第36話 道を繋ぐ者
使者の準備は、鎧武兵団の詰所から始まった。
評定の決定を受け、メリベルが人選を進めていた。派遣の文書は、マグナスの執務の手続きを経て、正式な砦の使者としての体裁を整えていた。一つの団の用事ではなく、砦全体の使者。その重みが、準備の空気を引き締めていた。条件は、彼女の口から短く示された。「地形に明るいこと。護衛が務まること。そして、相手の砦で、言葉を交わせること」。三つを兼ねる者は、多くなかった。
詰所の中は、いつもと少し空気が違った。装備の点検をする者、地図を広げる者、記録を確かめる者。一つの出発のために、多くの持ち場の仕事が静かに重なっていた。使者を出すということは、選ばれた三人だけの仕事ではないのだと、トージャは感じた。
トージャは、ルシェルドの使いで詰所を訪れていた。使者が持参する薬と素材について、相談を受けるためだった。
候補は、いくつか挙がった。足の速い若者は、道中の護衛と交渉の重さで外れた。交易に顔の利く者は、森の地形に疎かった。レイカーは早口で言った。「使える者を出せ。砦の顔だ」。メリベルは頷いた。「だからこそ、三つの条件は譲りません」
人選は、数日で固まった。使者には、交易路の護衛を何度も務め、地形に明るい古参の隊員が選ばれた。護衛として、若い隊員が二人付く。
出発の前日、使者の隊員は、トージャのところへ薬の確認に来た。彼は包みの一つ一つの札を読み、使い方を尋ねた。「頭痛の葉は、どのくらいから使う」。「我慢できなくなる前です。効きは緩やかですから」。先方の調合師への土産の包みについても、彼は丁寧に扱った。「先方の調合師が、どんな方かは分からない。若い方なら学びの助けに、年配の方なら礼の品として渡す。言葉は、相手を見てから決める」。交渉というのは、こういう柔らかさのことらしい。トージャは、その場の空気の読み方に、自分の知らない大人の仕事を見た。
「向こうの師匠への品だ。大事に運ぶ」。トージャは、その言葉に、使者という務めの重さを感じた。物だけでなく、砦の心構えまで運ぶ仕事だった。
ルシェルドの作業場では、持参するものの選定が進んでいた。
作業場の空気は、乾燥した薬草の匂いに満ちていた。トージャは、薬草の乾き具合を指先で確かめ、水分を含んだものは包みから外した。道中で黴ては、薬が毒になる。包みは、湿気を避けるために二重にし、継ぎ目には蝋を引いた。保存薬の仕事は、地味で、時間がかかった。
「傷薬と、熱冷ましの薬は要る。道中で何があるか分からんからな」。長老は、棚を眺めながら言った。「それと、先方の調合師への、土産代わりの薬草だ。情報の交換というのはな、まず物を分け合うところから始まる」
トージャは、選ばれた薬草の量を計り、包みに分けた。三人分、往路の日数に余裕を持たせた量だった。窪地に近い道を通る可能性を考え、頭痛の葉も加えた。以前、自分が両団へ提案した巡回用の携帯薬の考え方が、ここでも生きていた。包みには、一つ一つ、用途と量を記した札を結んだ。受け取る者が、迷わないようにするためだった。自分が関わった交易の品が、今度は砦と砦の間を運ばれていく。そのことに、静かな感慨があった。
「……長老。砦同士の行き来は、昔はもっと多かったんですか」
「ああ」。長老は、少し目を細めた。「私が若い頃でも、今よりはずっと人の往来があった。記録も、分け合っていたものだ。それが、いつの間にか、めっきり減ってしまった」
長老は、若い頃のことを少しだけ話した。隣の砦の調合師と、薬草の見分け方を巡って言い争いになり、それでも最後には互いの覚え書きを見せ合ったこと。その調合師とは、その後も文のやり取りが続いたという。
理由は、長老も言わなかった。戦があったわけでも、争いがあったわけでもないとだけ、彼は言った。「なぜ、減ってしまったんでしょう」。「一つの理由ではあるまい」。長老は、首をゆっくり振った。「忙しい年もあれば、厳しい冬もあった。用心が要る時代もあった。そういうものが積み重なって、気がつけば、足が遠のいていた。……だからこそ、また一歩から始めればいい」
準備の最終段階で、経路の問題が持ち上がった。
使者の道の前半は、交易路と重なっていた。だが、巡回の記録を確かめると、その一帯は、大型魔獣の新しい縄張りの端に近かった。以前にトージャが退けた個体が、根掘り獣の群れを押し出して移り住んだ、あの地域だった。
詰所で、メリベルは地図と巡回記録を広げた。彼女は、トージャにも尋ねた。「あの大型獣の縄張りの端は、どこまでだ」。その地域には、彼の体にも記憶があった。隊商の到着した頃、合同の調査で歩いた道。根掘り獣の群れと対峙し、交易路の迂回を決めた、あの調査だった。大型獣の足跡の向きも、居座った場所の見当も、彼の覚え書きに残っていた。
