第12話 言葉のない約束
幕間 疎通
名前を覚えることは、思ったより簡単だった。
トージャ。その音は、朝の水の冷たさや、粥の湯気や、包帯を巻く手の確かさと一緒に、彼女の中で繰り返された。言えない言葉は、それでも頭の中で形を持ち始める。彼女は小屋の薄暗がりの中で、何度も唇だけを動かした。トー、ジャ。声に出すのは、まだ怖かった。出してしまえば、この名前が自分のものになってしまう気がした。
彼の来る時間は、だいたい決まっていた。朝の光が戸の隙間から差し込む頃と、森の色が変わる夕方。その規則正しさが、彼女の一日の骨組みになっていた。彼は来るたび、まず罠と周囲を確かめ、それから彼女の額に手を当てた。その順序が崩れたことは、一度もなかった。だからこそ、七日目の朝、彼女は彼が来る前に身を起こし、座って待った。今日は、見せるものがあった。
七日目の朝、トージャが来たとき、彼女は決めていたことを実行した。
小枝を拾い、小屋の土の上に、線を引く。大きな、歪んだ輪。円ではない。ところどころ膨らみ、へこんだ、不格好な輪。指先が震えた。この形は、彼女の中でずっと重さを持っていた。目を閉じても浮かぶ。歩けない日々、その形のことばかり考えていたと言っても、嘘ではなかった。
最後に、彼女は輪の中心を、枝の先で突いた。ここ。その一突きに、言葉にできないものの全てを込めた。なぜ、と問われても、彼女自身、答えを持ち合わせていなかった。ただ、行かねばならない、という感覚だけが、熱のように体の奥にあった。それは命令のようでもあり、呼び声のようでもあった。どちらなのかは、彼女にも判然としなかった。
トージャの息が止まるのが分かった。
彼は輪を、長く見つめた。それは、初めて見る形に対する反応ではなかった。知っている者の目だった。安堵と、新しい不安が、同時に胸をよぎる。通じた。だが、この形がこの土地の人々にとって何を意味するのか、彼女にはまだ分からなかった。彼の顔に浮かんだものは、喜びではなかったからだ。むしろ、畏れに近い色があった。彼女はそれを見て、自分の抱えるものが、この土地では軽いものではないらしいことを知った。
彼女は枝を置いた。今は、これが限界だった。伝えるべきことの、ほんの入り口だけでも、渡せたことにする。
その日、トージャは杖を削って持ってきた。
脇に当たる部分に布を巻き、手の触れる場所を滑らかに磨いた、彼女のための一本だった。彼女は受け取り、彼の手を借りて、ゆっくりと立ち上がった。数日ぶりに、自分の足で立つ。視界の高さが変わるだけで、世界は少し違って見えた。小屋の梁が近くなり、焚き火の煙の流れが見える。横たわったまま見上げていた天井は、もう天井ではなかった。
小屋の中の、数歩。足首に痛みが走り、脇腹が引きつれた。それでも彼女は、壁から戸口までを往復した。もう一度。もう一度。横たわったまま誰かの帰りを待つ日々が、足の裏の確かな感触に、少しずつ置き換わっていく。彼は口を挟まず、転びそうなときだけ、さりげなく腕の届く位置に立った。その距離の取り方が、彼女にはありがたかった。支えられるのではなく、見守られる、ということ。
昼の間、トージャがいない時間、彼女は自分の仕事を増やしていった。水の壺の残りを確かめ、飲む量を決める。干し肉を少しずつ齧り、空腹をやり過ごす。薪をくべ過ぎず、火を絶やさない。毛布のほつれを結び直し、寝床の草を干す真似事をする。誰かに生かされるだけの存在から、自分の暮らしを自分で回す存在へ。その一歩一歩は小さく、誰の目にも触れなかったが、彼女にとっては回復そのものより、大きな意味を持っていた。
翌朝、杖の手の触れる場所の布が、巻き直されていた。昨日の稽古で、握りが滑ったのを見ていたのだろう。何も言わず、ただ直す。彼の世話の焼き方は、いつもそうだった。彼女はその布の感触を確かめ、昨日より二往復、多く歩いた。
夕方、彼は食料の袋を置いていった。中身が、日に日に軽くなっていることに、彼女は気づいていた。彼の暮らす場所から運ばれてくるものには、限りがあるのだろう。彼女は、その日の分の干し肉を半分残した。気づいた彼は眉をひそめ、残りを彼女の手に戻し、首を振った。食べろ、ということだった。彼女は小さく笑い、残りを食べた。心配のし合いは、言葉がなくてもできた。
その日の夕方、異変は、音のないところから来た。
鳥が、一斉に黙った。
彼女は咄嗟に動いた。火に水をかけ、煙を消す。外套を被り、隅に身を寄せ、彼の小刀を握る。震える手を、もう一方の手で押さえた。小屋の周りを、何かが回っている。鼻を鳴らす音。土を嗅ぐ音。板の隙間から、獣の匂いが流れ込んできた。
長い時間だった。心臓の音が、うるさかった。声を上げれば、彼の名を呼ぶことはできた。だが、その声が獣を招くかもしれないし、そもそも彼は、ここにはいなかった。彼女は歯を食いしばった。熱に浮かされていた頃とは違う。今の彼女には、判断があった。隠れること。静かにすること。夜をやり過ごすこと。彼の敷いた罠と、小屋の板壁と、自分の静けさを信じること。
