第21話 白い糸
出立は、朝のうちだった。
名目は、沢の上流への薬草採りだった。トージャとナラは、門で見張りに行き先を告げ、いつものように森へ入った。嘘ではなかった。帰りには実際に薬草を採るつもりだったし、背負い袋には食料と道具も入っていた。違うのは、行き先がもう一つ先にあることと、今日は一人ではないことだけだった。
門を出るとき、見張り台の下でフーアンと鉢合わせた。
「お、珍しい組み合わせだな。沢の上流か」
「薬草採りだよ」とトージャは答えた。声が、上ずらないように気をつけた。
「気をつけてな、最近あの辺り、根掘り獣が下りてきてるらしいぞ」
「……ありがとう。気をつける」
ナラは何も言わず、軽く手を上げて通り過ぎた。森に入って少しして、彼女が小声で言った。
「……嘘をつくのは、あんた下手だね」
「分かってる」
「私が横にいるときは、私が喋る。あんたは頷いてればいい」
それは、彼女なりの加勢の申し出だった。秘密は、今日から形を変えたのだ。
ナラは、道の間、ほとんど喋らなかった。弓と短い荷物。足運びは静かで、森での所作に無駄がなかった。彼女は今日、自分が何を見に行くのかを、よく分かっていた。
道の途中、ナラがぽつりと尋ねた。
「……あんたが、怪我でもして動けなくなったら、あの子はどうするの」
トージャは、答えに窮した。考えたことはあった。だが、答えらしい答えは持っていなかった。「……そのときは、そのときだ」
「そういう答えが、一番危ないんだよ」
彼女はそれ以上追及しなかった。だが、その問いは彼の胸に、小さな棘のように残った。さらに進むと、彼女は岩場の手前で足を止め、周囲を見回した。
「来るときは、こっちの尾根沿いの方が、足跡が残りにくい。……今度から、使い分けた方がいい」
彼の何十回も通った道を、彼女は一度で読み、改良案を出した。兵団を目指す者の目だった。彼の秘密の道は、今日から少しだけ、二人の道になった。
岩棚に近づくにつれ、トージャは速度を落とした。彼は岩の陰で立ち止まり、小さく石を打ち合わせた。合図だった。しばらく待つ。やがて、岩棚の奥から、同じ音が返ってきた。異常なし、の合図。石が三つ、並んでいる。
彼はナラを振り返った。
「ここから先は、俺が先に行く。最初は……驚かせたくない」
ナラは頷いた。「分かった。……あんたの後ろにいる」
岩棚の縁に、少女が立っていた。トージャの姿を見て、いつものように少しだけ表情を緩めた。だが、その後ろのナラに気づいた瞬間、彼女の体は強張った。一歩、後ろへ下がる。手が、岩の縁を探した。
トージャは両手を広げて見せ、ゆっくりと近づいた。
「ダイジョウブ。トモダチ」
覚えたての言葉を、彼は慎重に選んだ。それから、土に人影を二つ描いた。弓を持つ女と、自分。その女を指し、ナラを指し、胸の前で手を合わせた。味方だ、という絵だった。
少女の視線は、ナラから離れなかった。ナラは、その場にしゃがみ込んだ。弓を背負ったまま、手を膝の上に置き、身を低くした。獣に警戒心を解かせるときの所作と同じだった。近づかない。急がない。ただ、待つ。
長い沈黙の後、少女は小さく、トージャだけに向けて言った。
「……ダレ」
「ナラ。ワタシ、ノ、トモダチ」
少女はその名を、口の中で転がすように繰り返した。「ナ、ラ」。ナラが、自分の名を呼ばれるのを聞いて、少しだけ目を伏せた。
ナラの観察は、静かで、徹底していた。
彼女は少女の歩き方を見た。右足首を、まだわずかに庇っている。棚の上の住まいの整い方を見た。水の汲み置き、干し肉の吊るし方、寝床の位置。壁には、日数を数える線が増えていた。棚の隅の、整えられた石。彼女の目は、トージャが見慣れすぎて見落としていたものまで、拾っていった。
「水は、あの湧き場から自分で汲んでるんだね」
「ああ。見つけたのは彼女だ」
「食料は……あと三日分か」
「今日、補給分を持ってきた」
ナラは少女の側腹の傷跡も、遠慮のない目で確かめた。少女は身を固くしたが、トージャが頷くのを見て、黙ってそれを受け入れた。傷は塞がり、色も薄くなっていた。
「もう、傷は大丈夫そうだね。……よかった」
言い淀みながら出たその言葉は、観察者の報告ではなく、一人の女の、率直な安堵だった。
ナラは干し肉の吊るし方にも目を留めた。
「この吊るし方だと、湿気が戻る。……岩の陰じゃなくて、風の通るこっち側がいい。あと、煙の出ない日は、外に干し直した方が」
彼女は少女に身振りで示しながら、吊るし場所を一緒に移した。少女は最初こそ戸惑ったが、風の流れを掌で確かめ、なるほどという顔で頷いた。教える者と、教わる者。その短い共同作業が、二人の距離を目に見えて縮めた。
やがて少女は、二人を棚の端へ導くように歩き出した。岩の上に並べられた、乾燥途中の薬草。彼女の仕事場だった。並べ方には、彼女なりの順序があった。誇らしさの混じった仕草で、彼女はそれを一つずつ指した。
