第4話 退けるということ
三日目の朝、少女の熱は明らかに下がっていた。
額に触れた手に、あの焼けるような熱さはない。呼吸は穏やかで、頬にはわずかに血の色が戻っていた。煎じ薬は効いたのだ。だが、安心するにはまだ早かった。熱が下がりきるまでには、もう一晩か二晩かかる。そのあいだ、体力を戻すための食料が要る。
トージャは、飲みやすい濃さに薄めた煎じ薬を小椀に用意し、少女の手の届く場所に置いた。水と、濡れ布も同じ場所に揃える。
自分が小屋を空けるあいだの、できる限りの備えだった。
出発の前に、彼は傷の当て布を一度だけ替えた。
腫れは引き始めていた。熱を持った赤みも、昨日より範囲が狭い。新しい葉を潰して当て直し、包帯を巻く。少女は処置のあいだも目を覚まさなかったが、その呼吸は穏やかで、眠りが浅い苦痛の眠りから、体を癒やすための眠りに変わりつつあることが分かった。
必要なものの目録を、彼は頭の中で作った。
粥にできる穀物。清潔な布。傷の手当てに使う油と、体力を戻すための塩。それから、自分の家の調合棚に残してきたはずの、補助の薬草が幾つか。どれも小屋にはないものだった。そして、どれも「森で一人、数日を過ごすためのもの」としては説明のつく範囲のものだった。
理由は後で考える。まず、物を持ち出すことだった。
「今日は、集落へ行ってくる」
眠る少女にそう告げて、彼は小屋を出た。背負った革袋は軽かった。食料と布と、できれば替えの道具を詰めて戻ってくるための、空の袋だった。
集落への帰り道は、森を抜けていくにつれて少しずつ明るくなった。
黒紫の霞が薄れ、木々の緑が本来の色を取り戻していく。鳥の声が戻り、遠くには集落の薪を割る音のような、人の営みの気配が混じり始める。
あと半日も歩けば、懐かしい柵と屋根が見えるはずだった。
――だが、その途中で、トージャは足を止めた。
道を横切るように、大きな足跡があった。
昨日のものではない。今朝のものだ。土はまだ湿って盛り上がり、爪の跡が生々しい。あの大型魔獣のものだった。しかも、足跡の向きが悪かった。
小屋のある方角と、集落のある方角の、ちょうど中間を横切っている。
彼は足跡を一つずつ確かめた。歩幅。深さ。そして、左右の違い。右の前脚の跡に比べて、左の前脚の跡が、わずかに浅い。体重をかけきれていない。この獣は、左の前脚に古い傷か、弱い部分を抱えている。
近くの地面には、獣の糞も落ちていた。湯気こそ立っていなかったが、まだ柔らかく、匂いも強い。半刻も経っていない。獣は近くにいる。しかも足跡の間隔から見て、急いではいなかった。縄張りを見回るような、ゆったりとした歩様だった。
つまり、彼は獣の縄張りの只中にいた。昨日、尾根で気配をやり過ごしたときから、ずっとそうだったのかもしれない。
それは大事な情報だった。だが、それ以上に大事なことは、別にあった。
このまま獣が進めば、小屋に行き当たる可能性がある。熱の下がったばかりの少女に、逃げる力はない。そして獣を集落の方へ行かせれば、今度は集落が危険にさらされる。
選択肢は、最初から多くなかった。
トージャは革袋を木の根元に隠し、斧を手に取った。
「……こっちだ」
彼は自分の居場所を、あえて知らせることにした。
乾いた枝を踏み折る音。斧の柄で幹を叩く音。
森に、不自然な音を響かせる。さらに、干し肉の最後の一切れを取り出し、風の流れに匂いを乗せた。獣の注意を、小屋からも集落からも逸らして、自分へ向けるための誘いだった。
