第8話 写しの欠片
気づいたのは、他愛のない朝の瞬間だった。
朝の手当てのとき、トージャは自分の指先を見た。爪の際に、黒紫の粒が薄くこびりついている。この森で数日過ごせば、耐性のある自分の体でも、こうして粒子は付着し、奥へ入れば頭の奥に鈍い重さが残る。それが、この土地で暮らすということだった。
彼は少女の手を取り、確かめた。
白い肌には、粒子の付着がほとんど見られなかった。いや、付着そのものはある。だが、問題はそこではなかった。
外の人間は、この土地に長くはいられないと聞いていた。
交易や調査で来た外縁の者たちは、数日の滞在でも体調を崩すことがあるという。頭痛や倦怠感、食欲の減退。ひどい場合は発熱。だからこそ彼らは短期間で引き上げ、防護の工夫を重ねて、それでも大穴への接近には慎重だった。砦の古老たちは、外の者の脆さをよく知っていた。
その少女は、この森に八日いた。
しかも、そのうちの数日は高熱と重傷で伏せっていた。体力のない状態で、黒紫の漂う森の空気を吸い続け、黒紫の濃い土地で育った強い薬草の煎じ薬を飲んだ。外の人間なら、傷とは別に、黒紫による不調が重なってもおかしくなかった。
彼は念のため、身振りで症状を一つずつ確かめた。
頭を指して、痛む表情を作る。少女は首を振った。腹を押さえて、苦しむ仕草。首を振る。目を擦って、重そうに瞬く。首を振る。どれも違った。彼女はむしろ、彼の大げさな仕草の羅列に、わずかに困惑したような顔を見せた。
彼は幼い頃の記憶を思い出していた。
何年か前、外縁の調査隊が砦を訪れたことがあった。防護布で身を包んだ彼らの一人が、森から担ぎ出されてきたのだ。熱に浮かされ、呂律も回らなかった。砦の者たちは首を傾げた。あの程度の森の空気で、なぜ倒れるのかと。逆に調査隊の者たちは、砦の子供たちが平然と森を駆け回る姿に、目を見張っていた。
あれが、外の者とこの土地の者の、体の造りの違いだった。
だが、彼女の瞳は澄んでいた。食欲は戻り、熱は引き、顔色は日ごとに良くなっている。倦怠どころか、歩く練習に苛立ちを見せるほど、気力は前に向いていた。
傷の熱と、黒紫の害は違う。調合師の見立てとして、彼はそう切り分けていた。だからこそ分かる。この少女には、黒紫の害が、出ていない。
なぜか。
答えは、またも出なかった。彼は謎の帳面に一行を加えた。型のある礼の作法。見知らぬ結び方。大穴への関心。そして、黒紫への無事。
ひとまず実務上の結論だけは、ありがたかった。少なくとも黒紫は、彼女の治療の邪魔をしていない。この森で隠し続ける限り、毒の心配だけはしなくて済む。
脇腹の傷も、もう塞ぎきる寸前だった。包帯の交換は一日置きで十分になるだろう。足首も、杖を使えば短い距離は歩ける。明日の移動は、無謀な賭けではなかった。彼女の体は、確実に前へ進んでいた。
問題は、体ではなく、置かれた状況の方だった。
三冊の書の夢を、彼は子供の頃から抱いていた。
砦の若い衆に話せば、大抵は笑われた。伝説だ、夢物語だと。フーアンは今でもからかう。「お前の夢はでかいな」と。だが、同じ幼なじみでも、ナラだけは笑わなかった。「夢があるのは、いいことだと思う」と、静かに言ったことがある。カルドはカルドで、「なら大穴に一番近い男になれ」と、妙な励まし方をした。
笑われても、からかわれても、彼はこの夢を捨てなかった。素材を識る目と、調合の知識は、その夢のために積んできたものだった。
その日、トージャは調合の老人の家を訪ねた。
軟膏の補充が表向きの理由だった。老人は彼の顔を見るなり、黙って棚から小壺を取り出した。
「若い戦士の怪我か」
「いえ。……予備です。森で何があるか分からないので」
老人は鼻を鳴らしたが、それ以上は聞かなかった。その沈黙に救われながら、話はやがて、彼の夢の方へ流れた。
「お前は、いつまで素材集めで満足している」
唐突な問いだった。
「……三冊の書を、探しています」
彼は、久しぶりに自分の夢を言葉にした。伝説の調合書、三冊。失われた調合の体系を収めたという書物。そして、その先にあるとされる、全てを繋ぐ触媒、オールパウダー。笑われることもある夢だった。砦の若い衆には、夢物語だと。
だが老人は、笑わなかった。彼はゆっくりと、奥の棚から古い木箱を取り出した。
「わしが若い頃、一度だけ見たことがある。写しの、また欠けた写しをな」
木箱の中には、古い紙の束があった。老人は、その中から一枚だけを抜き出して広げた。文字は半分ほど判読できず、図も欠けていた。だが、その一枚に描かれた調合図の複雑さは、トージャの知るどの調合とも次元が違った。
トージャは身を乗り出して、紙に見入った。判読できる文字はわずかだったが、図だけは追えた。中心に大きな器があり、その周囲に、濃度の違う黒紫の素材が段階を追って並べられている。彼の知る調合は、素材を量り、混ぜ、火にかける直線的な手順だった。だがこの図の手順は、円環のようだった。処理した素材が、再び最初の器へ戻っていく。その意味は、今の彼には読めなかった。
