第22話 三人の秘密
翌日、二人は沢のほとりで落ち合った。
ナラは、小さな板切れを持ってきていた。そこには、木炭で細かく文字と図が書かれていた。昨日の岩棚で見たことの、記録だった。
「まず、整理するよ。……食料、水、怪我、連絡。順番に潰していこう」
彼女の声は、兵団の報告のようでもあった。トージャは頷いた。一人で抱えてきた問題を、誰かと項目ごとに並べるのは、初めての経験だった。
板の隅には、もう一つの項目があった。彼の字で、「トージャ」と読めた。
「……それは」
「あんたの状態も、項目の一つ。あんたが倒れたら、この仕組みは全部止まる。だから、あんたは無茶をするな。眠れてない日は、交代で私が行く」
彼は苦笑した。守る側だと思っていた自分が、守られる側の項目に入っていた。だが、その通りだった。
「食料は、補給の間隔が読みにくいのが問題。私も交代で運ぶ。同じ人間が同じ道を続けるより、その方が目立たない」
「……選抜の稽古があるのにか」
「理由は作れる。弓の稽古で森に入るのは、私には日常だから。……それに、回数が半分になれば、あんたの負担も減る」
彼女は板に線を引いた。一つ目が、決まった。
「行き来の口実も、考えておこう。次の隊商の季節になれば、定期の採取で、あんたは公式に森へ入る機会が増える。……それに合わせれば、補給の動きは目立たなくなる」
「……そこまで考えるのか」
「秘密ってのはね、隠すんじゃなくて、日常に溶かすものだよ」
彼女の言葉には、兵団の斥候のような現実感があった。
「次に、あんた自身のこと。……お母さんには、どこまで勘づかれてる」
「分からない。何も言わないけど、塩の小袋を余分に入れてくれたりはした」
「お師匠様は」
「……気づいてる節はある。詮索はされてない」
「フーアンは」
「あいつは冗談の形で、核心に触れることがある。……だが、深追いはしないと思う」
ナラは一つずつ頷き、板に印を付けた。不安を言葉にして並べると、その輪郭は思ったより小さかった。漠然と恐れるのと、項目として数えるのとでは、重さが違った。
「水は、あの湧き場で足りてる。ただ、雨の後は濁るかもしれない。そのときのために、汲み置きをもう一つ増やす。次に行くとき、土器を一つ持っていく」
「ああ」
「怪我は、ほぼ治ってる。傷の薬の予備を、向こうにも置いておこう。……基本の塗り薬でいい。あと、布と、熱のときの薬草も。……でも、もし熱が戻ったり、獣にやられたりしたら」
彼女は、そこで言葉を切った。
「……その話は、後でする。先に、連絡の取り方を決めよう」
その日の午後、二人は連れ立って岩棚へ向かった。決めたことを、その場で形にするためだった。
少女は、二人が揃って来たことに、昨日ほどの警戒を見せなかった。ナラが合図の石を打つと、彼女も打ち返した。
トージャは、棚の上に三人分の場所を作り、新しい合図の相談を始めた。石の並べ方で、用件を伝える方法だった。食料が要るとき、水の助けが要るとき、そして――危ないとき。
少女は熱心に聞き、やがて、自分から石を並べ替えた。彼女の提案は、二人の想定とは少し違っていた。彼女は「危ない」を二つに分けたのだ。獣が近い、という合図と、人が来た、という合図。森に生きる者として、その区別は彼女の中で切実だったのだろう。
「……なるほど」とナラが言った。「私たちより、森の怖さを知ってる」
合図の並べ方も、一つずつ確かめた。石を一直線に三つは、異常なし。四つ目は不足の知らせ。石を三角に置けば獣が近い。石の列を砦の方へ向ければ、人の接近。彼女は覚えたての約束を、間違えずに並べ替えて見せた。伝える手段は、言葉だけではなかった。
少女は自分の小刀の扱いも見せた。かつて彼が置いていった小刀は、今では彼女の手に馴染んでいた。獣が来たときの身の隠し方も、彼女は身振りで再現した。息を潜め、石の合図を打ち、窪みに身を寄せる。その一連の動きには、無駄がなかった。
緊急のときの逃げ場所も決めた。岩棚が使えないときは、上流の大岩の陰。そこには今日、予備の食料と布と火種を、油紙に包んで置いた。備えは、彼女の窪みの分と合わせて、二重から三重になった。
相談の途中、ナラが岩の角で指先を小さく切った。血が滲む。すると少女が、棚の隅の壺から、葉を潰した手製の塗り薬を取り出した。自分のために用意していた物だった。彼女はナラの手を取ると、慣れた手つきで薬を塗り、小さな布で巻いた。
ナラは、少し驚いた顔でそれを見ていた。
「……ありがとう。あんたに、手当てしてもらうとはね」
少女は、得意そうに、小さく胸を張った。守られるだけの立場からの、小さな逆転だった。
少女は、自分の採集の範囲も二人へ示した。棚の周りの、彼女の歩ける範囲。どこに何が生えるか。彼女は指と仕草で、それを一つずつ教えた。教える側に立つ彼女は、どこか誇らしげだった。
