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大穴の調合師と全てを繋ぐ触媒  作者: 那貴


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第1話 森に落ちた白

森は、朝の光の中でも薄暗かった。

太い幹が幾重にも連なり、頭上では枝葉が空を細切れにしている。足元には落ち葉と苔が厚く積もり、踏むたびに湿った土の匂いが立ち上った。その匂いに混じって、かすかに鉄と腐葉土の混ざったような、別の匂いがある。

大穴に近い土地の森は、どこもそうだった。

光を受けて、空気の中に細かな粒が漂うのが見える。紫とも黒ともつかない色をした粒子――集落の者は、それを黒紫(こくし)と呼んだ。外の土地から来た者は名前すら知らないという。だが、この土地に生まれた者にとっては、呼吸と同じくらい当たり前のものだった。

彼は落ち葉の上を音もなく進みながら、時折立ち止まっては周囲を見渡した。

黒い髪。黒い瞳。日に焼けた肌も、彼の民族の特徴をそのまま表していた。腰には手斧。背には素材を入れる革袋と、水筒と、応急の道具一式。背丈は同年代の中では決して小さくないが、戦士として名を上げる者たちと比べれば、体格は平均の域を出なかった。

彼の名は、トージャといった。

それでも、森の中でのトージャの足取りには迷いがなかった。

「……あった」

小さく呟いて、彼は一本の倒木の陰にしゃがみ込んだ。

苔に埋もれるようにして、葉の裏が白い草が生えている。血止めに使う草だった。葉をちぎると、青臭い匂いとともに白い汁が滲んだ。彼は状態の良いものだけを選んで摘み、根を残した。全部を採り尽くせば、来年はここに出ない。森の恵みは、必要な分だけもらうものだ。それは調合を学ぶ以前に、集落の誰もが教わることだった。

採った草を小分けにして袋にしまう。指先に付いた汁を、彼は何気なく舐めて確かめた。苦みが弱い。今年は雨が多かったせいか、効きが穏やかだろう。集落へ戻ったら、乾燥の仕方を変えた方がいい。

彼の興味は、いつもそういうところへ向かった。

どの草がどの傷に効くか。毒草は、量と組み合わせで薬に変わるか。魔獣の角や牙、皮や内臓の、どこが何に使えるか。戦士としての名声を求める同年代が多い中で、彼が調合師を志すことは、集落の中でも少し不思議がられていた。

だが、誰もそれを咎めはしなかった。

怪我人の手当てをし、魔獣の生態について戦士たちに助言する彼の知識が、役に立つことを皆が知っていたからだ。そして何より、この土地では、生きるために必要な仕事に貴賤はなかった。

次の目的地は、罠の見回りだった。

獣道の脇、低い茂みの中に仕掛けた輪罠を確認する。近づく前に、彼は風向きを確かめた。風は集落の方から森の奥へ。悪くない。次に足跡を見る。新しい。しかも、引きずったような跡がある。

罠にかかっている。

彼は斧を握り直し、茂みの影から慎重に覗き込んだ。

いた。灰色の毛皮に、発達した後ろ脚を持つ中型の魔獣。前脚を罠に取られ、暴れたせいで脚は血に濡れていた。牙は小さいが鋭い。近づけば噛みついてくるだろうし、罠を外して逃がせば、脚の傷で長くは生きられない。苦しみが延びるだけだ。

彼は息を整え、魔獣の視界の外を回り込んだ。

戦いは、始める前にできるだけ終わらせる。それが彼のやり方だった。

枯れ枝をわざと踏む。魔獣が音に反応し、首を向けた。その一瞬、罠に取られていない方の脚に体重がかかる。彼はその隙を見逃さなかった。茂みから飛び出し、斧を振るう。一撃目は首ではなく、肩口。刃が肉に食い込み、魔獣の体勢が崩れる。反撃の牙が彼の腕をかすめたが、厚い袖地が牙を滑らせた。

痛みはない。届いていない。

彼は間合いを詰めたまま、二撃目で魔獣の息の根を止めた。

静かになった森の中で、彼はしばらく斧を構えたまま立ち尽くした。周囲に仲間の魔獣がいないことを確かめてから、ようやく息を吐く。肩に、斧を振るった反動の重さが残っていた。心臓の音が速い。

「ありがたく、もらうよ」

魔獣に声をかけ、彼は手際よく処理を始めた。

血を抜き、使える部位を見極める。肉は食料に。皮はなめせば袋や防具の補修に使える。牙と、後ろ脚の腱は調合や道具の材料になる。無駄にしない。それもまた、森への礼儀だった。

処理を終え、革袋がずっしりと重くなった頃には、日は少し高くなっていた。

彼は最後に、近くの岩場へ足を延ばした。

岩の割れ目に、熱冷ましに使う苦根が自生している場所がある。去年、母に教わって見つけた場所だった。掘ってみると、今年の根は細い。採るのは二本だけにして、土を戻す。効き目は穏やかでも、熱を持つ怪我人が出たときには背に腹は代えられない。

根を包みながら、彼はふと、集落の古老から聞いた話を思い出した。

この世には、書き写しも、持ち出しも許されなかった調合書が三冊あるという。その一冊にでも触れることができれば、今の自分には想像もつかない調合が学べるはずだった。そして、その先にあるとされるもの――全てを繋ぐ触媒。オールパウダー。それが本当に存在するのか、存在したとして大穴の先のどこにあるのか、誰も知らない。