しばらくして、木立の向こうがざわめいた。
鳥が一斉に飛び立つ。低く、腹に響く唸り声。
現れた魔獣は、トージャの想像よりも大きかった。
四つ足で立っていても、肩の高さは彼の胸のあたりまであった。太い首と、岩のように盛り上がった肩。背筋に沿って生える鬣は黒紫に染まり、濁った瞳は、凶暴化した魔獣特有の赤みを帯びていた。息をするたびに、口の端から唾液が糸を引いた。
距離は、およそ二十歩。
トージャは斧を構え、獣の足元と、周囲の地形を同時に見た。背後には緩い斜面。右手には倒木。左手には、幹の太い木が二本、並んで立っている。
逃げ場ではなく、戦う場所として、悪くなかった。
先に動いたのは、魔獣だった。
地面を蹴る音とともに、巨体が弾丸のように迫る。速い。だが、トージャはその直線を見切っていた。彼は前に出ず、横へ跳んだ。倒木を盾にするように回り込み、すれ違いざまに斧を振るう。
刃は肩の鬣の下に当たった。だが、浅い。厚い毛と脂肪に阻まれ、肉を割るには至らなかった。
魔獣が反転する。尻尾の一振りが倒木を砕き、木片が飛ぶ。
距離が近すぎた。
巨体が再び迫る。今度は避けきれないと判断して、トージャは斜面を背に受け止める姿勢を取った。衝撃は、斧の柄を通して腕に走り、次の瞬間、彼の体は斜面を転がっていた。
痛みは、遅れてきた。
左の肩が熱い。腕に力が入りにくい。だが、骨は折れていない。転がったことが、衝撃を逃がしてくれたのだ。
魔獣は、転がった彼を見失わなかった。今度は斜面の上から、体重を乗せて押しつぶしにくる。トージャは起き上がる代わりに、転がったまま斜面を横へ転がった。巨体が彼のかつていた場所に落ち、土煙が上がる。
その隙に彼は、小石を拾って獣の横顔へ投げつけた。
狙いは傷つけることではない。反応を見るためだった。石は獣の頬に当たったが、獣の反応は半拍遅れた。しかも、頭の振り方が左右で均等ではない。左側への反応が、明らかに鈍い。粉で痛めた目と、弱い左前脚。偶然の符合ではなく、この獣の左側は、攻める側にとっての「半開きの戸」だった。
彼は痛みで霞む視界の中で、立ち上がった。
正面からでは、勝てない。それは最初から分かっていた。彼の戦いは、いつもそうだった。勝てない相手に、どう勝つかではなく、どう目的を果たすかを考える戦いだった。
今日の目的は、この獣を討ち取ることではない。
小屋にも、集落にも、近づけさせないこと。それだけだった。
トージャは後退しながら、二本の太い木のあいだへ魔獣を誘い込んだ。
木と木のあいだには、目の高さより少し低い位置に、彼の仕掛けた紐が張ってある。丈夫な蔓紐に、眠り薬の粉を塗り込んだ干し肉が結ばれていた。集落へ向かう前に用意した、最後の手段だった。
魔獣は、匂いに反応した。
いや、正確には、彼の後退と肉の匂いの両方に反応して、真っ直ぐに突進してきた。巨体が木のあいだに飛び込む。紐が張り、干し肉が弾け、粉が舞った。
それでも獣は止まらなかった。紐は引きちぎられ、粉の多くは虚しく散った。
だが、一瞬だけ、獣の動きが鈍った。粉を吸い込んだか、目に入ったのだ。頭を大きく振り、唸り声がくぐもる。
そして、無意識に左の前脚への体重のかけ方が、さらに弱くなった。
トージャは、その脚を見ていた。
彼は斜面の上へ駆けた。位置を取る。獣より高い場所。風は、彼から獣へ向かって吹いていた。
魔獣が顔を上げる。彼は袖の中の小瓶を逆さにし、残りの眠り薬の粉の全てを、風に乗せて獣の顔へ落とした。
