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大穴の調合師と全てを繋ぐ触媒  作者: 那貴


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第37話 冬の薬棚

砦は、冬支度の真っ最中だった。薪は人の背丈より高く積まれ、台所からは塩漬けの肉の下がる匂いがした。女たちは冬の衣を繕い、子供たちは焚き付けの小枝を運んでいた。共同体の冬は、皆の手で作られていくものだった。

 

冬の薬棚の確認は、ルシェルドの作業場で始まった。

 

評定の後、長老から託された依頼だった。砦の冬を越すための、薬草と保存薬の棚卸し。傷薬、熱冷まし、咳の薬、腹の薬。棚の壺と包みを一つ一つ開け、量と状態を帳面に記していく。

 

長老の決めた手順では、冬の間も月に一度、棚を開けて状態を見直すことになっていた。湿気は、封をした壺にも忍び込む。備えは、作って終わりではなかった。両団の携帯薬も、冬用に見直すことになった。寒さで固まる軟膏は、体温で温め直せる配合に変える。その細かな仕事も、彼の依頼に含まれていた。

 

「冬は、薬が一番要る季節だ」。長老は言った。「怪我も、熱も、待ってはくれん。だが、採りすぎもいかん。今年の森の分を取り尽くせば、来年の棚は空になる」

 

棚卸しは、根気の要る仕事だった。去年の冬の使用記録と照らし合わせ、熱冷ましの薬が足りないことが分かった。湿気で傷んだ包みも二つ見つかり、それは容赦なく外した。帳面の数字は、正直でなければならなかった。足りないなら、足りないと書く。その上で、補う方法を考えるのが、調合師の仕事だった。

 

トージャは頷いた。今年、白い花の群生は、新しい芽が少なかった。観測の記録にある通りだった。彼は、その薬草の採取量を、例年より減らす判断を帳面に記した。長老は、その判断を帳面で確かめて、言った。「記録があるから、減らす判断ができる。欲しいだけ採るのは、誰にでもできる。来年の森を残す判断は、記録を持つ者にしかできん」。その言葉は、彼の観測の日々への、静かな評価だった。

 

代わりに、ありふれた薬草の配合で補える分は、そちらへ寄せた。

 

 

調合は、その日のうちに始まった。

 

白い花の薬草は、効きが強い分、量を間違えば毒になる。黒紫の気に近い土地で育った素材は、効き目と毒気を併せ持っていた。彼は秤で二度量り、細かく砕き、油脂と混ぜて、弱火でゆっくり温めた。急がせれば、分離する。効きが表れるまでにも、時間がかかる薬だった。

 

白い花の花弁は、砕くと僅かに色を変えた。その変化の具合で、乾きの良し悪しが分かる。彼は、出来上がりの色と匂いを帳面に書き留めた。同じ薬を、次に同じように作るための、記録だった。

 

すり鉢で砕く音、湯気の匂い、油と混ざるときの色の変化。彼は、一つ一つの段階を、目と鼻と指先で確かめながら進めた。仕上がった壺には、日付と中身を記した札を結び、蝋で封をした。冬の間、この壺たちが、誰かの熱を下げ、誰かの傷を塞ぐのだった。

 

一壺は、失敗した。火の見張りが一瞬それて、底が焦げた。匂いが変わっていた。彼は、その壺を迷わず廃棄に回した。

 

「惜しいと思うな」。長老は言った。「疑いのある薬は、薬じゃない。捨てるのも、調合師の仕事だ」

 

作業の合間、巡回に出る隊員が、携帯薬を受け取りに来た。「軽くなって、助かっている」。彼は、トージャの名を呼んで礼を言った。自分の調合が、誰かの荷の軽さになっている。その実感が、彼の手を、また丁寧にさせた。

 

帳面を閉じるとき、長老は彼に尋ねた。「もし、今年の冬が例年より厳しく、熱を出す者が倍になったら」。彼は、少し考えて答えた。「ありふれた薬草の配合を増やし、白い花の分は、本当に要る者へ回します。……それでも足りなければ、そのときは、長老に相談します」。長老は頷いた。「一人で、答えを出し切ろうとするな。備えとは、余白を持つことだ」

 

 

帳面の写しを閉じるとき、彼の頭の中には、もう一つの棚があった。公式の帳面には載らない、岩棚の彼女の蓄えだった。砦の薬棚と同じように、彼女の冬も、量と状態を確かめる必要があった。火種の予備、布の厚み、鍋の大きさ。足りないものを、彼は心の帳面に書き加えていった。

 

数日後、トージャは岩棚を訪れた。砦側の備えの目途がついたら、次は彼女の冬支度を確かめるためだった。観測の持ち回りの務めが、この道の一部を表向きのものにしてくれていた。

 

森は、色を落としていた。落ち葉は乾いて音を立て、朝の冷えた場所では、薄く霜が降りていた。彼の息は、白くなった。季節は、もう後戻りのないところまで進んでいた。

 

入口の石は、三つ並んでいた。異常なしの合図だった。彼女は、温かい飲み物を用意して待っていた。客人を迎える作法が、彼女の暮らしに根付いていた。

 

棚の下には、彼女の冬の蓄えが並んでいた。干した魚、木の実の袋、編んだ棚に広げた薬草の束。薪は、岩の陰に雨の当たらない積み方で備えられていた。自分の採った薬草を、彼の教えた方法で乾かし、布に包んで、量まで分かるように小石で印を付けていた。

 

