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大穴の調合師と全てを繋ぐ触媒  作者: 那貴


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第2話 熱を持つ傷

森の奥へ進むにつれて、空気の色が変わっていった。

黒紫(こくし)の粒は、夕方の斜めの光の中で、目に見えて濃くなった。呼吸をするたびに、舌の奥に鉄のような味が残る。頭の芯が重い。集落の近くでは一日活動しても平気な体でも、この濃さの中では話が別だった。耐性は、無事を約束するものではない。蓄積すれば、彼の民族の体でも確実に蝕まれる。

トージャは歩数と、日差しの角度と、自分の体の変化を数えながら進んだ。

目的の薬草が自生する場所は、記憶ではこの先の沢の向こうだった。だが、半分も進まないうちに、彼は足を止めた。

獣道を横切るように、新しい足跡があった。

大きい。四本脚。爪が落ち葉を深くえぐっている。昼間に出会った中型の魔獣とは比べものにならない体躯の主のものだった。足跡は乾いていない。遠くない場所にいる。

今の装備で、今の時刻に、ここから先へ進むことはできる。

できる、と、できない、は違う。

少女に必要な薬草は確かに貴重だった。だが、日が落ちてからこの森で大型の魔獣と出くわせば、薬草どころか彼自身が戻れなくなる。彼が戻れなければ、小屋の少女は誰にも知られないまま死ぬ。

実際、この一帯まで来れば、収穫はいくらでもあった。

沢沿いの岩肌には、黒紫を吸って紫に変色した苔が生えている。集落の調合師見習いのあいだでは、少量なら解毒の補助になると言い伝えられている代物だ。倒木の根元には、普通の森では見られない、傘の裏が青く光る茸も顔を出していた。触れれば痺れる毒茸だが、乾燥させて粉にすれば、魔獣を眠らせる罠の餌に混ぜることができる。

採っていきたい。調べていきたい。

その衝動を、トージャは意識して抑えた。今の荷物と今の時刻では、欲張ることが命取りになる。どの素材がどこにあったかだけを頭に刻み、彼は足を止めなかった。知識は、生きて帰ってこそ意味を持つ。それは、森が彼に教えた最初の教訓だった。

トージャは獣道の脇の枝を一本、目印に折って、踵を返した。

無理をしないことは、諦めることではない。順番を決めることだ。今夜、少女を生かすこと。そのために必要な手当てと備えをすること。本格的に奥へ入るのは、夜明けとともに、準備を整えてからだ。

小屋に戻ったとき、日は森の向こうに沈みかけていた。

少女は、まだ眠っていた。

だが、近づいたトージャはすぐに異変に気づいた。頬が赤い。呼吸が、出ていったときよりもさらに速い。額に触れると、熱かった。体が傷に反応し始めている。

「……やはり来たか」

彼は手早く行動を始めた。

まず、水を沸かす。小屋の隅には狩人たちが使う小さな炉があった。煙は隠匿には不利だが、清潔な湯がなければ傷の処置はできない。火は小さく保ち、煙が木々の上へ散るように戸を少しだけ開ける。判断には、常に代償が伴うものだった。

湯が沸くまでの間に、彼は少女の状態を改めて確かめていった。

頭。打った跡はない。首筋で脈を取る。速いが、乱れはない。腕と脚。右の足首が腫れていた。骨がずれている様子はないが、体重をかければ痛むだろう。歩いて逃げることは難しいはずだった。

そして、脇腹の傷。

当て布を慎重に外す。血は止まっていた。それは良かった。だが、傷口の周囲が腫れ、熱を持ち始めている。湯で絞った清潔な布で、傷の周囲を少しずつ拭う。少女の眉が寄り、浅い呼吸の合間に小さな呻きが漏れた。

傷は、思っていたよりも深かった。

けれど、内臓に達している様子はない。もし達していれば、今の呼吸ではいられないはずだった。筋肉を裂く深さで止まっている。助かる見込みは、十分にある。ただし、それは正しい手当てを続ければ、の話だった。

彼は傷の形を、改めて目に焼き付けた。

やはり、まっすぐだ。斜めに、迷いなく入って、抜けている。獣の爪なら、複数の線が並ぶはずだった。牙なら、穴が残る。これは――。

彼は思考をそこで止めた。

今は、犯人探しの時間ではない。熱を下げ、化膿を防ぐことだ。分からないことは、分からないまま置いておく。ただし、忘れずに置いておく。

潰した血止め草を新しい布に広げ直し、傷に当てる。今度は包帯を巻き直す前に、採ってきた苦根を細かく刻み、湯で煮出した。熱冷ましの代わりにはなる。濃くしすぎれば胃を荒らすから、薄く。少女の唇に数滴ずつ流し込むと、喉が小さく動いた。

飲めている。それでいい。一歩ずつだ。

処置の合間に、彼は頭の中で必要なものを並べていた。

熱を抑える薬草。これは明日の朝、森の奥へ行く。水と食料。自分の分はともかく、少女が口にできるものが要る。固い干し肉は無理だ。集落から、粥にできる穀物と、清潔な布を持ち出さなければならない。そして何より、この小屋に誰も近づかせない理由と、自分が森へ通う口実が要る。

