第13話 岩棚の空
幕間 決意
夜明け前、彼女は物音で目を覚ました。
トージャが、小屋の痕跡を消していた。寝床の草を掘り出して土に埋め、焚き火の跡を均し、灰を散らす。その手際は速く、迷いがなかった。九日間、二人がここで生きた証を、彼は一つずつ、丁寧に消していく。彼女は寝たふりをしながら、その様子を見ていた。寂しさよりも先に、理解があった。この小屋は、誰にも知られてはならない場所だったのだ。彼が背負ってきた秘密の、重さの形だった。
彼女は身を起こし、杖を突いて立った。手伝えることは少ないが、寝具を畳み、椀を重ね、彼の差し出すものを受け取って運ぶくらいはできる。彼は一瞬、休んでいろというように首を振ったが、彼女が譲らないのを見て、小さく笑って頷いた。最後の朝の小屋は、二人で片付けた。
彼は土に残った絵の跡にも手を伸ばしかけ、ふと止まった。彼女が描いた、歪な輪。二つの絵が並んだ場所。
彼女は自分の手で、それを消した。掌で土を撫で、線を崩し、均す。感傷は、なかったと言えば嘘になる。あの絵は、彼女がこの森で最初に渡した言葉だった。だが、残せば彼を危うくする。彼女は最後まで、自分の手で消し切った。彼は何も言わず、ただ一度、深く頷いた。
出発の支度は静かに進んだ。彼女の明るい髪は、彼の用意した暗い色の布で覆われた。自分の荷物は、自分で持つ。軽い包み一つと、杖。それが今の彼女の、全財産だった。出発の前に、彼女は一度だけ、小屋の中を見回した。熱に浮かされ、目覚め、名前を覚えた場所。彼女は戸の枠に軽く触れ、それから振り返らずに外へ出た。
道は、思ったより長かった。
平らな場所では、彼女は自分の足で歩いた。杖を突き、足首の様子を確かめながら、一定の速さを保つ。疲れ切る前に、自分から止まって休む。無理をすれば、後で彼に背負われる距離が伸びるだけだ。歩くことにも、配分があった。休憩の合図は、彼女の側から出した。杖を地面に突き立てて立ち止まる。それが、休みたい、の印だと、二人の間に自然に決まった。彼は彼女の速さに合わせ、決して先を急がなかった。時折、周囲の音に耳を澄ましては、小さく頷いて歩を進める。その繰り返しが、二人の初めての旅の、静かな律動になった。
進むにつれ、森の色は少しずつ変わっていった。木々の幹は濃く染まり、葉の裏に黒い粉のようなものが積もっている場所が増える。彼の古い言葉で言えば、こちらの方角は、森の深い側だった。彼女は杖の先に付いた黒い粉を見つめ、それを払った。体に異常はなかった。ただ、空気の重さのようなものが、少しずつ増していく気がした。
急な斜面では、約束どおり、彼は彼女を背負った。
彼の背は広く、汗の匂いがした。自分の体重が、彼の肩に食い込むのが分かる。彼女はできるだけ身を小さくし、揺れに合わせて重心を預けた。背負う側の呼吸の苦しさを知っている者の、ささやかな協力だった。一歩ごとに、彼の足が斜面を確かめる。落ち葉の下の土は滑りやすかったが、彼が事前に張った蔓の綱が、二人の命綱になった。登り切った場所で下ろされたとき、彼女の足は小刻みに震えていた。彼の額にも、汗が光っていた。二人は顔を見合わせ、どちらからともなく、小さく息を吐いた。その短い笑い合いのような呼吸が、彼女には何よりのねぎらいだった。
斜面を登り切った先で、二人は短い休憩を取った。彼は水の革袋を彼女に差し出したが、彼女は先に彼へ押し戻した。登ったのは、彼の方だった。彼は苦笑して一口飲み、それから彼女に渡した。休憩の終わりには、彼女は自分の分の干した果物を一つ、彼の掌に乗せた。運んでもらった礼のつもりだった。彼は少し驚き、それを大切そうに口に入れた。言葉のない礼の往復が、旅の疲れを少しだけ軽くした。
沢の渡り場では、足場の石が一度、ぐらりと傾いだ。彼女の体が流れに引かれ、彼は咄嗟に彼女の腕を掴んだ。水は冷たく、流れは見た目より速い。彼女は慌てず、杖を岩の間に差し込んで体重を逃がした。大事には至らなかった。対岸に上がってから、彼女は自分で足首を確かめた。痛みは、増えていなかった。それを彼に、頷いて伝える。彼はほっとしたように、肩の力を抜いた。
中型の獣の群れが、森を横切ったのは、その直後だった。
最初に気づいたのは、彼だった。平たい石の、乾いた音。カチッ、カチッ。言葉のない約束の、合図。彼女は即座に岩陰に身を寄せ、息を殺した。地響きのような足音と、木々のざわめきが近づき、横を通り過ぎていく。大きな背中が、木の間をいくつもよぎった。彼女は石を握りしめていた。いざというときは、自分も鳴らす。受けるだけの合図では、もうなかった。
群れはやがて遠ざかり、森は元の静けさを取り戻した。彼は彼女を見て、無事を確かめるように頷いた。彼女も頷き返した。言葉はなかった。だが、その数分間、二人は間違いなく、並んで危機をやり過ごしたのだった。
昼前、岩棚に着いた。
