第14話 隊商の旗
十一日目の朝、トージャは約束どおり、岩棚へ向かった。
背負い袋には、干し肉と干した果物、穀物を少し。それと、新しい包帯と軟膏。巡回のどさくさで一日遅らせなかったことだけが、彼のささやかな誇りだった。森を抜け、沢を越え、斜面を登る。九日目に彼女と歩いた道は、彼一人の足ではずっと短く感じられた。
岩棚に着くと、彼女は入口に並べた石の脇に座って、待っていた。
「来たぞ」
彼女は顔を上げ、小さく笑った。脇腹の包帯は、自分で替え直した跡があった。少し不格好だが、確かに巻けている。彼は荷を下ろし、まず水と食料を数えた。残りは三日分。計算どおりだった。彼は新しい食料を並べて、三日分を継ぎ足した。これで、六日。隊商が滞在する間、彼女はここで持ち堪えられる。
彼は彼女の足首の様子も確かめた。杖なしで、三歩、四歩。まだ頼りないが、確かに歩ける。脇腹の傷はもう塞がり、残るは薄い痕だけだった。棚の壁には、小石で引いた細い線が四本、並んでいた。彼女が一人で、物資と日数を数えた跡だった。誰かに生かされるだけの病人ではない。その線を見たとき、彼は改めてそう思った。
彼は指を折って見せた。隊商の滞在と自分の用事で、次に来られるのは数日後になる。身振りと指の数で、それを伝える。彼女はしばらく彼の指を見て、それから食料の並ぶ場所を指し、頷いた。足りる、ということだった。その静かな受け止め方が、彼の胸を少しだけ軽くした。
それから、彼女が彼の袖を引いた。
岩棚の隅に、水の椀、干し肉、小刀、合図の石が、一列に並べてあった。昨日のうちに用意してあったのだ。彼女は椀を指し、彼を見た。教えて、という目だった。
「……椀」
「ワン」
彼女は繰り返した。干し肉。「干し肉」。「ホシ、ニク」。小刀。「小刀」。「コ、ガタナ」。発音は拙く、ところどころ音が崩れた。だが、彼女は真剣だった。一つ覚えるごとに頷き、並べた物を少しずらして、自分の側に置く。集めるように、言葉を集めていた。
最後に、彼女は彼自身を指した。
「トージャ」
「トー、ジャ」
それはもう、確かな音だった。彼は笑い、それから棚の外の空を指した。今日の稽古の、最後の一つ。
「空」
「ソラ」
彼女は空を見上げて繰り返した。ソラ。その響きが、奇妙に彼女によく似合った。
砦に戻ると、空気は巡回の日から一変していた。
交易隊商の受け入れ準備が、本格的に始まっていたのだ。砦の外、居住区側の門の先にある開けた土地が、隊商の滞在地に決まった。若い戦士たちが草を刈り、地を均し、荷の馬を繋ぐ杭を打つ。滞在地を居住区側の門の外にするかどうかでは、長老たちの間でも意見が割れた。外の人間を砦に近づけすぎるなという声と、遠ざけすぎれば交易にならないという声。結局、門の外の開けた土地に滞在させ、夜間は見張りを倍にする、という折衷に落ち着いた。警戒と歓迎の、ちょうど中間だった。守護戦士団は壁と見張りの増員を組み、長老たちは迎え方の作法を何度も確認し合っていた。外縁の大規模な隊商がこの砦まで来るのは、何年かに一度のことだった。
「トージャ、お前も駆り出されるぞ」
声をかけてきたのはカルドだった。守護戦士団の入団試験を来月に控えながら、彼も準備の人手に入っていた。
「お前の薬草と素材は、交易の目玉の一つだそうだ。副団長が言ってた。商人の相手は、物を知ってる人間にやらせたいって」
準備の合間、ナラが彼の荷を見て言った。
「あんた、最近やけに食料を持ち出すね。干し肉も、果物も」
「交易の品の試食と、予備だよ。森で集めた物を干すついでに、多めに作ってる」
嘘ではなかった。だが、本当の行き先は言えなかった。ナラはふうん、と頷いたが、その目はまだ何かを測っていた。彼女の疑念は、巡回の日から解けていない。それを彼は感じていた。
それは、ありがたい話であると同時に、彼の胸をちくりと刺した。岩棚の少女のことが、頭をよぎる。彼は何でもない顔で頷いた。
「分かった。品は用意する」
ナラは、砦の門の上で、交易路の方角を眺めていた。
「鎧武兵団は、もう出発したの?」
「朝のうちに一隊が出た。途中の合流点で隊商と合流して、ここまで一緒に護衛してくる。隊商にも自前の傭兵が付いてるらしいけどな、領域の中では兵団が付くのが決まりだ」
カルドの答えに、ナラの目が光った。彼女が目指す団の、本物の仕事が近づいてくる。外の戦士と並んで歩く兵団の姿を、彼女は今から想像しているのだろう。フーアンはと言えば、「外の酒が飲めるかもしれん」と、そちらの期待に忙しかった。
その日の夕方、トージャは調合の老人の小屋を訪ねた。
交易に出す薬の相談のためだった。老人は棚の薬瓶を確認しながら、彼の用意した品の束を見て頷いた。
「お前の集めた薬草は、質がいい。素材もだ。外の商人は目が利くからな、値踏みは厳しいぞ」
「値踏み、ですか」
「向こうは物々交換だけじゃ済まさん。貨幣を使う」
