第35話 槍の行き先
フーアンの巡回補助は、気持ちのいい初日だった。集合場所に、彼はいつになく早く着いた。正隊員の一人が笑った。「天気の槍が、時間通りに来るとはな」。彼は「たまにはな」と返した。気分屋の評判は、自分でも分かっていた。だからこそ、その日の彼の足取りの軽さは、本物だったのだろう。
鎧武兵団の班に混ざり、交易路寄りの森を歩く。西へ迂回した新しい道と、その脇の獣の出やすい一帯を確かめる巡回だった。大型獣の縄張りの端にかかる地域でもあり、班の歩みには緊張があった。だが、彼にとっては、その緊張のある道の方が、性に合っていた。退屈な日常の巡回より、ずっと。彼の足運びは、斜面でも、濡れた落ち葉の上でも乱れなかった。鳥の飛び立ち方で獣の位置を読む勘は、正隊員たちにも一目置かれた。班長が言った。「お前が先頭にいると、班全体の目が増える」
その日の午後、林の縁で、中型の獣が一頭、班の前に姿を見せた。距離は遠く、襲う気配はなかったが、班は即座に構えた。フーアンは、言われる前に斜面側へ回り込み、槍を低く構えて獣の退き口を塞ぐ角度に立った。一族の型の、受けの位置だった。獣はしばらくこちらを窺い、やがて森の奥へ引き返した。血を流さずに済んだ進退だった。班長が彼の肩を叩いた。「いい位置だった」
道の途中、彼は古い獣の痕跡を見つけて、班を止めた。中型獣の寝跡だったが、彼は跡の崩れ具合から「三日以上前のもの。今はこの辺りにはいない」と読み、班長もその読みに頷いた。斜面では、槍を杖のように使いながら、重心を落とした彼一族の足運びを見せ、後続の隊員の歩き方まで直してやった。
休憩のとき、若い正隊員が、彼の槍の扱いについて尋ねた。彼は悪くない気分で、一族の足運びの要点を一つ、実演して教えた。教えることは、嫌いではなかった。技は、こうして人から人へ渡っていくものだと思っていた。そのときの彼はまだ、記録もまた、同じ「渡す」仕事だとは、考えていなかった。
彼は笑って受けた。槍も、足も、目も、自分の得意なものばかりが求められる仕事だった。休憩のとき、正隊員の一人が聞いた。「お前、そのうち正式に入るんだろ」。彼は「さあね」と笑って流した。答えは、まだ自分の中にもなかった。
班長は、彼に言った。「副団長から聞いている。報告書は、メリベル副団長が直接読むそうだな」。彼は笑って答えた。「みたいですね。俺も驚いてます」。その軽口の裏で、彼は少しだけ、背筋を伸ばしていた。見られている、という感覚は、悪くなかった。
だが、巡回そのものよりも先に、彼を待っていた仕事があった。報告だった。
詰所に戻れば、帳面に向かう。歩いた経路、見た痕跡、前回との違い。初めの数回は、言われた通りに書いた。だが、同じ道、同じ点検が続くうちに、彼の筆は短くなっていった。
面白い発見のあった日には、彼の筆は進んだ。鳥の群れの動き方一つで、一頁が埋まった。だが、何もない日には、帳面の白さが目に痛かった。筆を持ったまま夕食のことを考え、三行書いて、手を止める。そんな日が、混ざり始めていた。
ある日の報告は、三行で終わっていた。「経路、異常なし。獣の痕跡、前回同様。水場、変化なし」
本人に言わせれば、大体合っていた。大きな変化など、なかったのだから。
彼の筆の短さは、気分に連れていた。収穫のある日、面白い発見のある日は、報告も自然と長くなった。何もない日は、帳面の前で手が止まった。叔父の言葉が、ふと頭をよぎることがあった。「お前の槍は天気だ」。彼は、その言葉を思い出すたび、苦く笑って、ごまかすように筆を置いた。
その夜、家で遅くまで帳面に向かう彼の姿を見て、叔父が茶を置いた。「槍の家が、帳面とはな」。からかうような言い方だった。彼は「うるさい」と笑い返したが、筆は止めなかった。自分でも、少し不思議だった。
翌日、彼はメリベルに呼ばれた。
副団長の机の上には、二つの記録が並んでいた。彼の昨日の報告と、観測の持ち回りの記録だった。
「水場の東の獣道」。メリベルは、静かに言った。「前回、新しい足跡が二組あった。今回、観測の記録では四組に増えている。一組は、交易路側に寄っている。あなたの報告には、ない」
「……前回同様、と書きました」
「それは、見た結果か。書くのを省いた結果か」
フーアンは、言い返せなかった。あの日、彼は水場で足跡を数えなかった。面倒だったからではない。代わり映えのしない点検の流れの中で、その一手間を、無意識に飛ばしていたのだ。
「……俺は、まだ補助ですよ」。フーアンは言った。「正隊員の報告ならともかく」
「補助も、正隊員も、報告の価値は同じだ」。メリベルは即答した。「歩いた者の目が、そのまま砦の目になる。身分で、記録の重さは変わらない」
「発見は、目でするものだ」。メリベルは言った。「だが、報告に残らない発見は、なかったのと同じだ。優れた斥候は、見つけるだけではない。他の者が使える形で、残す。……あなたの目を信用しているから、言う」