問題を一つずつ、素材の棚に並べるように整理する。それが彼の考え方だった。焦りは、判断を鈍らせる毒と同じだ。用量を間違えれば、人を殺す。

処置が一段落すると、次は小屋の備えだった。

隠れ場所は、ただ見つからなければいい場所ではない。夜の森では、獣は匂いで獲物を見つける。昼間、少女の血が落ちた斜面は、そのままでは格好の道標だった。

トージャは日が落ちきる前に外へ出た。斜面の血の跡に落ち葉と土を厚く被せ、自分の足跡を枝でならす。処理した魔獣の内臓のうち、食べられない部分は小屋から離れた下流側へ運び、獣の注意をあちらへ逸らす餌にした。小屋の周囲には、細い紐に小石と木片を結んだ簡単な仕掛けを張る。獣でも人でも、近づけば音が鳴る。戸には内側から閂を確認し、水と薪を一晩分、中へ運び込んだ。

戻る頃には、森は完全に夜の色になっていた。

小屋の中では、炉の火だけが小さく揺れていた。

トージャは火の傍らで、自分の体も点検した。昼間、魔獣の牙がかすめた腕は、袖地が裂けただけで皮膚に傷はなかった。森の奥で吸い込んだ黒紫の重さも、頭の奥に鈍く残る程度で、手足の感覚は正常だった。明日の朝、もう一度だけ奥へ入る分には、彼の体は持つはずだった。

彼は革袋の中身を広げ、明日の段取りを組み立てた。

夜明けと同時に出る。目印の枝を辿り、足跡のあった獣道は大きく迂回する。沢を渡り、薬草の自生地で採集する。滞在は短く。日が高くなる前に小屋へ戻り、煎じた薬を少女に使う。それから集落へ向かい、食料と布を調達する。父母には、森で足を痛めた狩人の知らせを受けた、とでも話すしかないだろうか。

嘘の案を一つ思いつくたびに、彼の気分は重くなった。

だが、今夜のところは、それ以上を考える余裕がなかった。干し肉を一切れ齧り、水を飲み、彼は少女の様子をもう一度確かめた。熱は高いまま。呼吸は浅いまま。それでも、血は止まり、唇の色は昼間より戻っていた。

持ちこたえている。この少女は、見た目よりも強いのかもしれなかった。

その夜、少女が一度だけ目を開けた。

焦点の合わない瞳が天井をさまよい、やがて、傍らに座るトージャを捉えた。体に緊張が走る。逃げようとして、傷に激痛が走ったのだろう。顔が苦痛に歪んだ。

「動くな。傷が開く」

トージャは両手を見せて、ゆっくりと声をかけた。

言葉が通じているのかは分からなかった。だが、少なくとも、彼が武器を手にしていないことは伝わったらしい。少女の呼吸が、わずかに落ち着く。乾いた唇が微かに動いた。何かを言おうとしている。耳を寄せても、それは言葉として聞き取れなかった。弱々しい息の、断片のようなものだった。

少女の手が、外套の端ではなく、トージャの袖を掴んだ。

力は、ほとんどなかった。それでも、離そうとはしなかった。

トージャはその手を無理に外さず、もう一方の手で濡れ布を少女の額に置いた。熱い額。冷たい布。しばらくそうしているうちに、少女の指の力は少しずつ抜けていき、瞳は再び閉じた。

彼は、長い息を吐いた。

集落では、そろそろ夕餉が終わる頃だった。

帰ってこない息子のことを、父母は心配し始めているだろう。明日の昼になっても戻らなければ、探しに出る者も出てくるはずだ。カルドあたりは、真っ先に名乗りを上げそうだった。あの豪快な大剣使いは、友が戻らないと聞けば、理由も聞かずに森へ飛び出してくる。ナラは違う。まず状況を聞き、必要な人数と装備を整えてから動くだろう。フーアンは、文句を言いながら、結局はついてくる。

三人の顔を思い浮かべて、トージャは少しだけ困った。

この少女のことを、どう話せばいいのか。

正直に話せば、集落は騒ぎになる。話さなければ、彼は嘘をつくことになる。どちらにしても、朝になれば一度は集落へ顔を出さなければならなかった。食料も、清潔な布も、道具も足りない。この小屋だけで、治療を長く続けることはできないのだった。

夜が明けたら、まず森の奥へ行く。

薬草を採り、少女の熱を本格的に抑える。それから集落へ戻る道を考える。順番は、それでいいはずだった。

夜の半ば、少女の熱が再び上がった。

うなされるように首を振り、掴むもののない手が敷き草を握る。トージャは濡れ布を取り替え、苦根の湯を数滴ずつ飲ませた。すぐに効果が出る薬ではない。それでも、何もしないよりはましだった。熱のある体は水を欲しがる。唇が乾くたびに、彼は布の端を湿らせて唇に触れた。

そのとき、下流の方で獣の声がした。

低い。腹に響くような声だった。昼間に足跡を見た大きな魔獣かどうかは分からない。小屋の周囲は、静かだった。仕掛けた紐は鳴らない。匂いを逸らす餌が、獣をあちらへ引きつけてくれたらしい。やがて声は遠ざかり、森は夜の静けさを取り戻した。

トージャは斧の柄から、そっと手を離した。

自分の心臓の音が、まだ速かった。熟練の戦士でもない彼の夜は、そういう恐怖と地続きだった。それでも彼は、戸の傍らから動かなかった。この小屋には、今夜だけは、彼しかいないのだった。

炉の火が、小さく爆ぜた。

少女の呼吸は速いままだったが、昼間よりは規則正しくなっていた。トージャは戸の傍らに背を預け、斧を膝の上に置いて、浅い眠りと覚醒のあいだで夜を過ごすことにした。

外では、紐に結んだ木片が、風に揺れて一度だけ小さく鳴った。

彼は目を開けたまま、その音を聞いていた。

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