粉が濁った瞳と鼻先を覆う。魔獣は激しく頭を振り、後ずさった。その拍子に、弱っていた左の前脚が、斜面の縁で崩れた。
今だった。
トージャは斜面を駆け下り、斧を振るった。狙いは体ではない。崩れた左前脚の、腱のある部分だった。
刃が食い込む。手応えがあった。今度は深い。
魔獣が吠えた。痛みと怒りの声が森を震わせ、巨体が暴れる。トージャは斧を引き抜く間も惜しんで身を離し、転がるように距離を取った。爪の一振りが、彼の腕の袖を裂き、皮膚を浅く切り裂いた。
血が滲む。だが、腕は動く。
彼は斧を構え直し、獣と向き合った。息が荒い。肩が痛む。腕の傷から血が流れる。
魔獣もまた、彼を見ていた。
さ
左の前脚は地につけなくなっていた。瞳の濁りは、粉と痛みでさらに深く、焦点が定まっていない。唾液を垂らし、荒く息をして、それでも獣は一歩、前に出ようとした。
トージャは一歩も引かず、斧を上げた。
戦う意思を、見せた。
殺すためではない。ここから先へは行かせないと、体で伝えるためだった。
長い、数瞬。
やがて、魔獣の耳が伏せられた。唸り声が弱まり、巨体がわずかに傾ぐ。獣は三本の脚で後退し、最後に一度だけ彼を睨んで、木立の向こうへ姿を消した。
戦意は、折れた。
森に、静けさが戻ってきた。
トージャは、その場に座り込んだ。
全身が震えていた。恐怖が遅れてやってきたのもあったし、力が抜けたのもあった。彼は震える手で傷の手当てをした。腕の切り傷は浅い。血止めの布を巻き、肩は動かしながら状態を確かめる。折れてはいない。打撲と、筋を痛めた程度だろう。
眠り薬の粉は、使い切った。干し肉も、もうない。
それでも、目的は果たした。
獣は退いた。小屋の方へも、集落の方へも、行かせなかった。あの脚の傷と薬の影響が残るあいだ、獣がこの近辺に戻ることはないだろう。
熟練の戦士なら、あの魔獣を討ち取れたのかもしれない。カルドの父のような、守護戦士団の副団長ほどの腕があれば。
だが、トージャは首を振った。
勝利には、段階がある。敵を退けること。戦意を喪失させること。行動不能にすること。生殺与奪を握ること。今日の彼に必要だったのは、その最初の段階で十分だった。無理に深追いをして、彼が死ねば、少女も集落も守れない。
座り込んだまま、彼はまず獣の退いた方角を確かめた。
足跡は、沢のある方へは向かっていなかった。小屋の方向でも、集落の方向でもない。森の東側へ、次第に間隔を広げながら遠ざかっている。逃げた獣は、傷と薬で混乱している。少なくとも今夜のあいだに、進路を大きく変えて戻ってくることはないだろう。
近くの細い流れで腕の傷を洗い、肩に冷たい水をかけた。痛みは引かないが、腫れの進みは抑えられるはずだった。空腹が、遅れて腹の底から訴えてきた。昨日の昼から、まともなものを食べていない。
「……十分だ」
彼はそう呟いて、立ち上がった。隠しておいた革袋を回収し、痛む肩で背負い直す。
日は、西へ傾き始めていた。
集落の柵が見えたのは、日が落ちる直前だった。
薪を焚く煙の匂い。夕餉の支度の音。柵の向こうの、見慣れた屋根の並び。
三日ぶりの、故郷だった。
トージャの足取りは、自然と速くなった。だが、柵に近づくにつれて、もう一つの重さが胸に戻ってきた。
父母に、何と話すか。カルドたちに、何と話すか。
その答えは、結局、まだ見つかっていなかった。
見張りの火明かりの向こうで、人の動く気配がした。トージャは足を止め、息を整えた。
帰ってきたのだ。まず、それを伝えなければならなかった。




