第33話 壁の内と外
カルバンドの朝は、早かった。
新入りの勤務は、見張りと野外の務めが組み合わさっていた。今日の彼は、夜明け前の見張りから始まり、午後に東壁の防衛設備の確認が入っていた。欄の多い勤務表を、彼は誇らしく眺めた。任されている。それが、彼の原動力だった。
朝の稽古の場に顔を出すと、トージャがいた。約束の稽古だった。数分の型の確認だけだったが、カルドは自分の大剣の戻りが、いつもより僅かに遅いことに気づいた。
「……お前、少し鈍ってないか」。トージャが言った。
「気のせいだ」。カルドは笑って流した。「寝不足なだけだ」。気のせいだ、と彼は思った。フーアンが欠伸をしながら現れて、「新入りは忙しいねえ」と茶化した。カルドは笑って大剣を構え直した。笑っていられるうちは、大丈夫だと思っていた。
見張りの持ち場は、東の台だった。台の上からは、居住区の屋根と、森の縁の両方が見えた。夜が更けると、砦の音が変わった。台所の釜の音が止み、子どもの声が消え、代わりに、壁の木の軋みと、遠くの見張り台同士の呼び交わす声だけが残った。台の足元には、夜番のための湯の入った壺が置かれていた。誰が置いたのか、彼は知らなかった。だが、そういう小さな支え合いの集まりが、砦の夜を守っていた。
見張りは、立っているだけの仕事ではなかった。森の音、鳥の動き、風の変わり目。その全てを拾い、異常の兆しと、そうでないものを分ける、目と耳の仕事だった。先輩の団員は言った。「壁の仕事は、八割が観察だ。戦うのは、残りの二割だ」
その日の午前、彼は森の縁で、鳥の群れの動きの乱れを拾った。彼は即座に身構えたが、続く観察で、それが風で落ちた枝への反応だと見極めた。持ち場を離れず、報告にも「異常なし、理由は枝の落下」と添えた。交代のとき、先輩が言った。「よく見てるな。騒がない判断が、一番難しい」
カルドは頷いた。彼はその仕事を、真面目にやった。持ち場の全てに目を配り、申し送りの事項は一つも漏らすまいとした。
午後の設備確認でも、彼の手際は良かった。東壁の留め具を一つ一つ叩き、音で緩みを聞き分ける方法を、年下の団員に教えながら進めた。「音が鈍いのは、緩んでる証拠だ。目だけじゃ分からん。手と耳を使え」。教える側に立つことにも、彼は確かな手応えを感じていた。
問題は、彼の手が、持ち場の外へも伸びたことだった。
交代の合間に、彼は詰所の薪運びを手伝い、若い団員の装備の不具合を見てやり、夕方の確認の前に、別の持ち場の留め具の緩みの報告を受けて、走って確認に行った。頼まれたわけではなかった。目に入った仕事を、放っておけなかったのだ。
年下の団員が、嬉しそうに言った。「カルバンドさんがいると、安心なんです。何かあったら、すぐ来てくれるから」。その言葉は、カルドの胸に心地よく響いた。頼られることは、嬉しかった。その嬉しさが、彼の足を、持ち場の外へ運んでいた。
「お前は、よく働くな」。先輩は言った。「だがな、自分の持ち場は誰が見てる」
その言葉の意味を、カルドは、そのときは笑って流した。
交代を知らせる木の板の音が、台の下で鳴った。
夜の交代のときだった。
カルドは、持ち場の引き継ぎを始めた。森の様子、獣の気配、異常なし。その報告の中で、彼は東壁の門の鎖の張りを、「確認済み」と告げた。
実際には、彼はその鎖を、夕方に確認していた。だが、別の持ち場の用事で走った後、戻ってからの再確認を、彼はしていなかった。夕方の確認と、今の状態の間に、僅かな空白があった。
次の持ち場に立った先輩が、すぐに気づいた。「鎖が、一コマ分、緩んでる。……お前の夕方の確認の後で、荷車が通ったんだ。張りが変わってる」
重大な事故ではなかった。だが、カルドの報告は、「記憶による確認」だった。目と手で確かめたものではなかったのだ。
先輩は、門の脇の新しい車輪の跡を指した。「ほら、ここだ。荷車が通れば、鎖は揺れる。張りは変わる。……お前の報告は、夕方の景色の報告だったんだ」
カルドの頬から、血の気が引いた。彼は反論しなかった。事実が、目の前にあった。
「確認は、記憶でするな」。先輩の声は、怒声ではなかった。だからこそ、重かった。「目と手でしろ。それと、カルド。お前が全部やれば、次に立つ者が育たん。休む者も、任せる者も、要るんだ」
詰所の夕食では、先輩の一人が笑って言った。「新入りの頃、俺もやったよ。良かれと思って走り回って、自分の持ち場を空けるやつだ」。周りが笑った。失敗談として笑える空気が、カルドの肩の力を、少しだけ抜いた。壁の団にも、同じ道を通った者がいる。そのことが、彼には救いだった。
その夜、彼は眠れなかった。試験のときに言われた言葉が、頭の中で回っていた。「壁になれる男だ」。壁とは何か。彼は考えた。壁は、動かない。壁は、自分の場所に立ち続ける。誰かが寄りかかっても、倒れない。……彼の今日の動きは、壁の動きではなかった。あちこちへ走ることは、壁の強さではなかったのだ。