知らないからこそ、彼は知りたかった。

戦士として名を上げることよりも、まだ見たことのない草や、名も知らない魔獣の生態や、伝承の中にだけ残る調合の方が、彼の心を強く引いた。それを集落の大人たちに話すと、大抵は苦笑いをされる。「お前は、戦士になれる腕を持ちながら、随分と遠回りな夢を見る」

遠回りでいい、と彼は思っていた。素材を知らなければ、薬は作れない。森を知らなければ、生きては帰れない。彼の夢と、彼の毎日は、ちゃんと地続きだった。

予定の採集はほぼ終わっている。集落へ戻れば、昼過ぎには着くだろう。

――そのはずだった。

帰り道の途中、彼は足を止めた。

鳥の声がない。

森では、静けさにも種類がある。獣が近づいたときの静けさ。雨の前の静けさ。そして、これは。

彼はゆっくりと周囲を見渡した。視覚よりも先に、嗅覚が異常を捉えていた。血の匂いだ。だが、さっき処理した魔獣の血とは違う。古くない。しかも、量が多い。

風は森の奥から吹いていた。

彼は革袋を木の根元に置き、斧を手に、匂いの方へ進んだ。足音を消し、枝を踏まないように歩く。大きな倒木を越え、斜面を半分ほど下りたところで、それが見えた。

初めは、落ち葉の上に何か白いものが落ちているのだと思った。

近づいて、息を呑んだ。

少女だった。

倒木の根元に身を寄せるようにして、横たわっている。肌は陶器のように白く、長い髪は、彼の知るどの民族のものとも違う明るい色をしていた。衣服も見慣れない仕立てだった。汚れと血で、本来の色はよく分からない。

その血は、彼女のものだった。

脇腹から腰にかけて、衣服が破れ、傷口から血が滲み続けている。呼吸は浅く、速い。放っておけば、昼を待たずに死ぬだろう。

彼はとっさに周囲を確認した。敵意のある気配はない。争ったような跡も、近くには見当たらなかった。彼女をここに置いていった何者かも、今はもういないらしかった。

「……聞こえるか」

声をかけても、返事はなかった。まぶたがかすかに震えただけだった。

彼は迷わず革袋を開けた。いや、正しくは、迷う理由が目の前になかった。傷病人がいる。手当てをする。それだけのことだった。

だが、指が道具に触れたとき、もう一つの現実が頭をよぎった。

この少女は、外の人間だ。

肌の色も、髪の色も、それを雄弁に物語っていた。外縁の人間に対する集落の警戒心を、彼はよく知っている。開発だ、交易だと言って土地に踏み入り、森を切り開き、こちらの信仰も暮らしも理解しようとしない者たち。その全てが悪人ではないと彼は思っていたが、集落の大人たちが簡単には頷かないことも分かっていた。

不用意に連れ帰れば、彼女は助かる前に問答の的になる。衰弱した体では、集落までの道のり自体も危うい。

どうする。

判断は、速かった。

まず、ここで止血する。そして、近くの隠れ場所へ移す。集落の狩人たちが使う、古い休憩小屋がこの先にある。雨風をしのげて、獣にも見つかりにくい。彼女を落ち着かせてから、次を考える。

彼は摘んだばかりの血止め草を手早く潰し、清潔な布に広げて傷口に当てた。少女の体がびくりと震える。当て布の上から、体重をかけすぎないよう、しかし確実に圧迫する。血の滲みが緩やかになるのを確認してから、包帯代わりの布を巻いた。

作業の間、彼は傷の形を観察していた。

獣の爪や牙の傷とは、どこか違う気がした。裂け方が、まっすぐすぎる。だが、それが何を意味するのか、今の彼には断言できなかった。分からないことを、分かったように扱うのは危険だ。

「少し、動かすぞ」

返事がないことは承知で声をかけ、彼は少女を抱え上げた。

見た目よりも軽かった。いや、衰弱のせいで体から力が抜けているからだろう。脇腹の傷に負担をかけないよう姿勢を支え、斜面を登る。一歩ごとに落ち葉が滑り、腕に重さが食い込んだ。休憩小屋までは遠くない。だが、その「遠くない」が、今は長く感じられた。

小屋に着いたとき、彼の額には汗が滲んでいた。

戸口のつっかい棒を外し、中の乾いた敷き草の上に少女を寝かせる。外套を脱いで掛けた。呼吸はまだ浅いが、止血は保たれている。水を少しだけ唇に含ませると、彼女の喉がかすかに動いた。

飲み込めた。それは良い兆候だった。

彼は小屋の片隅に座り込み、自分の道具と、残っている薬の量を数え直した。

止血はできた。だが、それだけでは足りない。傷が深ければ、熱を持つ。化膿すれば、少女の体力では耐えられないだろう。必要な薬草は分かっている。しかし、それはこの近辺には生えていなかった。もっと森の奥。黒紫の色が、もう一段濃くなる場所にしか、自生していないものだった。

窓の外では、日が傾き始めていた。

帰らなければ、集落の者が心配するだろう。だが、このまま少女を置いて帰ることもできない。

彼は斧の柄を握りしめ、静かに立ち上がった。

行くなら、今だ。日が落ちる前に、奥へ行って戻ってくる。

眠り続ける少女の顔を、彼はもう一度だけ見た。

白い肌。明るい髪。この土地のものではない命が、今、彼の判断に委ねられていた。

小屋を出て、彼は森の奥へと歩き始めた。

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