相談の合間に、ナラは少女へ、一つの問いを投げた。絵と仕草の、拙い問いだった。一人で、ここにいて、怖くないか。
少女は、しばらく考えていた。それから、空を指した。広い空。それから、自分の刻み棒を指し、トージャとナラを指した。全部は読み取れなかった。だが、少なくとも、彼女の答えは「怖い」一色ではなかった。この場所は、彼女にとって隠れ家であると同時に、少しずつ「自分の場所」になりつつあったのだろう。
別れ際、少女は覚えたての合図を、もう一度並べて見せた。人の接近を示す石の列。その向きが、今日教えた通りに、砦の方を向いていた。
「……覚えるのが、早い」とナラが言った。
少女は、その言葉の意味までは分からなかっただろう。だが、声の調子の良さは伝わったらしい。彼女は少しだけ誇らしげに、胸を張った。その様子に、ナラもトージャも、小さく笑った。
一通りの相談が終わってから、ナラは本題を切り出した。
「……一つ、決めておきたいことがある」
彼女はトージャを真っ直ぐに見た。
「もし、あの子に命の危険が及んだら。そのときは、秘密より命を取る。……大人に相談する。誰に、まで決めておこう」
トージャの顔が、強張った。それは、彼がずっと避けてきた想定だった。
「誰に、って……」
「調合のお師匠様。……あの方なら、薬の減りの早さにも、もう気づいてる。詮索しないでいてくれてるのは、あんたへの信頼だよ。その信頼を、裏切らない形で頼るなら、あの方しかいない」
トージャは、すぐに答えられなかった。老人は、彼に「死ぬなよ」と言った人だった。写しの欠片を見せてくれた人だった。その老人にさえ、彼は何も話していなかった。
だが、ナラの言うことは正しかった。少女の命と、自分の秘密の都合を天秤にかける権利は、彼にはなかった。
沈黙の中で、トージャは思い出していた。少女の熱がぶり返した夜のこと。砦に足止めされ、行くことも、助けを呼ぶこともできず、彼女は一人で熱と戦っていた。あのとき彼がしたことは、祈ることだけだった。もし次に同じことが起きて、自分が動けなかったら。もし、今度は熱が下がらなかったら。
秘密を守ることは正しかった。だが、秘密のために命を見殺しにするなら、それは守ることではなかった。
「……分かった。命に関わるときは、まず老人に話す。それ以外では、話さない」
「うん。……それでいい」
二人の間で、初めて「秘密の扱い方」に、取り決めができたのだった。
沢を離れる前、トージャは自分の本当の恐れを、初めて言葉にした。
「俺が怖いのは、見つかることそのものじゃない。……見つかったとき、あの子が『何者か』を決められるのが、誰かと話せるようになる前、ってことだ。言葉も通じないまま、砦の決まりだけで扱われたら、あの子には何も言えない」
ナラは、静かに頷いた。
「だから、言葉を教えるんだね。……あの子が、自分のことを自分の言葉で言えるように。それまでは、私たちが守る」
「ああ」
それは、保護の先にある目標だった。秘密の体制づくりは、その時間を稼ぐためのものだったのだ。
帰り道、トージャは考えていた。
守ることと、抱え込むことは、違っていた。彼はこの十数日、少女を守っているつもりで、実は秘密を守ることに力の半分を使ってきたのかもしれない。秘密が破れることへの恐れは、彼の判断を何度か曇らせた。ナラと分け合った今、その恐れの輪郭は、少しだけ小さくなっていた。
「あと、約束事を一つ」とナラが言った。「何があっても、五日以上は空けない。私たちが行けない日が続いたら、あの子には、あの備えで凌いでもらう。……行けないことが、あの子への裏切りにならないようにする」
「ああ」
「今日のことは、板にもう一枚、書いておく」
ナラが言った。
「何かあったとき、頭より記録の方が冷静だから。……あんたは、頭の中だけで抱える癖があるからね」
「……図星だな」
「その板、見つかったら言い訳できないぞ」
「大丈夫。文字は最小限にしてある。……覚えたら、焼くよ」
彼は笑って、「知ってる」と言いかけた彼女の横顔を見た。几帳面で、抜かりのない相棒。その存在の心強さを、彼は噛みしめていた。
彼女は少しだけ笑った。秘密は三人のものになった。重さは、分け合うことで、ようやく運べる重さになっていた。
家に帰ると、母が夕餉の支度をしていた。彼の荷の様子を一目見て、母は何も尋ねなかった。ただ、翌日の彼の弁当にと、干し肉と焼いた芋を包みながら言った。
「誰かと分ける分も、入れておいたわね」
彼は、一瞬、言葉に詰まった。
「……ありがとう」
母は笑って、竈の方へ戻った。その何気なさが、彼の胸を静かに打った。守るべきものは、森の向こうだけではなかった。この家の中にも、彼を静かに守ってくれている人がいた。その夜、彼は久しぶりに、深く眠った。決めるべきことを決め、分け合う相手がいる。それだけで、世界の重さは少しだけ、人の背負える重さに戻っていた。明日からの日々は、その重さを分け合う日々になる。




