第6話 目覚めた少女
翌朝、トージャは守護戦士団の拠点へ報告に赴いた。
居住区とは区切られた一角に、団の建物と鍛錬場があった。朝の光の中、すでに何人もの戦士が稽古を始めていた。その奥の部屋で、副団長が待っていた。
守護戦士団は、砦とその周辺を守る組織である。壁の警備、見張り台の務め、森の巡回、近づく魔獣の迎撃。その全てが団の受け持ちだった。砦の外へ出て戦う鎧武兵団とは、担う場所が違う。団の戦士たちは、この土地と六百人の暮らしを背にして立つ者たちだった。
カルドの父親によく似た、大柄な男だった。息子と同じ、隠し事のなさそうな顔立ち。だが、目だけは鋭かった。
「話を聞こう。座れ」
トージャは、大型魔獣との遭遇を、順を追って報告した。縄張りの範囲。足跡から読んだ左前脚の弱さ。戦いの経過と、退けた結末。余分なことは言わず、事実だけを並べた。
副団長は、黙って聞いていた。
「一人で退けた、か」
「討ち取れてはいません」
「討ち取りに行かなかったのが、正解だ。……若い者は、武勇と無謀を取り違える」
報告の合間に、戸口からカルドが顔を出した。
「父さん、その様子見、俺も行く」
「お前は試験が近い。鍛錬を抜けるな」
「でもよ」
「でも、ではない」
副団長は息子の言葉を静かに断ち切った。カルドは不満そうな顔をしたが、父に逆らうことはせず、トージャに向かって「後で話を聞かせろ」とだけ言い残して出ていった。その後ろ姿に、トージャは少しだけ申し訳なさを覚えた。自分は団に属してもいないのに、団の仕事の一端を任され、入団を目指すカルドは置いていかれる。だが、それが砦の実力主義でもあった。所属ではなく、できる者に仕事が回る。
副団長は地図の上に指を置いた。沢の周辺に、印が打たれる。
「獣の様子見は、こちらで人を出そう。お前には、もう一つ頼みたいことがある。あの周辺の素材と地形に詳しい者は、お前が一番だ。獣の退いた東の森の、痕跡の確認を頼めるか」
トージャの胸が、小さく跳ねた。
森へ行く、公の理由ができたのだ。
「はい。今日にでも行けます」
「無理はするなよ。肩の怪我人のすることじゃない」
副団長はそう言って、わずかに笑った。カルドの笑い方と、よく似ていた。
「それと、もう一つ」
帰りかけたトージャを、副団長が呼び止めた。
「団の若い連中が、稽古で怪我をしてな。手当ての薬が足りていない。お前の家の調合棚に、余りがあるなら分けてくれると助かる。……戦うだけが戦士の仕事じゃない。お前の知識は、この砦の力だ」
思いがけない言葉だった。ナラの言葉といい、彼の知識を正面から力と呼ぶ声が、この砦には確かにあった。
「はい。今日、森へ行く前に家に寄って、届けます」
彼はそう答えて、拠点を後にした。
トージャは実家に寄り、約束の薬を団の若手に届けてから、砦を出た。
背負った袋には、穀物と布と、油と塩と、母の干し果物が詰まっていた。足取りは自然と速くなった。少女を小屋に一人にしてから、二日近くが過ぎていた。熱のぶり返しは三日目あたりに多いという、老人の言葉が頭を離れなかった。
計算すれば、回復の三日目というのは、ちょうど昨日から今日にかけてだった。
森を抜ける道は、長く感じられた。肩の痛みを庇いながら、彼は何度も自分の歩く速さを確かめた。焦りは転倒を招く。転倒すれば、荷物も自分も失う。自分にそう言い聞かせながら、それでも足は速くなった。
途中で彼は、副団長に頼まれた確認も済ませた。
東の森の縁で、あの魔獣の足跡を見つけたのだ。左前脚を引きずるような跡が、森のさらに東へ続いていた。傷はまだ癒えていない。少なくとも数日は、こちらへ戻ってくることはないだろう。報告のための目印に、彼は近くの幹に小さな印を刻んでおいた。
公の務めは、果たした。だが、彼の足が急ぐ理由は、務めの方ではなかった。
小屋の周囲の警戒仕掛けは、どれも無事だった。
人の近づいた形跡も、獣の形跡もない。彼は安堵と緊張の両方を抱えたまま、戸のつっかい棒に手をかけた。
そのときだった。
小屋の中から、小さな音がした。陶器の椀が、何かに触れる音。
トージャの手が止まった。斧に手が伸びかけた。誰かいるのか。それとも獣か。いや、警戒の仕掛けは無事だった。音のする場所は、少女を寝かせた敷き草のあたりだった。
まさか、と思った。
彼は音を立てないようにつっかい棒を外し、ゆっくりと戸を開けた。
そして、目が合った。
少女が、起き上がっていた。
敷き草の上に、体を起こして座っていたのだ。
脇腹の傷のせいで姿勢は少し傾いていたが、背筋は伸び、明るい髪が肩に流れていた。空になった水の椀が、傍らに置かれていた。彼が用意しておいた湯を、自分で飲んだのだろう。外套は、きちんと畳まれて枕元に置かれていた。
少女の瞳が、戸口のトージャを捉えた。
今度は、焦点が合っていた。熱に浮かされた昨夜までの目ではない。はっきりと、彼を見ていた。
「……動けるのか。傷は」
思わず声が出た。少女は答えなかった。言葉が通じていないことは、その表情で分かった。だが、恐れている様子はなかった。彼女はゆっくりと頭を下げた。
深く、形の整った、礼の動作だった。