その翌日、カルドは詰所に呼ばれた。
待っていたのは、副団長のゴーンズだった。父ではなかった。団の副団長としての、冷静な目が彼を見ていた。
「昨日の件は、聞いた。小さな漏れだ。だが、漏れの理由を、お前は分かっているか」
「……確認を、記憶で済ませました。持ち場の外の仕事に走って、戻ってからの再確認を怠りました」
「なぜ、外の仕事に走った」
「……目に入ったからです。放っておけなかった」
ゴーンズは、少し間を置いて言った。「務めとは何だと思う。……務めとは、自分の持ち場を、次に立つ者へ、無事に渡すことだ。お前が倒れれば、持ち場は空く。お前が抱え込めば、次が育たん。休むことも、任せることも、務めの内側にある。責任感は大事だ。だが、責任感の形を間違えるな」
詰所を出るとき、彼は自分の覚え書きに、昨日の件を書き留めた。失敗を、自分の記録に残す。それは、彼がトージャから学んだ癖の一つだった。記録に残せば、同じ失敗は二度としないで済む。恥は一時のものだが、記録は残る。彼はそう思うことにした。
「……一つ、聞いてもいいですか。副団長として」。カルドが言った。
「聞け」
「試験のときの『壁になれる』という言葉。あれは、どういう意味だったんでしょう」
「私が言った言葉ではない。だが、解釈はできる」。ゴーンズは静かに言った。「壁は、前に出ない。壁は、そこにあり続ける。お前には、その資質がある。……あとは、壁でいることの退屈と責任に、耐えることだ」
カルドは、頭を下げた。父親に叱られるのとは違う、団員としての言葉の重さが、彼の背筋を伸ばした。
数日後の鍛錬で、ライノールは彼に奇妙な課題を出した。
二つの持ち場を、彼一人で守る想定だった。一方に敵役が現れれば、他方が空く。カルドは走り回り、両方を守ろうとして、両方で後手に回った。
「止め」。ライノールの声が響いた。「お前は今、何を守った。一つも守れてないじゃないか」
「ですが、持ち場は二つとも……」
「だから、仲間がいるんだろうが」。団長は、傍らの若い団員を顎で示した。「あいつに片方を任せろ。任せて、信用しろ。壁は一人の体じゃない。団全体で一枚の壁なんだ。お前の仕事は、その壁の一片として、自分の場所を完璧に守ることだ。全部じゃない」
「もう一度だ」。ライノールは言った。「今度は、任せてやってみろ」
その日の残りの鍛錬で、カルドは初めて、自分の持ち場だけに集中した。若い団員が、もう一方を、未熟ながらも守り切った。鍛錬の後、ライノールは言った。「お前の強さは、前に出ることだけじゃない。お前がどっしり構えていると、周りが安心して自分の仕事ができる。それも、お前の力だ。……活かし方を、間違えるなよ、カルド」
カルドは、その背中を見て、任せるということの意味を、体で理解し始めていた。
次の夜の見張りの日だった。
野外の務めの後で、彼の体には確かな疲れが溜まっていた。かつての彼なら、そのまま持ち場に立っただろう。だが、その夜、カルドは交代の前に、自分から先輩に申し出た。
「申し訳ありません。今日の私は、後半の見張りに万全では立てません。交代の順を、繰り上げてもらえませんか。その分、明日の朝の持ち場は、私が引き受けます」
それは、彼にとって、逃げにも似た言葉だった。だが、口に出したとき、彼は知っていた。これは逃げではない。守りを途切れさせないための、判断なのだ、と。
先輩は、少し驚いた顔をして、それから頷いた。「実はな、俺から言おうかと思っていたところだ。お前の顔、疲れが抜けてなかった。……自分から言えたのは、いいことだ。分かった。……よく言ったな、カルド。それも務めだ」
悔しさは、残った。万全で立てない自分への、苛立ちもあった。彼の性分は、一度の失敗では変わらない。だが、その夜の彼は、その悔しさを、持ち場ではなく、自分の判断の方へ向けていた。それが、以前の彼との、確かな違いだった。
持ち場は、滞りなく引き継がれた。その夜、砦は、いつも通りの静かさだった。カルドは、休むことの罪悪感と、それでも守りが回っていることへの、不思議な安堵の気持ちの中で、眠りについた。
翌朝、彼は約束通り、朝の持ち場に立った。引き継ぎの報告を聞きながら、彼は門の鎖に手をかけた。前の番の「確認済み」の言葉を、そのまま受け取らず、自分の手で張りを確かめる。異常はなかった。だが、その一手間の意味は、昨日までと違っていた。
「確認しました。異常なし」。今度は、目と手で確かめた言葉だった。
壁の内側には、湯を用意する者、申し送りを聞く者、次に立つ者がいた。壁の外側には、森と、獣と、まだ見ぬ脅威があった。その両側に支えられて、壁は立つ。彼もまた、その一枚にすぎなかった。
壁は、彼一人ではなかった。そのことを知ったことが、まだ小さな、しかし確かな一歩だった。