やがて気配は遠ざかり、鳥の声が戻った。彼女は長い息を吐き、握りしめていた小刀をそっと置いた。手はまだ震えていた。だが、それは恐怖だけの震えではなかった。自分がこの森で一人、生還した。その事実が、震える手の奥で、小さく燃えていた。
その後、小屋に駆け込んできたトージャの顔は、青ざめていた。彼は小屋の周りの足跡と、消された焚き火と、隅で外套を握りしめていた彼女を見て、状況を悟ったようだった。彼は何度も彼女の無事を確かめ、それから、平たい石を二つ打ち合わせて見せた。乾いた、カチッという音。危険が近づいたら、この音を。鳴らしたら、隠れて、静かに。
彼女も石を手に取り、打ち合わせた。カチッ。約束が一つ、言葉なしに結ばれた。
そのときだった。彼女の口から、音がこぼれた。
「トー、ジャ」
たどたどしく、掠れた声だった。彼は目を丸くし、それから、破顔した。彼女は顔が熱くなるのを感じた。だが、言えた。覚えるべき最初の言葉は、彼の名だった。そして今夜、それはもう、頭の中だけの音ではなかった。
八日目の朝、トージャは妙な真剣さで、彼女の指先を眺めた。
自分の指と、見比べる。彼女の目を覗き、息の音に耳を澄まし、手首に触れて、また首を傾げる。何かを探している。何かが、ないことを確かめているようだった。彼女の胸に、小さな不安が芽生えた。自分の体に、自分では気づけない何かがあるのではないか。彼の指先には、森の黒い粉のようなものが、いつも薄く付いていた。彼女は後で、自分の指先を光にかざして見た。何も付いていなかったし、熱も、震えもなかった。分からない。彼が何を案じ、何に安堵したのか、彼女には知る術がなかった。だが、彼の表情がやがて安堵に変わったのを見て、少なくとも今は、悪いことではないのだと受け取った。
その日、彼は昼の長い間、姿を見せなかった。何か大きなことの準備をしている気配があった。夜遅く戻ってくる日もあれば、小屋の周りで何かを確かめる音が、長く続く夜もあった。彼は彼女に何も語らなかったが、隠し事の重さは、態度に滲んだ。視線の先にある、彼の帰る場所。そこで彼には、彼自身の暮らしがあり、守るべきものがあるのだろう。彼女の存在は、その暮らしの中で、彼だけが抱える秘密だった。
守ってもらうことには、代償がつく。その代償を払っているのは、いつも彼だった。彼女はそのことを、日に日に重く感じるようになっていた。借りは、いつか返さなければならない。だが今の彼女に返せるものは、回復することだけだった。
その日の夕方、彼女は初めて、彼の帰りを湯を沸かして待った。大したことではない。だが、受け取るだけではない何かを返したくて、彼女は弱い火を保ち、椀を用意した。戻ってきた彼は、湯気の立つ椀を見て一瞬きょとんとし、それから照れたように笑った。その笑顔を見たとき、彼女は思った。この関係は、少しずつ、対等なものに近づいている、と。
彼女は歩く練習を続けた。戸口から、焚き火の跡まで。数えて、十歩。戻って、十歩。足首の痛みは、日に日に薄いものになっていった。小屋の前の段差にも、杖を頼りに体を持ち上げる稽古をした。やがて来る移動の日に、運ばれるだけの荷物には、ならない。その決意が、彼女の足を前に出した。
八日目の夜、トージャは荷造りを始めた。
彼女も手を貸した。言われなくても、布は畳み、壺は藁で包み、干し肉は革袋へ詰める。手が、考えるより先に動いた。旅の荷造りの手順を、体が覚えていた。そのことへの戸惑いもあったが、今は役に立つことが先だった。何より、自分の荷物を自分で整えることは、旅立つ者の当たり前の姿だった。彼も、その手際を不思議そうに見ていたが、詮索はしなかった。
一段落したところで、彼は小枝で絵を描いた。今の小屋。沢。そして、岩の棚。ここから、ここへ。明日の移動の、道筋だった。途中の急な線のところで、彼は彼女と斜面を交互に指し、背負う仕草をした。そこは背負う、ということらしい。彼女は真剣に見つめ、頷いた。悔しさはあった。だが、登れない斜面は登れない。今の自分の足でできることと、できないことを分けるのも、判断のうちだった。
その傍らで、彼女はまた、あの歪な輪を描いた。並べて描かれた二つの絵。彼の絵は、明日の一日を指していた。彼女の絵は、その先を指していた。彼女は輪の中心を、一度だけ、静かに突いた。
彼は困惑したような顔をした。それでも彼は、絵を消さなかった。しばらく二つの絵を見比べ、それから、小さく息を吐いて、明日の支度に戻った。彼の暮らしにも、あの輪に連なる何かがあるのかもしれない。だが、今夜は、それ以上を問う夜でも、迫る夜でもなかった。
言葉のない約束は、少しずつ増えていく。石の音。荷造りの手際。並べて描かれた、二つの絵。
明日、彼女は移動する。背負われる場面もあるだろう。だが、歩ける場所では、自分の足で歩く。守られるだけの存在から、隣を歩く存在へ。その最初の一歩を、彼女は朝の光の中で踏むつもりだった。




