第32話 それぞれの務め
評定の翌朝、トージャはルシェルドの作業場に呼ばれた。
老人は、机の上に両団からの依頼の覚え書きを並べて言った。「昨日決まった通り、これからは団の仕事が、私を通して来ることになる。観測と調合の仕事だ。……お前の腕と目を、砦が正式に使う、ということだよ」
トージャの胸が、静かに熱くなった。調合師になりたいと願ってきた。その道の途中で、自分の観察と調合が、砦の役に立つものとして認められたのだ。
「光栄です。……でも、少し怖いです。今までは、自分の判断でやっていたことが、これからは誰かの命に関わるかもしれない」
「その怖さを持っているうちは、大丈夫だ」。ルシェルドは微笑んだ。「怖さを忘れた職人が、一番危ない。仕事は一つずつ受ける。できないことは、できないと言う。それでいい」
覚え書きは二通あった。守護戦士団からは、見張りの持ち場で使う傷薬の備蓄の確認。鎧武兵団からは、巡回用の携帯薬の相談。どちらも、派手な仕事ではなかった。だが、報告書には、確認した者の名が残る。トージャの名も、その横に並ぶことになった。
最初の依頼は、鎧武兵団からの巡回用の携帯薬の相談だった。小さな仕事だったが、トージャにとっては、自分の仕事の新しい形の、確かな一歩だった。
朝の食卓で、トージャは両親に、依頼制のことを話した。父のガーランドは、粥をすすりながら言った。「任されるということは、呼ばれるということだ。呼ばれる場所で、呼ばれる仕事を、きちんとやる。それが共同体の一員ということだよ」
母のエクレアは、少し心配そうだった。「あんまり、抱え込まないでね。……この家にも、似たようなのがいるから、心配なのよ」
「大丈夫だよ、母さん。できないことは、できないって言う約束だから」。トージャの言葉に、母は小さく笑って、彼の椀に干し果物を一つ、足してくれた。
「近所でも、噂になってるのよ」。母は、少し誇らしそうに言った。「調合師の息子が、両方の団から頼まれるようになったって。……あんたの目と腕は、もう砦のものなのね」。その言葉は嬉しく、同時に、人の目の中に自分が入っていくことの重さも、トージャに教えた。
詰所へ向かう途中、鍛錬場の前を通ると、ライノールの声が響いていた。団長自らが若い団員の前に立ち、斧の型を見せているところだった。「斧は振るうな、落とせ! 力は後から付いてくる!」。巨躯の団長の指導は、豪快でありながら、一人一人の癖への指摘が的確だった。育成を重視するという評判は、本物だった。
昼前、見張り台の下を通りかかると、カルドの姿があった。
勤務の割り振りを先輩から受け取っているところだった。見張りと野外の務めを混ぜた表を、彼は真剣な顔で見つめていた。
「どうだ、新入り」。トージャが声をかけると、カルドは表を掲げて見せた。「壁の務めだけじゃない。外の仕事も入ってる。……休みの日まで、欄があるんだ」
「評定で、決まったらしいな。お前の手を挙げすぎる癖への、対策だ」
先輩が、表を指で叩いた。「休みの欄は、飾りじゃないぞ。休むのも、壁の仕事のうちだ」
「はは、自分でも分かっちゃいるんだがな」。カルドは苦笑した。「でも、任されたからには、全部きっちりやる。それが俺の務めだ」
先輩隊員が、カルドに言った。「午後は、東壁の留め具の確認だ。新入り、お前も来い」。「はい」。カルドの返事は、気持ちのいいほど素直だった。彼のまっすぐさは、団の中でも既に知られ始めているようだった。
その言い方に、トージャは彼の変わらなさと、変わり始めた部分の両方を見た。任されることが、彼を育てていくのだろう。
午後、トージャは携帯薬の相談のために、兵団の詰所の作業台に向かった。巡回班の古参が、現行の携帯薬の包みを広げて見せた。中身は傷薬と布と、痛み止めの葉だった。
トージャは、一つ一つを手に取って確かめた。「軽くできます。布は細く裁って巻き直せば、半分の嵩になります。……それと、窪地に近い巡回用には、頭痛のときに噛む葉を足した方がいい。引き際の判断が、鈍らないように」
「ほう」。古参は眉を上げた。「窪地の班に同行した若造、というのはお前か。……現場の意見は、ありがたい」
彼の仕事は、こうして始まった。大きな仕事ではなかった。だが、その小さな改善が、巡回の者の荷を軽くし、判断を守るのだと、トージャは実感していた。
午後、携帯薬の相談の件で兵団の詰所を訪れると、ナラがいた。
彼女は巡回の装備を整えているところだった。見習いの務めの表には、巡回と観測の補助が並んでいた。定点観測の持ち回りには、トージャと彼女の名が、正式に並んでいた。
「観測の相方、よろしくね」。ナラは言った。「……正直、遠征の話を聞くと、心が動くこともあるの。でも、今の私はまだ、連れていってもらう側じゃない。メリベルさんの下で、まず巡回を一人前にする。それが先だって、自分でも分かってる」