彼女の工夫もあった。木の実は、灰の中に埋めて蓄えていた。虫が付かず、湿気も吸うのだという。魚は、薄く裂いて風の通る岩陰に吊るし、乾きを早めていた。彼が教えたのは、薬草の乾かし方だけだった。それを、彼女は自分の暮らしの全部に応用していた。針仕事も進んでいて、前に届けた糸で、自分の上着のほつれを繕った跡があった。

 

別れ際、彼女は五つ目の包みを彼に託した。砦で売ってもらうためだった。彼女の銀貨の蓄えは、まだ四枚のままだったが、この包みが売れれば、また増えるはずだった。自分の稼ぎで、自分の暮らしを良くしていく。その積み重ねが、彼女の自信になっていた。

 

彼女は、五つ目の薬草の包みも用意していた。質の良いものと、そうでないものを、自分で分けて束ねてあった。売る仕事の作法を、彼女は見よう見まねで身につけていた。彼がそれを褒めると、彼女は真剣な顔で言った。「コレ、……シゴト、カナ」。自分の薬草が、仕事になるのか。彼女の問いは、砦で働く自分の姿を、もう具体的に思い描き始めていた。

 

彼女は、自分の薬草の束を一つ、彼に確かめさせた。彼は、匂いを嗅ぎ、指で砕いて、湿り気がないことを確かめた。「イイ」。彼女は頷いて、その確かめ方を、目で覚えようとしていた。岩棚の奥には、彼女自身のための小さな薬の備えもあった。砦に薬棚があるように、彼女の暮らしにも、薬棚があった。その小さな棚の確かさが、彼の胸を打った。

 

「ワタシ、ジュンビ、シタ」。彼女は、少し誇らしげに言った。

 

二人で、染み出し水の場所まで歩いた。彼女の刻みの棒には、新しい印が増えていた。水の溜まる時間は、確かに長くなっていた。彼女は、大きな鍋を指さした。雪を溶かして水にする備えだという。先回りの工夫に、彼は感心した。雪を溶かすには、火が要る。火には、薪が要る。水の問題は、そのまま燃料の問題にもなる。冬の暮らしは、全部が繋がっていた。だが、その工夫の全部が、彼女一人の肩にかかっていることが、かえって彼の心を重くした。

 

だが、トージャの目には、別のものも映った。岩の染み出し水は、さらに細くなっていた。彼女の数えた記録では、水の溜まる時間がまた長くなっていた。雪が積もれば、彼女の足跡は隠せない。寒さが深くなれば、一人の暮らしの危うさは増していく。

 

「ヨル、サムイ、カ」。彼が尋ねると、彼女は今のところは大丈夫だと答えた。だが、すぐに岩棚の外の、森の奥を指さした。「フユ、ホント、サムイ」。本当の寒さは、これからだということを、彼女も知っていた。油断のない言い方だった。

 

彼女は、砦の冬のことも尋ねた。「トリデ、フユ、……ナニ」。彼は、簡単な言葉で答えた。皆で火を囲むこと。雪の日は、持ち場が辛くなること。温かい汁の匂い。彼女は、それらを静かに聞いていた。想像の中の砦が、彼女の中で少しずつ具体的な場所になっていくのが分かった。

 

そのとき、彼女は言った。「フユ、オワル。……ワタシ、トリデ、イク。シゴト、スル」

 

彼女は、言葉を足した。「ヒト、ミル。コトバ、タクサン、キク」。働くことだけではない。人に会い、たくさんの言葉を聞きたい。彼女の望みは、暮らしの安全よりも、もっと大きなものへ広がっていた。

 

以前よりも、はっきりした言葉だった。季節の終わりを、自分で指し示していた。

 

彼は、正直に言った。「……フユ、ワタシ、シンパイ。ミズ、スクナイ。ユキ、クル。ヒトリ、キケン」。彼女は、彼の顔を静かに見ていた。反論はしなかった。だが、すぐに頷きもしなかった。自分の冬の危うさを、彼女なりに測っているのだろう。その沈黙も、彼女の成長だった。以前なら、不安だけが顔に出たはずだった。

 

トージャは頷いた。だが、心の中では、別の考えが重くなっていた。補給の間隔は、最長で五日と決めていた。だが、雪が積もれば、その五日が命取りになる。彼女が熱を出しても、獣に追われても、誰も気づけない冬が来る。この冬そのものを、彼女一人で越させることが、本当にいいのか。春を待つ彼女の言葉と、近づく冬の厳しさが、彼の胸の中で釣り合わなくなっていた。

 

 

帰り道、日はもう傾いていた。森の影が、長く伸びていた。

 

彼は決めていた。次の訪問で、ナラと三人で、長老への相談のことを話す。話す内容も、彼は帰り道の間に、心の中で組み立てていた。彼女の暮らしが、彼女の力で整っていること。その上で、冬の危うさは、一人の力の限界を超えていること。相談は、彼女の失敗の報告ではない。彼女の暮らしを守るための、次の手なのだということ。もう、先延ばしにはできない。彼女の暮らしは、彼女の力で、ここまで整った。だからこそ、その暮らしが冬に壊れる前に、大人の知恵を借りる道を、彼女自身の意思と一緒に開きたかった。

 

今夜のうちに、ナラに話すつもりだった。三人で話す日取りと、彼女に伝える言葉を決めるために。雪の匂いのする風の中を、彼は足早に砦へ戻った。門をくぐるとき、彼は空を見上げた。初雪は、もう遠くないはずだった。


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