第5話 三日ぶりの砦
「止まれ。誰だ」
見張り台の上から、声が落ちてきた。
日が落ちかけた森の縁で、トージャは足を止め、顔を上げた。砦の壁は木を組んで作られ、低いところでも彼の背丈をはるかに超え、高いところでは三メートル半ほどもある。継ぎ目には金属の金具が打ち込まれ、門扉は太い鎖と蝶番で補強されていた。見張り台には、常に人の目がある。それがこの砦の決まりだった。
「トージャだ。帰ってきた」
しばらくの沈黙のあと、見張りの男の声が弾んだ。
「トージャか! 三日ぶりだな。……おい、その腕、どうした」
「後で話す。開けてくれ」
鎖の外れる音がして、門扉が重く開いた。迎えた見張りの男は、トージャの肩と腕の包帯を見て眉を寄せ、それ以上は聞かずに頷いた。戦う者の多い砦では、怪我人の事情を門前で問いただすような真似はしない。
門をくぐれば、夕餉の煙の匂いがした。
居住区の通りには、畑仕事を終えた者や、訓練帰りの若い戦士たちが行き交っていた。砦の外周には畑が広がり、小川のせせらぎが聞こえる。人口六百ほどのこの砦は、周辺にある四つの砦のうち、最も北に位置していた。大穴に近い土地の砦。だからこそ、見張りの目は厳しく、人々の結束は強い。
通りでは、鍛冶の音が響いていた。壁の金具や鎖を直すための、小さな鍛冶場だ。武器を作る場所ではないが、砦を守る金物の多くはここで生まれた。戦うことだけが砦の仕事ではない。畑を耕し、金物を直し、壁を繕い、見張りを交代する。六百人の暮らしの全てが、大穴に近いこの土地を支えていた。
三日ぶりに聞く、人々の暮らしの音だった。
トージャは、人の波に紛れて自分の家へ急いだ。
家の戸を開けたとき、母のエクレアが振り返った。
「トージャ!」
竈の前から駆け寄ってきた母は、彼の顔を見て安堵に頬を緩め、次の瞬間、包帯の巻かれた腕に気づいて表情を変えた。
「その腕。肩も、顔色も。……何があったの」
「ただいま、母さん。話すから、まず座らせて」
奥から、父のガーランドが顔を出した。手には、修理途中の農具の金具を持っていた。父は黙って息子の姿を頭からつま先まで見て、短く言った。
「生きて帰ったなら、よしだ。飯にしよう。話は、それからでいい」
夕餉の前に、母は彼の包帯を巻き直した。慣れた手つきだった。この砦の女たちは、皆、怪我の手当てに慣れている。母の指は腫れた肩を確かめ、折れていないことに安堵し、腕の切り傷には清潔な布を当て直した。
「あんたの巻き方より、少しはましでしょう」
「……ありがとう」
自分の巻いた包帯より、母の手当ての方がずっと心地よかった。その事実が、彼を少しだけ情けなく、そして温かい気持ちにさせた。
夕餉の卓で、トージャは選んで話をした。
森の奥へ素材を採りに行ったこと。大型魔獣の縄張りに入ってしまったこと。帰り道で鉢合わせし、一人で退けたこと。少女のことは、一言も話さなかった。
母は食事の手を止めて聞き、父は静かに頷きながら聞いた。
「あの大きさの獣を、一人で」
父が言った。
「討ち取ったわけじゃない。退けただけだ。脚を傷つけて、戦う気をなくさせた」
「退けた、で十分だ。討ち取りに行って死ねば、元も子もない」
父はそう言って、酒を一口飲んだ。
「だが、その獣が砦の近くまで来ているとなれば、話は別だ。明日の朝、団の拠点へ報告に来い。副団長も聞きたがるはずだ」
トージャは頷いた。それは、砦を守るための当然の務めだった。
嘘は、ついていない。ただ、話していないことがあるだけだ。その言い訳が胸の奥で小さく引っかかるのを感じながら、彼は頷き続けた。
その夜、トージャは森へ戻ろうとした。
正確には、戻りたかった。熱の下がり始めた少女が、一人で小屋にいる。煎じ薬は朝に用意した分しかない。水も、明日いっぱいが限度だった。
だが、荷造りを始めた彼を、母が止めた。
「その肩で、夜の森へ行くの。駄目よ」
「大丈夫だ。道は分かってる」
「分かっている道で、その怪我をしたんでしょう」
母の言葉に、彼は言い返せなかった。父も、静かに首を振った。
「一晩、体を休めろ。明日の報告が済んだら、好きにしろ。だが今夜は駄目だ」
結局、トージャは三日ぶりに自分の寝床で横になった。
体は疲れ切っていたはずなのに、なかなか眠れなかった。遠く離れた小屋の少女の呼吸を思った。熱は、下がり続けているだろうか。水に、手は届いているだろうか。
彼は暗い天井を見つめたまま、夜の更けるのを待った。
翌朝、トージャは鍛錬場の近くで、待ち構えていた三人に捕まった。
「トージャ!」
最初に駆けてきたのは、カルバンドだった。大剣を背負った巨体が地響きを立てて近づき、彼の肩を叩こうとして、包帯に気づいて寸前で力を抜いた。
「おう、こっちの肩か。……でかしたな、お前! でかい魔獣を一人で退けたって、見張りのおっさんが触れ回ってるぞ」
「退けただけだ、カルド。討ち取ったわけじゃ」
「退けただけで十分すげえんだよ。俺なんかまだ、父さんに稽古で転がされてばっかりだ」
カルバンド――愛称カルド――は豪快に笑い、それから真顔になった。
「なあ、トージャ。お前、その腕があるのに、なんで団に入らねえんだ。父さんだって、お前のことは買ってる。今度こそ考えろよ」
