第11話 白の目覚め
幕間 白い少女
最初に感じたのは、痛みだった。
世界は熱と痛みと、揺れでできていた。誰かの背に担ぎ上げられ、森の中を運ばれている。顎の下に感じる肩の骨の硬さ。草と汗と、薬草の匂い。彼女は目を開けようとしたが、瞼は重く、開けた隙間から入る光さえ眩しすぎた。
運ぶ者の顔は、見えなかった。ただ、暗い色の腕が、落ちないように彼女を支えていることだけが分かった。
半ば無意識の中で、彼女の感覚は勝手に働いていた。水の流れる音が一度、近づいて遠ざかった。鳥の群れの鳴き声。運ぶ者の足音は、獣道を選ぶ者の、迷いのない足音だった。この森を知っている者の足音だった。
途中で一度、運ぶ者は足を止めた。彼女をそっと地面に下ろし、脇腹の布の上から、出血の様子を確かめたようだった。布を締め直す手つきは、痛みへの配慮と、時間への焦りの両方を含んでいた。それから彼は、また彼女を背負い直した。そのとき一度だけ、彼のものらしい、短い呟きが耳に届いた。祈りだったのか、悪態だったのか、彼女には判別できなかった。
敵か、味方か。それすら判断する材料がなかった。判断する前に、意識はまた沈んだ。
次に意識が浮かんだのは、屋根のある場所だった。
藁と乾いた草の匂い。遠くで火の爆ぜる音。体は横たえられ、脇腹には布が固く巻かれていた。指一本動かすにも、痛みが走った。
男の声がした。若い男の声だった。言葉は、彼女の知るどの言葉とも違った。
彼女は目を細く開け、睫毛の隙間から様子を窺った。
暗い肌。暗い髪。火の明かりに照らされた横顔。手元では、布を裂き、壺の薬を確かめ、何かの段取りを一人で呟いている。大きな斧が、壁際に立てかけてあった。
得体の知れない男。見知らぬ小屋。動けない自分の体。
恐怖が、遅れてやってきた。
彼女は寝たふりを続けた。動けるふりをする必要はなかった。動けなかったからだ。だが、目を開けていることだけは、悟られたくなかった。相手が何者で、何をするつもりなのか。情報が全くなかった。生き延びるためには、まず相手を知る必要があった。
熱のある頭でも、彼女の観察は止まらなかった。小屋は狭く、出入り口は一つ。壁際に斧と、得物らしきもの。棚には壺と布と、乾した肉。彼女の寝かされた場所は、火に近すぎず、戸からも近すぎない位置だった。水の椀は、いつも彼女の手の届くところに置かれた。
男はやがて彼女の傍らに膝をつき、額に手を当てた。熱を測る手つきだった。乱暴さはなかった。その手は、彼女の傷の布を取り替え、角度を確かめ、水で濡らした布を額に置いた。終始、看病する者の手だった。
だが、まだ信じるわけにはいかなかった。看病と監禁は、紙一重だった。
その夜、熱が上がった。
体が自分のものではないように熱く、息が浅くなった。夢と現実の境が溶け、森の音も、火の音も、遠くでうねるように聞こえた。
男が立ち上がり、外へ出ようとする気配がした。
なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。彼女の手が、反射のように伸びて、男の袖を掴んでいた。
行くな、と思ったのか。確かめたかったのか。一人で、この熱の中に置いていかれることが、怖かったのかもしれない。
自分の口から、言葉にならない音が漏れた。何を言ったのか、自分でも分からなかった。
男は驚いたように振り返り、それから、掴まれた袖を振りほどかなかった。彼は傍らに戻り、彼女の額の布を取り替え、水を少しだけ口に含ませた。その夜、彼は外へは行かなかったようだった。
袖を掴んだ手は、やがて力が抜けて落ちた。
それからの数日は、断片でできていた。
苦い薬の味。口の中に広がる、強い草の苦み。体が少しだけ楽になる感覚。夜明け前に出ていく男の気配と、夕方に戻ってくる気配。その規則正しさが、彼女の中で、少しずつ世界の形を作っていった。
男は毎日、彼女を生かすための仕事をした。水を汲み、薬を煎じ、傷を確かめ、火を絶やさなかった。言葉は通じなかったが、行為の意味は通じた。この男は、自分を生かそうとしている。それだけは、疑いようがなかった。
ある夜、森の奥で獣の声が近く聞こえたことがあった。その夜、男は眠らなかった。斧を傍らに置き、戸の内側に座り、夜明けまで火を見ていた。彼女は寝たふりをしながら、その横顔を見ていた。看病だけではない。この男は、外の危険からも彼女を守るつもりなのだということが、その夜の姿で分かった。
また別の日、男は帰ってくるなり、真っ先に彼女の額に手を当てた。小屋の周りの仕掛けの確認は、その後だった。優先順位というものは、言葉よりも正直だった。
だが、目的までは分からなかった。なぜ助けるのか。助けた先に、何を求めるのか。人の善意には、値札がついていることがある。彼女はそれを知っていた。
あるとき、彼女は渇きに耐えかねて、自分の言葉で水を求めたことがあった。
