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大穴の調合師と全てを繋ぐ触媒  作者: 那貴


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第7話 あと三日

少女の回復は、問題の始まりでもあった。


 


目覚めの翌日、トージャが小屋に着くと、彼女は壁に手をついて立とうとしていた。足首の腫れは引いたが、体重をかけると顔をしかめる。それでも彼女は、諦めようとしなかった。


 


「無理をするな。悪くなる」


 


言葉は通じなくても、制止の仕草は通じた。少女は渋々座り直したが、その瞳は戸口の向こうを何度も窺った。閉じ込められていることへの苛立ちが、そこには見えた。


 


回復すれば、人は動きたがる。動き回れば、見つかる危険が増える。傷が塞がることは喜びのはずなのに、それが新しい問題を連れてくることに、トージャは直面していた。


 


彼はその日のうちに、杖になる枝を一本削り、彼女に渡した。


 


脇の下に当てる部分には布を巻き、手の触れる場所は滑らかに磨いた。歩く練習は、小屋の中の数歩だけ。それでも彼女の表情は、久しぶりに晴れやかだった。


 


そして、その日の朝、初めて言葉以外の意思疎通が成立した。


 


彼女は小枝を拾うと、小屋の土の上に、ゆっくりと線を引いたのだ。大きな、歪んだ輪。円ではない。ところどころ膨らみ、へこんだ、不格好な輪だった。


 


トージャの息が止まった。


 


大穴の形だった。砦の古老たちが語る、大穴の俯瞰の形。彼は実物を見たことはない。だが、語り継がれる形は、まさにこんな歪な輪だった。


 


彼女は輪の中心を、小枝でとん、と突いた。


 


何かを示すような、強い仕草だった。輪の中心。誰も行って帰ってきたことのない、深淵の底。そこに何かがあるとでも言うように。


 


彼は方角と仕草からしか読み取れなかったが、少なくとも一つ、はっきりしたことがあった。この少女の目的は、大穴そのものに関わっている。傷を負って倒れていたのは、ただの行き倒れではなかった。


 


その推測を確かめる言葉を、彼はまだ持っていなかった。


 


食事も、そうだった。


 


粥を食べる量が、日に日に増えていった。体が栄養を求めている証拠であり、喜ばしいことだった。だが彼の計算では、砦から持ち出した食料は、あと二日ほどで底をつく。眠っていた間は少量で済んだ。一人前をきちんと食べるようになった今、消費は二倍近くになっていた。


 


薬も心許なかった。傷に塗る軟膏は残り少なく、包帯を取り替える布も洗って使い回す限界が近づいている。実家の納戸から持ち出す穀物も、無限ではなかった。


 


今朝のことだった。納戸で穀物を袋に詰めているところへ、母が入ってきた。


 


彼は咄嗟に言い訳を用意しかけた。だが母は何も聞かなかった。ただ彼の袋を見て、棚の奥から塩の小袋を取り出し、無言で袋に添えた。


 


「森は、塩が要るでしょう」


 


それだけだった。母は台所へ戻っていった。


 


気づかれている。少なくとも、何かを抱えていることには気づかれている。それでも詮索しない。その優しさに甘える形で嘘を重ねている自分に、彼は強い居心地の悪さを覚えた。母の言葉が頭を離れなかった。困ったときは一人で抱えるな。だが、今の秘密は、抱え込む以外の方法が見えなかった。


 


彼は小屋を出る前、身振りで一つの約束を取り付けた。


 


自分を指し、戸を指し、首を振る。外に出るな。彼の留守の間は、小屋の中で静かにしていてほしい。少女はしばらく彼を見つめ、それから小さく頷いた。


 


だが、頷きながらも、その視線は一度だけ、大穴のある方角へ流れた。


 


彼女には、彼女の目的がある。そのことだけは、言葉がなくても分かった。


 


 


その日の昼、トージャは砦で副団長に呼び止められた。


 


「巡回の日程が決まった。三日後だ」


 


沢から東の森へ抜ける一帯を、守護戦士団が総出で確認するという。退けたはずの魔獣の動向と、周辺の安全を確かめるための巡回だった。


 


巡回は二手に分かれるという。一隊は沢沿いを、二隊目は東の森の縁を進み、昼に合流する。カルドも一隊に加わることになっていた。試験前とはいえ、実地の経験は団員全員に求められる。フーアンも、別働の斥候に名があった。


 


「お前も、道案内で加われ。あの辺りの地形は、お前が一番詳しい」


 


トージャの背筋が冷たくなった。


 


巡回の経路は、小屋のある森を通る。休憩小屋は狩人たちの共有の場所だ。巡回の途中で立ち寄る者がいてもおかしくない。むしろ、休憩地点として使われる可能性が高かった。


 


三日。


 


それまでに、どうにかしなければならなかった。少女を移すか、痕跡を消してやり過ごすか。傷の癒えきっていない彼女を、足場の悪い森の中で長く歩かせることはできない。かといって、六人前後の戦士たちが周囲を歩き回る中で、小屋に人を隠し続けることができるのか。


 


「……分かりました。加わります」


 


断る理由はなかった。断れば、かえって目立つ。彼は努めて平静に答えた。


 


拠点を出る前、カルドが弾んだ様子で話しかけてきた。


 


「聞いたか、巡回のこと。お前が案内するなら、心配はないな。あの森はお前の庭みたいなもんだ」


 


「大げさだ」


 


「何言ってる。頼りにしてるんだ、皆。……入団試験が終わったら、俺も本格的に巡回に加わる。そのときは、森のこと色々教えてくれよ」


 