彼女は、巡回路の板を指した。観測点の印の中に、沢の上流の印も、正式に含まれていた。岩棚への道の少なくとも一部が、二人の公的な務めの内側に入ったということだった。二人は、目配せだけで、そのことを確かめ合った。秘密の形が、少しだけ、軽くなっていた。
「メリベルさん、厳しいのよ」。ナラは少し笑った。「でも、厳しいのは、任せる気があるからだと思う。……私の判断の遅さも、直すところとして、ちゃんと見てくれてる」
その言葉は、諦めではなかった。順序を受け入れた者の、静かな決意だった。
詰所の奥では、フーアンの姿もあった。
メリベルが、彼に巡回補助の務めを正式に伝えているところだった。フーアンは初め、いつもの調子で軽く受けていた。「巡回ね。任せとけ。森なら、目を瞑ってでも歩ける」
「報告は、私が直接読みます」。メリベルが静かに言った。「発見の報告だけでなく、前回との違いも、書いてください。あなたが見たことを、他の者が使える形で」
フーアンの表情が、ほんの少し引き締まった。「……本当に、全部読むんですか」
「全部、読みます」
「なぜ、俺の報告にそこまで言うんです」。フーアンが、半分は本気で尋ねた。
「あなたの目は、信用しています」。メリベルは即答した。「だからこそ、残し方にも求めるのです。発見は、その場にいた者だけのものではない。砦のものにしてください」
「……分かった。じゃあ、ちっとは真面目に書くとするか」。彼の言い方は相変わらず軽かったが、頷き方には、いつもと違う真剣さがあった。
夕方近く、東壁の確認を終えたカルドが、詰所の前でゴーンズに報告をしているのが見えた。背筋を伸ばし、確認した箇所を順に述べる姿は、息子ではなく、一人の団員だった。ゴーンズもまた、副団長として頷き、短く指示を返していた。親子の距離が、務めの中で新しい形を持ち始めている。トージャは、その光景に、砦という共同体の姿の一端を見た気がした。
夕方、四人は門の近くで、短い時間だけ顔を合わせた。
カルドは夜の見張りの前だった。ナラは明日の巡回のために早く休むと言った。フーアンは巡回補助の初日の段取りを聞きに行くところだった。四人とも、明日の予定は別々だった。
「なんだか、忙しくなったな」。フーアンが笑った。「前みたいに、四人でだらだら飯を食う暇もない」
「それでも、こうして会える」。ナラが言った。「……務めが違っても、帰ってくる場所は同じだもの」
カルドが頷いた。「砦は一つだ。場所が違うだけだ」
四人の話は、それぞれの明日の務めの話になった。カルドは午後の設備確認の続き。ナラは正隊員に付いての沢方面の巡回。フーアンは初めての報告の締め切り。トージャは薬棚の確認。同じ砦にいながら、四人の一日は、もう同じ形をしていなかった。
「朝の稽古だけは、続けようぜ」。カルドが言った。「勤務の合う日だけでいい。四人の型が、鈍るのは癪だ」
「いいね」。フーアンが頷いた。「俺の機嫌と勤務が、両方合う日にな」
笑いが起きた。形は変わっていく。だが、変わらないものも、確かにあった。
トージャは、その言葉を聞いて、胸の奥が温かくなった。四人の道は、それぞれの務めへと分かれていく。だが、分かれた先は、同じ砦を支える場所だった。それは、寂しさではなく、誇りに近い感覚だった。
夕方、携帯薬の報告書をルシェルドの作業場に届けると、老人はそれを読んで、静かに頷いた。「よく書けている。現場の声も、入っている」。報告書は、砦の記録に収められた。自分の仕事が、名とともに残る。その重さと誇りを、トージャは静かに噛みしめた。
その夜、作業場に戻ったトージャに、ルシェルドは次の仕事を渡した。
「冬が来る。その前に、薬棚の確認を頼みたい。薬草の在庫、保存薬の状態、足りないものの洗い出しだ。お前の目で、見てきてほしい」
「分かりました。……冬支度ですね」
「ああ。冬は、人にも森にも、試練の季節だ」。老人は、窓の外の暮れていく森を見た。「備えのある砦と、ない砦では、春の顔が違う」
彼は、確認すべき項目を頭の中で並べた。傷薬の軟膏、熱冷ましの煎じ薬の材料、冬に不足しがちな干し薬草、保存の利く粉薬。森の採集は、雪が来れば止まる。その前に、必要な分を見極めることが、彼の仕事だった。
そして、その計算の片隅には、公にはできない、もう一つの棚のこともあった。岩棚の冬支度も、同じ季節の中にあった。
家に帰ってからも、彼は自分の覚え書きに、その日の務めを書き留めた。携帯薬の変更点。観測の持ち回りの日程。冬の薬棚の確認項目。彼の記録の癖は、今や砦の仕事の中でも生きていた。
書き終えて、彼は窓の外を見た。森の向こうでは、もう一つの暮らしが、冬を迎えようとしていた。公の務めと、まだ語れない務め。その両方を抱えて歩くことが、今の彼の日常だった。
トージャは覚え書きを受け取り、頷いた。彼にとっての、務めの季節が、始まろうとしていた。




