろした。誰も、敷き草の新しい土の匂いにも、均された床の土にも、注意を向けなかった。九日間の生活は、森の日常の中に溶けて、見えなくなっていた。
危うい瞬間は、一度だけあった。
水を汲みに行った若い戦士が、小屋の裏手から戻りながら、手に何かを摘まんでいた。
「何だこれ。布の切れ端?」
包帯の、端切れだった。彼のものだ。洗って干した際か、処分の際に、藪に引っかかって残っていたらしい。心臓が、喉まで跳ね上がった。
だが彼は、水筒の蓋を閉めながら、平然と言った。
「狩人が手当てでもしたんだろ。この辺り、怪我の多い場所だからな」
「……違いない」
若者は切れ端を、その場に放り捨てた。森の床に落ちた小さな布は、ただのゴミとして、誰の記憶にも残らなかった。
休憩の間、トージャは水筒の水を飲みながら、自分の手が震えていないことを確かめた。演技は、成功していた。
小屋を離れる際、副団長が彼に尋ねた。
「お前は、この森の変化によく気づく。何か秘訣でもあるのか」
「……素材集めで、年中歩いているからです。薬草は、同じ場所でも季節で顔を変えます。その変化を見ていると、森全体の変化も見えてくるんです」
嘘ではなかった。それは彼の力の、正直な説明だった。副団長は満足そうに頷き、先へ進んだ。真実の中に秘密を隠す。その危うい均衡の上に、彼は立っていた。
午後、合流地点の手前で、事態は動いた。
二隊の方角から、角笛のような警戒の音と、獣の咆哮が聞こえたのだ。
「行くぞ」
副団長の号令で、一隊は走った。
説明は走りながら聞いた。二隊が藪の脇を通過したところを、潜んでいた魔獣が横から突いたらしい。陣形は崩れ、一人が負傷。それでも隊は広場まで後退しながら隊伍を立て直し、持ち堪えていた。
合流地点の広場では、二隊が中型の魔獣と対峙していた。猪に似た体躯で、だが目は黒紫に濁り、口元からは泡が飛んでいた。黒紫にあてられて、気が立っている個体だった。
カルドが大剣を構え、正面に立っていた。その脇で、若い戦士が一人、足を押さえて座り込んでいる。突進を避けきれず、脛を打ったらしい。
「トージャ、怪我人を頼む。カルド、右に回せ。囲むぞ」
副団長の采配は速かった。
トージャは負傷した戦士を広場の端まで引きずり、脛を確認した。骨は折れていない。だが大きく腫れ、打撲と擦過傷があった。彼は袋から老人の軟膏を取り出した。少女のためにも使うはずだった、上質なものだった。
一瞬だけ、手が止まった。
だが、目の前で痛みに呻く仲間を前に、その躊躇いはすぐに消えた。彼は軟膏を惜しみなく塗り、固定の包帯を巻いた。調合師の手際は、戦場でも役に立った。
手当てを終えたトージャも、広場へ戻った。
魔獣は興奮のあまり、同じ方向への突進を繰り返していた。猪の仲間は、苛立てば直線的になる。その習性を、彼は狩りで知っていた。
「カルド。そのまま正面で受けろ。次は俺が囮になる」
彼は広場の反対側で大声を上げ、石を幹に打ち付けた。音と声に、魔獣の頭が彼の方を向いた。真っ赤な視線。地面を蹴る蹄。
突進が始まった瞬間、彼は脇へ跳んだ。同時に、側面から一本の槍が閃いた。フーアンだった。斥候の仕事を終えて合流した彼は、槍で魔獣の横腹を浅く裂き、即座に間合いを外した。
そして正面では、カルドの大剣が待っていた。
逸らし損ねれば死ぬ立ち位置で、カルドは一歩も引かず、大剣の腹で突進を受け止め、流した。魔獣の勢いが崩れたところへ、副団長と戦士たちの槍が、側面から脚を狙った。足を傷つけた魔獣は、やがて戦意を失い、森の奥へ逃げていった。追撃はしなかった。巡回の目的は、殲滅ではなかったからだ。
カルドが息を整えながら、トージャを見て笑った。
「やっぱりお前がいるといいな。戦う方も、治す方も、片方だけじゃ回らない」
夕方、巡回隊は砦へ戻った。
斥候のフーアンの報告により、あの大型魔獣の足跡が、東の森のさらに向こうへ続いていることが確認された。少なくとも当面、砦の周辺に戻ってくる様子はない。巡回の目的は、果たされた。
フーアンの報告は詳しかった。大型魔獣の古い寝床も見つけたらしい。だが、そこはすでに空で、新しい匂いも残っていなかった。獣は縄張りを捨てて、東へ移った。それが、この巡回の一番の成果だった。
副団長は門前で、隊を解散させながら言った。負傷した若者に目をやり、それからトージャを見た。
「手当てが早かったおかげで、大事にならなかったそうだ。……礼を言う」
「俺の仕事です」
「その通りだ。お前の仕事は、この砦に要る仕事だ」
副団長は、それだけ言って背を向けた。「周辺は、当面安全だ。ご苦労だった」
トージャは、静かに息を吐いた。
小屋は暴かれなかった。少女は見つからなかった。仲間は誰も死なず、怪我も軽く済んだ。十日前に森で始まった秘密は、今日、最大の危機を越えたのだった。
帰り際、交易所の前が騒がしかった。伝令の若者が、興奮した様子で告げていた。
「数日中に、外縁からの交易の隊商が着くそうだ。今回は規模が大きいらしい」
隊商の到来は、砦にとって一つの行事だった。塩、布、金属、そして外の世界の品々と話が、隊商と一緒にやって来る。護衛の手配は、砦の外の活動を担う鎧武兵団の仕事になるはずだった。若い衆の間では、すでに隊商の品物への期待で持ちきりだった。
「外の酒が来るぞ」とフーアンが笑い、「外の鋼はよく切れる」とカルドが目を輝かせる。彼らにとって外の世界は、珍しい品と冒険の匂いのする場所だった。だがトージャにとって、このとき外の世界は、品物以上のもの、答えと危険の両方を運んでくる存在に変わりつつあった。
外の商人が、古い調合の書を探っている。老人の言葉が、彼の頭をよぎった。
隊商が来れば、外の世界が砦の門前までやって来る。それは、岩棚の少女にとって、何を意味するのか。彼女を探す者たちが、その中にいる可能性は。逆に、彼女の言葉を解する者が、来る可能性は。
答えはなかった。
ナラが、解散していく人混みの中で、彼を見ていた。
「……何か、いいことでもあった顔をしている」
「巡回が無事に済んだからな」
「そう」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。だが、その視線には、以前よりも長く、彼を測るような光があった。
トージャは砦の外壁に背を預け、森の方角を見た。夕闇の向こう、沢の上流の岩棚で、一人の少女が、約束の日を待っている。
明日、彼は約束通り、彼女の元へ戻る。
そして数日のうちに、外の世界が、この砦へやって来る。
その夜、彼は自室で明日の荷物をまとめながら、小さな計画を立てていた。隊商の中に、書のことを知る者がいるかもしれない。それとなく、古い調合の書の噂を聞く。それは彼の夢のための行動だった。だが同時に、少女の言葉を解する手がかりが、隊商の中にあるかもしれないとも思っていた。
少女を守ることと、夢を追うことと。その二つが、隊商の到来で交わろうとしていた。
静かな十日間は、終わろうとしていた。