純粋な信頼だった。その信頼に、今の自分は嘘で応えている。カルドの屈託のない笑顔が、トージャには少し眩しかった。この幼なじみが巡回で小屋に立ち寄り、あの少女と鉢合わせる光景が、頭の隅をよぎって離れなかった。


 


拠点を出たところで、ナラと出くわした。


 


「また森か」


 


彼女は彼の背負った袋を見た。食料で膨らんだ袋を。


 


「素材集めだ。団からも頼まれている」


 


「そう」


 


ナラはそれ以上聞かなかった。だが、視線が一瞬だけ、袋の膨らみ方を測るように動いたのを、彼は見逃さなかった。彼女は数字に強い。彼の持ち出す食料の量と、一人の探索行で消費する量が釣り合っていないことに、気づき始めているかもしれない。


 


通り過ぎるフーアンが、笑いながら声をかけた。


 


「森の女に会いに行くのか」


 


「……行くか」


 


彼は否定した。フーアンは冗談のつもりだったろう。その通りなのが、救いでもあり、恐ろしくもあった。


 


 


砦を出て森へ向かう道すがら、彼は選択肢を並べ続けた。


 


小屋に残し、痕跡を消してやり過ごす。巡回隊が立ち寄らなければ通用する。だが、誰か一人でも中を覗けば終わりだった。移す。安全だが、移動そのものが痕跡を残すし、彼女の足が持つかどうか分からない。誰かに打ち明ける。母なら、と一瞬思った。だが、知った者は共犯になる。この秘密の重さを、家族に背負わせるわけにはいかなかった。


 


どの選択にも、穴があった。彼は調合師の思考で、材料と条件を並べて、最悪の結果の小さい順に並べ替える。結論は出なかった。ただ、三日という期限だけが、静かに迫っていた。


 


夕方、トージャは小屋に戻った。


 


近づくにつれ、彼の足が止まった。警戒の仕掛けの一つ、音を立てる罠が切れていた。そして小屋の周囲の土の上に、小型の魔獣のものらしい、新しい足跡が幾つも残っていた。


 


彼は斧を構え、静かに周囲を確認した。


 


獣の気配は、もうなかった。足跡は小屋の周りをぐるりと巡り、戸の前でしばらく窺った形跡を見せて、森の奥へ去っていた。一度だけ窺って去ったのなら、好奇心か、匂いに引かれた偶然だろう。


 


戸を開けると、少女は敷き草の上に身を伏せていた。


 


外套を頭から被り、息を殺して、じっとしていたのだ。囲炉裏の火は、消されていた。彼女の指先が、彼の置いていった小刀を握っていた。小さく震えていた。


 


獣が来たこと。彼の言いつけを守って、音も立てずにやり過ごしたこと。全てが、その姿で分かった。


 


「……よくやった」


 


彼は外套をそっと開けて、言った。言葉の意味は通じなくても、声の調子は伝わったらしい。少女の肩から、少しだけ力が抜けた。


 


そのとき、彼女が彼の名を呼んだ。


 


「トー、ジャ」


 


まだ辿々しい。だが、彼が昨夜教えた自分の名を、彼女は覚えていた。助けを呼ぶためか、安心したためか。理由は分からない。だが、言葉は一つ、通じた。


 


足跡の大きさから、来たのは犬ほどの小獣だった。恐れる相手ではない。だが、今日の訪問者が、明日も小獣とは限らない。匂いを覚えた獣は、また来る。


 


彼は警戒の仕掛けを張り直し、少女への危険の伝え方を考えた。言葉が通じない以上、合図が必要だった。彼は平たい石を二つ打ち合わせて、乾いた音を鳴らした。危険が近づいたら、この音を合図にする。自分が鳴らしたら、隠れて、静かにする。少女に何度かやって見せると、彼女は真剣な顔で頷き、自分でも石を打ち合わせてみせた。器用な手つきだった。


 


トージャは、小屋の周囲の足跡を見ながら、決意を固めていた。


 


この小屋は、もう安全ではなかった。獣はまた来るかもしれない。そして三日後には、人の目がこの森を隅々まで見る。彼女をここに置いたままでは、遅かれ早かれ見つかる。


 


移すなら、巡回の日まで。移す先は、人の来ない奥地でなければならず、彼女の足で辿り着ける距離でなければならない。


 


その夜のうちに、彼はまず小屋の周囲の痕跡を消し始めた。


 


自分の足跡を枝で掻き消し、焚き火の跡を土で埋め、余分な物置を森の窪みに移した。巡回の目が来ても、ここ数日誰かが暮らしていたようには見えない。それが最低限の備えだった。


 


だが、根本の問題は解決しない。彼女自身を、どうするか。


 


候補は一つだけあった。沢の上流、彼が薬草を探して奥へ入ったとき見つけた、岩棚の雨宿り場。岩と滝の音に隠れて、人の近づく気配も分かりやすい場所だった。あそこなら巡回の経路からも外れている。距離は、小屋から歩いて半日近く。だが今の彼女の足では、そのまま歩き通すことは難しい。


 


彼の背に負ぶさって行けば、行けない距離ではなかった。


 


少女は小枝で描いた、あの歪な輪の夢でも見ているのか、静かな寝息を立てていた。トージャは暗くなった森を見渡した。


 


巡回まで、あと三日。この三日で、彼女の居場所と、この先どうするかの道筋を、決めなければならなかった。


 


決めるのは、明日だ。残された時間は、もう三日しかなかった。


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