「獣道の寄りは、隊商の安全に直結する」。メリベルは、地図の上で、交易路と水場の位置を示した。「次にここを歩く者が、あなたの報告だけを頼りに判断したら、どうなる。それを考えて、残しなさい」
彼女の声は、終始静かだった。怒鳴られるより、その静かさの方が、彼の胸に残った。彼は、机の上の自分の三行の報告を、もう一度見た。森を歩くことは、できていた。その歩きを、誰かの役に立つ形にすることから、逃げていただけだった。槍の上手さは、逃げ場にはならなかった。
彼女は、訂正の追記を許した。彼はその日のうちに水場まで戻り、足跡を数え直して、記録に付け加えた。確かに四組あった。一組は、交易路側へ、思ったより寄っていた。自分の一手間の省略が、誰かの判断の材料を消すところだった。その事実は、彼の背筋を冷やした。
その日の帰り、彼は詰所の記録棚の前を通った。何年分もの巡回の記録が、静かに並んでいた。自分が森で頼りにする地形の知識の半分は、こうして先に歩いた者たちが残したものだった。自分だけが、それを受け取る側でいることは、もうできなかった。
帰り道、観測の持ち回りを終えたナラと合流した。彼の省略を見抜いたのは、彼女の記録だった。「ナラの記録のおかげで、助かった」。彼は、少し言いにくそうに言った。ナラは首を傾げた。「……フーアンが、記録のことで礼を言うなんて」。「うるさい。……でも、本当だ」。彼女は小さく笑って、それ以上は何も言わなかった。誰かの記録が、誰かの仕事を支える。その当たり前を、彼は今、自分の側から知ったのだった。
次の巡回は、つまらない一日だった。
小雨の混じる冷たい風。獣の姿はなく、痕跡も少ない。気の乗らない、単調な点検の連続だった。班の者たちも、口数が少なかった。こういう日こそ、腕の見せ場がない。以前の彼なら、帰りの足取りは速くなり、帳面の頁は薄くなっていたはずだった。以前の彼なら、帰りの筆は、また短くなっていただろう。
途中、別の巡回補助の若者が、彼の帳面を覗いて言った。「フーアンさん、今日なんか、何もなかったじゃないですか」。彼は、書きながら答えた。「何もなかったってことを、確かめたんだよ。それも仕事のうちだってさ。……最近、教わった」
だが、その日、彼は最後まで書いた。変化のなかった点検箇所にも、「変化なし」と明記した。ないことを確かめた、という記録として。水場では、足跡を一組ずつ数えた。橋の板の軋み、目印の布の色褪せ、鳥の声の少なさ。些細なことまで、目についたものは残した。書きながら彼は思った。これは、面倒くささとの勝負なのだと。槍の勝負より、地味で、長く続く勝負だった。
最後の点検箇所で、彼の筆が、一瞬だけ止まった。ここも「変化なし」の一行で済ませたい誘惑が、頭をもたげた。彼は苦笑して、首を振った。そして、確かめた事実を、一つずつ、最後まで書き切った。
書き終えたとき、達成感はなかった。ただ、少しだけ、違う疲れ方がしていた。彼は、帳面の日付と項目の並べ方を、砦の記録の形式に寄せていた。トージャの覚え書きの几帳面さを、笑っていた時期もあった。今は、その几帳面さの意味が、少しだけ分かった。
書き終えた彼の帳面は、それまでで一番分厚い一日分になっていた。
数日後、メリベルは彼の前で、その報告を読んだ。しばらく無言で目を通し、それから言った。
「橋の板の軋みは、先方に伝えた。目印の布も、交換の手配に入れる」。メリベルは、彼の記録の使い道を、一つ一つ口にした。「この報告なら、次に歩く者が使える」
彼女は読み終えた報告を、巡回記録の綴りに収めた。彼が詰所で見上げた、あの記録棚に収まる一枚になったのだ。
それだけだった。槍の腕への言葉は、一つもなかった。
フーアンの中に、静かな驚きがあった。認められたのは、槍ではなかった。足でも、目でもなかった。面倒な帳面の仕事を、最後までやり切ったことだった。彼の槍の行き先は、まだ決まっていない。兵団に入るかどうかも、決めていない。だが、その日、彼は初めて、槍以外の自分の部分が、砦の役に立つことを知った。
次の巡回の日取りを告げられ、彼は「分かった」と答えた。その声には、以前のような投げやりさが、少しだけなかった。
帰り際、門の近くでトージャとすれ違った。調合の材料籠を抱えた友人は、彼の腕の下の帳面を見て、少し目を丸くした。「お前が、それを持ち歩くようになるとはな」。「次はいつだ」。「三日後。西の道だ」。彼は即答した。自分の巡回の日取りを、迷わず言える。それは、ほんの少し前の彼には、なかったことだったのだ。
「うるさい」。彼は笑って返した。槍の行き先は、まだ分からない。だが、足の向かう先は、少しだけ決まった気がした。帳面を抱えた自分の姿が、もう他人事のようには思えなかった。