木々の切れ間から、空が大きく開けていた。小屋の薄暗がりでは、空は戸の隙間から見るものだった。だがここでは、岩の棚に座れば、空がそのまま目の前にあった。風が、森の上を渡っていく。彼女はしばらく、動けなかった。傷を負って倒れてから初めて見る、広い空だった。世界の広さを思い出すことは、回復の最後の一押しのように、胸の奥を静かに押した。
棚の奥は雨をしのげ、彼は用意しておいた物資を並べた。食料は四日分。干し肉、干した果物、水を蓄える革袋。彼女のために、彼が何日もかけて少しずつ運び込んだものだった。その苦労は、並べられた荷の量が物語っていた。彼は身振りで、水の確保の仕方、危険のときの身の隠し方を、一つずつ確かめるように伝えた。彼女も、その都度頷き、自分の目で場所を覚えた。物資の置き場、足場の悪い角、音の響く場所、風の抜ける方向。新しい持ち場を覚えることは、旅人の基本だった。
彼女は杖で棚の端まで歩き、自分の足で、この場所の広さを測った。十歩で端、戻って十歩。小屋より狭い。だが、空があった。それだけで、ここは牢ではなく、持ち場になった。
去り際、彼は小刀を差し出した。
自分の身は、自分で守れ。そういうことだと分かった。彼女は両手で受け取った。刃物の重さは、信頼の重さだった。彼は指を二本立て、太陽の巡る仕草をして見せた。明後日、戻る。それが彼の約束だった。彼女は頷き、彼の背が見えなくなるまで、岩棚から見送った。
一人の森は、思ったより静かだった。自分の命運を、他人の約束に預けることの心細さが、遅れてやってきた。だが、彼女はもう、それに押し潰されるだけの病人ではなかった。彼女は棚の入口に、合図の石を自分の手で並べた。ここは、彼女の持ち場だった。
その夜、彼女は初めて、岩棚で一人で夜を過ごした。寝床を整え、小刀は手の届く場所に、合図の石は入口に。夜の森の音を、彼女は一つずつ聞き分けた。風の音、水の音、夜鳥の声。危険を知らせる静けさは、まだ来なかった。音の目録を作るように聞くことは、小屋で覚えた身の守り方だった。やがて彼女は、浅い眠りの中に落ちていった。誰かの帰りを待つ眠りではなく、持ち場を守る者の眠りだった。
十日目。巡回の日だと、彼女は知らなかった。
だが、彼がいつもより硬い顔で出ていった朝のことや、この日のために小屋を移した経緯から、今日が何かの大事の日だとは察していた。彼女は火を使わなかった。煙は、目印になる。冷たい干し肉を少しずつ齧り、水を節約し、岩棚の奥で静かに過ごす。耳は常に、森に開かれていた。朝のうちに一度、棚の下を小動物が横切り、彼女は反射的に石に手を伸ばした。ただの、角のない草食の獣だった。彼女は息を吐き、自分の過敏さを笑った。笑えるくらいには、余裕が戻ってきていた。
朝、彼女は初めて、自分一人で包帯を替え直した。脇腹の傷は、もうほとんど塞がっていた。布を巻く手つきは、彼のようにはいかなかったが、できないことではなかった。自分の体を自分の手で整える。その当たり前のことが、彼女には大きな節目に思えた。
昼の間、彼女は棚の中で歩く稽古をした。端から端まで、杖なしで三歩、四歩。足首は、まだ頼りないが、確かに応えた。回復は、もう誰かに報告されるものではなく、彼女自身が確かめるものになっていた。
昼過ぎ、遠くで、かすかな音がした。獣の咆哮のようなものと、人の声のようなもの。一度きりではなく、しばらく続いた。彼女は小刀を握り、身を固くした。音は遠く、こちらへ近づく気配はなかった。だが、その遠い騒ぎの中に、彼がいるのかもしれない、という思いが、胸を締めた。無事でいてほしい。今の彼女にできるのは、祈ることと、持ち場を守ることだけだった。
音はやがて止み、森は静けさを取り戻した。彼女は気持ちを切り替えるように、残りの物資を数え直した。食料はあと三日分。彼は明後日に来る。それより前に尽きることはない。彼女は岩の壁に、小石で細い線を四本引いた。物資の数と、待つ日数の、自分のための記録だった。不安は、数えられる形にすると、少しだけ小さくなった。
夕方になっても、彼は来なかった。約束は明後日。分かっていた。彼女は残りの食料を確かめ、水を一口だけ飲み、毛布にくるまった。不安はあった。だが、昨日の空の広さが、闇の中でも彼女を支えた。
眠る前、彼女は決めたことがあった。
次に彼が来たら、今度は彼女の側から、伝え始める。受けるだけの合図ではなく、自分の意思を。言葉はまだ、名前一つしか持っていない。だから、まず名前を増やすのだ。彼女は岩棚の隅に、水の椀、干し肉、小刀、合図の石を一列に並べた。明日からの稽古の、教材だった。指して、聞いて、覚える。それは小さな準備だったが、守られるだけの日々を終わらせるための、確かな一歩だった。
空には、星が出始めていた。彼女はそれを見上げながら、静かに眠りについた。