トージャは、以前に自分が関わった調査の記憶を辿り、地図の上に指で線を引いた。「この沢筋より東は、入っていません。少なくとも、今のところは」。メリベルは頷き、その線を境に、経路を引き直した。「この区間は、外す。北側の尾根沿いの道を使う。巡回の記録で、安全が確かめられている線だ」
広げられた記録の中には、観測の持ち回りの記録も、フーアンの書き直した巡回報告もあった。若い世代の残した記録が、ベテランの歩く道を決めていく。その連なりを、トージャは誇らしく思った。尾根沿いの道については、直近に歩いた巡回の記録があった。一か所、岩の崩れで狭くなった場所があること。沢の渡り場の水位が下がっていること。徒歩の三人なら、問題なく通れる線だった。
使者に選ばれた古参の隊員は、尾根沿いの道について「若い頃、猟で通ったことがある。今も通れるはずだ」と請け合った。
トージャも、その場で記録の確認に加わった。自分が書いた観測の記録と、仲間たちの巡回の記録が、使者の道を決める材料になっていた。記録は、こうして人を守るのだと、彼は改めて思った。
使者の出発は、砦の中でも小さな話題になっていた。冬支度の忙しい時期だったが、台所の煙の合間に、人々は門の方を気にしていた。「使者なんて、久しぶりだね」。誰かの言葉に、頷く者がいた。トージャの母も、保存食の分け前を一行の荷に加えた。「道中のお腹は、温かい方がいいのよ。……無事に帰ってくるのよ、みんな」。母らしい、柔らかな言い方だった。
出発は、晴れた朝だった。
その朝の天候と鳥の動きは、観測の持ち回りの報告で、問題なしとされていた。各持ち場の仕事が、静かに噛み合って、出発の日の朝を支えていた。
門の前に、使者の三人が集まった。受け入れの実務を担うゴーンズが、食料と装備の最終確認をしていた。見張りの持ち場には、カルドの姿があった。彼は、持ち場を離れることなく、真っ直ぐ立って一行を見送っていた。その夜の見張りの報告には、出発の時刻と天候が、正確に記録されるはずだった。その姿は、もう新入りの初日の彼ではなかった。積み込みの最後、トージャは一つの包みの結び目に指を止めた。結びが、僅かに緩んでいた。道の揺れで解ければ、中の札が散る。彼はその場で結び直し、二重に締めた。使者の隊員が、それを見て小さく笑った。「調合師は、目が細かいな」。「薬は、届いて初めて薬になるので」。彼は答えた。小さな手間を惜しまないことが、自分の仕事の全部だと思っていた。
背負い袋には、薬の包みと、記録を綴じた束が収められていた。記録の束には、この間の沢の調査の結果と、窪地の観測の記録の写しが入っていた。束の最後には、先方への問いも添えられていた。そちらの沢や窪地では、変化はないか。同じ森を見ている者同士、見えているものが違うかもしれないからだ。「渡すだけでなく、聞いてくることも、仕事の半分だ」。ルシェルドの言葉を、使者は静かに復唱していた。分かったことと、分からないことの両方を、先方と分け合うためだった。トージャは、その写しを作る作業も手伝っていた。自分の記録が、砦の外へ出ていく。それは、彼にとっても初めてのことだった。出発の直前、メリベルは使者に最後の確認をした。「帰還の目安を過ぎたら、こちらから迎えを出す。それまでは、無理に進むな。道を繋ぐことが仕事だ。命を削ることではない」。使者は、深く頷いた。
ルシェルドが、最後に声をかけた。「無理はするな。道は、繋ぐためにある。まず、無事に帰ってくることが、一番の仕事だ」
使者は頷き、門を出た。三人の足音が、門の外の道に吸い込まれていった。残った者たちは、それぞれの持ち場に戻っていった。砦の日常は、すぐに元通りになった。だが、何かが少しだけ、変わっていた。見送る者は多くなかった。だが、砦の外へ、砦同士を結ぶために人が出ていくのは、久しぶりのことだった。
門が閉まる音を聞きながら、トージャは思った。道が開いていくというのは、こういうことなのかもしれない。今日は隣の砦への道だった。いつか、岩棚の少女の前にも、歩いていける道が開ける日が来るのだろうか。その問いは、まだ口に出せるものではなかった。だが、出発する三人の背中は、その問いに、小さな、確かな希望の色を添えていた。
トージャは、遠ざかる三人の背中を見送った。冬は近づいていた。その前に、途切れかけていた道に、もう一度、人の足跡が付いていく。彼の仕事は、その足跡の先にはなかった。だが、薬の包みと、記録の束と一緒に、自分の関わった仕事の一部も、あの道を進んでいくのだった。
作業場に戻ると、ルシェルドは彼に言った。「送ったものの控えを、砦の記録に残しておきなさい。何を、いつ、誰に託したか」。トージャは頷き、筆を取った。道は、歩く者がいて初めて道になる。途切れた道も、歩き直す者がいれば、また道になっていくのだ。そして、記録は、その道を次の者のために残す仕事だった。




