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大穴の調合師と全てを繋ぐ触媒  作者: 那貴


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第3話 沢の奥の白い花

夜明け前の森は、青く沈んでいた。

トージャは、小屋の戸を静かに開けた。一晩中ほとんど眠れなかった体は重かったが、頭は冴えていた。炉の火で手を温め、少女の額に触れる。熱は、まだ高い。だが昨夜の半ばに比べれば、呼吸の乱れは収まっていた。

今のうちだ。

彼は革袋の中身を入れ替えた。余分な素材は小屋に置き、袋には水筒と、干し肉が少しと、素材を包む布だけを入れる。腰の斧。袖の中には、魔獣を眠らせる粉を入れた小瓶。集落の調合師に分けてもらったもので、量は少ない。使う場面が来ないことを祈りながら、彼は戸に手をかけた。

出発の前に、彼は小屋の周囲を一周した。

昨夜張った紐の仕掛けは、どれも無事だった。獣も人も、近づいた形跡はない。裏手の水瓶には、まだ水が残っている。少女の手の届く場所に、濡れ布と水を入れた小椀を置いた。意識が戻ったときに喉が渇いているはずであろうし、万が一、彼が戻れなかったときの、せめてもの備えでもあった。

戻れなかったときのことを考えるのは、森へ入る者の習慣だった。楽観は、準備の代わりにはならない。

「行ってくる。昼までには戻る」

返事のないことは分かっていた。それでも声をかけて、彼は小屋を出た。

森の奥へ向かう道は、昨日折った目印の枝から始まった。

朝の光が差し始めた森で、彼は昨日の獣道を大きく迂回した。大きな魔獣の足跡は一晩で乾き始めていたが、その周囲には新しい痕跡もあった。樹皮の高い位置に残る擦り傷。体をこすりつけた跡だ。主はこの一帯を縄張りにしている。しかも、沢の方へ移動している気配があった。

最悪の場合は、沢で出くわす。

トージャは歩く速度を落とし、風向きを何度も確かめた。風は沢からこちらへ吹いている。向こうの匂いは届くが、こちらの匂いは届きにくい。悪くない条件だった。

だが、森の奥は昨日よりもさらに深く、彼を圧した。

黒紫(こくし)の粒は朝の光の中で紫の霞のように漂い、木々の葉はところどころ不自然に丸まって、色を失っていた。沢の水の音がするはずの方向から、音がしない。彼は一度、立ち止まって耳を澄ました。

水量が落ちているのだ。

季節の変わり目で、沢の水位が下がっていた。記憶の中の沢と、今の沢は違う。彼は目印にしたはずの岩の形から自分の位置を修正し、予定より少し下流側へ回り込んだ。時間の見積もりが、半刻ほど狂った。焦りが背筋を這ったが、彼は歩数を数え直し、体に蓄積していく黒紫の重さを確かめた。頭の奥の鈍い痛み。まだ大丈夫。だが、帰り道の分を残しておかなければならない。

沢へ近づく途中、倒木の陰で小獣の死骸を見つけた。

外傷はなかった。口の周りが黒紫に染まり、体は痩せ細っている。黒紫を吸いすぎたのだ。この一帯に長く居すぎた小獣は、こうして死ぬ。耐性のない生き物にとって、大穴に近い森は、それだけで緩やかな毒だった。人も例外ではない。彼の民族の耐性は、この毒への時間を稼ぐものであって、免れる力ではなかった。

彼は死骸を落ち葉で覆い、先へ進んだ。自分の体の変化を確かめる回数が、自然と増える。指先の感覚。視界の端の揺らぎ。呼吸の深さ。どれも、まだ正常だった。

自分に言い聞かせるように、彼は制限時間を決めた。日が中天に昇る前に、採るべきものを採って引き返す。それを過ぎれば、見つからなくても帰る。

沢辺に着いたとき、彼の額には汗が浮いていた。

水位の下がった沢の縁、湿った岩の隙間に、それは群生していた。

背の低い草だった。鋸歯のある濃い緑の葉のあいだから、白い小さな花をいくつもつけている。大穴に近い土地にしか育たない、熱と毒を抑える薬草。集落では、戦士が大きな怪我をしたときの最後の手当てに使われてきたものだった。この群生地の場所をトージャに教えたのは、集落で長く調合を担ってきた老人だった。彼が調合師を志すようになったのも、その背中を見てきたからだった。

ただし、扱いの難しい草でもある。

黒紫の濃い場所で育つこの草は、効き目が強い分だけ、量を間違えれば薬ではなく毒になる。煎じる濃さ、飲ませる間隔、相手の体力。その全てを見誤れば、熱を下げる前に体を壊す。祖父の代から、集落では「効く薬ほど、急いで使うな」と言い伝えられてきた。

トージャは群生地の前にしゃがみ、まず一株だけを摘んだ。

葉を一枚ちぎり、舌先で触れる。苦みが走る。強い。今年の株は黒紫をよく吸っている。彼は花のついた茎を必要な分だけ切り取り、根は残した。来年も、再来年も、この沢で採れるように。包んだ湿らせた布に、沢の水をさらに含ませて、革袋の外側に結んだ。

これでいい。あとは帰るだけだ。

――そのはずだった。

帰り道の半ば、尾根に差しかかったところで、トージャは足を止めた。

匂いだ。

獣の匂いが、風に乗って流れてきた。近い。しかも、さっきまでの風向きが変わりつつあった。雲が日を隠し、森の空気がゆるく渦を巻いている。このまま進めば、彼の匂いが向こうへ届く。