この土地の人間がする礼とは、形が違った。背筋の伸ばし方。手の置く位置。どこか、教わらなければ身につかない型のようなものが、そこにはあった。
ありがとう、と言っているのだろうと、トージャは理解した。
「礼はいい。それより、熱は」
彼は傍らに荷物を置き、額に触れた。少女は一瞬身を引いたが、逃げはしなかった。額は、わずかに熱かった。ぶり返しはあったようだが、峠は越えている。彼の留守のあいだに、彼女は一人で熱と戦い、乗り越えたのだった。
少女の座る位置は、彼が寝かせた場所から少しずれていた。
敷き草の乱れ方から見て、彼女は自分で体を起こし、水を飲み、それからまた横になり、もう一度起き上がったのだろう。小椀は空で、零した跡はなかった。熱のある体で、よくそこまでできたものだった。彼の外套が畳まれていたのも、彼女の仕業に違いなかった。人の世話になったまま、乱れた寝床にいることをよしとしない。そういう育ちの匂いが、彼女の周りにはあった。
彼は、老人に教わった通りにした。
薄い粥を炊く。塩をほんの少しだけ入れる。熱すぎない温度まで冷まし、小さな椀に盛って、少女の前に置いた。
少女は椀を受け取り、最初の一口を、ゆっくりと口に運んだ。
食べる所作も、静かで整っていた。椀の持ち方。匙の進め方。彼は、同じ年頃の砦の娘たちが、笑いながら粥をかき込む様子を思い浮かべた。それとは、まるで違った。
粥を食べ終えた少女に、彼は母の干し果物を一つ渡した。
少女はそれをしばらく眺め、小さく齧った。表情が、ほんの少しだけ和らいだ。甘いものは、どこの土地でも甘いのだ。その当たり前のことに、トージャはなぜか安堵した。この少女にも、故郷があり、甘いものを甘いと感じる暮らしがあった。当たり前のことだったが、彼はそれをこのとき初めて、実感として理解した。
食事のあと、トージャは傷の手当てに取りかかった。
包帯を解くと、傷は順調に塞がりつつあった。腫れはほとんど引き、熱も帯びていない。回復は、彼の見立てよりも早かった。体力の戻り方といい、熱の峠の越え方といい、この少女は見た目の華奢さに反して、芯が強かった。
もう一つ、気になることがあった。
右の足首だ。彼は三日目に、腫れた足首を確認していた。その足首に、彼のものではない布の巻き方がされていた。彼の残した布を、彼女自身が巻き直したのだろう。だが、その結び目が、彼の知るどの結びとも違っていた。
きつく、ほどけにくく、それでいて指一本で緩められる結び。
戦場で、片手しか使えない状況でも巻ける結び方に似ていた。彼は調合の老人から、戦士の応急処置の結びを幾つか教わっていたが、この形はそのどれとも違った。
「……これ、自分で巻いたのか」
少女は、彼の視線の先を理解したように、足首を見た。それから小さく頷いた。
頷く仕草は、通じた。
それだけのことだった。だが、通じたという事実が、彼の中で何かを少しだけ前に進めた。この少女は、言葉は通じなくても、意思を伝える術を持っている。
彼は、試しに自分の胸に手を当てた。
「トージャ。俺の名前だ」
少女は、彼を見つめた。
それから、戸口の方へ、ゆっくりと手を向けた。いや、戸口の先だった。森の向こう。方角で言えば、大穴のある方だった。
彼女の唇が動いた。何かを、彼に尋ねるような言葉だった。言葉の意味は分からなかった。だが、その表情の真剣さと、指の向きだけは、はっきりと伝わってきた。
なぜ、この少女は目覚めて早々に、大穴のことを聞くのか。
外の人間が、この土地に来る理由は多い。交易。開拓。調査。そのどれもがあっただろう。だが、傷を負い、森に倒れていた少女が、助けてくれた相手に最初に尋ねることが、大穴への関心だとすれば。
彼は答えを持たなかった。
答えの代わりに、彼は少女の目を見て、ゆっくりと頷いた。大穴のことは知っている。だが、詳しい話は今はできない。それが伝わったかどうかは分からなかった。
少女はしばらく彼を見つめ、それから、もう一度深く頭を下げた。
その夜、トージャは戸口の傍らに寝床を作った。
少女には小屋の中の敷き草を譲り、自分は外套一枚で戸の内側に横になる。今までとは違う緊張があった。相手は、もう意識のない傷病人ではない。目覚めた、一人の人間だった。言葉は通じなくても、意思のある人間を、森の小屋に隠している。その重さが、少しずつ形を変え始めていた。
彼は暗闇の中で、今日の疑問を並べ直した。
形の整った礼の作法。静かで整った食事の所作。見たことのない、戦場向きの結び方。そして、目覚めて最初に尋ねた、大穴への関心。
一つ一つは、小さなことだった。だが、並べてみると、それらは一つの方向を指しているような気がした。この少女は、ただ遭難した旅人ではないのかもしれない。
かといって、詮索する術はなかった。本人に聞く言葉を、彼は持っていない。そして何より、彼女はまだ傷病人だった。詮索は、回復の後でも遅くはなかった。
小屋の奥で、少女の穏やかな寝息が聞こえた。
トージャは新しい包帯の巻き心地を思い出しながら、自分の中の謎が昨日より増えたことを認め、目を閉じた。答えのない問いは、森の夜に静かに積もっていった。