老人は、戸棚の奥から小さな革袋を取り出した。中から出てきたのは、親指ほどの大きさの、銀色の円い板だった。表面には、見たことのない紋様が打たれている。
「銀貨だ。これ一枚で一マルク。外縁の国々じゃ、どこでも通じる勘定だ。銅貨十枚で一マルク、金貨一枚で十マルク。物に値段をつけて、この板切れで払う」
トージャは銀貨を受け取り、指先で確かめた。冷たく、重さがあった。
「ただの金属の板が、どうして品物と換えられるんです」
老人は小さな天秤を取り出し、銀貨を皿に載せた。釣り合う。もう一枚、銅貨も見せた。こちらは十枚で、銀貨一枚と同じ重さの束になるという。
「大きな取り引きじゃ、枚数を数えるだけじゃ済まん。端を削って金属をくすねた偽物もあるからな。秤で重さを量る。それも交渉の一部だ」
「皆が『換えられる』と信じているからだ。信用が、値段になる。お前には不思議だろうが、外ではそれが当たり前だ。……取り引きの場では、相手の言う値を鵜呑みにするな。物の値を見て、自分の値で返す。それが交渉だ」
老人は、それからふと声を落とした。
「それと、例の噂の商人だがな。今回の隊商に、薬材と素材の買付をやる商人が同行しているそうだ。古い調合書の噂を聞き回っていた、あの男で間違いないらしい」
トージャの指の中で、銀貨が小さく音を立てた。
数日前に聞いた話が、現実の形を持って近づいてきていた。あの写しの欠片。円環の図。彼の夢の、入口かもしれない男が、もうすぐこの砦にやってくる。
「聞くなら、取り引きの流れの中で聞け。いきなり書の話を持ち出せば、警戒される。まず客として値を見せて、それからだ」
「……写しのことは、言いません。約束ですから」
「うむ」
老人は頷いた。その目には、彼の夢を応援する色と、危うさを案じる色が、半分ずつあった。
十二日目は、準備に明け暮れた。
トージャは自分の集めた薬草と素材を、品目ごとに束ね、並べた。傷薬の材料になる白い花の草、解熱の葉、魔獣の角と牙、黒紫の濃い土地で採れる苔。どれも、この土地でしか手に入らないものだった。母が、交易の場に持っていくための丈夫な布袋を縫ってくれた。父は黙って、彼の品の重さを量り直すのを手伝った。
「外の人間の言葉を、全部信じるな。だが、全部疑うのも違う。見極めは、お前の目でやれ」
父の言葉は、いつも短かった。
母は交易の品を入れる布袋に、余分な干し果物を押し込んだ。
「客にでも出すのかい、これは」
何気ない一言が、彼の胸を刺した。岩棚の少女の顔が浮かぶ。彼は「出すかもな」とだけ答えて、袋を受け取った。母は何も聞かなかった。聞かないことが、この人の優しさだった。
滞在地の整備も進んだ。水場への道が踏み固められ、焚き火の場所が決められ、見張りの交替表が壁に貼り出された。カルドは入団試験の準備の合間に杭打ちを手伝い、ナラは兵団の合流点までの道のりを、何度も地図で確かめていた。彼女の頭の中では、もう自分がその護衛に加わっているのかもしれなかった。
昼過ぎ、彼は交易の場に自分の品を並べるための台の位置を確かめた。隣では、昔に隊商と渡り合ったことのある年長の戦士が、杭の縄を締めながら教えてくれた。
「外の商人はな、初日は安く値踏みしてくる。慌てて売るな。品の値段は、滞在の間に落ち着く。あいつらも、この土地でしか手に入らん物が欲しくて来てるんだ。引くときは引け」
交渉、という言葉の意味が、少しずつ彼の頭の中で形を持ち始めていた。斧の腕前でも、調合の知識でもない。言葉と値で渡り合う、もう一つの戦い方だった。
トージャは、二つの世界の間で忙しかった。表の世界では、交易の品を用意する若者。裏の世界では、岩棚に六日分の命を置いてきた男。どちらの顔も、本当の彼だった。
十二日目の夕方、見張り台から声が上がった。
「交易路に、土煙!」
砦の壁の上に、人が集まった。西の空の下、交易路の彼方に、細い土煙が立っていた。その先端に、小さく揺れる旗。隊商の旗だった。鎧武兵団の合流も済んだのだろう。隊商は、明日の昼前にはこの砦に着く。
人々の間に、ざわめきが広がった。期待と、警戒と、祭りの前のような高揚。トージャも壁の上から、その旗を見つめていた。
彼の胸の中では、二つの思いが交差していた。夢への入口が近づく高鳴りと、岩棚で一人、空の名前を覚えた少女の顔。外から来る者たちが、この土地に何をもたらすのか。彼はまだ、何も知らなかった。
その夜、彼はなかなか眠れなかった。布袋の中の品を、もう一度確かめる。薬草の束、素材の包み、そして頭の中にある、あの円環の図。買付の商人に、どの品をどの順で見せるか。どの言葉で、書の噂に触れるか。考えることは尽きなかった。
隊商が去った後、彼は岩棚へ行くつもりだった。彼女に、外の世界の話を、身振りと言葉で少しずつ伝える。ソラ、と繰り返した彼女の声が、耳の奥に残っていた。
旗は、夕日の中で小さく揺れ続けていた。