男は一瞬きょとんとして、それから彼女の視線の先を追い、水の椀を差し出した。言葉は通じなかった。だが、視線と必要は通じた。小さな成功だった。意思は、言葉以外の方法でも運ぶことができる。その発見は、彼女の中で静かに残った。
男の独り言の中には、繰り返し現れる音があった。水を運ぶときの音。火に呼びかけるときの音。彼女には意味は分からなかったが、音と行為の結びつきを、彼女は静かに覚えていった。言葉を学ぶというのは、たぶん、こういうことの積み重ねだった。
小屋の戸の隙間から、細い光が差し込む時間があった。その光の中で、紫とも黒ともつかない細かな粒が、ゆっくりと漂っていた。美しく、どこか不穏な光景だった。あの粒が、この森の空気には満ちていた。男の髪にも、彼女の腕にも、薄く積もっていく。
外では、聞いたことのない鳥の声がし、夜には獣の遠吠えが聞こえた。ここは、彼女の知る世界の、ずっと外側だった。
男が長く留守にする日が来た。
朝に熱の下がり具合を確かめられ、十分な水と、冷めた粥の椀が枕元に置かれた。それきり、気配が消えた。
一日目は何とかなった。二日目の夜、熱がぶり返した。
体中が軋み、寒気と熱感が交互に押し寄せた。水を飲もうにも、手が震えた。誰もいない小屋で、暗闇の中、彼女は歯を食いしばった。
死ぬかもしれない、と思った。こんな、名も知らない森の小屋で。
その思いが、逆に彼女を奮い立たせた。ここで死ぬわけにはいかなかった。まだ、何も果たしていない。彼女は震える手で水の椀を引き寄せ、少しずつ飲み、濡らした布を額に当て、夜をやり過ごした。
朝、熱は下がり始めていた。彼女は生き延びた。自分の力で、と呼べるほど大層なものではなかったが、少なくとも、諦めはしなかった。
残された水の量を、彼女は数えていた。椀に何杯分あるか。一日どれだけ飲めば、いつまで持つか。男がいつ戻るかは分からなかった。分からないなりに、配分を決めることはできた。恐怖に任せて飲み干すことは、彼女はしなかった。
戸の隙間から差す光の角度で、彼女は昼と夜を数えた。男のいない朝が来るたび、今日こそ戻るかもしれないと思い、鳥の声に耳を澄ませた。
その日、彼女は初めて自分で体を起こす練習をした。男の外套が、傍らに無造作に置かれていた。彼女はそれを手に取り、なぜか、きちんと畳んで枕元に置いた。乱れた場所を整えることは、心を整えることだった。教わったわけでもない。ただ、そうしなければ、自分が崩れていく気がした。
三日目の昼過ぎ、森の外れで、懐かしい気配がした。
鳥の声の変化。罠の仕掛けの、小さな音。彼女は身を起こした。体はまだ重かったが、座ることはできた。
横たわった傷病人としてではなく、座った一人の人間として、あの人を迎えたかった。それが、この数日を生き延びた彼女の、ささやかな誇りのようなものだった。水の椀は空だった。外套は、畳んで置いてあった。
戸が開き、あの人が立っていた。
数日ぶりに見る彼は、少し痩せたように見えた。荷物を背負い、腕には新しい包帯が巻かれていた。彼女の知らない場所で、彼は傷を負っていた。その傷が自分のためだったのかどうか、彼女には知る術がなかった。だが、彼はその傷を言い訳にすることなく、真っ先に彼女の熱を確かめに来た。
彼は、座っている彼女を見て、明らかな驚きの表情を浮かべた。
彼女は、ゆっくりと頭を下げた。
これは、彼女の育った場所で、礼を表す形だった。命を繋いでくれた相手への、正式な礼。言葉を持たない今の彼女にできる、精一杯の意思表示だった。
彼は戸惑ったように立ち尽くし、それから、粥の支度を始めた。
温かい粥。塩の味。干した果物の、思いがけない甘さ。食べながら彼女は、彼の所作を観察した。食べるのが速い。だが、彼女の椀が空になるのを待ってから、自分の分をよそっている。火の番の合間に、傷の様子を何度も確かめる。やはり、この人は、彼女を生かすことを自分の仕事にしていた。
食事の後、彼は自分の胸に手を当てた。
ゆっくりと、はっきりと、彼は言った。
「トージャ」
名前だった。自分の名を、彼女に教えているのだ。理由は分からなかったが、それが、彼女に向けられた最初の対等な仕草だということは分かった。
彼女はその音を、頭の中で何度も繰り返した。トー、ジャ。異国の響き。だが、それは音の羅列ではなくなった。その音は、あの横顔と、あの手つきと、あの規則正しい帰還と、一つに結びついた。
名前を知るということは、相手を「得体の知れない男」から、一人の人間として数え直すことだった。
彼女はまだ、この人を信じきってはいなかった。目的も、素性も、何も分からない。だが、その夜、彼女は久しぶりに、逃げる算段をせずに眠りについた。
自分の名を告げる番は、まだ来ていなかった。今の彼女には、まともに立って礼を返す足もなかった。いつか、対等に立てる日が来たら。その思いは、回復への意欲に、静かな理由を一つ足した。
覚えるべき最初の言葉は、決まっていた。トージャ。あの人の、名前だった。