「……考えてはいる」
嘘ではなかった。考えて、毎回、調合の道を選んでいるだけだった。カルドはその答えを聞くと、満足そうに頷いた。何度断られても、この男は腐らない。それが彼の真っ直ぐさだった。
遅れて、槍を肩に担いだフーアンがやってきた。あくびをしながら、トージャの包帯を見て口笛を吹く。
「派手にやったな。……三日も森にか。まさかと思うが、女にでも会ってたんじゃねえだろうな」
冗談だった。フーアンの、いつもの軽口だった。
だが、トージャの視線は、一瞬だけ泳いだ。
「……んなわけ、あるか」
「お、図星か?」
「違う」
フーアンは面白がって笑い、それ以上は追及しなかった。この男の興味は、長続きしない。外縁の国へ行ったときの武勇伝とも言えない色恋の話を、彼はもう語り始めていた。
そのやり取りを、少し離れた場所で、ナライジャが静かに見ていた。
弓を背負った彼女――愛称ナラ――の視線が、トージャの泳いだ目と、フーアンの笑い声のあいだを、一度だけ往復した。何も言わなかった。ただ、その目には「見た」という色があった。
ナラが口を開いたのは、フーアンの話が一段落してからだった。
「トージャ。その獣、今はどの辺りにいるの」
「東の森へ退いた。脚を傷つけてるから、しばらくは遠出できないはずだ」
「縄張りは、沢の周辺で合ってる?」
「合ってる。……よく分かったな」
「あの辺りは、私もいずれ行く場所だから」
ナラはそう言って、遠く大穴のある方角を見た。鎧武兵団への入団を望む彼女は、四人の中で最も、大穴の近くへ行きたいという思いが強い。その視線には、恐れよりも憧れに近いものがあった。
「団の選考が近づいてる。あんたの話、参考になる。あとで詳しく聞かせて」
「ああ」
トージャは頷いた。話せる範囲のことは、全て話せる。話せない範囲のことが、問題なだけだった。
別れ際、カルドが真剣な顔で言った。
「守護戦士団の入団試験は、来月だ。俺は受ける。……フーアン、お前はどうすんだ」
「槍の家だ、受けるさ。受けるけどよ、試験のあとに外の国へもう一度行きてえ。あっちの酒場の姉ちゃんが忘れられねえ」
「お前はそればっかりだな」
ナラが呆れたように言い、トージャは笑った。四人でこうして他愛のない話をするのは、何日ぶりだっただろう。幼い頃から変わらない並びだった。四人で森へ探検に行き、いたずらをしては大人に叱られた。あの頃と違うのは、今はそれぞれが、自分の進む道を持ち始めていることだけだった。
「私も、鎧武兵団の選考を受けるわ」
ナラが静かに言った。
「弓の腕は、もう若手では一番だと評判だぞ」
フーアンが言うと、ナラは首を振った。
「一番でも、まだ足りない。大穴に近い場所で戦うには、腕だけじゃなくて、土地を知らなきゃいけない。……トージャ、あんたの森の知識は、そういう意味でも貴重なのよ」
思いがけない言葉に、トージャは少し驚いた。調合や生態の知識が、戦士の役に立つと言われてきたことはあっても、仲間の一人から正面からそう言われたのは、初めてだったからだ。
やがて三人は、それぞれの鍛錬へ戻っていった。カルドは大剣の素振りへ。フーアンは槍の稽古場へ。ナラは的のある射場へ。彼らには彼らの道があり、目標があった。その背中を見送りながら、トージャは思った。
自分だけが、彼らに言えない秘密を抱えて、ここに立っている。
昼過ぎ、トージャは集落の外れにある、調合を担う老人の小屋を訪ねた。
彼に薬草の多くを教えてくれた師だった。トージャは少女のことは伏せたまま、「熱の続く怪我人がいたら、回復期に気をつけることは」と、一般的な相談の形で尋ねた。
老人は目を細めて言った。
「熱が引いたあとが大事じゃ。無理に食わせるな。まず湯と、薄い粥からじゃ。それから、熱がぶり返すのは三日目あたりが多い。油断するな」
「三日目……」
「あんたの患者は、だいぶ良くなっとるようじゃな」
老人は、彼が何も言っていないことを、全て分かっているような顔で笑った。トージャは苦笑して、礼を言い、追加の薬草を分けてもらった。誰にも言えない秘密を抱えているつもりでも、この砦の大人たちは、若者の事情を半分くらいは見通しているのかもしれなかった。
昼過ぎ、トージャは家の調合棚から必要なものを選び、荷造りをした。
粥にできる穀物。清潔な布。油と塩。補助の薬草。表向きの理由は「数日、森で素材調査を続けるため」で通る量だった。
母のエクレアが、頼んだよりも多めの布と、干した果物を袋に押し込んだ。
「あんたは、言わないことが増えたわね」
トージャの手が、止まった。
母は責める顔ではなかった。竈の火を見つめたまま、穏やかに続けた。
「言えないなら、言わなくていい。ただ、困ったときは一人で抱えるな。それだけ覚えておきなさい」
「……ありがとう、母さん」
彼はそれだけを言った。本当のことは言えないままだったが、母の言葉は、不思議と彼の背中を押した。
明日の朝、団の拠点で報告を済ませたら、すぐに森へ向かう。小屋まで、半日。少女が待っている。
荷物を背負って具合を確かめる彼の横で、痛む肩が小さく抗議した。それでも、足はもう森の方を向いていた。