彼は即座に低い岩陰へ身を伏せた。

袖の中の小瓶が、手に触れた。眠り薬の粉だ。だが、この風の定まらない状況で粉を撒けば、獣ではなく彼自身が吸い込む危険があった。道具は、使える場面でなければただの荷物だ。彼は小瓶から手を離し、身を伏せたまま待つことを選んだ。

心臓の音が耳の奥で鳴った。しばらく、何も起こらない。鳥の声もない。やがて、尾根の向こうで、木の軋む音がした。一本の木が、ゆっくりと揺れた。何か大きなものが、その幹の傍らを通り過ぎている。幹に体をこすりつけているのかもしれなかった。姿は、木立に遮られて見えなかった。

見えないからこそ、彼は斧に手をかけなかった。

斧は近づかれたときの道具だ。今必要なのは、気づかれないことだった。彼は呼吸を浅くし、体を岩陰に押しつけた。魔獣の気配は、しばらく尾根の向こうを移動し、そして沢の方へ遠ざかっていった。匂いが薄れ、やがて小さな鳥の声が戻ってきた。

トージャは、もうしばらく待ってから、ゆっくりと立ち上がった。

膝がわずかに震えていた。怖くないはずがない。だが、彼は薬草の包みが無事なことを確かめ、帰路を再開した。今度は風の読み違えをしないよう、立ち止まる回数を増やした。遠回りでもいい。確実な道を選ぶ。

小屋が見えたとき、日は中天を少し過ぎていた。

制限時間には、わずかに間に合わなかった。だが、彼は生きて帰り、薬草を持ち帰った。それで十分だった。

小屋の中では、少女が朝と同じ姿勢で眠り続けていた。熱は相変わらず高かったが、悪化はしていなかった。トージャは安堵で息を吐き、すぐに炉に火を入れた。

調合は、ここからが本番だった。

沢の水で薬草を洗い、茎と葉と花を分ける。使うのは主に葉と花。茎は効きが強すぎるから、今回は使わない。彼は葉を数えながら刻み、土鍋の湯に投入する量を三つに分けた。最初は、一番薄いものから。体が受けつけるかを確かめるための、一口分の煎じ薬。

湯が色づくのを待つあいだに、彼は少女の傷の当て布を替えた。新しい葉を潰したものを布に広げ、傷に当てる。腫れの引きはまだない。だが、熱の持ち方は朝よりましだった。

煎じ薬ができると、彼はそれを冷まし、匙で少女の唇に数滴ずつ運んだ。

一口目。喉が動く。二口目。眉がわずかに寄る。苦いのだろう。それでも彼女は吐き出さなかった。三口目まで飲ませて、彼は手を止めた。ここからは、待つ時間だった。薬は急がせても、速くは効かない。効き始めるのは、今夜から明日にかけて。焦って濃いものを重ねれば、それは治療ではなく賭けになった。

待ち時間のあいだも、彼の手は休まなかった。

使い終わった布を裏手の水で洗い、炉の湯で煮て、干す。清潔な布の替えが尽きても、煮直した布があれば明日はしのげる。干し肉を細かく刻んで自分の昼食にし、少女のために湯を沸かし直す。今の彼女に必要なのは食べ物ではなく、水分と、熱に負けない体力の温存だった。穀物の粥が欲しい。それは集落にしかないものの一つだった。

昼過ぎ、彼は二番目の、少しだけ濃い煎じ薬を同じ量だけ飲ませた。

夕方、少女の額に触れたときだった。

熱が、わずかに下がっていた。

劇的な変化ではなかった。額の火照りが、触れた手にほんの少しだけ穏やかに感じられる程度。それでも、呼吸の間隔は朝より長く、規則正しくなっていた。うなされるような寝息も、今は静かだった。

トージャはその場に座り込み、思わず長い息を吐いた。

「……よし」

小さな声だった。誰に言うでもない。だが、その一言には、一晩と半日分の重さが詰まっていた。

薬は効き始めている。少女は、持ちこたえようとしている。あとは、熱がぶり返さないよう見守り、体力を戻す手助けをすることだった。

そこで、現実が戻ってきた。

小屋の食料は、彼の干し肉の残りがわずかにあるだけだった。少女が飲めるような穀物はない。清潔な布も、今日の交換でほぼ底をついた。何より、彼は二晩続けて集落を空けることはできない。父母の心配は限界に近く、明日には誰かが森へ探しに来るだろう。

明日、集落へ帰るしかない。

食料と、布と、できれば追加の道具を持ち出す。そして、また森へ通う口実を作る。父母に何と話すか。カルドたちに何と話すか。その答えは、まだなかった。

炉の火を落とし、彼は外套を少女に掛け直した。そのときだった。

少女の唇が、かすかに動いた。

昨夜と同じ、言葉にならない小さな音。けれど今夜は、それが何かを呼びかけるような響きに聞こえた。誰かの名を呼んでいるのかもしれない。彼の知らない、どこか遠くの誰かを。

トージャは少しのあいだ、その寝顔を見つめていた。

「……帰る場所が、あるんだろうな」

彼はそう呟いて、戸の傍らに腰を下ろした。明日は、歩かなければならない道が二つあった。一つは集落へ。一つは、この少女をめぐる、まだ見えない道へ。

夜の森は静かで、小屋の中には穏やかになった呼吸の音だけが満ちていた。

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