ナラの弓にも、少女の目は留まった。恐れと好奇心の混じった目だった。ナラは弓を下ろし、矢を抜いたまま、ゆっくりと弦を引く所作だけを見せた。少女は身を固くしながらも、最後まで目を逸らさなかった。
ナラは、棚の奥の窪みにも目を向けた。獣が近づいたときの、退避場所だった。少女は窪みの入口の石を動かし、奥の狭い空間を示した。食料の一部と水が、そこにも備えられていた。彼女なりの、二重の備えだった。
「……あんたが考えたの、これ」
「いや。彼女が自分で」
ナラは窪みの中を覗き込み、静かに言った。「一人で、何日もここにいて、自分で全部考えてたんだね……」。その声には、憐れみよりも、相手への敬意に近いものが混じっていた。
合間に、ナラはトージャから、発見の日の詳しい話を初めて聞いた。倒れていた場所、熱、傷の様子。その中で、彼女の眉が動いたのは、傷の形の話だった。
「……真っ直ぐな、傷」
「ああ。獣の爪や牙の傷じゃなかった。あのときは、そう思った」
「今も、そう思う?」
「……分からない。今もだ」
彼女は少し黙り、それから言った。「それは……大事なことかもしれない。でも、今の私たちには確かめようがない」。彼女は、その件をそれ以上掘らなかった。確かめられないことは、確かめられないまま置く。その態度は、兵団の隊員の言っていた「分からないまま持ち帰る」姿勢、そのものだった。
少女の警戒が少しだけ解けた頃、ナラは懐から小さな布を取り出した。丁寧に織られた布。その端に、白い糸が一筋、織り込まれていた。
「これ、……あなたに」
言葉は通じなかった。だが、彼女は布を両手で捧げ、少女の前に置いた。奪わない。押し付けない。置いて、手を引いた。
少女は、しばらく布を見つめていた。それから、おずおずと手を伸ばし、白い糸の部分を指先でなぞった。彼女は自分の服の裾を見た。包みに使って、失われた白い布。その色と、目の前の糸の白が、彼女の中で重なったのかもしれない。
彼女は布を両手で持ち上げ、胸に当てた。それから、ナラに向かって、深く頭を下げた。かつてトージャが見た、あの丁寧なお辞儀だった。
ナラは少し驚いた顔をして、それから、小さく微笑んだ。
「……大事に、してくれるんだね」
少女は、自分の言葉の刻み棒をナラにも見せた。覚えた言葉の数だけ、線が刻まれた棒だった。彼女はナラを指し、それから棒の端に、新しい線を一本、小刀で刻み始めた。時間のかかる作業だった。誰も急かさなかった。線が一本増えたとき、少女は満足そうに頷いた。彼女の世界に、今日、新しい言葉が一人分、増えたのだった。
帰り際、少女は棚の奥から、乾かした薬草の束を持ってきた。三つ目の包みになるはずの品だった。彼女はそれを、トージャではなく、ナラの前に置いた。
ナラは戸惑った。「私に……?」
少女は頷き、それから自分の掌を広げて見せ、ナラの掌に、目に見えない何かを移す仕草をした。売る、というより、渡す、という仕草だった。贈り物への、贈り物。
ナラは包みを受け取り、大切そうに荷へしまった。
「ありがとう。……私、まだ何も決めてないけど。……今日のことは、忘れない」
別れ際、少女は岩棚の端に立ち、二人を見送った。彼女の腕の中には、贈られた布があった。去り際、彼女はナラを見て、小さく言った。「ナ、ラ」。今度は、確かめるためではなく、呼ぶための声だった。ナラはわずかに目を見開き、それから頷き返した。トージャがいつもの石の合図を打つと、彼女も打ち返した。今日はもう一人、打ち返す者がいた。ナラが、覚えたての節回しで、小さく石を打った。音は不揃いだったが、意味は通じた。少女は、少しだけ目を見開き、それから頷いた。
その帰り道、ナラはずっと黙っていた。森を抜ける手前で、彼女はようやく言った。
「あの子は……思っていたより、ずっと、ちゃんと生きてた」
「ああ」
「あんたが守ってきたんだね。……でも、守られてるだけの子でもなかった」
帰り道の後半、二人は名目どおり薬草を採った。ナラは沢辺の薬草の見分けも確かだった。兵団の救護の基礎として習うのだという。「……あんただけが、森のことを知ってるわけじゃないからね」。彼女はそう言って、いつもの調子で少し笑った。その何でもないやり取りが、トージャにはありがたかった。秘密を分け合う相手は、同時に、日常を分け合える仲間でもあるのだった。
トージャは頷いた。自分の目で見る、という彼女の条件は、今日、静かに果たされたのだった。「詳しいことは……明日、話そう。決めることが、幾つかあるから」
判断の全ては、まだ済んでいなかった。だが、岩棚と砦の間に、白い糸のような細い繋がりが、一本、新しく渡された気がした。秘密を抱える重さが半分になったからだけではない。明日の話し合いでは、決めるべきことが、幾つも残っている。それでも、今日の帰り道の彼の足取りは、行きよりも、少しだけ軽かった。