「旅の調合師が持っていた。あの三冊のうちの一冊、その一部の写しだと言っていた。わしには半分も理解できなかったが、一つだけ分かったことがある」
老人は、紙の端の、黒紫の素材を示す印を指で叩いた。
「あの書はな、黒紫に汚染された素材を、汚染ごと使いこなす調合を扱っていた。毒を抜くのではない。毒を、力に変える調合だ」
トージャは、書き写してもよいかと尋ねた。老人は首を振った。
「旅の調合師との約束だ。この紙は、この箱から出さない。それに、半端な写しを真似れば、調合師が死ぬ。濃度の読みを一度でも間違えれば、それで終わりの代物だ」
代わりに、老人は紙をしばらく広げたままにしてくれた。トージャは図の形を、円環の手順を、目に焼き付けるように見つめた。分からないことの方が多かった。だが、分からないということが、これほど胸を騒がせるものだとは知らなかった。
トージャの心臓が跳ねた。
この土地の調合は、黒紫とどう付き合うかの知恵だった。だが、毒を力に変えるという発想は、彼の知る体系の外側にあった。伝説の三冊は、実在する。その欠片が、今、目の前にある。
「……なぜ、今まで黙っていたんですか」
「お前が本気かどうか、見ていた。若い者の夢は移ろいやすい。だが、お前の目は、素材を見る目だ。……それと」
老人は目を細めた。
「最近、外の商人が、古い調合の書について探りを入れているという話を聞いた。気をつけろ。書を追うのは、お前だけではないようだ」
帰り際、老人は壺をもう一つ、彼の手に握らせた。上質な軟膏だった。
そして、静かに言った。
「お前の最近の薬の減り方は、誰かの戦傷を手当てしている者の減り方だ」
トージャの背筋が凍った。
老人は、それ以上は何も言わなかった。追求も、詰問もなかった。ただ、壺を握る彼の手に、皺だらけの手を重ねた。
「詮索はせん。だがな、トージャ。……死ぬなよ」
彼は何も答えられなかった。答えれば、それが肯定になる。その沈黙ごと、老人は受け入れてくれたのだと、彼は信じるしかなかった。
帰路、トージャは沢の上流へ足を向けた。
移転先の岩棚の下見と、物資の先行配置のためだった。岩棚は記憶の通りで、雨を凌げ、滝の音が周囲の音を消し、近づく者の気配にも気づきやすい。乾いた草と布、干し肉と水の壺を、岩陰に隠して置いた。
道中の確認も済ませた。難所は二つ。急な斜面と、沢の渡り場だった。斜面には蔓の綱を張り、渡り場には足場の石を並べ直した。彼女を背負って通る想定で、自分の足で三度往復して確かめた。左肩の痛みは、重い荷を背負っても、もうほとんど響かなかった。怪我の回復が間に合ったのは幸運だった。
明日の朝、彼女を連れてここへ移る。巡回の前日、それが期限だった。
小屋に戻ると、少女は彼の荷造りを手伝い始めた。
言われなくても、布は畳み、壺は藁で包み、干し肉は革袋へ。手際が良かった。旅の荷造りに慣れている者の動きだった。彼はまた一つ、彼女の「育ち」の欠片を見た気がした。だが今は、詮索よりも、その手際のありがたさが先に立った。
荷造りの一段落したところで、彼は身振りと絵で、明日の移動を少女に改めて伝えた。
小枝で、現在地と、沢と、岩棚の形を描く。ここから、ここへ。少女は真剣に絵を見つめ、やがて頷いた。
そのとき、彼女は描かれた絵の傍らに、あの歪な輪を描き足した。
そして中心を、とん、と突いた。それから、トージャの顔を見た。
彼は老人の言葉を思い出していた。毒を力に変える調合を収めた書。大穴の底に眠るという、全てを繋ぐ触媒。
彼女の指す中心と、彼が追う夢は、同じ場所を指しているのかもしれない。
外の商人が書を探っているという話。目覚めて早々に大穴を気にかけた少女。偶然の重なりと切って捨てるには、数が多すぎた。
だが、確かめる術はまだない。今は、明日を生き延びることが先だった。
「明日、行くぞ」
彼は自分の荷物を指し、少女を指し、岩棚の絵を指した。少女は小さく、しかし確かに頷いた。
その夜、トージャはなかなか眠れなかった。
夜明け前に出発する。昼までに岩棚へ着く。小屋の痕跡を最後にもう一度消し、自分の巡回の持ち場へは夕方に合流する。段取りを頭の中で何度もなぞった。
老人の言葉が、繰り返し蘇った。詮索はせん。だが、死ぬなよ。
誰にも言えない秘密を抱えて、彼は一人で抱え込んできたつもりだった。だが実際は、母の沈黙にも、老人の沈黙にも、彼は守られていた。気づかないふりをして見守る者たちが、この砦にはいた。
そのことに感謝しながら、それでも彼は決めていた。この先の危険に、あの人たちを巻き込むわけにはいかない。
小屋の奥で、少女の寝息が静かに続いていた。明日、この少女を安全な場所へ移す。それが、今の自分にできる全てだった。




